ⅩⅣ 《節制》 虹の架け橋
「ミカエルと申します」
女は白い衣の胸元へ手を添えた。
伏せられた睫毛に、雨の雫がついている。大きな赤い翼は半ば閉じられ、その内側にだけ、雨の降らない狭い場所ができていた。
「塔の入り口まで、お連れできます。そこから先のお話は、塔を預かる方に」
「その人に、頼まれて来たの?」
ルファが尋ねた。
ミカエルは微笑みを薄くした。
「ええ。お二人をお迎えするようにと」
ライトは、足元の鞄を見た。
誰かが、また自分たちを待っている。城門で呼び止められたときには、それが罠である可能性さえ考えていなかった。
「どうして、俺たちが来たとわかったんだ」
「湖へ旅人が来ることは、珍しいのです。まして、あのような馬をお作りになる方は」
女の顔が、白馬へ向いた。
馬は番人の衣に鼻を寄せていた。雨粒の散る赤い翼に気づき、耳を動かす。
「ずっと、見ていた」
ライトの声が硬くなった。
「途中からですわ」
ミカエルは答えた。
すぐに、言葉を継がなかった。
「急いでおられることも、わかっています。お母様と、妹さんが待っていらっしゃるのでしょう」
ライトはルファを見た。
彼女の指が、鞄の留め口を押さえた。
「そこまで、聞いていたのね」
「いえ。今のは――」
「ミカエル」
番人が呼んだ。
釣り竿を片づけながら、女へ眼を向けている。
「目を開けて話してやれ」
女は唇を閉じた。
やがて睫毛が上がり、淡い色の瞳が現れた。ライトの顔を見てから、少しだけ目を伏せる。
「失礼しました。強く思われたことが、声のように届くことがあるのです」
ライトは、胸の内側へ何かを押し込もうとした。
考えないようにするほど、輪郭がはっきりしてしまう。帰るのが遅れたら。母が病気になっていたら。レインが、もう待っていなかったら。
ルファが半歩、前へ出た。
「私たちは、口に出して話すわ。あなたにも、そうしてほしい」
「承知しました」
ミカエルは、今度は目を開けたまま頷いた。
*
世界樹の太い根の下は、雨を避けられた。
ライトはそこで鞄を開いた。道具を包んだ布の下から、小さなリンゴを取り出す。
ミカエルの目が、硝子の実に留まった。
「確かめさせてほしい」
ライトは言った。
「これを持っていると、嘘をつけないそうだ」
「存じています」
女は手を差し出した。
ためらいのなさが、かえってライトを戸惑わせた。掌にリンゴを渡すと、薄い皮膚の下に、淡い緑が透けていた。
「マルクトへ帰る道は、本当にあの塔にあるのか」
「あります。月の世界を経て、マルクトへ至る道が」
「俺たちも通れるのか」
ミカエルは、リンゴへ目を落とした。
「私には、許可を出せません」
「塔へ入ったら、安全に出してもらえる?」
ルファが尋ねた。
「それも、お約束できません」
雨が根を伝い、二人の間へ落ちた。
ライトは、リンゴを握る女の指を見ていた。嘘をつかない相手の言葉が、安心できる言葉とは限らなかった。
「では、ほかに帰る道を教えて」
ルファが言った。
「私がご案内できる道は、塔だけです」
ミカエルは答えた。
ライトは番人へ顔を向けた。男は黙ってその視線を受け、首を横に振った。
「湖は、お前たちが留まり続ける場所じゃない。帰りたいなら、上へ行くことになる」
ルファはしばらく考えていた。
それからリンゴを受け取り、ライトへ返した。
「少し、二人で話をさせて」
木の根に沿って離れた場所へ移った。ミカエルは追ってこなかった。雨の向こうで、番人が何かを話しかけている。
「どう思う?」
ルファが声を落とした。
ライトはリンゴを包み直した。レドが真実を口にしたときは、何もかもが明らかになるように思えた。けれど、この小さな実で確かめられたのは、訊いたことへの答えだけだった。
「危ないのは、わかった」
ルファが頷いた。
「それでも、帰り道を調べに行きたい。ここで待っても、向こうの時間は止まらない」
「お父さんのことは?」
ライトは湖の向こうを見た。
塔は雨に霞んでいた。番人は、父がそこへ向かったと言った。今もいるとは、言っていない。
「会えるなら、会いたい」
声にすると、胸が痛んだ。
「でも、一目見るだけのために、帰れる道を閉ざしたくはない」
母と妹には、何も見つからなくても戻ると言った。もう遅すぎるかもしれない。それでも、約束をなかったことにはしたくなかった。
ルファは外套の前を合わせた。
「入り口まで行きましょう。その先へ進む前に、もう一度確かめる」
「二人で」
「ええ」
彼女はライトの目を見た。
「二人で」
*
ミカエルは、二つの杯を持っていた。
一つは銀に近い白、もう一つは、内側に青い釉薬を流したような色をしている。白い杯で雨を受け、満ちた水を青い杯へ注ぐ。細く伸びた水の筋は、途中で風に押されても、切れなかった。
「月の世界というのは、空に見える月のこと?」
ルファが尋ねた。
「イェソドと呼ばれる世界です。マルクトに、ここより近いところ」
注いだ水が、今度は青い杯から白い杯へ戻った。
下から上へ流れている。ライトは思わず身を乗り出しかけ、背中の痛みに足を止めた。
「近い、って。距離が?」
「移るために越える隔たりが、小さいということです。同じ空を飛んでいれば着く、という意味ではありません」
ルファは湖の向こうを見た。
「あの塔は、世界の境を越えるためのものなのね」
「ええ。高いところへ行くだけなら、私の翼でもできます」
ミカエルが杯を少し傾けた。
水の筋に、細かな色が生まれた。赤と紫の間、まだ名前をつけられないほど淡い色が幾つも滲む。
「そこも、ここと時間の流れは違うのか」
ライトは訊いた。
「イェソドの一日は、マルクトではおよそ六日。ここに比べれば、差は小さくなります」
ライトは水筒の重さを肩に感じた。ここでは、歩くことも、休むことも、向こうで待つ人の時間を使ってしまう。
「帰ったら、俺は何歳になっているんだろう」
思わず口から出た。
ルファの目が、自分へ向いた。
「あなたがこちらで過ごしている間にも、マルクトの暦は進んでいます」
ミカエルは静かに答えた。
「こちらで朝を何度迎えたかだけでは、正確には数えられませんが」
ライトは右手を見た。
指輪の下に、薄い傷がある。あの夜、皆の前でろうそくを吹き消した自分と、同じ手だった。レインも同じ年齢のまま待っているような気が、まだどこかに残っていた。
ルファが肩紐を握り直した。
「渡りましょう」
その声には、もう問いはなかった。
ミカエルが両腕を広げた。
杯の間に渡っていた水が、長く伸びた。
糸ほどの細さだったものが雨を集め、岸から湖へ、湖から空へと帯になっていく。流れの中に、光が入った。
水面に七色が映った。映った色の方が先に岸を離れ、それを追うように、空の橋が遠い塔へ弧を描いた。
雨が止みかけていた。
雲の切れ目から落ちた日差しが橋に触れ、向こう岸まで、一息に明るくなった。世界樹の葉の一枚一枚が透けて見える。
「これを、渡るのか」
ライトは足元を見た。
草の上へ、虹の端が触れていた。靴先を乗せると、薄い水の膜を踏んだように沈み、そのすぐ下から押し返された。
「立ち止まっても、落ちはしません。ただ、お二人の足では時間がかかります」
ミカエルは、岸辺の白馬を見た。
「あのように、走るものがあれば」
ルファも馬へ目を向けた。
番人のそばで、水滴のついた草を見ている。ついさっき知った世界を、まだ少しも見飽きていない様子だった。
「あの子は、ここに残すわ」
ルファは言った。
「もう一つ、作るしかないわ。形は、手が覚えている」
ライトは彼女の肩を見た。
「作れるのか?」
「支えてね」
そして、道具の布をもう一度広げた。
*
二頭目の馬は、骨組みの向こうへ空が抜けていた。
ルファは、身体をすべて覆おうとはしなかった。必要な曲面だけを合わせ、二人が乗る背を幅広く作る。ライトが下から枠を支える間に、彼女は細い部材を渡して重さを分けた。
先ほど組んだばかりの形だった。関節の向きに迷う時間は、今度はなかった。
背の両側には、翼がついた。
風を受け流すための、薄い硝子を重ねた長い翼だった。
「飛べるの?」
「わからないわ。だから、橋の上を行きましょう」
ライトは頷いた。
透ける翼を押さえる指に、日差しが当たる。ルファの爪の際には、城でついた細かな灰がまだ残っていた。
彼が光を渡すと、馬は首を上げた。
大きな翼が、一度開いた。
草が伏せる。肩の布がめくれそうだった。ライトは飛ばされかけた道具を押さえ、思わず笑った。すぐに背中の傷へ響いて顔をしかめると、ルファも困ったように笑った。
「まず、ゆっくりね」
彼女が馬の首へ触れた。
耳が向き、広がっていた翼が畳まれた。
ライトは、その胸の中を流れる金色を見た。
この光がいつまで続くか、まだ知らない。知らないまま、また一つ動くものを作った。使い終えればそれでいいとは、もう思えなかった。
「こいつ、向こうに着いても、置き去りにはしたくない」
小さく言うと、ルファは馬に触れたまま頷いた。
「一緒に連れて帰れる方法を、探しましょう」
ライトは鞄を馬の背へ結びつけた。
剣はすぐ取れるよう、自分の腰へ掛け直した。
番人は、白馬と並んで見送った。
古い手綱は、まだ木の根の上にあった。
「世話になった」
ライトが言うと、男は首を少し動かした。
「父親によろしくな。会えたらな」
ライトは頷いた。
訊きたいことは、たくさんあった。その最初の一つが何になるのか、まだわからなかった。
ミカエルが先に橋へ上がった。
馬が後を追う。最初の蹄が光を踏むと、岸辺の草へ、赤い雫が散った。血のように見えたのは一瞬で、それはたちまち透明な水へ戻った。
ライトは振り返った。
白馬が首を伸ばし、こちらを見ていた。番人の手が、そのたてがみに触れている。
次の一歩で、岸が遠ざかった。
*
虹は、水の匂いがした。
近くで見ると、色の帯は絶えず流れていた。赤の中へ金が滲み、青の底から緑が湧く。馬の蹄が触れるたびに、その場所だけ白く濁り、あとには薄い波紋が残った。
ルファは前に座っていた。
傷のある肩へ紐が触れないよう、外套の襟を片側だけ折り返している。ライトはその後ろから手綱を持ち、なるべく身体を揺らさないようにしていた。
馬が翼を広げた。
風が硝子の間を抜け、笛に似た細い音を立てた。蹄の間隔が長くなり、湖がゆっくり遠ざかる。
「下を見ない方がいいわ」
ルファが言った。
言われて、見てしまった。
翼の向こうに、森があった。
あれほど深かった森が、今は緑の起伏になって湖を囲んでいる。そこに一本だけ、白く細い川が走っていた。川面を移っていく雲の影を見て、ライトは自分たちが同じ高さにいることに気づいた。
手綱を持つ腕が強張った。
ルファの背が近くなった。
「ごめん」
「肩じゃなければ、平気」
彼女が左手を、ライトの手首に添えた。
「少し、緩めて。手綱まで引いてる」
彼は息を吐いた。
指の力を抜くと、馬の首がわずかに下がった。ルファの手はすぐに離れず、その動きが落ち着くまで手首に添えられていた。
「ルファは、怖くない?」
「下は、見ていないもの」
ライトは彼女の顔を覗いた。
真っ直ぐ前を向いている。彼の頬へ、風にほどけた彼女の髪が何度も触れた。
風が強くなった。
さっきよりも気温はかなり上昇している。彼は顔を横へずらして目を細めた。近くにある耳が少し赤かった。汗ばんだ首が時折触れる。暑いのかもしれないと思って外套の襟を広げると、ルファが振り返りかけた。
「ありがとう」
近すぎる声は風にほどけたが、聞こえた。
橋のいちばん高いところへ来た。
世界樹が、眼前に広がった。
下からは一つの緑に見えた樹冠が、いくつもの枝の重なりになっている。葉の間に水が溜まり、小さな湖のように空を映していた。そこへ、白い鳥が降りた。
飛び立つと、雫が散った。雫の一つ一つに虹が入っていた。
ライトは息を止めた。
「見て」
ルファも同じものを見ていた。
その声だけで、わかった。
鳥の群れが、世界樹の枝の奥から現れた。
馬を避けて左右へ分かれ、二人を挟むように飛んだ。白い羽の裏に、薄い桃色が透けていた。羽ばたきの音が、こんなに近くで聞こえたことはなかった。
ライトは何か言おうとして、やめた。
ルファが顔を上げていた。鳥を追う目が、いつもより少し大きく開いている。
遠い国を知り、知らない物の名を教えてくれる人だった。その彼女にも、初めて見るものがある。そんな当たり前のことを、ライトは今になって知った気がした。
「こんな場所も、あったんだな」
彼が言うと、ルファは頷いた。
「ええ」
鳥たちは橋を離れ、入道雲へと消えていった。
最後の一羽を見送ってから、彼女は前を向いた。
「帰ってから、話せるように覚えておかなくちゃ」
「信じてもらえるかな」
「レインには、細かく訊かれそうね」
「羽の色とか」
「何羽いたか、とかね」
「数えてない」
「私も」
二人で笑った。
笑ってから、ライトは手綱を持ち直した。
カフェで話したかった。あの鳥も、世界樹も、虹を踏んだときの音も。ルファが怖がって下を見なかったことまで話したら、彼女に何と言われるだろう。
皆でまた、笑い合いたいな。
*
前を行くミカエルが、一度振り返った。
何かを言いかけたように見えた。
けれど、翼の音に紛れる前に、彼女は口を閉じた。
ライトは遠ざかる赤い羽を見た。
自分たちの笑い声が、聞こえたのかもしれない。今度は、胸の中まで聞こえていないことを願った。
橋は、なだらかに下り始めた。
塔が近づいていた。
遠くから一本に見えた壁には、いくつもの出っ張りがあった。細い窓が縦に連なり、その上へ、また別の窓が続いている。高いところは雲に包まれ、見える部分だけでも、城を幾つも積み上げたほどあった。
ライトは喉の渇きを覚えた。
父がいるかもしれない場所へ近づいているのに、窓が一つ見えるたび、不安の方が大きくなった。
「会えたら、何から話せばいいんだろう」
ルファは少し黙ってから答えた。
「あなたの名前からでも、いいと思う」
ライトは彼女の後ろ姿を見た。
「父さんなのに?」
「今のあなたを、知らないでしょう」
それは、そうだった。
自分が父を知らないのと同じだけ、父も自分を知らない。十七年分の話を、最初の一言に押し込むことはできなかった。
「怒っても、いい?」
ルファは振り返らなかった。
「私には、怒ったじゃない」
ライトは目を伏せた。
手綱の間に、右手の指輪が見えた。
気まずくなったのか、彼女はそれ以上、何も言わなかった。
橋の終わりが見えた。
馬は速度を落とし、最後の数歩を、確かめるように歩いた。蹄が石へ触れると、硬い音がした。その音を聞いて初めて、ライトは地面へ戻ってきたのだとわかった。
*
塔の扉の前には、広い踊り場があった。
ルファが先に下り、ライトの荷物を受け取った。彼は馬の背から脚を外したところで、背中の痛みに動きを止めた。
すぐにルファが腕を貸した。
「ゆっくり」
両足が地面につくまで、その手を借りた。
乗っている間より、降りてからの方が身体は揺れている気がした。
馬が一歩動いた。
鼻を鳴らす仕草をすると、澄んだ音が辺りに響いた。
ライトは首へ手を伸ばした。
「ありがとう」
乳白色の馬とは違う、透き通った首だった。
その中を走っていた金色が、少しずつ細くなっていた。
ライトは息を詰めた。
「ルファ」
彼女も見ていた。
光は胸から脚へ流れ、それから、もう戻らなかった。前へ傾いていた耳が止まり、翼を畳む途中の姿勢で、馬は動かなくなった。
掌を当てた。
温かさは残っていたが、新しい光は現れなかった。
「使い切ったのか」
答える者はいなかった。
ルファが馬の反対側へ回り、枠や継ぎ目を確かめた。割れたところはなかった。
「今は、動かせないわ」
ライトは手を離せずにいた。
何が起きたかもわからないうちに、もう一度と願って掌を押しつける。それが馬のためなのか、自分がこの静けさに耐えられないだけなのか、わからなかった。
ルファが隣に立った。
「扉のそばへ移しましょう。雨が降っても避けられるところに」
二人で、庇の下まで運んだ。
軽く作った骨組みでも、持ち上げると傷に響いた。ライトは何度も足を止めたが、途中で手を放さなかった。
馬の翼へ、西へ傾き始めた光が差した。
石の壁に、何枚もの羽の影が映った。
ライトは鞄から短い紐を出し、道具を包んでいた布を馬の首へ結んだ。何かの役に立つわけではなかった。ただ、見られたときに、誰かがここに置いているのだとすぐわかるようにしたかった。
ライトは立ち上がった。
帰るときには、この馬も。
さっき二人で話したことを、まだ取り消したくなかった。
*
扉は、内側へ開いた。
塔の中から、冷えた空気が流れてきた。水の匂いはしなかった。長く閉じていた箱を開けたときのような、乾いた匂いだった。
円い広間があった。
壁際を階段が巡り、何度も弧を重ねながら上へ続いている。見上げた先は暗く、ところどころの窓から入る光だけが、高さを教えていた。
ライトは敷居を一歩越えたところで止まった。
振り返るとルファがいた。開いた扉の向こうには、まだ馬の翼が見えていた。
「塔の主に、ここまで来てもらえる?」
ルファが言った。
「難しいでしょう」
「では、帰り道を使わせてもらう条件を、先に伝えてほしいの」
ミカエルは二つの杯を胸の前へ寄せた。
「ルファ様だけに、お話を伺う、とのことです」
「二人で会うわ。父親を探しているのはライトよ」
女は答えなかった。
ライトは腰の剣へ手をやった。
ルファの指にも、ごく細い光が生まれていた。
そのとき、背後で水の音がした。
振り返ると、渡ってきた橋がほどけていた。
塔の縁から七色の帯が離れ、空中で幾筋もの流れに分かれていく。飛沫は落ちず、ミカエルの持つ杯へ、細く長く引き寄せられていた。
「何をしてるの」
ルファの声が変わった。
「橋を、戻していますの」
ミカエルが杯を傾けた。
水は、もう一方の杯へ入らなかった。
細い流れとなって、ライトの足元へ落ちた。
敷石の溝を、七色の光が走った。
模様だと思っていた幾つもの小さな円に、水が満ちていく。足を引こうとしたときには、すでに細い柱が次々と立ち上がり、彼の周りを塞いでいた。
虹色の檻が出来ていた。
ライトは剣を抜いた。
柱の一本へ、刃を押し当てる。
硬い音がした。
水の流れは見えるのに、刃は通らなかった。
押し切ろうと力を込めた瞬間、肩に鋭い痛みが走った。
「ライト――」
ルファの声が途切れた。
赤い翼が、すでに彼女の背後にあった。
ライトには、ミカエルが動いたところが見えなかった。
女はルファの右腕を押さえ、翼で彼女の身体を包み込んでいた。傷のある肩へ力がかかり、ルファの膝が折れかける。
「離せ!」
ライトは剣を引き、もう一度振った。
金色が刃を走った。しかし、虹の檻は破れない。衝撃が手首から肘へ抜け、握った指が痺れた。
「お呼びなのは、ルファ様だけです」
ミカエルの声は低かった。
湖畔で初めて聞いたときより、ずっと近いところにあるのに、別の場所から届くようだった。
「最初から、そう命じられていたのね」
ルファが言った。
「……なさい」
女の口が動いたが、ルファには分からなかった。
顎がわずかに上がり、翼が大きく開いた。
風が広間へ吹き込んだ。
ライトは顔を庇いながら、檻へ打ち付けられた。肩が弾かれ、膝が石へ落ちた。
ルファの手から、小さなものが滑ったのが見えた。
青い光が、階段の縁へ当たる。一度跳ね、床を転がり、虹の檻へぶつかって止まった。
ライトは顔を上げた。
「ルファ!」
彼女がこちらを見た。
口が動いた。羽音で、言葉は聞こえなかった。
赤い翼が、塔の中を上がっていった。
*
水滴の落ちる音がした。
ライトは剣を持ったまま立っていた。
掌を当てると、冷たかった。
継ぎ目を探した。剣の先で床の円をなぞり、石と水の境を突いた。刃は入らなかった。
また、剣を振った。
音が塔を上った。
高いところから、遅れて戻ってきた。
「ルファ」
呼んだ声も戻った。
手首が、うまく曲がらなくなっていた。
ライトは剣先を床へ下ろした。力を込めるたびに硬くなる水の流れを、ただ見つめた。
城で怖かったことを、彼女には言えた。
虹の上でも、手首へ触れてもらえば、力を緩めることができた。
今は、その手が届くところにいない。
膝をついた。
檻の外に、青い硝子が落ちていた。
ルファの手から滑ったものだった。
水の檻越しでは、割れた欠片に見えていた。
ライトは顔を近づけた。
小さな手があった。
顔があった。片方の腕で身体を支え、起き上がろうとしている。
「……ちびルファ」
声が掠れた。
小さな人形は立ち上がった。
何歩か近づき、虹の檻へ手を当てる。それから、ライトを見上げた。
彼も、同じ場所へ手を当てた。
指先ほどの掌との間に、薄い色が流れていた。
彼女は何もしなかったわけではない。
腕を押さえられ、連れていかれる、そのわずかな間に、これを作った。
ライトは目を閉じた。
こらえるつもりだった息が、震えて漏れた。
「上へ、行けるか」
目を開けて訊いた。
ちびルファが、階段を見た。
しばらくして、顔を戻した。
「ルファを見つけてくれ」
ライトは檻から手を離した。
「俺も、行くから」
人形は小さく頷いた。
走り出し、段差の前で止まる。両手をついて一段をよじ登り、次の段へ向かっていく。
ライトは、その青が見えなくなるまで見送った。
扉の外には、まだ夏の日差しがあった。
動かなくなった馬の翼が、庇の陰から少しだけ見えている。その硝子を通った光が、石の上に小さな虹を作っていた。
さっきまで、あの背に二人でいた。
ライトは剣を握り直した。
しかし、今度は振り上げず、膝をついた。
両手をつく。
そして、肩を震わせながら、床を巡る水の流れへ顔を近づけた。




