↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ステンドグラスの彼方に  作者: 羽月楓


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/22

ⅩⅥ 《塔》 砕ける空

挿絵(By みてみん)




 盾を打ったものは、白い布だった。


 食卓に敷かれ、皿の下で皺を作っていた、それと同じものが、今は刃になって硝子へ食い込んでいた。押し返すたびに先端が分かれ、別の角度から突いてくる。

 ライトは左肘を曲げた。伸ばしきれば、次の衝撃を受け止められない。


 右手には、父の手があった。

 指先が何度も抜けかけた。そのたびに握り直した。ジンは皿へ手を戻そうとしていた。


「ライト」


 隣で、ルファが言った。


「このままでは、動けない」


 わかっていた。

 父を放したら、またどこかへ行ってしまう気がした。盾を放したら、目の前の刃が二人を貫く。


 ランカスターの弦が鳴った。


 何枚もの硬貨が、ルシフェルの足元へ飛んだ。男が片手を振ると、白い布が束になってそれを受けた。盾へ加わっていた力が、わずかに弱くなった。


「今のうちに、下へ運びますわ」


 ミカエルが食卓の脇へ来た。

 ライトは顔を向けた。


 彼女の手にある杯を見た。

 その水で閉じ込められ、その腕でルファを連れ去られた。自分の前へ差し出されても、すぐには父の手を渡せなかった。


「あの時は、そうするしかなかったの。今は信じてください」


 ミカエルの目は、しっかりとライトを見ていた。

 

「上の道は?」


 ルファが尋ねた。


「門は、主に閉ざされています。今は一旦、塔の外へ」


 ミカエルはジンの足元へ屈んだ。

 ちびルファが切っていた布を持ち上げ、その下へ水を流す。鎖に絡んだ細い繊維が浮き、輪が緩んだ。


「そこの留め具を」


 ライトは父の足首を見た。

 ルファが手を伸ばし、輪の外側についた小さな金具を押した。


 鎖が外れた。


 足首には、輪の形に赤い跡が残った。

 外れるものだったのだと、ライトは思った。こんな小さな留め具を、父は見ようともしなかった。


「この方を、私に」


 ミカエルが言った。


 ライトは、父の顔を見た。

 今ここで自分が手を離しても、この人は気づかないかもしれない。


 それでも、離さなければ、連れて帰れない。


「頼んだ」


 指を、一つずつ開いた。


 ミカエルがその手を受け取った。

 ジンを椅子から立たせ、肩へ腕を回す。彼は足元の皿を見ていたが、女に支えられると、ぎこちなく足を動かした。


 ライトは腰を落とし、倒れた椅子の下から剣を引き抜いた。

 握っていた父の手の感触が、柄に変わった。


     *


 ミカエルは、エマと、爪で卓上を掻いていた男の鎖も外した。


 三人の周りに、虹の輪ができた。

 今度の水は細い檻にならなかった。足元から丸く立ち上がり、外側を幾重にも流れながら、三人を包んだ。


「こちらへ」


 女が促した。

 エマは杯を抱えたまま、ジンの隣へ移った。男は椅子の背から手を離さず、ミカエルが一本ずつ指をほどいた。


 ルシフェルが、それを見た。


「誰に断って、連れ出している」


 低い声だった。


 窓際の白い幕が動いた。

 ミカエルへ向けて尖った先端を、ランカスターが鎌で払った。布の軌道が変わり、窓枠へ刺さる。


 石が割れた。


 外から、雨が吹き込んだ。

 細い窓が、壁の一部ごと失われていた。その向こうに、灰色の雲があった。


「出ろ!」


 ランカスターが言った。


 雷鳴と共に、ミカエルの翼が開いた。

 

 虹の輪が床を離れた。三人の足が石から浮き、赤い羽に引かれて、雨の中へ出ていく。


 ライトは、父を見ていた。

 虹の向こうで、その輪郭が揺れた。


 ルファの手が、盾の縁を叩いた。


「ライト!」


 彼は顔を戻した。

 白い刃が、すぐ目の前まで来ていた。


     *


 食卓に残ったのは、パンを抱えた女と、肉を切り続ける老人だった。


 ルファは二人を椅子から下ろそうとした。

 女はパンを放さず、老人は皿へ腕を伸ばした。ルファが何度帰ろうと声をかけても、こちらへ顔を向けなかった。


 ライトが盾を斜めに立てた。

 卓上から伸びる白い布を受け流し、その隙にルファを援護する。


「鎖のところに、まだ布がある」


「見えているわ」


 彼女の左手に、小さな刃が生まれた。

 ライトが一瞬だけ触れると、金色が走った。ルファはそれを床の人形へ渡した。


 ちびルファが食卓の下へ潜った。


 ルシフェルが一歩動いた。

 その足元へ、ランカスターの硬貨が散った。男が踏み出すより早く、硬貨が宙へ浮き、光る輪になって取り囲む。


 低い弦の音に、高い音が重なった。

 振動がライトの歯にまで伝わった。


 次の瞬間、白い布に一斉に硬貨が突き刺さった。


 何枚かが裏側から突き抜けた。

 ルシフェルの頬に、一筋の赤が走る。


 男が指で触れた。

 濡れた指先を見つめ、口元の笑みを消した。


 黒い翼が広がった。


 床を、何かが走っていく。

 ライトには、影が黒い水のように押し寄せてきたように見えた。


「伏せて!」


 ルファが老人を抱えて屈んだ。

 ライトも盾の陰へ身を縮めた。


 食卓が浮いた。


 長い脚が床から離れ、皿と燭台が一斉に宙へ投げ出された。卓板が柱へ激突し、石に亀裂が入っていく。

 その亀裂が、上へ走った。


 天井から砂が落ちた。


 ライトは顔を上げた。

 城で聞いたのと同じ音がしていた。大きなものが、まだ見えない場所で軋んでいる。


「部屋が」


「わかっている」


 ランカスターが答えた。

 男の左腕から、血が落ちていた。


     *


 ミカエルは、塔の根元へ下りた。


 雨に濡れた踊り場の、壁から離れた場所へ三人を導いた。誰も自分からは歩こうとしなかった。ジンは両手を前へ差し出し、もうない食卓の縁を探していた。


 庇の下に、翼のある馬が立っていた。

 硝子の首に、布が結ばれている。雨に濡れない場所まで、あの二人が運んだものだった。


 ミカエルは一度だけ、その布を見た。


 入り口から、乳白色の馬が顔を出した。

 上で鳴り続ける弦の音を聞いていたのだろう。耳を立て、ミカエルと、その背後の暗い広間を交互に見た。


「ここにいて」


 彼女は言った。

 上へ戻らなければならなかった。


 そのとき、塔の内側で何か大きいものが崩れた。


 螺旋階段の手すりを、白いものが滑り下りてきた。

 長く伸びたクロスだった。何段もの階段をまとめて飛び越え、先端が塔の底へ衝突する。布であるはずのものが、石へ深い傷をつけた。


 ミカエルは杯を傾けた。


 三人を包む水の壁を、厚くした。

 白い先端がそこへ食い込み、水が大きく歪んだ。杯を持つ手へ衝撃が返り、指先から肩まで痺れを伝えた。


 布が、二つに分かれた。


 一方は水へ絡みつき、もう一方が、ミカエルの背後へ回った。

 羽を閉じるのが遅れた。


 赤い羽根が散った。


 ミカエルは膝をついていた。

 杯を落とせば、三人を囲む壁が崩れる。彼女は両手で縁を支え、顔だけを上げた。


 白い刃が、戻ってくる。


 その時、蹄の音がした。


 乳白色の身体が、ミカエルの前へ出た。

 

 雨音に混ざり、澄んだ音が幾つも重なった。

 

 馬の胸に、白い布が突き立っていた。


 布が引かれると、蹄が石を擦った。それでも馬は、後ろへ退かなかった。


 首を下げ、もう一度、前脚を踏み出した。


 胸の奥で、金色が乱れた。


 その時、頭上から黒い影が落ちてきた。

 鎌の刃が、白い布を断った。


 ランカスターだった。


 切れた布が床で跳ねた。

 同時に、馬の脚がとうとう折れたように崩れ、男が両腕でその首を受けた。


 手の下で、細かな硝子が鳴った。


「もう、動くな」


 男が言った。


 馬の鼻先が、その袖へ寄った。

 いつもの癖と呼べるほど、一緒にいた時間はなかった。湖で一度、塔で一度、同じことをしただけだった。


 ランカスターは膝をついた。

 胸に開いたところを、片手で押さえた。押さえてどうにかなる傷ではなかった。


 馬の耳が、彼の声のする方へ動いた。


 金色が、細くなった。


 男は口を開いた。

 何かを呼びかけようとして、息だけを吐いた。


 光は戻らなかった。


 ミカエルは、その横顔を見ていた。

 何かを言わなければと思った。しかし、腕の中の重さを抱え直す男へ、言えることが見つからなかった。


 空が明滅している。


 ランカスターの肩が動いた。

 馬を庇の下へ横たえ、胸から手を離した。


「三人を、塔からもっと遠ざけろ」


 小石の雨が降る。男の声は掠れていた。


 ミカエルは塔を見上げ、頷いた。


     *


 盾の向こうに、ひびが増えていた。


 壁にも、柱にも、床の敷石にも、細い線が走っていた。ルシフェルの放つ力を受けるたび、線の端から石の欠片が舞い上がった。


 ランカスターが、裂けた窓から飛び下りていったのを見た。

 下でミカエルに何か起きたのだとしか、わからなかった。


 ルファは老人と女を、倒れた食卓の陰へ移していた。

 ちびルファが最後の繊維を切り、女の足から鎖が落ちた。


「二人とも、外れたわ」


 ライトは頷いた。


 ルシフェルは、彼らを見ていた。

 すぐには近づかなかった。黒い翼の陰から、白い布を一本ずつ伸ばしていた。


 盾の上を越えるもの。

 床に沿って回り込むもの。


 ライトは、そのたびに位置を変えた。

 身体を守れば、背後の二人が露わになった。盾を横へ伸ばそうとしても、腕はそれ以上伸びなかった。


 ルファの手に、光が集まった。


 盾の脇に、小さな盾が生まれた。

 ライトが触れると、彼女はそれを隣へつなぎ、また一枚作った。


「もう、いい」


 ライトが言った。

 彼女の顔から、血の気が引いていた。


「右側が、足りないわ」


 ルファは答えた。


 わかっていた。

 だから、強く止められなかった。


 次の一枚へ触れた。


 光が残った。


 手を離した硝子の周りに、薄い色が漂っていた。粉のような。煙のような。それは外から吹き込む風に流されず、割れた窓枠や、床のひびの上に留まった。


 ルファもそれを見た。


 もう一枚作った。

 消えるはずの光が、また残った。


「ルファ、これは?」


「今は、考えていられないわ。ここを」


 彼女の指が、継ぎ目を押さえた。


 白い刃が来た。

 ライトは両足を踏ん張り、増やした硝子へ掌を当てた。


     *


 虹色Caféの階段で、小さな音がした。


 アディーは顔を上げた。

 窓辺に掛けた青い硝子が揺れていた。窓は閉じている。それでも、細い鎖が何度も枠へ触れていた。


 ルクルは、もう階段の下にいた。


 青い硝子へ手を伸ばした。

 触れる前に、その内側へ金色の線が走った。


「何が起こってるんだ」


 アディーが尋ねた。


 ルクルは答えなかった。

 店の奥へ戻り、壁に掛かった絵を見た。


 白い石畳の道が、雨に濡れていた。


 数年間、ゆっくりと姿を変えてきた絵は今、水が流れる景色を作っていた。暗い路地の奥には、あるはずのない稲光が走っている。


 ルクルが額縁へ触れた。

 絵の具の面が、指先のところで沈んだ。


 アディーが近づいた。


「道が、開いたのか」


「今なら」


 ルクルは言った。

 カウンターの引き出しから、カードの束を取った。使い込まれた角が、白く擦れていた。


「店を、頼むね」


「お前もちゃんと戻れよ」


 ルクルが振り返った。

 何か言いかけ、やめた。


 もう一度、絵へ手を伸ばした。


     *


 赤い翼が、雨の向こうに見えた。


 ミカエルが下から戻ってきた。

 羽の端が裂けていた。床へ降りたとき、片膝が折れたが、すぐに杯を持ち上げた。


「父さんは?」


 ライトが訊いた。


「外に。三人とも、塔から離して安全なところに退避させましたわ」


 それを聞いて、膝から力が抜けそうになった。

 ルファが背中へ触れた。押すのではなく、そこにいると知らせるように。

 

 ランカスターも昇ってきた。

 何も言わず、ミカエルの近くへ降り立った。


 天井が大きく開いている。

 雨粒が食卓を叩いていた。


 ルシフェルが、男の腕を見た。

 袖に、乳白色の欠片がついていた。


「今度の馬も――」


 弦の音が、言葉を断った。


 硬貨が飛んだ。

 先ほどまでとは数が違った。幾十もの光る硬貨が円をなし、雨粒を弾きながら男を囲んだ。


 ミカエルが、残った二人を虹の輪へ入れた。


「あなたたちも、こちらへ」


 ルファへ声をかけた。


 ライトは盾を下げかけた。


 ルシフェルの翼が動いた。

 食卓の下を布が蠢いている。床に落ちていた切れ端からは、白い布が立ち上がった。裂けた窓へ伸び、階段へ通じる扉へ巻きついた。


 出口が、白く塞がれた。


「一人ずつ、私の客を盗んでいく」


 男の声が、残された壁に響いた。


「そろそろ、返してもらおう」


 床に落ちた鎖が引かれた。

 ミカエルの虹の輪へ、白い先端が絡みついた。


 ライトは剣を振った。

 先端に触れただけだった。布は捩れ、刃に絡みつこうとした。


 ルファの小さな刃が、脇から入った。

 二人の刃の間で布が張り、その一筋を、ランカスターの硬貨が切った。


「今だ」


 男が言った。

 鎌を大きく振り、窓を覆っていた布へ切れ目を入れる。


 赤い翼が、そこを抜けた。

 虹の輪の中で、女がまだパンを抱えていた。


 ミカエルは外へ出た。


 布が、閉じた。


     *


 部屋が暗くなった。


 残った燭台の火だけが、白い壁を照らしていた。

 窓も扉も、布に覆われていた。天井から暗い空が覗く。まだ雨はいっそう強くなっていた。


 ライトは、ルファの呼吸を聞いた。

 浅かった。唇が白く、盾へ添えた腕が下がりかけていた。


「この布を、切れば……」


 剣を持ち上げた。


「切った端から戻っちまうさ」


 ランカスターが言った。

 ルシフェルは白い布の奥にいた。幾筋もの布が男の背後へ集まり、そこからまた壁へ伸びていた。


 上の方で、布の束が捩れた。

 梁に巻きつき、次の柱へ渡っている。


「あれで、吊られている」


 ライトは顔を上げた。

 床からは、届かない高さだった。


 ルファも見た。


「上からなら」


「足場がない」


 彼が答えると、彼女はライトの背へ手を当てた。


 その掌が、熱かった。


「翼を作るわ」


 ライトは振り返った。


「あの馬の時みたいに?」


「ええ。でも、あなたの身体に合わせて」


 彼は、裂けた天井を見た。

 雲が流れていた。雨が真っ直ぐ落ちてくる、その間を、自分が上がる。


「飛び方なんて、知らない」


「私も、教えられない」


 ルファは答えた。

 取り繕わなかった。


「翼は動かせても、あなたが思う通りに飛ぶかは、わからない」


 ライトは、剣の柄に巻かれた紐を見た。

 城でルファが結んでくれたものだった。緩んだ結び目を締め直し、手首へ回した。


「あの捻れた束まででいい」


 顔を上げた。


「あそこに、届けば」


 ルファが頷いた。


 背中に、重さが生まれた。


 肩甲骨の外側へ、細い枠が伸びていく。その左右に、薄い硝子の羽根が一枚ずつ増えていく。作られるたび、空気に色が残った。


 ルファの呼吸が、さらに浅くなった。

 ライトは振り返りかけたが、彼女の指が背中を押さえた。


「まだ。右が、つながっていない」


 ランカスターが前へ出た。

 ルシフェルの刃を鎌で受け、その力を横へ逃がす。刃先が床を抉った。


「長くは、もたんぞ」


 男の声がした。


 最後の継ぎ目が閉じた。


 ライトは背中へ手を回し、翼の付け根に触れた。

 金色が背中を渡った。


 翼が開いた。


 倒れた椅子が押し流された。

 ライトの足が床を離れ、すぐに戻った。膝へ衝撃が走った。


 もう一度、羽ばたいた。

 今度は、身体が前へ傾いた。


 ルファが腕を掴んだ。


「急に動こうとしないで。翼が、気持ちを追い越してしまう」


 ライトは息を吐いた。

 剣を持たない手を、開いた。


 背中の動かし方が、少し分かった。

 大きく空気を掴む力が、身体を下から持ち上げた。


 靴先が、床から離れた。


 ルファの手が、ライトを放した。


     *


 高くなるほど、風が強かった。


 ライトは柱へぶつかりかけた。

 避けようと身体を捻ると、翼が余計に傾いた。肩が石へ擦れ、火傷のところへ痛みが走る。


 梁を掴んだ。


 腕一本で身体を止めた。

 背中では翼が動き続けている。止まれと思うほど、動きが乱れた。


 指を、少し緩めた。

 梁へしがみついたまま、呼吸を数えた。


 下で、黒い翼が動いた。


 ルシフェルが顔を上げていた。

 白い布が、ライトの方へ伸びてきた。


 ランカスターの硬貨が、その軌道へ入った。

 布の端が裂け、ライトの頬を掠めて梁へ刺さった。


 剣を上げた。


 近くに、布の塊があった。束になったあの場所だ。

 何本もの白が捩れ、太い綱になって壁を引いている。彼は梁を掴んだまま身体を寄せ、刃を押し当てた。


 切れなかった。


 力を入れ直し、強く押し当てる。


 ライトはうめき声を強めた。

  

 金色が強くなった。

 一本ずつ、繊維が裂けた。剣を持つ手首へ、硬いものを削る感触が伝わった。


 下から、水が上がってきた。


 窓を覆っていた布の隙間へ、青い流れが入り込んだ。塔の外で羽ばたくミカエルが、杯を掲げていた。

 水は白い壁を伝い、ルシフェルの足元へ走った。


 虹色の水は蛇のように、男の脚へ巻きついた。


 ルシフェルが腕を振った。

 水が散り、また集まった。ランカスターの硬貨が、その周りで回り始めた。


 ライトは刃を押した。束の半ばまで、切れた。もう少しだった。


 その時、ルシフェルが叫んだ。


 耳をちぎりそうな音が、空気の形を変えた。


 突然、黒いものが、輪になって広がる。

 水が引きちぎられ、硬貨が弾け飛んだ。ランカスターの身体が持ち上がり、壁へ叩きつけられた。


 掴んでいた梁が、ライトの手の中で砕けた。


 支えがなくなった。

 身体が、真上へ放り出された。


     *


 翼が大きく開いた。


 ライトは塔の外へ投げ出されていた。

 天井だったものが崩れ、石の塊と、白い布と、折れた梁が、同じ空へ散っていくのが目の端に見えた。


 風に煽られ、落ちかけた身体が、一度だけ持ち上がった。

 空中でうまく体勢を立て直すと、眼下に塔の最上部が見えた。

 

 ルファがいた。


 彼女は倒れた食卓へ手をつき、立とうとしていた。すぐ前で、ランカスターが動かずに横たわっていた。


 ルシフェルの背後には、まだ布の束が残っていた。

 切れかけた綱が梁を引き、傾いた壁を、男の周囲へ引き寄せていた。


 ライトは剣を持ち直した。


 ルファの上へ、白い先端が向いた。


 翼を傾けた。

 思ったより深く身体が倒れ、塔へ向かって落ち始めた。


 剣に、光が集まった。


 自分の手から出たものだけではなかった。

 壊れた盾の縁から、床に散った硝子から、空気に残っていた細い色が伸びていた。剣の周りへ寄り、また離れ、雷の前触れのように瞬いていた。


 髪が逆立った。


 何かがおかしい。


 ライトは手を緩めた。

 光は、弱くならなかった。


 ルファが顔を上げた。

 何か叫んでいた。


 空が白くなった。


 剣を持つ腕から、身体の感覚が消えた。


 刃を振り下ろしたのか、落ちていく身体に引かれたのか、わからなかった。

 目の前を、白い線が走った。


 線は剣を伝い、ルシフェルの背後の束へ落ちた。


 白い布が、光の中でほどけた。


 雷鳴が届くより先に、塔が動いた。


     *


 足元の石が、傾いた。


 ルファは倒れた食卓へしがみついた。

 壁が外へ開いていった。もともとそこに窓があったかどうかも、もうわからなかった。


 ルシフェルの姿が、黒い煙の向こうにあった。

 片翼が下がっていた。男が顔を上げ、何かを言った。


 聞こえなかった。


 床の亀裂が、ルファの足元まで来た。


 食卓が滑った。

 手を離さなければ、押し潰される。


 離した。


 身体が、外へ投げ出された。


 空と石が、入れ替わった。


 ルファは手を伸ばした。

 何もなかった。


 硝子を作ろうとした。

 指の間へ、小さな光が生まれた。形になる前に、散った。


 もう一度。


 指が、うまく動かなかった。


 足の向こうに、空があった。

 黒い雲と、崩れていく塔の頂が見えた。石がいくつも自分を追い越して落ちていく。


 ライトが、見えなかった。


 呼ぼうとした。

 風が口へ入り、息ができなかった。帰って、話すはずだった。鳥の数を覚えていないと言ったら、レインは何と答えるだろう。そんなことを、さっきまで考えていた。


 不意に、横から何かがぶつかった。


 身体へ回ったのが後から腕だと分かった。


「ルファ」


 声がした。

 すぐ耳元だった。


 ライトがいた。


     *


 抱き止めた重さで、翼が傾いた。


 ライトはルファの身体を引き寄せた。

 右の翼が、ほとんど動いていなかった。羽の半分が失われ、残った枠が風を受けて震えている。


 このままでは、回ってしまう。


「背中。右の、付け根」


 声を絞った。


「直せるか、ルファ」


 ルファの目が、彼の顔を捉えた。

 唇が動いた。


「……手が、届けば」


 ライトは左腕で彼女を支えた。

 彼女の右手を自分の腰に回し、脇へ導いた。


 剣は腰のベルトにねじ込まれていた。

 黒く焦げた刃先が、風にぶれていた。


 ルファの指が、翼へ触れた。


 細い硝子が生まれた。

 割れた枠の間へ伸び、もう一方へ届く前に折れた。


 彼女は、また手を動かした。


 ライトは身体を捻った。

 風を背中で受け、彼女の指の周りに、わずかな陰を作った。


 今度は、つながった。


 金色が渡った。

 右の翼が、一度羽ばたいた。


 二人の身体が、横へ流れた。


 頭上を、石の塊が通り過ぎた。

 その風に、つないだばかりの羽が裏返った。


 硝子の音がした。


 ルファの手が、動かなくなった。


 目は開いていた。

 まだ直そうとしているのがわかった。何も生まれない掌を、壊れたところへ押し当てていた。


「もういい」


 ライトは言った。

 言った自分が、いちばん信じていなかった。


 落ちる。


 落ちていく。

 

 地面が近づいていた。


 残った翼を、広げた。

 止まらなかった。


 ルファの額が、胸へ触れた。

 彼女の腕が、彼の上着を掴んだ。


 ライトは両腕で、その身体を包んだ。


     *


 紙をめくる音がした。


 風の中で聞こえるはずのない、小さな音だった。


 白いものが、視界を横切った。

 一枚ではなかった。何十枚もの薄い面が角度を変え、重なり、二人の下へ広がった。


 身体が沈んだ。


 背中に衝撃が来た。

 けれど、石ではなかった。しなるものが重さを受け、さらに深く沈み、それから、ゆっくり押し返した。


 ライトは目を開けた。


 白い翼があった。


 羽根の一枚一枚が、四角い形をしていた。

 縁に細い模様が見えた。濡れた紙の匂いがした。


 塔が、向こうへ流れていった。


 風が弱くなった。

 膝が、濡れた草へ触れた。


 何が起きたのか、わからなかった。

 ライトはルファを抱いたまま、動けずにいた。


 腕の中で、息がした。


 確かめようとして、さらに強く抱いた。


「ライト。少し、腕を緩めて」


 後ろから知っている声がした。


「それじゃ、ルファが息出来ないよ」


 言われた通りにした。

 彼女の胸が、わずかに動いた。目は閉じていたが、呼吸は続いていた。


 ライトは顔を上げた。


 白銀の髪が、雨に濡れている。

 赤い服の肩に、白いカードが何枚も重なり、大きな翼を作っていた。翼はすぐに、音を立てて畳まれていった。


「……ルクル?」


 店で何度も呼んだ名前だった。


 ルクルは、ライトの腕の中へ手を伸ばした。

 ルファの頬へ触れ、その手を取った。


 何かを確かめるように、指先を見た。

 そこには、まだ薄い光が残っていた。


 遠くで、塔が崩れた。


 地面が震え、草の上の水滴が跳ねた。

 月へと続いていたはずの場所に、石の雲が立ち上っていた。


 ライトはもう一度、ルクルを見た。


 笑っていなかった。



 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。