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ステンドグラスの彼方に  作者: 羽月楓


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14/22

ⅩⅣ 《節制》 虹の架け橋

挿絵(By みてみん)



 

「ミカエルと申します」


 女は白い衣の胸元へ手を添えた。

 伏せられた睫毛に、雨の雫がついている。大きな赤い翼は半ば閉じられ、その内側にだけ、雨の降らない狭い場所ができていた。


「塔の入り口まで、お連れできます。そこから先のお話は、塔を預かる方に」


「その人に、頼まれて来たの?」


 ルファが尋ねた。

 ミカエルは微笑みを薄くした。


「ええ。お二人をお迎えするようにと」


 ライトは、足元の鞄を見た。

 誰かが、また自分たちを待っている。城門で呼び止められたときには、それが罠である可能性さえ考えていなかった。


「どうして、俺たちが来たとわかったんだ」


「湖へ旅人が来ることは、珍しいのです。まして、あのような馬をお作りになる方は」


 女の顔が、白馬へ向いた。

 馬は番人の衣に鼻を寄せていた。雨粒の散る赤い翼に気づき、耳を動かす。


「ずっと、見ていた」


 ライトの声が硬くなった。


「途中からですわ」


 ミカエルは答えた。

 すぐに、言葉を継がなかった。


「急いでおられることも、わかっています。お母様と、妹さんが待っていらっしゃるのでしょう」


 ライトはルファを見た。

 彼女の指が、鞄の留め口を押さえた。


「そこまで、聞いていたのね」


「いえ。今のは――」


「ミカエル」


 番人が呼んだ。

 釣り竿を片づけながら、女へ眼を向けている。


「目を開けて話してやれ」


 女は唇を閉じた。

 やがて睫毛が上がり、淡い色の瞳が現れた。ライトの顔を見てから、少しだけ目を伏せる。


「失礼しました。強く思われたことが、声のように届くことがあるのです」


 ライトは、胸の内側へ何かを押し込もうとした。

 考えないようにするほど、輪郭がはっきりしてしまう。帰るのが遅れたら。母が病気になっていたら。レインが、もう待っていなかったら。


 ルファが半歩、前へ出た。


「私たちは、口に出して話すわ。あなたにも、そうしてほしい」


「承知しました」


 ミカエルは、今度は目を開けたまま頷いた。


     *


 世界樹の太い根の下は、雨を避けられた。

 ライトはそこで鞄を開いた。道具を包んだ布の下から、小さなリンゴを取り出す。


 ミカエルの目が、硝子の実に留まった。


「確かめさせてほしい」


 ライトは言った。


「これを持っていると、嘘をつけないそうだ」


「存じています」


 女は手を差し出した。

 ためらいのなさが、かえってライトを戸惑わせた。掌にリンゴを渡すと、薄い皮膚の下に、淡い緑が透けていた。


「マルクトへ帰る道は、本当にあの塔にあるのか」


「あります。月の世界を経て、マルクトへ至る道が」


「俺たちも通れるのか」


 ミカエルは、リンゴへ目を落とした。


「私には、許可を出せません」


「塔へ入ったら、安全に出してもらえる?」


 ルファが尋ねた。


「それも、お約束できません」


 雨が根を伝い、二人の間へ落ちた。

 ライトは、リンゴを握る女の指を見ていた。嘘をつかない相手の言葉が、安心できる言葉とは限らなかった。


「では、ほかに帰る道を教えて」


 ルファが言った。


「私がご案内できる道は、塔だけです」


 ミカエルは答えた。

 ライトは番人へ顔を向けた。男は黙ってその視線を受け、首を横に振った。


「湖は、お前たちが留まり続ける場所じゃない。帰りたいなら、上へ行くことになる」


 ルファはしばらく考えていた。

 それからリンゴを受け取り、ライトへ返した。


「少し、二人で話をさせて」


 木の根に沿って離れた場所へ移った。ミカエルは追ってこなかった。雨の向こうで、番人が何かを話しかけている。


「どう思う?」


 ルファが声を落とした。

 ライトはリンゴを包み直した。レドが真実を口にしたときは、何もかもが明らかになるように思えた。けれど、この小さな実で確かめられたのは、訊いたことへの答えだけだった。


「危ないのは、わかった」


 ルファが頷いた。


「それでも、帰り道を調べに行きたい。ここで待っても、向こうの時間は止まらない」


「お父さんのことは?」


 ライトは湖の向こうを見た。

 塔は雨に霞んでいた。番人は、父がそこへ向かったと言った。今もいるとは、言っていない。


「会えるなら、会いたい」


 声にすると、胸が痛んだ。


「でも、一目見るだけのために、帰れる道を閉ざしたくはない」


 母と妹には、何も見つからなくても戻ると言った。もう遅すぎるかもしれない。それでも、約束をなかったことにはしたくなかった。


 ルファは外套の前を合わせた。


「入り口まで行きましょう。その先へ進む前に、もう一度確かめる」


「二人で」


「ええ」


 彼女はライトの目を見た。


「二人で」


     *


 ミカエルは、二つの杯を持っていた。


 一つは銀に近い白、もう一つは、内側に青い釉薬を流したような色をしている。白い杯で雨を受け、満ちた水を青い杯へ注ぐ。細く伸びた水の筋は、途中で風に押されても、切れなかった。


「月の世界というのは、空に見える月のこと?」


 ルファが尋ねた。


「イェソドと呼ばれる世界です。マルクトに、ここより近いところ」


 注いだ水が、今度は青い杯から白い杯へ戻った。

 下から上へ流れている。ライトは思わず身を乗り出しかけ、背中の痛みに足を止めた。


「近い、って。距離が?」


「移るために越える隔たりが、小さいということです。同じ空を飛んでいれば着く、という意味ではありません」


 ルファは湖の向こうを見た。


「あの塔は、世界の境を越えるためのものなのね」


「ええ。高いところへ行くだけなら、私の翼でもできます」


 ミカエルが杯を少し傾けた。

 水の筋に、細かな色が生まれた。赤と紫の間、まだ名前をつけられないほど淡い色が幾つも滲む。


「そこも、ここと時間の流れは違うのか」


 ライトは訊いた。


「イェソドの一日は、マルクトではおよそ六日。ここに比べれば、差は小さくなります」

 

 ライトは水筒の重さを肩に感じた。ここでは、歩くことも、休むことも、向こうで待つ人の時間を使ってしまう。


「帰ったら、俺は何歳になっているんだろう」


 思わず口から出た。

 ルファの目が、自分へ向いた。


「あなたがこちらで過ごしている間にも、マルクトの暦は進んでいます」


 ミカエルは静かに答えた。


「こちらで朝を何度迎えたかだけでは、正確には数えられませんが」


 ライトは右手を見た。

 指輪の下に、薄い傷がある。あの夜、皆の前でろうそくを吹き消した自分と、同じ手だった。レインも同じ年齢のまま待っているような気が、まだどこかに残っていた。


 ルファが肩紐を握り直した。


「渡りましょう」


 その声には、もう問いはなかった。


 ミカエルが両腕を広げた。


 杯の間に渡っていた水が、長く伸びた。

 糸ほどの細さだったものが雨を集め、岸から湖へ、湖から空へと帯になっていく。流れの中に、光が入った。

 水面に七色が映った。映った色の方が先に岸を離れ、それを追うように、空の橋が遠い塔へ弧を描いた。


 雨が止みかけていた。


 雲の切れ目から落ちた日差しが橋に触れ、向こう岸まで、一息に明るくなった。世界樹の葉の一枚一枚が透けて見える。


「これを、渡るのか」


 ライトは足元を見た。

 草の上へ、虹の端が触れていた。靴先を乗せると、薄い水の膜を踏んだように沈み、そのすぐ下から押し返された。


「立ち止まっても、落ちはしません。ただ、お二人の足では時間がかかります」


 ミカエルは、岸辺の白馬を見た。


「あのように、走るものがあれば」


 ルファも馬へ目を向けた。

 番人のそばで、水滴のついた草を見ている。ついさっき知った世界を、まだ少しも見飽きていない様子だった。


「あの子は、ここに残すわ」


 ルファは言った。


「もう一つ、作るしかないわ。形は、手が覚えている」


 ライトは彼女の肩を見た。


「作れるのか?」


「支えてね」


 そして、道具の布をもう一度広げた。


     *


 二頭目の馬は、骨組みの向こうへ空が抜けていた。


 ルファは、身体をすべて覆おうとはしなかった。必要な曲面だけを合わせ、二人が乗る背を幅広く作る。ライトが下から枠を支える間に、彼女は細い部材を渡して重さを分けた。

 先ほど組んだばかりの形だった。関節の向きに迷う時間は、今度はなかった。


 背の両側には、翼がついた。

 風を受け流すための、薄い硝子を重ねた長い翼だった。


「飛べるの?」


「わからないわ。だから、橋の上を行きましょう」


 ライトは頷いた。

 透ける翼を押さえる指に、日差しが当たる。ルファの爪の際には、城でついた細かな灰がまだ残っていた。


 彼が光を渡すと、馬は首を上げた。


 大きな翼が、一度開いた。

 草が伏せる。肩の布がめくれそうだった。ライトは飛ばされかけた道具を押さえ、思わず笑った。すぐに背中の傷へ響いて顔をしかめると、ルファも困ったように笑った。


「まず、ゆっくりね」


 彼女が馬の首へ触れた。

 耳が向き、広がっていた翼が畳まれた。


 ライトは、その胸の中を流れる金色を見た。

 この光がいつまで続くか、まだ知らない。知らないまま、また一つ動くものを作った。使い終えればそれでいいとは、もう思えなかった。


「こいつ、向こうに着いても、置き去りにはしたくない」


 小さく言うと、ルファは馬に触れたまま頷いた。


「一緒に連れて帰れる方法を、探しましょう」


 ライトは鞄を馬の背へ結びつけた。

 剣はすぐ取れるよう、自分の腰へ掛け直した。


 番人は、白馬と並んで見送った。

 古い手綱は、まだ木の根の上にあった。


「世話になった」


 ライトが言うと、男は首を少し動かした。


「父親によろしくな。会えたらな」


 ライトは頷いた。

 訊きたいことは、たくさんあった。その最初の一つが何になるのか、まだわからなかった。


 ミカエルが先に橋へ上がった。

 馬が後を追う。最初の蹄が光を踏むと、岸辺の草へ、赤い雫が散った。血のように見えたのは一瞬で、それはたちまち透明な水へ戻った。


 ライトは振り返った。

 白馬が首を伸ばし、こちらを見ていた。番人の手が、そのたてがみに触れている。


 次の一歩で、岸が遠ざかった。


     *


 虹は、水の匂いがした。


 近くで見ると、色の帯は絶えず流れていた。赤の中へ金が滲み、青の底から緑が湧く。馬の蹄が触れるたびに、その場所だけ白く濁り、あとには薄い波紋が残った。


 ルファは前に座っていた。

 傷のある肩へ紐が触れないよう、外套の襟を片側だけ折り返している。ライトはその後ろから手綱を持ち、なるべく身体を揺らさないようにしていた。


 馬が翼を広げた。

 風が硝子の間を抜け、笛に似た細い音を立てた。蹄の間隔が長くなり、湖がゆっくり遠ざかる。


「下を見ない方がいいわ」


 ルファが言った。


 言われて、見てしまった。


 翼の向こうに、森があった。

 あれほど深かった森が、今は緑の起伏になって湖を囲んでいる。そこに一本だけ、白く細い川が走っていた。川面を移っていく雲の影を見て、ライトは自分たちが同じ高さにいることに気づいた。


 手綱を持つ腕が強張った。

 ルファの背が近くなった。


「ごめん」


「肩じゃなければ、平気」


 彼女が左手を、ライトの手首に添えた。


「少し、緩めて。手綱まで引いてる」


 彼は息を吐いた。

 指の力を抜くと、馬の首がわずかに下がった。ルファの手はすぐに離れず、その動きが落ち着くまで手首に添えられていた。


「ルファは、怖くない?」


「下は、見ていないもの」


 ライトは彼女の顔を覗いた。

 真っ直ぐ前を向いている。彼の頬へ、風にほどけた彼女の髪が何度も触れた。


 風が強くなった。

 さっきよりも気温はかなり上昇している。彼は顔を横へずらして目を細めた。近くにある耳が少し赤かった。汗ばんだ首が時折触れる。暑いのかもしれないと思って外套の襟を広げると、ルファが振り返りかけた。


「ありがとう」


 近すぎる声は風にほどけたが、聞こえた。


 橋のいちばん高いところへ来た。


 世界樹が、眼前に広がった。

 下からは一つの緑に見えた樹冠が、いくつもの枝の重なりになっている。葉の間に水が溜まり、小さな湖のように空を映していた。そこへ、白い鳥が降りた。

 飛び立つと、雫が散った。雫の一つ一つに虹が入っていた。


 ライトは息を止めた。


「見て」


 ルファも同じものを見ていた。

 その声だけで、わかった。


 鳥の群れが、世界樹の枝の奥から現れた。

 馬を避けて左右へ分かれ、二人を挟むように飛んだ。白い羽の裏に、薄い桃色が透けていた。羽ばたきの音が、こんなに近くで聞こえたことはなかった。


 ライトは何か言おうとして、やめた。

 ルファが顔を上げていた。鳥を追う目が、いつもより少し大きく開いている。

 遠い国を知り、知らない物の名を教えてくれる人だった。その彼女にも、初めて見るものがある。そんな当たり前のことを、ライトは今になって知った気がした。


「こんな場所も、あったんだな」


 彼が言うと、ルファは頷いた。


「ええ」


 鳥たちは橋を離れ、入道雲へと消えていった。

 最後の一羽を見送ってから、彼女は前を向いた。


「帰ってから、話せるように覚えておかなくちゃ」


「信じてもらえるかな」


「レインには、細かく訊かれそうね」


「羽の色とか」


「何羽いたか、とかね」


「数えてない」


「私も」


 二人で笑った。

 笑ってから、ライトは手綱を持ち直した。

 カフェで話したかった。あの鳥も、世界樹も、虹を踏んだときの音も。ルファが怖がって下を見なかったことまで話したら、彼女に何と言われるだろう。


 皆でまた、笑い合いたいな。


     *


 前を行くミカエルが、一度振り返った。


 何かを言いかけたように見えた。

 けれど、翼の音に紛れる前に、彼女は口を閉じた。


 ライトは遠ざかる赤い羽を見た。

 自分たちの笑い声が、聞こえたのかもしれない。今度は、胸の中まで聞こえていないことを願った。


 橋は、なだらかに下り始めた。


 塔が近づいていた。

 遠くから一本に見えた壁には、いくつもの出っ張りがあった。細い窓が縦に連なり、その上へ、また別の窓が続いている。高いところは雲に包まれ、見える部分だけでも、城を幾つも積み上げたほどあった。


 ライトは喉の渇きを覚えた。

 父がいるかもしれない場所へ近づいているのに、窓が一つ見えるたび、不安の方が大きくなった。


「会えたら、何から話せばいいんだろう」


 ルファは少し黙ってから答えた。


「あなたの名前からでも、いいと思う」


 ライトは彼女の後ろ姿を見た。


「父さんなのに?」


「今のあなたを、知らないでしょう」


 それは、そうだった。

 自分が父を知らないのと同じだけ、父も自分を知らない。十七年分の話を、最初の一言に押し込むことはできなかった。


「怒っても、いい?」


 ルファは振り返らなかった。


「私には、怒ったじゃない」


 ライトは目を伏せた。

 手綱の間に、右手の指輪が見えた。


 気まずくなったのか、彼女はそれ以上、何も言わなかった。


 橋の終わりが見えた。


 馬は速度を落とし、最後の数歩を、確かめるように歩いた。蹄が石へ触れると、硬い音がした。その音を聞いて初めて、ライトは地面へ戻ってきたのだとわかった。


     *


 塔の扉の前には、広い踊り場があった。


 ルファが先に下り、ライトの荷物を受け取った。彼は馬の背から脚を外したところで、背中の痛みに動きを止めた。

 すぐにルファが腕を貸した。


「ゆっくり」


 両足が地面につくまで、その手を借りた。

 乗っている間より、降りてからの方が身体は揺れている気がした。


 馬が一歩動いた。

 鼻を鳴らす仕草をすると、澄んだ音が辺りに響いた。


 ライトは首へ手を伸ばした。


「ありがとう」


 乳白色の馬とは違う、透き通った首だった。

 その中を走っていた金色が、少しずつ細くなっていた。


 ライトは息を詰めた。


「ルファ」


 彼女も見ていた。

 光は胸から脚へ流れ、それから、もう戻らなかった。前へ傾いていた耳が止まり、翼を畳む途中の姿勢で、馬は動かなくなった。


 掌を当てた。

 温かさは残っていたが、新しい光は現れなかった。


「使い切ったのか」


 答える者はいなかった。

 ルファが馬の反対側へ回り、枠や継ぎ目を確かめた。割れたところはなかった。


「今は、動かせないわ」


 ライトは手を離せずにいた。

 何が起きたかもわからないうちに、もう一度と願って掌を押しつける。それが馬のためなのか、自分がこの静けさに耐えられないだけなのか、わからなかった。


 ルファが隣に立った。


「扉のそばへ移しましょう。雨が降っても避けられるところに」


 二人で、庇の下まで運んだ。

 軽く作った骨組みでも、持ち上げると傷に響いた。ライトは何度も足を止めたが、途中で手を放さなかった。


 馬の翼へ、西へ傾き始めた光が差した。

 石の壁に、何枚もの羽の影が映った。


 ライトは鞄から短い紐を出し、道具を包んでいた布を馬の首へ結んだ。何かの役に立つわけではなかった。ただ、見られたときに、誰かがここに置いているのだとすぐわかるようにしたかった。


 ライトは立ち上がった。

 帰るときには、この馬も。

 さっき二人で話したことを、まだ取り消したくなかった。


     *


 扉は、内側へ開いた。


 塔の中から、冷えた空気が流れてきた。水の匂いはしなかった。長く閉じていた箱を開けたときのような、乾いた匂いだった。


 円い広間があった。

 壁際を階段が巡り、何度も弧を重ねながら上へ続いている。見上げた先は暗く、ところどころの窓から入る光だけが、高さを教えていた。


 ライトは敷居を一歩越えたところで止まった。

 振り返るとルファがいた。開いた扉の向こうには、まだ馬の翼が見えていた。


「塔の主に、ここまで来てもらえる?」


 ルファが言った。


「難しいでしょう」


「では、帰り道を使わせてもらう条件を、先に伝えてほしいの」


 ミカエルは二つの杯を胸の前へ寄せた。


「ルファ様だけに、お話を伺う、とのことです」


「二人で会うわ。父親を探しているのはライトよ」


 女は答えなかった。


 ライトは腰の剣へ手をやった。

 ルファの指にも、ごく細い光が生まれていた。


 そのとき、背後で水の音がした。


 振り返ると、渡ってきた橋がほどけていた。

 塔の縁から七色の帯が離れ、空中で幾筋もの流れに分かれていく。飛沫は落ちず、ミカエルの持つ杯へ、細く長く引き寄せられていた。


「何をしてるの」


 ルファの声が変わった。


「橋を、戻していますの」


 ミカエルが杯を傾けた。


 水は、もう一方の杯へ入らなかった。

 細い流れとなって、ライトの足元へ落ちた。


 敷石の溝を、七色の光が走った。

 模様だと思っていた幾つもの小さな円に、水が満ちていく。足を引こうとしたときには、すでに細い柱が次々と立ち上がり、彼の周りを塞いでいた。


 虹色の檻が出来ていた。

 

 ライトは剣を抜いた。

 柱の一本へ、刃を押し当てる。


 硬い音がした。


 水の流れは見えるのに、刃は通らなかった。

 押し切ろうと力を込めた瞬間、肩に鋭い痛みが走った。

 

「ライト――」


 ルファの声が途切れた。

 赤い翼が、すでに彼女の背後にあった。


 ライトには、ミカエルが動いたところが見えなかった。

 女はルファの右腕を押さえ、翼で彼女の身体を包み込んでいた。傷のある肩へ力がかかり、ルファの膝が折れかける。


「離せ!」


 ライトは剣を引き、もう一度振った。

 金色が刃を走った。しかし、虹の檻は破れない。衝撃が手首から肘へ抜け、握った指が痺れた。


「お呼びなのは、ルファ様だけです」


 ミカエルの声は低かった。

 湖畔で初めて聞いたときより、ずっと近いところにあるのに、別の場所から届くようだった。


「最初から、そう命じられていたのね」


 ルファが言った。


「……なさい」

 

 女の口が動いたが、ルファには分からなかった。


 顎がわずかに上がり、翼が大きく開いた。

 

 風が広間へ吹き込んだ。

 ライトは顔を庇いながら、檻へ打ち付けられた。肩が弾かれ、膝が石へ落ちた。


 ルファの手から、小さなものが滑ったのが見えた。


 青い光が、階段の縁へ当たる。一度跳ね、床を転がり、虹の檻へぶつかって止まった。


 ライトは顔を上げた。


「ルファ!」


 彼女がこちらを見た。

 口が動いた。羽音で、言葉は聞こえなかった。


 赤い翼が、塔の中を上がっていった。


     *


 水滴の落ちる音がした。


 ライトは剣を持ったまま立っていた。

 掌を当てると、冷たかった。


 継ぎ目を探した。剣の先で床の円をなぞり、石と水の境を突いた。刃は入らなかった。


 また、剣を振った。


 音が塔を上った。

 高いところから、遅れて戻ってきた。


「ルファ」


 呼んだ声も戻った。


 手首が、うまく曲がらなくなっていた。

 ライトは剣先を床へ下ろした。力を込めるたびに硬くなる水の流れを、ただ見つめた。


 城で怖かったことを、彼女には言えた。

 虹の上でも、手首へ触れてもらえば、力を緩めることができた。

 今は、その手が届くところにいない。


 膝をついた。


 檻の外に、青い硝子が落ちていた。

 ルファの手から滑ったものだった。

 水の檻越しでは、割れた欠片に見えていた。


 ライトは顔を近づけた。

 

 小さな手があった。

 顔があった。片方の腕で身体を支え、起き上がろうとしている。


「……ちびルファ」


 声が掠れた。


 小さな人形は立ち上がった。

 何歩か近づき、虹の檻へ手を当てる。それから、ライトを見上げた。


 彼も、同じ場所へ手を当てた。

 指先ほどの掌との間に、薄い色が流れていた。


 彼女は何もしなかったわけではない。

 腕を押さえられ、連れていかれる、そのわずかな間に、これを作った。


 ライトは目を閉じた。

 こらえるつもりだった息が、震えて漏れた。


「上へ、行けるか」


 目を開けて訊いた。


 ちびルファが、階段を見た。

 しばらくして、顔を戻した。


「ルファを見つけてくれ」


 ライトは檻から手を離した。


「俺も、行くから」


 人形は小さく頷いた。

 走り出し、段差の前で止まる。両手をついて一段をよじ登り、次の段へ向かっていく。


 ライトは、その青が見えなくなるまで見送った。


 扉の外には、まだ夏の日差しがあった。

 動かなくなった馬の翼が、庇の陰から少しだけ見えている。その硝子を通った光が、石の上に小さな虹を作っていた。


 さっきまで、あの背に二人でいた。


 ライトは剣を握り直した。

 しかし、今度は振り上げず、膝をついた。


 両手をつく。

 そして、肩を震わせながら、床を巡る水の流れへ顔を近づけた。



 

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