ⅩⅦ 《星》 星の在りか
ルクルの指が、ルファの手首を離れた。
「息は落ち着いている。今は、休ませよう」
ライトは頷こうとして、うまく首を動かせなかった。
草の上に膝をついているのに、まだ落ちている気がした。足の裏から地面が抜け、腕の中の重さだけが残る。そのたびに、ルファを抱く手へ力が入った。
ルクルは何も言わず、ライトの背に回った。割れた羽根が、一つずつ光を失っていく。翼は硝子の残骸となり、草へ落ちた。ようやく自分の身体の重さが戻ってきたのだと分かった。
「荷物も、下ろせる?」
肩紐を外すと、焼けたような痛みが走った。ライトは歯を食いしばった。ルクルが敷いた上着へ、二人でルファを横たえる。彼女の髪に細かい石の粉が絡んでいた。払い落とそうとして、指が震えていることに気づいた。
腰の短剣には、まだ紐が結われていた。
あの城でルファが結んでくれた紐だった。解こうとしたが、濡れた結び目へ爪が入らない。ルクルが代わりにほどき、刃を布で包んで荷物へ収めた。
こんなふうに、世話を焼かれたことがあった。
店で皿を割ったとき。熱を出して、階段を上がる途中で座り込んだとき。
いつもの声を聞いているのに、その背にはカードの翼があった。
「どうして、ここに」
「『道』が、動いたんだ」
ルクルは塔の方を見た。
「ずっと、同じ街角しか映らなかった。さっき急に、空が変わった。触れたら、手が入ったんだよ」
「じゃあ、そこから帰れるのか」
「僕が入って来たところは、もう閉じてるだろうね」
ライトは、草に置いた手を握った。
それでも、聞かなければならないことがあった。
「店は」
「アディーがいる」
「母さんと、レインは」
ルクルがこちらを向いた。
「待っているよ」
待っている。
その言葉を、胸の中で受け止めた。帰りの遅い息子を待つ母と、いつまでも帰らない父を待ってきた母が、同じ顔で重なった。
「……帰らないと」
「うん」
ルクルはそれ以上、何も足さなかった。
石の粉を含んだ風が、草を白く撫でていった。
その向こうから、赤い翼が現れた。
*
ミカエルは、ランカスターを肩で支えていた。
黒い衣が片側だけ濃く濡れている。歩くたびに、引きずった鎌の先が土へ溝を刻んだ。
「壁が崩れる前に、外へ出せました」
そう言うミカエルも、立っているのがやっとだった。赤い羽が何枚も抜け、残った羽先から水が滴っていた。
少し離れた窪地には、五人がいた。
パンを抱いていた女。老人。指先で土へ何かを書いている男。赤い髪のエマ。
そして、父。
ジンは両手を膝に載せ、崩れた塔を眺めていた。誰かを探しているようにも、食事の続きを待っているようにも見えた。
ライトは立ち上がった。
一歩目で膝が折れかけたが、止まらなかった。父の前へしゃがみ、顔を覗き込む。
「俺だよ」
返事はなかった。
「さっきの。ライトだよ」
言い直す必要などないはずだった。それでも、塔の中では届かなかった言葉が、ここなら届くかもしれないと思った。
父の手を取った。
温かかった。掌の皮は厚く、指の関節に古い傷があった。ルファから聞いていた職人の手が、今、自分の両手に収まっていた。
「外へ出られたんだ。もう、あの席に戻らなくていい」
ジンの唇が、わずかに動いた。
ライトは身を寄せた。
「……すぐ」
その先は、聞きたくなかった。
それでも、手を離さなかった。
「母さんが待ってる」
父の指が、止まった。
「レインも。俺の妹だ。俺と、同じ日に生まれた」
父の目が、少しずつこちらへ向いた。
焦点の合わなかった瞳に、自分の顔が映った。ライトは息を止めた。相手を驚かせないように、幼い子供へ話しかけるように、ゆっくり続けた。
「二人とも、大きくなったよ」
ジンの眉が寄った。
何かを思い出そうとしている。その顔は、苦しそうだった。
「……帰ら」
足元で、白いものが動いた。
ライトは父を引き寄せた。
足首に糸があった。外したはずの枷の痕から、細い糸が何本も伸びていた。濡れて肌へ貼りついていたそれが、今、塔へ向かって張り始めている。
背後で、ミカエルが息を呑んだ。
遠い瓦礫の中に、人影が立っていた。
ルシフェルの片翼は、根元から折れていた。胸を斜めに走る黒い傷へ手を当て、傾いた石の上から、こちらを見ている。
笑ってはいなかった。
地面に散っていた白い布が、次々に持ち上がった。
「父さん、立って!」
ライトは父の腕を肩へ回した。
ジンは立ち上がった。だが、その足が踏み出したのは、塔の方だった。
「違う。こっちだ」
女も、老人も、歩き始めていた。エマが濡れた髪を耳へ掛ける。その何気ない仕草のまま、崩れた石へ足を向ける。
ライトは父の胸を押し返した。
「見てくれ。俺を」
布が地面を擦った。
ルクルの札がその上へ落ち、白い筋を土へ縫い留めた。ミカエルの水が、五人の足元に輪を作る。
ジンの身体が揺れた。
片方の手が持ち上がった。
ライトの指に触れた。
握り返したのだと思った。
そう思った瞬間、水の輪が裂けた。
白い布が、二人の間を突き抜けた。
ライトは父の手へしがみついた。肩が引かれ、足が土を滑った。指と指の間へ布が入り、一本ずつ、こじ開けられていく。
「父さん!」
顔が見えなくなった。
袖だけが残った。その袖も、指の中から抜けていった。
追おうとした身体を、ルクルが横から抱き止めた。
耳元を、石の破片が飛んでいった。
「離せ!」
「足元を見て!」
ついさっきまで膝をついていた場所に、深い溝ができていた。
白い布は、土も石も巻き込みながら、塔の中心へ集まっていた。
ライトは腕を振りほどこうとした。
そのとき、黒い衣が視界を横切った。
ランカスターだった。
*
崩れ残った庇の下に、白い脚が見えた。
ランカスターは、鎌を杖にして瓦礫を越えた。
馬を寝かせた場所だった。石の隙間から覗く乳白色の蹄に、まだ土がついていた。世界樹の下で初めて立ち上がり、歩くたびに、自分の足を不思議そうに見ていた馬の蹄だった。
その首へ、白い布が掛かっていた。
鎌が振り下ろされた。
布は切れた。馬の身体が、石へ重く戻った。
ランカスターは膝をついた。
片手で瓦礫を除き、馬の顔を出した。閉じない目に、曇った空が映っていた。
「……待ってろって、言ったろうが」
叱る声だった。
返事を待ってしまう声だった。
彼は馬の額へ触れた。傷のない、新しい額だった。
昔の馬に返せなかったものを、この馬にも返せなくなった。そのことを、今になってようやく理解したように、背中が丸くなった。
布が再び持ち上がった。
ランカスターは鎌を振った。今度は、途中で腕が止まった。肩から落ちた血が、乳白色の頬へ筋を作った。
白い布が手首へ絡んだ。
「ランカスター!」
ミカエルが飛んだ。
水が二人の間に架かり、彼の黒い袖を引いた。布と水が引き合うたび、傷ついた翼から赤い羽が抜けた。
ランカスターは顔を上げた。
「来るな」
鎌の柄が、石へ引っ掛かった。
彼はそれを掴み直した。布を断とうと、刃を返した。
瓦礫が崩れた。
黒い衣も、白い馬も、沈むように布の下へ消えた。
ミカエルの指先に、袖の切れ端だけが残った。
彼女は、まだ水を引いていた。
姿が見えなくなっても。
*
雨がやんだ。
塔のあった場所に、白い繭が残っていた。
何重にも巻かれた布の内側で、何かが脈打っている。そのたびに表面の皺が伸び、泥に落ちた端が、少しずつ中へ引き込まれていた。
ライトはルファのそばへ戻った。
戻らなければならなかった。彼女はまだ眠っていた。粉塵を吸わないよう顔を覆っていたルクルの上着を直し、呼吸を確かめた。
「膨らんでいる」
凍えるような空の下。暗闇の繭を見るルクルが、そう言った。
「ああ、父さんはこの中でまだ生きてるかもしれない」
ライトは顔を上げた。
「最後に、俺を見たんだ」
ルクルの目が、こちらへ戻った。
「帰るって、言いかけた。俺の手も……」
そこで、声が途切れた。
指が触れただけだったかもしれない。糸に引かれた腕が、たまたま自分へ向いただけだったかもしれない。
けれど、あの顔を見たのは自分だった。
「そう」
ルクルが低く言った。
励ましも、否定もなかった。
ライトは唇を噛み、父に触れた手を開いた。
その向こうで、ミカエルが立ち上がった。
「どうしたら救えますか」
白い杯と青い杯を握っていた。
ルクルは首を振った。
「今は、これを開く方法がわからない。でも、これ以上、成長させないようにはできる」
「中にいる人たちも、そのまま」
「……そうなるね」
ミカエルの顔から、表情が消えた。
ライトは何か言おうとした。
その前に、繭が大きく膨らんだ。周りの草が一斉に内側へ倒れ、根元から土を剥がされた。ルクルの札が何枚も飛び、その縁を押さえた。
「長くは持たない。君の水で囲える?」
ミカエルは、しばらく杯を見ていた。
やがて、目を閉じた。
水が、白い杯から青い杯へ流れた。
その途中で幾筋にも分かれ、繭の周囲へ落ちていく。ライトを閉じ込めたものと同じ虹色の柱が立ち、頭上で結ばれた。
ルクルが一枚の札を、その水へ触れさせた。
札の上に、小さな虹が生まれた。
ライトは目を見開いた。
次の札にも、同じ水の柱が立った。その次にも。四角い紙が風へ散り、それぞれに虹を載せて繭を囲んでいく。
柱が柱を支え、梁が渡される。
無数の小さな檻が重なり、白い繭の周囲に、一つの大きな城壁ができていった。
「……そんなことも、できるのか」
「見えた仕組みを、借りているんだ」
ルクルは、札から目を離さなかった。
「全部が、わかるわけじゃないけどね」
水が張り詰める音がした。
繭の動きが、いったん止まった。
ライトは初めて、自分が息を詰めていたことに気づいた。
*
ルファの唇へ、濡らした布を当てた。
水を飲ませようとしたライトを、ルクルが止めたのだった。目を覚ましてからにしよう、と。今は、乾いたところを湿らせるだけでいい。
布を離すと、唇に小さな水滴が残った。
いつもなら、自分で拭くだろう。
そう思っただけで、胸が苦しくなった。
「目、覚めるよな」
ルクルはルファの指先を見た。
薄い光は、まだ消えていなかった。
「大丈夫、休ませよう。ここより、静かな場所で」
「魔法を使いすぎたから?」
「それもあると思う」
「ほかにも、あるのか」
ルクルの手が止まった。
ライトは、返事を待った。
塔の中で、ルファは何度も顔色を変えた。それでも硝子を作った。落ちている間さえ、何も生まれなくなった掌を、自分の翼へ押し当てていた。
「俺が、作ってくれって頼んだ」
「ライト」
「守ってもらってばかりだった。今度は俺が、と思って……それでも、作ってもらわないと何もできなかった」
ルクルはしゃがんだ。
濡れた草が、赤い服の膝へ貼りついた。
「君が抱いていなかったら、ルファはここにいない」
ライトは俯いた。
「それだけじゃ、足りないほど……」
「今は、離さないでいてあげて」
その言い方に、引っ掛かるものがあった。
今は。
ほかに何か知っている。店にいた頃から、ずっと。
ライトはルクルを見た。
「帰ったら、聞かせてくれ」
白銀の髪の下で、目が動いた。
「ルファのことも。お前のことも。俺が知らなくていいって、勝手に決めないでくれ」
ルクルは、すぐには答えなかった。
やがて、小さく頷いた。
「……わかった」
遠くで、水が鳴った。
ミカエルが、虹の城壁へ歩いていた。
*
両手の杯が、離れていく。
青い杯から落ちる水だけが、途中で上へ折れていた。
流れが柱を逆に昇り、虹の継ぎ目へ染み込んでいく。
ルクルが立ち上がった。
「何をしている」
ミカエルは振り返らなかった。
「通り道を、一つだけ残しました」
柱の下に、細い隙間があった。
人の通れる幅ではなかった。水一筋ほどの、それでも内側と外側をつなぐ隙間だった。
同じ隙間が、ほかの柱にも現れた。
ルクルの札が作った虹にも。
「閉じて」
「中へ入ります」
「開けたら、何が出てくるかわからない」
「閉じたら、あの人たちは」
ミカエルの声が、初めて荒れた。
振り向いた顔に、涙が流れていた。
ライトは立ち上がろうとした。
ルファの肩が腕の中で傾き、慌てて支え直した。
「あの人は、待つんです」
ミカエルは城壁へ顔を戻した。
「帰ってこないとわかっていても。ずっと、あの湖で」
赤い翼が、震えていた。
「昔、湖に紛れ込んだ海の魔物に襲われました。私を助けようとして、あの馬が……」
言葉が途切れた。
ランカスターが根元へ残した、古い手綱を思い出した。新しい馬には着けなかった手綱だった。
「今日こそ、待たせなくて済むと思ったのに」
ルクルの札が隙間へ集まった。
塞ぐより早く、柱の内側を黒い筋が走った。水の流れに逆らうように、繭から細い布が伸びている。
ミカエルは、白い杯を草へ置いた。
「上の門は、まだ残っています。塔が崩れたとき、主の封じがほどけるのが見えました」
杯の水面に、白い点が浮かんでいた。
空が映っているのだと、ライトは遅れて気づいた。雲の向こうにある何かが、小さく明滅していた。
「ルファ様を、連れていってあげてください」
「一緒に来いよ」
言葉が出た。
ミカエルの横顔が、わずかにこちらを向いた。
「繭の中へ入ったら、出られるのか」
答えはなかった。
「わからないんだろう。だったら――」
「置いていけません」
その一言は、ライトにも覚えがあった。
ついさっき、ルクルの腕を振りほどこうとしたとき、自分も同じことしか考えられなかった。
だが、彼女を行かせていい理由にはならなかった。
「ミカエル!」
ルクルの札が、赤い翼へ伸びた。
水がそれを押し返した。
ミカエルは青い杯を胸へ抱き、城壁の隙間へ身体を向けた。
水の柱が一斉に撓んだ。彼女が作った小さな通り道を、内側から白い布がこじ開けていた。
赤い翼が、呑まれた。
一枚の羽が外に残り、草へ落ちた。
誰を呼ぶ声も、もう聞こえなかった。
城壁が内側へ折れた。
虹の梁が次々に砕け、水へ戻る間もなく、白い繭へ吸い込まれていった。
ルクルが腕を引いた。
戻ってきた札の半分は、色を失っていた。
「離れよう」
地面が、足元で裂けた。
*
ルファを抱き上げると、背中に鋭い痛みが走った。
ライトは膝を伸ばしきれなかった。ルクルが片側を支え、二人で斜面を上がった。荷物は数枚の札に持ち上げられ、すぐ後ろをついてきた。
湿った草が足へ絡んだ。
いや、草が伸びたのではなかった。地面ごと、後ろへずれていた。
振り返ると、塔の礎石が動いていた。
ひとつが倒れ、見えない力に押されるように繭へ滑っていく。崩れ残った庇も、その下に置いてきた硝子の翼も、土煙の向こうへ隠れた。
首へ結んだ布が、最後に見えた。
橋を渡ってきた馬を、連れて帰るつもりだった。
ライトは目を逸らした。
数歩先の草へ、足を置いた。
ルクルが空へ札を放った。
白い翼が開き、三人の身体が地面を離れた。だが、すぐに傾いた。風が内側へ巻いている。大きく羽ばたくほど、繭の方へ引かれていった。
ルクルは斜面の岩陰へ降りた。
紙の翼が、軋む音を立てて畳まれる。
ライトはルファを抱き直した。
自分たちの上を、土と石が流れていく。岩陰を出れば、立っていられるかどうかもわからなかった。
「月へ、飛べないのか」
「門を通らないと、別の世界へは渡れない」
「さっきの杯」
ルクルが懐から白い杯を出した。
水はまだ残っていた。揺れる水面の中で、白い点が細くなったり、丸く広がったりしていた。
ライトは空を見上げた。
流れる雲の切れ目に、かすかな光があった。
星に見えた。
けれど、水面の中で拡がったそれには、四角い縁があった。塔の上にあったはずの門だった。支えるものを失ってなお、空の一点に残っていた。
「届けば、通れる?」
「まだ、つながっていると思う。でも、この風の中を、三人では――」
言い終わる前に、岩の上を大きな石が跳ねていった。
ライトはルファに覆いかぶさった。
彼女の手が胸へ触れた。自分の意思で動かしたのではなかった。それでも、その指の形を見たとき、忘れていた部屋が、ひどく鮮明に浮かんだ。
作業台。
並べられた硝子。
まだ何も知らなかった自分の手の上へ、重ねられた手。
全部を、一度につなごうとしなくていい。
ルファはそう教えた。
隣り合う二枚が、ちゃんと支え合えるように。そこを確かめてから、次へ進む。
ライトは顔を上げた。
「塔を作れないか」
ルクルが見た。
「硝子で。さっき、ミカエルの魔法を真似たみたいに」
ルクルの視線が、ルファへ落ちた。
「形は作れる。でも、あの高さまで伸ばしたら、この風には耐えられない」
「俺が、触れば」
口にしてから、怖くなった。
塔を壊した光が、自分の手から放たれた。
止めようとしても止まらなかった。あれがもう一度、ルファのそばで起きたら。
ライトは、開いた掌を見た。
「……壊さないように、やってみる」
ルクルはすぐには頷かなかった。
「僕の作った硝子で、できるかい」
「わからない」
女王の冷たい手を思い出した。
どれだけ願っても、何も起こらなかった。
「小さいのでいい、確かめたい」
ルクルは一枚の札を差し出した。
その上に、淡い青の硝子が生まれた。
薄い枠に囲まれた、小さな四角だった。ルファが工房で作るときと、よく似た光の集まり方をしていた。
ライトは指を載せた。
何も起こらなかった。
息が浅くなった。
掌を押しつけそうになり、止めた。
指を緩める。
冷たさを、確かめる。
厚さの違うところがあった。縁の一角が、わずかに浮いていた。
いつもの作業なら、そこを直してから次へ進む。
ライトは、その一角へ指を滑らせた。
金色の筋が走った。
光はすぐには広がらなかった。縁に沿ってゆっくり進み、青い面を一周したところで、指の下へ戻ってきた。
ルクルが硝子を持ち上げた。
風へ差し出しても、割れなかった。
二人は顔を見合わせた。
「これなら、いけるかもしれない」
ライトは頷いた。
できると言い切ることは、もうできなかった。
それでも、次に手を伸ばす場所は見えた。
*
最初の柱が、岩陰から伸びた。
赤い札が四隅へ散り、白い札が間を渡った。その上に薄い硝子が張られ、風を受ける前に、ライトの掌から走った金色の線が枠をつないだ。
低い音がした。
柱が、持ちこたえた。
次の柱が立つ。
その間に床が生まれる。
ルクルがルファを抱き、ライトは片手を壁へ当てて進んだ。
もう片方の手には荷物を持った。軽いはずの袋が、指へ食い込んだ。肩の傷が痛み、上へ伸ばすたびに、息が詰まった。
階段ができた。
足を載せた段の奥へ、金色の光が沈んだ。
一段。
その次。
完成した塔を昇るのではなかった。
足を置ける場所を、自分たちの前に作っていた。
壁の向こうを、黒い石が横切った。
硝子に当たり、弾かれた。細い亀裂が入る。ライトは立ち止まり、その縁へ掌を移した。
「止まれる?」
「少しなら」
ルクルの声にも、余裕はなかった。
数枚の札が風へ剥がされ、暗い空へ消えていく。
ライトは亀裂を見た。
埋めようとするほど、光が一か所へ集まった。刃に雷が落ちたときの熱が、手首に蘇った。
違う。
傷口を無理に塞ぐのをやめた。
その周りの枠へ、指を移した。隣の一枚へ重さを渡し、さらに、その隣へ渡す。
七年、そうしてきた。
上手にできなかった硝子を、すぐに捨てずに済む方法を探してきた。
亀裂は残った。
だが、壁は崩れなかった。
「行こう」
ルクルが頷いた。
硝子の塔は、少しずつ形を変えた。
風の強い側には、小さな面を幾つも重ねた。大きく張れば割れるところを、細い枠で分けた。傾いた床は、その上に低い段を作って補った。
真っ直ぐな塔にはならなかった。
ライトが初めて作った、あの青い飾りに似ていた。
継ぎ目が揃わず、近くで見れば直した跡がわかる。それでも窓に掛けると、朝の光を受け止めた。
今は、三人の重さを受け止めていた。
ルクルの腕から、ルファの手が下がった。
その指先が、壁へ触れた。
何も作られなかった。
彼女は眠ったままだった。
ライトは、そのすぐ横へ手を置いた。
「ここは、俺たちにまかせて」
風に紛れるほどの声で言った。
次の段が、金色に照らされた。
*
雲の中へ入った。
硝子の向こうが、何も見えなくなった。
雨の匂いがした。下から響いていた地鳴りが遠のき、その代わり、塔そのものが軋む音だけが近くなった。
ライトは段を数えるのをやめていた。
指の感覚も、ほとんどなかった。
ルクルが足を止めた。
「もう少しだ」
顔を上げる。
白い霧の奥に、細い縦の光があった。
ルクルが札を放った。
最後の梁が伸び、その光を挟むように立ち上がった。
扉だった。
石でも硝子でもない白い縁だけが、空中に残っていた。向こうには、こちらと違う暗さがあった。
夜だった。
ライトは最後の床へ手を当てた。
金色の光が走る。途中で薄くなった。自分の身体から、何かが抜けていくようだった。
「そこまででいい」
ルクルが言った。
扉の縁へ札が重なった。
紙の翼がもう一度開き、ルファを抱いた身体が浮いた。ライトも腕を取られ、足が床を離れた。背後で、階段が割れた。
白い縁を越えた瞬間、風がやんだ。
足元に、狭い足場があった。
三人が降りると、その先から細い線が二本、闇へ伸びているのが見えた。
線路だった。
空に掛かっていた。
支える柱は見えなかった。遠くで、二本の線が星明かりを受け、一本に重なっていた。
ライトは息をした。
冷たい、乾いた空気だった。
初めて、空に星があることに気づいた。
数えきれないほどの光が、静かに散っていた。あれほど風が吹いていたのに、ここでは、ひとつも揺れていなかった。
背後の門から、硝子の砕ける音がした。
足場が傾いた。
「ルクル」
「聞こえる?」
遠くで、金属が鳴っていた。
一定の間隔で近づいてくる音だった。レールに置いた靴の裏から、かすかな震えが伝わった。
闇の奥に、灯りがともった。
一つ、二つ。
やがて幾つもの窓になった。青い窓、琥珀色の窓。細い黒の縁取りに区切られた光が、夜の中を滑ってくる。
ステンドグラスの列車だった。
硝子の車体が、星を透かしていた。
その内側には、誰も座っていない長椅子が並んでいる。
車輪が長く軋み、三人の前で速度を落とした。
ルクルが白い杯を掲げると、先頭の窓に同じ白い光が映った。扉が開いた。
ルクルが先に乗り、ルファを長椅子へ横たえた。
ライトは荷物を投げ入れ、縁を掴んだ。
足場が、落ちた。
靴の底が空を掻いた。
ルクルの手が、上着を掴んだ。ライトは肘を床へ押しつけ、身体を引き上げた。
扉が閉じた。
床へ倒れたまま、しばらく動けなかった。
頬に、冷たい硝子の感触があった。耳のすぐ下で、車輪の音が続いていた。
走っている。
ライトは顔を上げた。
窓の外で、白い門が小さくなっていった。その手前に残っていた硝子の塔が、下から順にほどけていた。
崩れた破片が、光を返した。
ひとつずつ、暗い雲へ沈んでいく。
ライトは最後まで見ていた。
やがて、何も見えなくなった。
*
ルファのそばへ座った。
靴から泥が落ち、青い床に小さな山を作った。
袖も、指も、汚れていた。右手の指輪の溝にまで、白い石の粉が入っていた。
ライトは袖口でそれを拭った。
小さな翼の模様が現れた。
ルファはまだ目を覚まさなかった。
列車の揺れに合わせて髪が動く。胸は、静かに上下していた。
その手を取った。
父の手とは違った。
ずっと知っているはずの手なのに、こうして温かさを確かめるたび、知らなかったものに触れる気がした。
「父さんが」
声が、思ったより掠れていた。
向かいに座ったルクルが、顔を上げた。
「帰るって、言いかけたんだ」
「うん」
「……そう、聞こえた」
言い直すと、涙が落ちた。
こらえようとしたが、間に合わなかった。
七年前には、父を返せと叫べばよかった。
奪った誰かがいて、その誰かを見つければ、すべて元に戻ると思っていた。
実際に触れた父の手には、自分の知らない歳月があった。
母を待たせた時間も、自分たちを知らずにいた時間も、ひとつも消えていなかった。
それでも、あの手を離したくなかった。
「聞きたいこと、まだあるんだ」
ルクルは何も言わなかった。
膝の上で札を揃える音だけが、車輪の音に混じった。
ライトはルファの手を両手で包んだ。
握りしめずに、ただ、載せた。
父の声が本当に自分へ向けられたものだったのか、わからない。
ルファがいつ目を覚ますのかも、帰るまでにあとどれだけの時間が過ぎるのかも。
けれど、この手の温かさは、今ここにあった。
窓へ目を向けた。
幾つもの色に分かれた夜が、ゆっくり流れていた。琥珀色の硝子を通る星は金色に、青い硝子を通る星は冷たく澄んで見えた。
ルファに教わった。
同じ光でも、通る硝子で変わるのだと。
ライトは、彼女の顔へ戻る星明かりを見ていた。
やがて、声を落として言った。
「鳥、結局何羽いたんだろうな」
返事はなかった。
「レインに聞かれたら、一緒に困ってくれよ」
車輪が、継ぎ目を越えた。
彼女の指が揺れ、掌へ少し深く収まった。
ライトはその手を支えた。
夜の向こうに、白い月が見え始めていた。




