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ステンドグラスの彼方に  作者: 羽月楓


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15/22

ⅩⅤ 《悪魔》 願いの鎖

挿絵(By みてみん)




 肉の焼ける匂いがした。


 ルファは、石の床へ下ろされた。右肩に走った痛みをこらえて顔を上げると、長い食卓があった。燭台が等間隔に並び、磨かれた皿の上で、湯気がまだ立っていた。

 こんなところで、誰かが食事をしている。

 ついさっきまで下から聞こえていた、ライトの呼ぶ声との隔たりに、身体がついていかなかった。


 肩を押さえていた手が離れた。


「あの子のところへ戻して」


 ミカエルは答えず、ルファの外套から手を放した。

 白い袖には血がついていた。


「こちらへ」


 食卓の奥から、声がした。


 男が一人、椅子に座っていた。

 細い指を組み、その上へ顎を載せている。背後に広がっていた黒いものが動き、翼だとわかった。羽の先が白いクロスへ触れたが、男は気にしなかった。


「よく来たね」


「連れてこさせたのでしょう」


 椅子には近づかなかった。


「まず、ライトを自由にして」


「君たちは、一緒にしない方がよさそうだ」


 男が言った。

 その口元に、かすかな笑みがあった。


「硝子を作る者と、それを動かす者。湖では、面白いことをしていたらしいね」


 ルファはミカエルを見た。

 女は食卓の脇へ移り、二つの杯を持ち直していた。


「あなたが、塔の主?」


「ここでは、そう呼ばれている」


「名前を聞いているの」


 男は組んでいた指をほどいた。


「ルシフェル」


 燭台の炎が、同じ方へ傾いた。


「覚えておくといい。この塔から先へ行くには、私と話をしなければならない」


     *


 食卓には、ほかにも人がいた。


 大きなパンを抱えた女。肉を切り分け続ける老人。誰もこちらを見なかった。皿が空になると、白いクロスがわずかに動き、次の料理が運ばれてくる。

 給仕の姿はなかった。


 ルファは一歩、横へ動いた。

 食卓の下で、金属が擦れた。


 椅子の脚に、鎖が巻かれていた。

 そこから伸びた輪が、人々の足首へ掛かっている。きつく締めつけられてはいなかった。しゃがめば手が届き、指を差し入れることもできそうな程だった。


 けれど、誰も下を向かなかった。


「この人たちは?」


「客だよ」


 ルシフェルが答えた。


「それぞれ、望むものがある。私はそれを用意している」


 燭台の向こうで、赤い髪が動いた。


 ルファは息を止めた。


「……エマ?」


 女は杯を持ち上げていた。

 髪は無造作に束ねられ、顔の輪郭には、ルファの知らない年月があった。それでも、眉を上げて何かを待つその顔を、見間違えるはずがなかった。


 女が、杯の中を覗いた。


「次は」


 声がした。


「今度は、どこへ、行ける、の」


 杯に光が差した。

 その底を見つめ、エマは微笑んだ。遠くの景色を眺めるように目を細め、顔を近づけていく。


「エマ。私よ」


 ルファは食卓へ近づいた。

 その途中で、足が止まった。


 隣の席に、男がいた。


 灰色に汚れた上着。伸びた髪。顎には無精髭があり、頬が記憶より痩せていた。皿の縁へ添えられた指には、小さな傷が幾つも残っている。

 その指が、パンを二つに割った。

 小さい方を脇へ寄せ、誰もいない場所へ差し出した。


「ジン」


 名を呼ぶと、男が顔を上げた。


 ルファの胸に、店の扉が閉まった日の音が戻ってきた。

 また顔を出す、と言っていた。店にはほかの客がいて、彼女はカウンターの中から手を振った。

 あのとき、呼び止めるには、名前を呼ぶだけでよかった。


「ジン、聞こえる?」


 彼の目は、ルファの顔を通り過ぎた。

 すぐそばにある、別の何かを見ていた。


「一緒に、帰りましょう」


 小さな声で言った。


 パンを差し出した手が下がった。

 男はまた皿へ向き直り、今しがたと同じように、食事を始めた。


 ルファがその肩へ触れようとしたとき、白い布が、するりと手首へ巻きついた。


「食事の邪魔をしてはいけない」


 ルシフェルが言った。

 椅子から動いていなかった。


 ルファが腕を引くと、布の端が細く尖った。

 すぐ脇の椅子へ突き刺さる。木が裂け、遅れて、ジンの足元で鎖が鳴った。


 それでも、彼は振り返らなかった。


     *


 塔の底では、水が流れていた。


 ライトは頬を地につけたまま、その流れを見ていた。赤い柱から落ちた水が床の円を巡り、青い柱へ吸い上げられていく。光が濃くなるところと、薄くなるところが、ゆっくり場所を変えていた。


 剣で叩いた跡は残っていない。

 硝子なら見えるはずの傷も、欠けもなかった。


 これは、普通の水とは違う。

 ただ力を込めて叩くより、何か他に方法はないだろうか。

 

 ライトは刃を寝かせ、床に沿って押した。流れの薄くなったところへ先を入れる。わずかに進んだと思った瞬間、虹の檻が光り、剣先を押し戻した。


「そこだ」


 声がした。


 ライトは剣を引いた。

 開いた扉の向こうに、黒い頭巾が見えた。


「続けろ。今の場所を、もう一度」


 湖の番人だった。

 背中の羽を畳み、その脇から、乳白色の馬を広間へ入れた。馬は敷居の高さを確かめ、片脚ずつ越えてきた。


 ライトは立ち上がった。


「ルファが、上へ連れていかれた」


「見ればわかる」


「知っていたのか」


 男の動きが止まった。


「俺たちが、こうなることを」


 馬が男の袖へ鼻を寄せた。

 番人はその首に触れ、ライトへ向き直った。


「捕らえるとまでは、聞いていなかった」


 ライトは男を見つめた。


「まあ、塔へ寄越せとは言われていた」


「それを、黙っていた」


「ああ」


 返事が、広間に落ちた。


 ライトは剣を握った。

 この人に、何度も頷いた。父がここを通ったと言われて、礼を言った。湖で馬を作っている間も、帰る道を教えてもらえると思っていた。


「今度は、何をしに来たんだ」


「馬を見せろと呼ばれた」


 番人の手が、白い首から離れた。


「そして、お前をここから出す」


「上へ連れていくために?」


「上にいる奴を止めるためにだ」


 ライトは答えなかった。

 男は顔を逸らさず、言葉を続けた。


「お前たちが何をできるか、見たかった。二人だけで逆らうことは、ずっと避けてきた」


「二人?」

 

 男の視線が湖の方へ動いた。


「その間に、馬も失くした」


 白馬が、小さく首を動かした。


 ライトは、檻の向こうの男を見た。

 謝ってほしかったのか、何も言わずに檻を開けてほしかったのか、自分でもわからなかった。ただ、話している間も、ルファはここにいなかった。


「頼む、出してくれ」


 声を絞った。


 男は頷いた。


「ランカスターだ」


 外套の内側から、長い柄を引き出した。


「名乗っていなかったな」


     *


 もう一人いた。

 食卓の向こうで、爪が木を掻いている。


 痩せた男が、クロスの縁を捲り、露わになった板へ何かを刻んでいた。手首には深い縄の痕があった。

 ルファは、その横顔に見覚えがあった。


 天秤の中から出てきた男だった。


 喉の奥が強張った。女王の翼と、そこへ落ちてきた天井を思い出した。男は顔を上げず、爪で刻んだものを指先で辿っていた。


「あの人も、ここに来たのね」


「瓦礫から拾わせた。失くした書き物のことばかり気にしていたが、ようやく落ち着いたよ」


 ルシフェルは、客の好みを語るように言った。


 ルファは、布の巻きついた手首を動かした。

 引けば締まる。動きを止めると、わずかに緩んだ。


「何を食べさせているの」


「本人が欲しいものだよ」


 ルシフェルは、ジンの皿を見た。


「あの男には、まだ帰れる朝を」


 ルファはジンへ顔を向けた。

 彼は、また小さなパンを脇へ寄せていた。


「扉を出る前なら、何も失っていない。妻も子供もいる。旅にも、まだ出られる。別れを惜しむことはあっても、取り返しのつかないことは何一つ起きていない」


「同じ朝を、見せ続けているの?」


「望む限りは」


 ジンが口を開いた。

 言葉になる前に閉じ、皿の上へ視線を落とした。


「苦しむ必要があるかね。外へ出たら何が待っている? 待ちくたびれた家族と、説明のつかない歳月だ」


 ルシフェルの指が、卓上を軽く叩いた。


「ここなら、まだ誰も彼を責めていない」


 ルファは唇を結んだ。

 ジンの妻の顔を、今さらのように思い出した。ライトを送り出した朝、彼女は門のところまで出てきた。止めなかったが、安心していたわけではなかった。

 あの人の待つ時間は、この食卓のどこにもなかった。


「この人が帰りたいと思っても、帰さないのでしょう」


「帰りたいと望めば、扉は開くさ」


 ルシフェルは答えた。


「だがその前に、もう一度だけ朝食をとりたくなる。それを、私のせいにされても困るね」


 ルファは足元を見た。

 ジンの鎖は緩かった。その上へ、白い布が薄く重なっていた。


「それなら、私の拘束を解いて」


 男の笑みが止まった。


「この人を呼んで、帰ろうと言うだけよ」


 布が締まった。

 ルファは痛みに眉を寄せたが、男から目を逸らさなかった。


「あなたが用意した選択肢を選ぶ間だけ、自由なのね」


 ルシフェルは、しばらく黙っていた。

 それから、握っていた布を放すように指を開いた。


 手首の拘束が解けた。


「では、君には別の提案をしよう」


 椅子が一脚、床を擦って動いた。


「ここに残りなさい。あの青年には、父親を渡そう」


     *


 ランカスターの持つ柄には、弦が張られていた。


 黒い木と虹色の金属でできた胴があり、その先で、湾曲した刃が光っている。鎌にも、見たことのない弦楽器にも見えた。

 男が一本の弦へ触れると、低い音がした。


 虹の檻に、小さな波が走った。


 ランカスターは懐から硬貨を出した。

 五芒星が刻まれている。親指で弾きかけ、やめた。そのまま床へ置き、虹の檻へ滑らせる。


「こいつは、固まってる訳じゃない。流れ続けて、同じ形を保っている」


 硬貨が円の縁で止まった。


「俺が流れを鈍らせる。薄くなったところへ、内側から刃を入れろ」


「あんたには、壊せないのか」


「力任せに破れば、中へ跳ね返る。お前ごとやっちまってよければ、やれる」


 ライトは剣を見た。

 刃先には細かな光が残っている。握り続けた掌は熱く、柄に巻いた布が汗を含んでいた。


「斬るんじゃない。流れの継ぎ目を、少し開けろ」


 ライトは膝をついた。


 作業台で、合わない硝子を枠へ押し込んだことがある。力をかけるほど隣の一枚が浮き、ルファに手を止められた。

 押す前に、どこが当たっているか見て。


 同じことができるとは限らなかった。

 けれど、今は見るべき場所があった。


 弦が鳴った。


 硬貨が水の流れに食い込む。

 流れが少し偏り、その隣の色が薄くなる。


 ライトは息を吐いた。

 刃を寝かせ、先端だけを差し込んだ。


 押し返された。

 右手が震えた。左手を柄へ添え、力を増す代わりに角度を変える。


「そこから、動かすな」


 ランカスターの声がした。

 音がもう一つ重なり、硬貨が床を削った。


 剣の厚みほど、隙間ができた。


 金色が、そこへ細く伸びた。

 ライトは柄を握り潰しそうになる指を緩めた。光まで途切れるのが怖かった。それでも、掌を閉じきらずに支えた。


 水が割れた。


 目の前の水柱が形を崩し、熱い飛沫になって床へ落ちた。ランカスターが腕を差し入れ、ライトの上着を掴む。


「出ろ」


 身体を横にした。

 肩が光へ触れた。焼けるような痛みがしたが、そのまま足を出した。


「いまだ!」

 

 次の瞬間、床へ転がっていた。

 背後で、水が一気に落ちた。


 剣は、まだ握っていた。


 白馬が顔を近づけてきた。

 ライトは片手を床につき、起き上がった。馬の鼻先が頬へ触れた。冷たかった。


 ライトは床へ落としていた鞄を引き寄せ、肩へ掛けた。


「上に行きたいんだ」


 ランカスターを見た。


「頼む、連れていってくれ」


 男は翼を広げた。


     *


「私を座らせて、何をさせるつもり?」


 ルファは椅子を見ずに尋ねた。


「君の魔法が見たい」


 ルシフェルは言った。


「窓を作ってもらおうか。飾りでもいい。君の硝子は、見ているだけで何かを欲しくさせる。行ったことのない場所へ行ける。手にしたことのないものに触れられる」


 指が、エマの杯へ向いた。


「あの娘も、君の店から旅に出たのだろう」


 ルファは息を止めた。


「そして、あの男が捜しに来た。今度は息子だ。君は、ずいぶん多くの者を旅立たせたね」


 エマがルファの店で靴を選んだ日のことを思い出した。

 履けば深い海でも歩ける。その説明を聞く目は輝いていた。ルファも、その顔を見るのが嬉しかった。


 それから、帰ってこなかった。


「私が残れば、二人を帰すのね」


「そう聞こえなかったか」


「エマも、ほかの人たちも」


「話を広げすぎてはいけない」


 男が笑った。


「まず、自分が連れてきた青年に、望んでいたものを返してやるといい」


 ルファはジンを見た。

 ライトに会わせたかった。そのために来た。ここで頷けば、あの子は父を連れて帰れるのだろうか。


 虹の上で、背中越しに聞いた声が蘇った。

 

 二人で。


 彼女は椅子から一歩離れた。


「あの子が納得するかしら」


「彼は断るだろう」


 ルシフェルの返事は早かった。


「だから、君に話している」


 ルファは、男の顔を見た。

 心を読んだわけではないのだろう。その必要もないほど、この男は、人が何を手放せないかを見慣れている。


「あの子に黙って決めたことがあるわ」


 ルファは言った。


「それで傷つけた」


 右肩の傷が、脈に合わせて痛んだ。


「同じことを、もう一度するつもりはないの」


 ルシフェルの指が、卓上を叩くのをやめた。


 ルファはジンのそばへ屈んだ。

 足首へ掛かった輪に指を入れ、外そうとした。緩く見えた輪が、たちまち足を締めつけた。


 男が小さく呻いた。


 ルファは手を止めた。

 無理に外そうとすれば、先に傷つくのはジンの足だった。


「ミカエル」


 ルシフェルが呼んだ。


「席を用意してあげなさい」


 赤い翼の女が、杯を傾けた。


     *


 階段が、下へ流れていった。


 ライトはランカスターの腕に支えられ、塔の中央を上がっていた。壁が近づくたびに身体が強張る。羽の先が石へ触れそうになっても、男は速さを緩めなかった。


 白馬は入り口の広間に残した。

 ランカスターは首を撫で、そこにいろと言った。馬が言葉を理解したかはわからない。けれど、飛び立つ男を見上げたまま、追おうとはしなかった。


 窓からの日差しが顔を横切った。


 階段の上で、青いものが動いた。


「待って」


 ライトが言った。


「あそこに、ちびルファがいる」


 ランカスターが壁へ寄った。

 段の角へしがみついていた人形が、顔を上げた。


 ライトは手を伸ばした。

 小さな指が、彼の人差し指を掴む。掌へ乗せると、膝に細かな欠けがあった。いくつもの段を、一人で越えてきたのだ。


「ありがとう。一緒に行こう」


 上着の胸元へ入れた。

 彼女は布の縁から顔を出し、指を差して訴えた。


 扉があった。

 階段の終わるところに、黒い金具で補強された大きな扉が、閉じていた。


 ランカスターが踊り場へ下りた。

 ライトの足が石についた途端、膝が崩れかけた。壁へ手をつき、なんとか立った。


「小僧、剣を持てるか」


「ああ」


「相手を斬ろうとするな。届く前に殺される」


 ライトは顔を上げた。


「俺は……」


 ランカスターは扉へ向き直った。


「届くところまでは、行ったことがある」


 男が、扉を押した。


     *


 最初に見えたのは、虹の檻だった。


 食卓の脇、その中にルファがいた。立ったまま、こちらを見た。


「ライト」


 声が届いた。

 それだけで、胸の奥へ息が入った。


 走ろうとした。

 ランカスターの腕が前へ出て、ライトを止めた。


 足元を、白い布が横切った。

 先端が床へ刺さり、石の欠片が跳ねた。踏み出していたら、脚を貫かれていた。


「誰が、その青年を出していいと言った」


 奥の男が言った。

 翼を広げたまま、椅子からこちらを見ていた。


「俺だ」


 ランカスターが答えた。


「そうか」


 笑みが浮かんだ。


「新しい馬を得ると、また勇ましくなるものだね」


 ランカスターの手が、鎌の柄を強く握った。

 ライトはその横から、ルファを見た。


「怪我は」


「あとで。ライト、食卓に近づかないで」


 彼女の声は、いつもより早かった。


「何を見せられても、一人で決めないで」


 男が椅子から立った。


「何も隠すつもりはない。君が捜していた人は、ここにいる」


 燭台が横へ動いた。


 その向こうに、男が座っていた。


 ライトは動けなくなった。

 知らない顔だった。そう思ったのに、目を離せなかった。頬が痩せ、髭が伸びている。家で何度も見た写真とは違った。

 眉と目だけが、知っている人だった。


 ルファが息を吸う音がした。


「ジンよ」


 静かに、告げた。


 ライトは剣先を下げた。


     *


 会ったら、何を言うつもりだったのだろう。


 昨日までなら、いくらでも思いついた。

 どうして帰ってこなかった。母さんがどれだけ待ったと思っている。俺たちのことを、一度でも考えたのか。


 目の前には、食事をしている人がいた。


 パンを小さく割り、脇へ置く。

 指先で、皿の縁についた屑を集める。


 こんなふうに手を動かす人なのだと、ライトは初めて知った。


 一歩だけ、歩み寄った。


 ランカスターは止めなかった。鎌を下ろし、見守った。


 男のそばへ立った。

 名前からでいい、とルファは言った。


「俺は……ライト」


 声が、小さすぎた。

 男は顔を上げなかった。


「あんたの、息子だ」


 手が止まった。


 ライトは息を止めた。

 ジンの指が、パンを持ったまま動かなくなっていた。


 やがて、その手が横へ伸びた。

 ライトのいる場所とは違う、空いた椅子の方へ。

 

「すぐ、帰れるから」


 ライトは父の肩へ手を置いた。

 上着の布は薄く、下に骨の形がわかった。


「母さんが、待ってる。レインも」


 自分の言葉が、ひどく遠く聞こえた。


「俺も、待っていた」


 肩は温かかった。

 それなのに、そこから自分へ返ってくるものがなかった。


「聞こえているの」


 声が強くなった。

 手に力が入り、ジンの身体が少し揺れた。


「父さん」


 ようやく呼べた言葉に、男は眉を寄せた。

 肩の手を払おうとするように身を捩り、皿を引き寄せた。


 ライトの手が落ちた。


 自分より、食事の方が大事なのか。

 そう思った瞬間、父の顔を見られなくなった。


 足元で鎖が鳴った。


 ライトは顔を下げた。

 父の足首に、赤く擦れた跡があった。緩く見える輪の下で、何度も同じところが擦れていた。


 手を伸ばしかけたとき、ルファの声がした。


「無理に外そうとしないで。締まるの」


 ライトは指を止めた。


 父の背後で、ルシフェルが笑った。


「乱暴に連れ帰っても、君の望んだ再会にはならないよ」


     *


「話をしたいだろう」


 ルシフェルが言った。


「名前を呼ばれたい。大きくなったと言ってほしい。置いていったことを、悔やんでほしい、そうだろう」


 ライトは顔を上げた。

 男は父の椅子の背へ手を置いていた。


「難しい望みではない」


 空いていた椅子が動いた。

 ライトの膝の裏へ、座面の端が触れた。


「ここへ座ればいい」


 食卓の匂いが変わった。


 肉の脂と酒の匂いに、焼いたパンの甘さが混じった。家の台所で嗅いだ匂いだった。母が切り分ける前に、レインが端を取ろうとして叱られる。

 そんな朝が、皿の向こうにある気がした。


 ライトは、椅子の背を掴んだ。


「ルファも、一緒に?」


 自分の口から出た言葉に、驚いた。

 男は頷いた。


「君が望むなら」


 ライトは虹の檻を見た。

 ルファの顔が、その向こうで歪んでいた。


「二度と、離れずにいられる」


 ルシフェルの声がした。


「ここへ来てまで、また失うことはない」


 椅子の背を握る手から、力が抜けなかった。

 疲れていた。背中も、肩も、手首も痛かった。誰かを信じては、違う場所へ連れていかれた。

 ただ座って、顔を見ながら話せるのなら。


 父に、自分の名前を呼んでもらえるのなら。


「ライト」


 ルファが呼んだ。


 彼は目を向けた。

 彼女は檻の柱へ片手をついていた。右肩の布に、血が滲んでいる。


「私は、ここにいるわ」


 それだけ言った。

 命じる声ではなかった。彼が今どこを見ているのか、確かめるような声だった。


 ライトは、彼女の手を見た。

 虹の上で、自分の手首へ触れてくれた手だった。


「ルファは」


 喉が詰まった。

 もう一度、息を吸った。


「ここに、いたい?」


「いいえ」


 答えは、はっきり届いた。


「あなたと、帰りたい」


 椅子を握っていた指が、一本ずつ離れた。


 帰ったら話そうと言っていた。

 鳥を何羽見たか、二人とも数えていなかった。家には、話す相手がいた。


 ライトは、一歩退いた。

 椅子が、その分だけ追ってきた。


「父親は、ここを望んでいる」


 ルシフェルが言った。


 ライトは父を見た。

 まだ、皿を見ていた。自分が来たことに気づいているのかも、わからなかった。


「俺は、まだ聞けていない」


 声が震えた。


「父さんが、何を望んでいるか」


 ルシフェルの笑みが、少しだけ深くなった。


「わからないのに、連れ出すのかね」


 ライトは、父の足首へ目を落とした。


「少なくとも、これをつけたまま、自由に選んだとは言えない」


 ルファが、檻の内側へ屈んだ。

 ライトの視線がそちらへ動く。彼女の指が、床を巡る色の流れを指していた。


 ランカスターも、それを見た。


     *


 短い音がした。


 ランカスターの指から、硬貨が滑り落ちた。

 食卓の脚へ当たり、跳ね、ルファの檻の前で回った。


 ルシフェルの手が動いた。


 白いクロスが、硬貨へ走った。

 その手前で、鎌の刃が布を床へ縫い留めた。


「まだ話の途中だ」


 ルシフェルの声から、笑いが消えた。


「もう、聞いた」


 ランカスターが答えた。


 ライトは剣を持ち直した。

 胸元のちびルファが、布をよじ登ってきた。掌を差し出すと、その上に立ち、檻の方へ顔を向けた。

 

「頼む」


 床へ下ろした。

 小さな姿が、食卓の陰へ走り込む。


 ルシフェルが指を開いた。


 何枚もの白い布が、一斉に持ち上がった。

 先端が捩れ、槍のように細くなる。ライトは父の椅子の前へ立った。


 ランカスターの弦が鳴った。


 空気が震え、燭台の炎が横へ倒れた。

 布の槍が、わずかに向きを変える。その隙間へ、ライトは身体を滑り込ませた。


 ルファの檻へ向かった。


 一枚の布が、横から来た。

 剣を当てたが、切れなかった。弾かれて手首が曲がる。膝をついた彼のすぐ上を、白い先端が通った。


 壁へ刺さった。

 石の破片が髪に降った。


「立たないで。そのまま来て」


 ルファの声がした。


 ライトは這うように進んだ。

 剣を引きずり、硬貨の止まった場所へ手を伸ばす。


 檻の内側に、ルファの指があった。

 その間に、小さな硝子の楔が生まれていた。


 ランカスターが、もう一度弦を弾いた。


 水の流れが鈍った。

 ルファが楔を差し込んだ。ライトは外側から刃を添え、その硝子へ指先を当てた。


 金色が点った。


 楔が割れずに、隙間を保った。

 彼女が次の一枚を作る。すぐ隣へ差し入れ、ライトが触れる。


 一枚ずつ。

 早く、と叫びたかった。だが、ルファの手も震えていた。


 彼は息を吐いた。

 彼女も、同じように息を吐いた。


 次の楔が入った。


 背後で、硬いものが倒れる音がした。

 振り向かなかった。今、手を離せば、ルファの指が挟まれる。


 水の壁が開いた。


「ルファ!」


 ライトは手を差し入れた。

 ルファの左手が、その手を掴んだ。


 引き寄せた。

 彼女の身体が隙間を抜け、二人とも床へ倒れ込んだ。


 腕の中に、重さがあった。

 息があった。


「遅くなった」


 声が、うまく出なかった。


「来てくれた」


 ルファが言った。


 それ以上話す間はなかった。


     *


 ルシフェルが、食卓から離れた。


 ランカスターの頬に、細い傷があった。彼の前には、切れた白い布が落ちている。その切れ端が床を這い、また元のクロスへつながっていった。


 ミカエルは壁際に立っていた。

 二つの杯を持つ手が、動いていなかった。


「何をしている」


 ルシフェルが言った。


「二人とも、捕らえ直せ」


 女の目が、ライトたちへ向いた。

 ルファはライトの腕を借りて立ち上がった。傷のある肩を庇い、ミカエルを見た。


「私は……」


 ミカエルの唇が動いた。


 ルシフェルが手を振った。

 白い布が女のすぐ脇を通り、壁へ刺さった。赤い羽が一枚、切れて落ちた。


「迷う時間を、与えた覚えはない」


 女は落ちた羽を見た。

 それから、白い杯を持ち上げた。


「私は、ランカとこの時を待っていましたの」

 

 水が流れた。


 ライトはルファを背で庇おうとした。

 その腕へ、彼女の手が触れた。


 檻が立ち上がったのは、二人の周りではなかった。


 ルシフェルの足元で、虹色の水柱が上がった。


「ミカエル」


 男は自分を囲む檻を見た。


「君まで、食卓を離れるのか」


 女は返事をしなかった。

 ただ、震える杯を、もう片方の手で支えた。


 ランカスターが鎌を構え直した。


「長くは、持たん。人を扉の方へ」


 ライトとルファはジンの席へ向かった。

 今度は、二人で。


 ルファが足元へ屈み、白い布を持ち上げた。下からちびルファが現れ、小さな刃で、鎖に絡んだ繊維を切っていた。


 ライトは剣を椅子の脚へ立て掛け、父の手を取った。


 初めて、握った。


 自分より少し大きい手だった。指の腹は硬く、爪の端が一つ欠けていた。母の手とも、アディーの手とも違った。

 何も覚えていないのに、離したくないと思った。


「立てるか」


 父は顔を上げなかった。


「帰ろう」


 ライトは言った。


 背後で、水の音が変わった。


 ルシフェルの足元から、白い布が巻き上がっていた。

 一本ではなかった。何本もの端が絡まり、捩れ、鋭い輪になって回っている。虹の檻へ触れるたび、光の飛沫が散った。


 ミカエルの杯が、大きく揺れた。


「離れて!」


 叫びと同時に、柱が裂けた。


 白い槍が、いくつも食卓を横切った。

 皿が割れ、燭台が倒れた。それでも、客たちは食べる手を止めなかった。エマは杯を抱き、ジンは皿を引き寄せようとした。


 ライトは父の手を放さなかった。


 ルファの掌に、硝子が広がった。

 一枚の盾になる前に、ライトはそこへ空いた手を当てた。


 金色が走った。


 衝撃が来た。


 腕が折れるかと思った。

 ルファの肩が、隣で大きく揺れた。二人の靴が床を滑り、椅子の脚が折れた。


 それでも、盾は残った。


 硝子の面の向こうに、黒い翼があった。

 ルシフェルが、その翼をゆっくり開いた。


「父親も、彼女も」


 男は、盾の向こうのライトを見ていた。


「両方、放せないのだね」


 ライトは答えなかった。

 右手には父の手があった。左手には、ルファと支える盾があった。


 窓の外で、雲が光った。


 遅れて届いた雷鳴に、食卓の杯が震えた。


 ルファが、盾へ指を添え直した。

 ライトも足を踏み直した。


 まだ、誰も帰れていなかった。



 

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