ⅩⅥ 《塔》 砕ける空
盾を打ったものは、白い布だった。
食卓に敷かれ、皿の下で皺を作っていた、それと同じものが、今は刃になって硝子へ食い込んでいた。押し返すたびに先端が分かれ、別の角度から突いてくる。
ライトは左肘を曲げた。伸ばしきれば、次の衝撃を受け止められない。
右手には、父の手があった。
指先が何度も抜けかけた。そのたびに握り直した。ジンは皿へ手を戻そうとしていた。
「ライト」
隣で、ルファが言った。
「このままでは、動けない」
わかっていた。
父を放したら、またどこかへ行ってしまう気がした。盾を放したら、目の前の刃が二人を貫く。
ランカスターの弦が鳴った。
何枚もの硬貨が、ルシフェルの足元へ飛んだ。男が片手を振ると、白い布が束になってそれを受けた。盾へ加わっていた力が、わずかに弱くなった。
「今のうちに、下へ運びますわ」
ミカエルが食卓の脇へ来た。
ライトは顔を向けた。
彼女の手にある杯を見た。
その水で閉じ込められ、その腕でルファを連れ去られた。自分の前へ差し出されても、すぐには父の手を渡せなかった。
「あの時は、そうするしかなかったの。今は信じてください」
ミカエルの目は、しっかりとライトを見ていた。
「上の道は?」
ルファが尋ねた。
「門は、主に閉ざされています。今は一旦、塔の外へ」
ミカエルはジンの足元へ屈んだ。
ちびルファが切っていた布を持ち上げ、その下へ水を流す。鎖に絡んだ細い繊維が浮き、輪が緩んだ。
「そこの留め具を」
ライトは父の足首を見た。
ルファが手を伸ばし、輪の外側についた小さな金具を押した。
鎖が外れた。
足首には、輪の形に赤い跡が残った。
外れるものだったのだと、ライトは思った。こんな小さな留め具を、父は見ようともしなかった。
「この方を、私に」
ミカエルが言った。
ライトは、父の顔を見た。
今ここで自分が手を離しても、この人は気づかないかもしれない。
それでも、離さなければ、連れて帰れない。
「頼んだ」
指を、一つずつ開いた。
ミカエルがその手を受け取った。
ジンを椅子から立たせ、肩へ腕を回す。彼は足元の皿を見ていたが、女に支えられると、ぎこちなく足を動かした。
ライトは腰を落とし、倒れた椅子の下から剣を引き抜いた。
握っていた父の手の感触が、柄に変わった。
*
ミカエルは、エマと、爪で卓上を掻いていた男の鎖も外した。
三人の周りに、虹の輪ができた。
今度の水は細い檻にならなかった。足元から丸く立ち上がり、外側を幾重にも流れながら、三人を包んだ。
「こちらへ」
女が促した。
エマは杯を抱えたまま、ジンの隣へ移った。男は椅子の背から手を離さず、ミカエルが一本ずつ指をほどいた。
ルシフェルが、それを見た。
「誰に断って、連れ出している」
低い声だった。
窓際の白い幕が動いた。
ミカエルへ向けて尖った先端を、ランカスターが鎌で払った。布の軌道が変わり、窓枠へ刺さる。
石が割れた。
外から、雨が吹き込んだ。
細い窓が、壁の一部ごと失われていた。その向こうに、灰色の雲があった。
「出ろ!」
ランカスターが言った。
雷鳴と共に、ミカエルの翼が開いた。
虹の輪が床を離れた。三人の足が石から浮き、赤い羽に引かれて、雨の中へ出ていく。
ライトは、父を見ていた。
虹の向こうで、その輪郭が揺れた。
ルファの手が、盾の縁を叩いた。
「ライト!」
彼は顔を戻した。
白い刃が、すぐ目の前まで来ていた。
*
食卓に残ったのは、パンを抱えた女と、肉を切り続ける老人だった。
ルファは二人を椅子から下ろそうとした。
女はパンを放さず、老人は皿へ腕を伸ばした。ルファが何度帰ろうと声をかけても、こちらへ顔を向けなかった。
ライトが盾を斜めに立てた。
卓上から伸びる白い布を受け流し、その隙にルファを援護する。
「鎖のところに、まだ布がある」
「見えているわ」
彼女の左手に、小さな刃が生まれた。
ライトが一瞬だけ触れると、金色が走った。ルファはそれを床の人形へ渡した。
ちびルファが食卓の下へ潜った。
ルシフェルが一歩動いた。
その足元へ、ランカスターの硬貨が散った。男が踏み出すより早く、硬貨が宙へ浮き、光る輪になって取り囲む。
低い弦の音に、高い音が重なった。
振動がライトの歯にまで伝わった。
次の瞬間、白い布に一斉に硬貨が突き刺さった。
何枚かが裏側から突き抜けた。
ルシフェルの頬に、一筋の赤が走る。
男が指で触れた。
濡れた指先を見つめ、口元の笑みを消した。
黒い翼が広がった。
床を、何かが走っていく。
ライトには、影が黒い水のように押し寄せてきたように見えた。
「伏せて!」
ルファが老人を抱えて屈んだ。
ライトも盾の陰へ身を縮めた。
食卓が浮いた。
長い脚が床から離れ、皿と燭台が一斉に宙へ投げ出された。卓板が柱へ激突し、石に亀裂が入っていく。
その亀裂が、上へ走った。
天井から砂が落ちた。
ライトは顔を上げた。
城で聞いたのと同じ音がしていた。大きなものが、まだ見えない場所で軋んでいる。
「部屋が」
「わかっている」
ランカスターが答えた。
男の左腕から、血が落ちていた。
*
ミカエルは、塔の根元へ下りた。
雨に濡れた踊り場の、壁から離れた場所へ三人を導いた。誰も自分からは歩こうとしなかった。ジンは両手を前へ差し出し、もうない食卓の縁を探していた。
庇の下に、翼のある馬が立っていた。
硝子の首に、布が結ばれている。雨に濡れない場所まで、あの二人が運んだものだった。
ミカエルは一度だけ、その布を見た。
入り口から、乳白色の馬が顔を出した。
上で鳴り続ける弦の音を聞いていたのだろう。耳を立て、ミカエルと、その背後の暗い広間を交互に見た。
「ここにいて」
彼女は言った。
上へ戻らなければならなかった。
そのとき、塔の内側で何か大きいものが崩れた。
螺旋階段の手すりを、白いものが滑り下りてきた。
長く伸びたクロスだった。何段もの階段をまとめて飛び越え、先端が塔の底へ衝突する。布であるはずのものが、石へ深い傷をつけた。
ミカエルは杯を傾けた。
三人を包む水の壁を、厚くした。
白い先端がそこへ食い込み、水が大きく歪んだ。杯を持つ手へ衝撃が返り、指先から肩まで痺れを伝えた。
布が、二つに分かれた。
一方は水へ絡みつき、もう一方が、ミカエルの背後へ回った。
羽を閉じるのが遅れた。
赤い羽根が散った。
ミカエルは膝をついていた。
杯を落とせば、三人を囲む壁が崩れる。彼女は両手で縁を支え、顔だけを上げた。
白い刃が、戻ってくる。
その時、蹄の音がした。
乳白色の身体が、ミカエルの前へ出た。
雨音に混ざり、澄んだ音が幾つも重なった。
馬の胸に、白い布が突き立っていた。
布が引かれると、蹄が石を擦った。それでも馬は、後ろへ退かなかった。
首を下げ、もう一度、前脚を踏み出した。
胸の奥で、金色が乱れた。
その時、頭上から黒い影が落ちてきた。
鎌の刃が、白い布を断った。
ランカスターだった。
切れた布が床で跳ねた。
同時に、馬の脚がとうとう折れたように崩れ、男が両腕でその首を受けた。
手の下で、細かな硝子が鳴った。
「もう、動くな」
男が言った。
馬の鼻先が、その袖へ寄った。
いつもの癖と呼べるほど、一緒にいた時間はなかった。湖で一度、塔で一度、同じことをしただけだった。
ランカスターは膝をついた。
胸に開いたところを、片手で押さえた。押さえてどうにかなる傷ではなかった。
馬の耳が、彼の声のする方へ動いた。
金色が、細くなった。
男は口を開いた。
何かを呼びかけようとして、息だけを吐いた。
光は戻らなかった。
ミカエルは、その横顔を見ていた。
何かを言わなければと思った。しかし、腕の中の重さを抱え直す男へ、言えることが見つからなかった。
空が明滅している。
ランカスターの肩が動いた。
馬を庇の下へ横たえ、胸から手を離した。
「三人を、塔からもっと遠ざけろ」
小石の雨が降る。男の声は掠れていた。
ミカエルは塔を見上げ、頷いた。
*
盾の向こうに、ひびが増えていた。
壁にも、柱にも、床の敷石にも、細い線が走っていた。ルシフェルの放つ力を受けるたび、線の端から石の欠片が舞い上がった。
ランカスターが、裂けた窓から飛び下りていったのを見た。
下でミカエルに何か起きたのだとしか、わからなかった。
ルファは老人と女を、倒れた食卓の陰へ移していた。
ちびルファが最後の繊維を切り、女の足から鎖が落ちた。
「二人とも、外れたわ」
ライトは頷いた。
ルシフェルは、彼らを見ていた。
すぐには近づかなかった。黒い翼の陰から、白い布を一本ずつ伸ばしていた。
盾の上を越えるもの。
床に沿って回り込むもの。
ライトは、そのたびに位置を変えた。
身体を守れば、背後の二人が露わになった。盾を横へ伸ばそうとしても、腕はそれ以上伸びなかった。
ルファの手に、光が集まった。
盾の脇に、小さな盾が生まれた。
ライトが触れると、彼女はそれを隣へつなぎ、また一枚作った。
「もう、いい」
ライトが言った。
彼女の顔から、血の気が引いていた。
「右側が、足りないわ」
ルファは答えた。
わかっていた。
だから、強く止められなかった。
次の一枚へ触れた。
光が残った。
手を離した硝子の周りに、薄い色が漂っていた。粉のような。煙のような。それは外から吹き込む風に流されず、割れた窓枠や、床のひびの上に留まった。
ルファもそれを見た。
もう一枚作った。
消えるはずの光が、また残った。
「ルファ、これは?」
「今は、考えていられないわ。ここを」
彼女の指が、継ぎ目を押さえた。
白い刃が来た。
ライトは両足を踏ん張り、増やした硝子へ掌を当てた。
*
虹色Caféの階段で、小さな音がした。
アディーは顔を上げた。
窓辺に掛けた青い硝子が揺れていた。窓は閉じている。それでも、細い鎖が何度も枠へ触れていた。
ルクルは、もう階段の下にいた。
青い硝子へ手を伸ばした。
触れる前に、その内側へ金色の線が走った。
「何が起こってるんだ」
アディーが尋ねた。
ルクルは答えなかった。
店の奥へ戻り、壁に掛かった絵を見た。
白い石畳の道が、雨に濡れていた。
数年間、ゆっくりと姿を変えてきた絵は今、水が流れる景色を作っていた。暗い路地の奥には、あるはずのない稲光が走っている。
ルクルが額縁へ触れた。
絵の具の面が、指先のところで沈んだ。
アディーが近づいた。
「道が、開いたのか」
「今なら」
ルクルは言った。
カウンターの引き出しから、カードの束を取った。使い込まれた角が、白く擦れていた。
「店を、頼むね」
「お前もちゃんと戻れよ」
ルクルが振り返った。
何か言いかけ、やめた。
もう一度、絵へ手を伸ばした。
*
赤い翼が、雨の向こうに見えた。
ミカエルが下から戻ってきた。
羽の端が裂けていた。床へ降りたとき、片膝が折れたが、すぐに杯を持ち上げた。
「父さんは?」
ライトが訊いた。
「外に。三人とも、塔から離して安全なところに退避させましたわ」
それを聞いて、膝から力が抜けそうになった。
ルファが背中へ触れた。押すのではなく、そこにいると知らせるように。
ランカスターも昇ってきた。
何も言わず、ミカエルの近くへ降り立った。
天井が大きく開いている。
雨粒が食卓を叩いていた。
ルシフェルが、男の腕を見た。
袖に、乳白色の欠片がついていた。
「今度の馬も――」
弦の音が、言葉を断った。
硬貨が飛んだ。
先ほどまでとは数が違った。幾十もの光る硬貨が円をなし、雨粒を弾きながら男を囲んだ。
ミカエルが、残った二人を虹の輪へ入れた。
「あなたたちも、こちらへ」
ルファへ声をかけた。
ライトは盾を下げかけた。
ルシフェルの翼が動いた。
食卓の下を布が蠢いている。床に落ちていた切れ端からは、白い布が立ち上がった。裂けた窓へ伸び、階段へ通じる扉へ巻きついた。
出口が、白く塞がれた。
「一人ずつ、私の客を盗んでいく」
男の声が、残された壁に響いた。
「そろそろ、返してもらおう」
床に落ちた鎖が引かれた。
ミカエルの虹の輪へ、白い先端が絡みついた。
ライトは剣を振った。
先端に触れただけだった。布は捩れ、刃に絡みつこうとした。
ルファの小さな刃が、脇から入った。
二人の刃の間で布が張り、その一筋を、ランカスターの硬貨が切った。
「今だ」
男が言った。
鎌を大きく振り、窓を覆っていた布へ切れ目を入れる。
赤い翼が、そこを抜けた。
虹の輪の中で、女がまだパンを抱えていた。
ミカエルは外へ出た。
布が、閉じた。
*
部屋が暗くなった。
残った燭台の火だけが、白い壁を照らしていた。
窓も扉も、布に覆われていた。天井から暗い空が覗く。まだ雨はいっそう強くなっていた。
ライトは、ルファの呼吸を聞いた。
浅かった。唇が白く、盾へ添えた腕が下がりかけていた。
「この布を、切れば……」
剣を持ち上げた。
「切った端から戻っちまうさ」
ランカスターが言った。
ルシフェルは白い布の奥にいた。幾筋もの布が男の背後へ集まり、そこからまた壁へ伸びていた。
上の方で、布の束が捩れた。
梁に巻きつき、次の柱へ渡っている。
「あれで、吊られている」
ライトは顔を上げた。
床からは、届かない高さだった。
ルファも見た。
「上からなら」
「足場がない」
彼が答えると、彼女はライトの背へ手を当てた。
その掌が、熱かった。
「翼を作るわ」
ライトは振り返った。
「あの馬の時みたいに?」
「ええ。でも、あなたの身体に合わせて」
彼は、裂けた天井を見た。
雲が流れていた。雨が真っ直ぐ落ちてくる、その間を、自分が上がる。
「飛び方なんて、知らない」
「私も、教えられない」
ルファは答えた。
取り繕わなかった。
「翼は動かせても、あなたが思う通りに飛ぶかは、わからない」
ライトは、剣の柄に巻かれた紐を見た。
城でルファが結んでくれたものだった。緩んだ結び目を締め直し、手首へ回した。
「あの捻れた束まででいい」
顔を上げた。
「あそこに、届けば」
ルファが頷いた。
背中に、重さが生まれた。
肩甲骨の外側へ、細い枠が伸びていく。その左右に、薄い硝子の羽根が一枚ずつ増えていく。作られるたび、空気に色が残った。
ルファの呼吸が、さらに浅くなった。
ライトは振り返りかけたが、彼女の指が背中を押さえた。
「まだ。右が、つながっていない」
ランカスターが前へ出た。
ルシフェルの刃を鎌で受け、その力を横へ逃がす。刃先が床を抉った。
「長くは、もたんぞ」
男の声がした。
最後の継ぎ目が閉じた。
ライトは背中へ手を回し、翼の付け根に触れた。
金色が背中を渡った。
翼が開いた。
倒れた椅子が押し流された。
ライトの足が床を離れ、すぐに戻った。膝へ衝撃が走った。
もう一度、羽ばたいた。
今度は、身体が前へ傾いた。
ルファが腕を掴んだ。
「急に動こうとしないで。翼が、気持ちを追い越してしまう」
ライトは息を吐いた。
剣を持たない手を、開いた。
背中の動かし方が、少し分かった。
大きく空気を掴む力が、身体を下から持ち上げた。
靴先が、床から離れた。
ルファの手が、ライトを放した。
*
高くなるほど、風が強かった。
ライトは柱へぶつかりかけた。
避けようと身体を捻ると、翼が余計に傾いた。肩が石へ擦れ、火傷のところへ痛みが走る。
梁を掴んだ。
腕一本で身体を止めた。
背中では翼が動き続けている。止まれと思うほど、動きが乱れた。
指を、少し緩めた。
梁へしがみついたまま、呼吸を数えた。
下で、黒い翼が動いた。
ルシフェルが顔を上げていた。
白い布が、ライトの方へ伸びてきた。
ランカスターの硬貨が、その軌道へ入った。
布の端が裂け、ライトの頬を掠めて梁へ刺さった。
剣を上げた。
近くに、布の塊があった。束になったあの場所だ。
何本もの白が捩れ、太い綱になって壁を引いている。彼は梁を掴んだまま身体を寄せ、刃を押し当てた。
切れなかった。
力を入れ直し、強く押し当てる。
ライトはうめき声を強めた。
金色が強くなった。
一本ずつ、繊維が裂けた。剣を持つ手首へ、硬いものを削る感触が伝わった。
下から、水が上がってきた。
窓を覆っていた布の隙間へ、青い流れが入り込んだ。塔の外で羽ばたくミカエルが、杯を掲げていた。
水は白い壁を伝い、ルシフェルの足元へ走った。
虹色の水は蛇のように、男の脚へ巻きついた。
ルシフェルが腕を振った。
水が散り、また集まった。ランカスターの硬貨が、その周りで回り始めた。
ライトは刃を押した。束の半ばまで、切れた。もう少しだった。
その時、ルシフェルが叫んだ。
耳をちぎりそうな音が、空気の形を変えた。
突然、黒いものが、輪になって広がる。
水が引きちぎられ、硬貨が弾け飛んだ。ランカスターの身体が持ち上がり、壁へ叩きつけられた。
掴んでいた梁が、ライトの手の中で砕けた。
支えがなくなった。
身体が、真上へ放り出された。
*
翼が大きく開いた。
ライトは塔の外へ投げ出されていた。
天井だったものが崩れ、石の塊と、白い布と、折れた梁が、同じ空へ散っていくのが目の端に見えた。
風に煽られ、落ちかけた身体が、一度だけ持ち上がった。
空中でうまく体勢を立て直すと、眼下に塔の最上部が見えた。
ルファがいた。
彼女は倒れた食卓へ手をつき、立とうとしていた。すぐ前で、ランカスターが動かずに横たわっていた。
ルシフェルの背後には、まだ布の束が残っていた。
切れかけた綱が梁を引き、傾いた壁を、男の周囲へ引き寄せていた。
ライトは剣を持ち直した。
ルファの上へ、白い先端が向いた。
翼を傾けた。
思ったより深く身体が倒れ、塔へ向かって落ち始めた。
剣に、光が集まった。
自分の手から出たものだけではなかった。
壊れた盾の縁から、床に散った硝子から、空気に残っていた細い色が伸びていた。剣の周りへ寄り、また離れ、雷の前触れのように瞬いていた。
髪が逆立った。
何かがおかしい。
ライトは手を緩めた。
光は、弱くならなかった。
ルファが顔を上げた。
何か叫んでいた。
空が白くなった。
剣を持つ腕から、身体の感覚が消えた。
刃を振り下ろしたのか、落ちていく身体に引かれたのか、わからなかった。
目の前を、白い線が走った。
線は剣を伝い、ルシフェルの背後の束へ落ちた。
白い布が、光の中でほどけた。
雷鳴が届くより先に、塔が動いた。
*
足元の石が、傾いた。
ルファは倒れた食卓へしがみついた。
壁が外へ開いていった。もともとそこに窓があったかどうかも、もうわからなかった。
ルシフェルの姿が、黒い煙の向こうにあった。
片翼が下がっていた。男が顔を上げ、何かを言った。
聞こえなかった。
床の亀裂が、ルファの足元まで来た。
食卓が滑った。
手を離さなければ、押し潰される。
離した。
身体が、外へ投げ出された。
空と石が、入れ替わった。
ルファは手を伸ばした。
何もなかった。
硝子を作ろうとした。
指の間へ、小さな光が生まれた。形になる前に、散った。
もう一度。
指が、うまく動かなかった。
足の向こうに、空があった。
黒い雲と、崩れていく塔の頂が見えた。石がいくつも自分を追い越して落ちていく。
ライトが、見えなかった。
呼ぼうとした。
風が口へ入り、息ができなかった。帰って、話すはずだった。鳥の数を覚えていないと言ったら、レインは何と答えるだろう。そんなことを、さっきまで考えていた。
不意に、横から何かがぶつかった。
身体へ回ったのが後から腕だと分かった。
「ルファ」
声がした。
すぐ耳元だった。
ライトがいた。
*
抱き止めた重さで、翼が傾いた。
ライトはルファの身体を引き寄せた。
右の翼が、ほとんど動いていなかった。羽の半分が失われ、残った枠が風を受けて震えている。
このままでは、回ってしまう。
「背中。右の、付け根」
声を絞った。
「直せるか、ルファ」
ルファの目が、彼の顔を捉えた。
唇が動いた。
「……手が、届けば」
ライトは左腕で彼女を支えた。
彼女の右手を自分の腰に回し、脇へ導いた。
剣は腰のベルトにねじ込まれていた。
黒く焦げた刃先が、風にぶれていた。
ルファの指が、翼へ触れた。
細い硝子が生まれた。
割れた枠の間へ伸び、もう一方へ届く前に折れた。
彼女は、また手を動かした。
ライトは身体を捻った。
風を背中で受け、彼女の指の周りに、わずかな陰を作った。
今度は、つながった。
金色が渡った。
右の翼が、一度羽ばたいた。
二人の身体が、横へ流れた。
頭上を、石の塊が通り過ぎた。
その風に、つないだばかりの羽が裏返った。
硝子の音がした。
ルファの手が、動かなくなった。
目は開いていた。
まだ直そうとしているのがわかった。何も生まれない掌を、壊れたところへ押し当てていた。
「もういい」
ライトは言った。
言った自分が、いちばん信じていなかった。
落ちる。
落ちていく。
地面が近づいていた。
残った翼を、広げた。
止まらなかった。
ルファの額が、胸へ触れた。
彼女の腕が、彼の上着を掴んだ。
ライトは両腕で、その身体を包んだ。
*
紙をめくる音がした。
風の中で聞こえるはずのない、小さな音だった。
白いものが、視界を横切った。
一枚ではなかった。何十枚もの薄い面が角度を変え、重なり、二人の下へ広がった。
身体が沈んだ。
背中に衝撃が来た。
けれど、石ではなかった。しなるものが重さを受け、さらに深く沈み、それから、ゆっくり押し返した。
ライトは目を開けた。
白い翼があった。
羽根の一枚一枚が、四角い形をしていた。
縁に細い模様が見えた。濡れた紙の匂いがした。
塔が、向こうへ流れていった。
風が弱くなった。
膝が、濡れた草へ触れた。
何が起きたのか、わからなかった。
ライトはルファを抱いたまま、動けずにいた。
腕の中で、息がした。
確かめようとして、さらに強く抱いた。
「ライト。少し、腕を緩めて」
後ろから知っている声がした。
「それじゃ、ルファが息出来ないよ」
言われた通りにした。
彼女の胸が、わずかに動いた。目は閉じていたが、呼吸は続いていた。
ライトは顔を上げた。
白銀の髪が、雨に濡れている。
赤い服の肩に、白いカードが何枚も重なり、大きな翼を作っていた。翼はすぐに、音を立てて畳まれていった。
「……ルクル?」
店で何度も呼んだ名前だった。
ルクルは、ライトの腕の中へ手を伸ばした。
ルファの頬へ触れ、その手を取った。
何かを確かめるように、指先を見た。
そこには、まだ薄い光が残っていた。
遠くで、塔が崩れた。
地面が震え、草の上の水滴が跳ねた。
月へと続いていたはずの場所に、石の雲が立ち上っていた。
ライトはもう一度、ルクルを見た。
笑っていなかった。




