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ステンドグラスの彼方に  作者: 羽月楓


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17/22

ⅩⅦ 《星》 星の在りか

挿絵(By みてみん)




 ルクルの指が、ルファの手首を離れた。


「息は落ち着いている。今は、休ませよう」


 ライトは頷こうとして、うまく首を動かせなかった。

 草の上に膝をついているのに、まだ落ちている気がした。足の裏から地面が抜け、腕の中の重さだけが残る。そのたびに、ルファを抱く手へ力が入った。


 ルクルは何も言わず、ライトの背に回った。割れた羽根が、一つずつ光を失っていく。翼は硝子の残骸となり、草へ落ちた。ようやく自分の身体の重さが戻ってきたのだと分かった。


「荷物も、下ろせる?」


 肩紐を外すと、焼けたような痛みが走った。ライトは歯を食いしばった。ルクルが敷いた上着へ、二人でルファを横たえる。彼女の髪に細かい石の粉が絡んでいた。払い落とそうとして、指が震えていることに気づいた。


 腰の短剣には、まだ紐が結われていた。

 あの城でルファが結んでくれた紐だった。解こうとしたが、濡れた結び目へ爪が入らない。ルクルが代わりにほどき、刃を布で包んで荷物へ収めた。


 こんなふうに、世話を焼かれたことがあった。

 店で皿を割ったとき。熱を出して、階段を上がる途中で座り込んだとき。


 いつもの声を聞いているのに、その背にはカードの翼があった。


「どうして、ここに」


「『道』が、動いたんだ」


 ルクルは塔の方を見た。


「ずっと、同じ街角しか映らなかった。さっき急に、空が変わった。触れたら、手が入ったんだよ」


「じゃあ、そこから帰れるのか」


「僕が入って来たところは、もう閉じてるだろうね」


 ライトは、草に置いた手を握った。

 それでも、聞かなければならないことがあった。


「店は」


「アディーがいる」


「母さんと、レインは」


 ルクルがこちらを向いた。


「待っているよ」


 待っている。

 その言葉を、胸の中で受け止めた。帰りの遅い息子を待つ母と、いつまでも帰らない父を待ってきた母が、同じ顔で重なった。


「……帰らないと」


「うん」


 ルクルはそれ以上、何も足さなかった。


 石の粉を含んだ風が、草を白く撫でていった。

 その向こうから、赤い翼が現れた。


     *


 ミカエルは、ランカスターを肩で支えていた。

 黒い衣が片側だけ濃く濡れている。歩くたびに、引きずった鎌の先が土へ溝を刻んだ。


「壁が崩れる前に、外へ出せました」


 そう言うミカエルも、立っているのがやっとだった。赤い羽が何枚も抜け、残った羽先から水が滴っていた。


 少し離れた窪地には、五人がいた。

 パンを抱いていた女。老人。指先で土へ何かを書いている男。赤い髪のエマ。


 そして、父。


 ジンは両手を膝に載せ、崩れた塔を眺めていた。誰かを探しているようにも、食事の続きを待っているようにも見えた。


 ライトは立ち上がった。

 一歩目で膝が折れかけたが、止まらなかった。父の前へしゃがみ、顔を覗き込む。


「俺だよ」


 返事はなかった。


「さっきの。ライトだよ」


 言い直す必要などないはずだった。それでも、塔の中では届かなかった言葉が、ここなら届くかもしれないと思った。


 父の手を取った。

 温かかった。掌の皮は厚く、指の関節に古い傷があった。ルファから聞いていた職人の手が、今、自分の両手に収まっていた。


「外へ出られたんだ。もう、あの席に戻らなくていい」


 ジンの唇が、わずかに動いた。

 ライトは身を寄せた。


「……すぐ」


 その先は、聞きたくなかった。

 それでも、手を離さなかった。


「母さんが待ってる」


 父の指が、止まった。


「レインも。俺の妹だ。俺と、同じ日に生まれた」


 父の目が、少しずつこちらへ向いた。

 焦点の合わなかった瞳に、自分の顔が映った。ライトは息を止めた。相手を驚かせないように、幼い子供へ話しかけるように、ゆっくり続けた。


「二人とも、大きくなったよ」


 ジンの眉が寄った。

 何かを思い出そうとしている。その顔は、苦しそうだった。


「……帰ら」


 足元で、白いものが動いた。


 ライトは父を引き寄せた。

 足首に糸があった。外したはずの枷の痕から、細い糸が何本も伸びていた。濡れて肌へ貼りついていたそれが、今、塔へ向かって張り始めている。


 背後で、ミカエルが息を呑んだ。


 遠い瓦礫の中に、人影が立っていた。


 ルシフェルの片翼は、根元から折れていた。胸を斜めに走る黒い傷へ手を当て、傾いた石の上から、こちらを見ている。

 笑ってはいなかった。


 地面に散っていた白い布が、次々に持ち上がった。


「父さん、立って!」


 ライトは父の腕を肩へ回した。

 ジンは立ち上がった。だが、その足が踏み出したのは、塔の方だった。


「違う。こっちだ」


 女も、老人も、歩き始めていた。エマが濡れた髪を耳へ掛ける。その何気ない仕草のまま、崩れた石へ足を向ける。


 ライトは父の胸を押し返した。


「見てくれ。俺を」


 布が地面を擦った。

 ルクルの札がその上へ落ち、白い筋を土へ縫い留めた。ミカエルの水が、五人の足元に輪を作る。


 ジンの身体が揺れた。

 片方の手が持ち上がった。


 ライトの指に触れた。


 握り返したのだと思った。

 そう思った瞬間、水の輪が裂けた。


 白い布が、二人の間を突き抜けた。


 ライトは父の手へしがみついた。肩が引かれ、足が土を滑った。指と指の間へ布が入り、一本ずつ、こじ開けられていく。


「父さん!」


 顔が見えなくなった。

 袖だけが残った。その袖も、指の中から抜けていった。


 追おうとした身体を、ルクルが横から抱き止めた。

 耳元を、石の破片が飛んでいった。


「離せ!」


「足元を見て!」


 ついさっきまで膝をついていた場所に、深い溝ができていた。

 白い布は、土も石も巻き込みながら、塔の中心へ集まっていた。


 ライトは腕を振りほどこうとした。

 そのとき、黒い衣が視界を横切った。


 ランカスターだった。


     *


 崩れ残った庇の下に、白い脚が見えた。


 ランカスターは、鎌を杖にして瓦礫を越えた。

 馬を寝かせた場所だった。石の隙間から覗く乳白色の蹄に、まだ土がついていた。世界樹の下で初めて立ち上がり、歩くたびに、自分の足を不思議そうに見ていた馬の蹄だった。


 その首へ、白い布が掛かっていた。


 鎌が振り下ろされた。

 布は切れた。馬の身体が、石へ重く戻った。


 ランカスターは膝をついた。

 片手で瓦礫を除き、馬の顔を出した。閉じない目に、曇った空が映っていた。


「……待ってろって、言ったろうが」


 叱る声だった。

 返事を待ってしまう声だった。


 彼は馬の額へ触れた。傷のない、新しい額だった。

 昔の馬に返せなかったものを、この馬にも返せなくなった。そのことを、今になってようやく理解したように、背中が丸くなった。


 布が再び持ち上がった。


 ランカスターは鎌を振った。今度は、途中で腕が止まった。肩から落ちた血が、乳白色の頬へ筋を作った。


 白い布が手首へ絡んだ。


「ランカスター!」


 ミカエルが飛んだ。

 水が二人の間に架かり、彼の黒い袖を引いた。布と水が引き合うたび、傷ついた翼から赤い羽が抜けた。


 ランカスターは顔を上げた。


「来るな」


 鎌の柄が、石へ引っ掛かった。

 彼はそれを掴み直した。布を断とうと、刃を返した。


 瓦礫が崩れた。


 黒い衣も、白い馬も、沈むように布の下へ消えた。


 ミカエルの指先に、袖の切れ端だけが残った。

 彼女は、まだ水を引いていた。


 姿が見えなくなっても。


     *


 雨がやんだ。


 塔のあった場所に、白い繭が残っていた。

 何重にも巻かれた布の内側で、何かが脈打っている。そのたびに表面の皺が伸び、泥に落ちた端が、少しずつ中へ引き込まれていた。


 ライトはルファのそばへ戻った。

 戻らなければならなかった。彼女はまだ眠っていた。粉塵を吸わないよう顔を覆っていたルクルの上着を直し、呼吸を確かめた。


「膨らんでいる」


 凍えるような空の下。暗闇の繭を見るルクルが、そう言った。


「ああ、父さんはこの中でまだ生きてるかもしれない」


 ライトは顔を上げた。


「最後に、俺を見たんだ」


 ルクルの目が、こちらへ戻った。


「帰るって、言いかけた。俺の手も……」


 そこで、声が途切れた。

 指が触れただけだったかもしれない。糸に引かれた腕が、たまたま自分へ向いただけだったかもしれない。


 けれど、あの顔を見たのは自分だった。


「そう」


 ルクルが低く言った。


 励ましも、否定もなかった。

 ライトは唇を噛み、父に触れた手を開いた。


 その向こうで、ミカエルが立ち上がった。


「どうしたら救えますか」


 白い杯と青い杯を握っていた。


 ルクルは首を振った。


「今は、これを開く方法がわからない。でも、これ以上、成長させないようにはできる」


「中にいる人たちも、そのまま」


「……そうなるね」


 ミカエルの顔から、表情が消えた。


 ライトは何か言おうとした。

 その前に、繭が大きく膨らんだ。周りの草が一斉に内側へ倒れ、根元から土を剥がされた。ルクルの札が何枚も飛び、その縁を押さえた。


「長くは持たない。君の水で囲える?」


 ミカエルは、しばらく杯を見ていた。

 やがて、目を閉じた。


 水が、白い杯から青い杯へ流れた。

 その途中で幾筋にも分かれ、繭の周囲へ落ちていく。ライトを閉じ込めたものと同じ虹色の柱が立ち、頭上で結ばれた。


 ルクルが一枚の札を、その水へ触れさせた。


 札の上に、小さな虹が生まれた。


 ライトは目を見開いた。

 次の札にも、同じ水の柱が立った。その次にも。四角い紙が風へ散り、それぞれに虹を載せて繭を囲んでいく。


 柱が柱を支え、梁が渡される。

 無数の小さな檻が重なり、白い繭の周囲に、一つの大きな城壁ができていった。


「……そんなことも、できるのか」


「見えた仕組みを、借りているんだ」


 ルクルは、札から目を離さなかった。


「全部が、わかるわけじゃないけどね」


 水が張り詰める音がした。

 繭の動きが、いったん止まった。


 ライトは初めて、自分が息を詰めていたことに気づいた。


     *


 ルファの唇へ、濡らした布を当てた。

 水を飲ませようとしたライトを、ルクルが止めたのだった。目を覚ましてからにしよう、と。今は、乾いたところを湿らせるだけでいい。


 布を離すと、唇に小さな水滴が残った。


 いつもなら、自分で拭くだろう。

 そう思っただけで、胸が苦しくなった。


「目、覚めるよな」


 ルクルはルファの指先を見た。

 薄い光は、まだ消えていなかった。


「大丈夫、休ませよう。ここより、静かな場所で」


「魔法を使いすぎたから?」


「それもあると思う」


「ほかにも、あるのか」


 ルクルの手が止まった。


 ライトは、返事を待った。

 塔の中で、ルファは何度も顔色を変えた。それでも硝子を作った。落ちている間さえ、何も生まれなくなった掌を、自分の翼へ押し当てていた。


「俺が、作ってくれって頼んだ」


「ライト」


「守ってもらってばかりだった。今度は俺が、と思って……それでも、作ってもらわないと何もできなかった」


 ルクルはしゃがんだ。

 濡れた草が、赤い服の膝へ貼りついた。


「君が抱いていなかったら、ルファはここにいない」


 ライトは俯いた。


「それだけじゃ、足りないほど……」


「今は、離さないでいてあげて」


 その言い方に、引っ掛かるものがあった。

 今は。

 ほかに何か知っている。店にいた頃から、ずっと。


 ライトはルクルを見た。


「帰ったら、聞かせてくれ」


 白銀の髪の下で、目が動いた。


「ルファのことも。お前のことも。俺が知らなくていいって、勝手に決めないでくれ」


 ルクルは、すぐには答えなかった。

 やがて、小さく頷いた。


「……わかった」


 遠くで、水が鳴った。


 ミカエルが、虹の城壁へ歩いていた。


     *


 両手の杯が、離れていく。


 青い杯から落ちる水だけが、途中で上へ折れていた。

 流れが柱を逆に昇り、虹の継ぎ目へ染み込んでいく。


 ルクルが立ち上がった。


「何をしている」


 ミカエルは振り返らなかった。


「通り道を、一つだけ残しました」


 柱の下に、細い隙間があった。

 人の通れる幅ではなかった。水一筋ほどの、それでも内側と外側をつなぐ隙間だった。


 同じ隙間が、ほかの柱にも現れた。

 ルクルの札が作った虹にも。


「閉じて」


「中へ入ります」


「開けたら、何が出てくるかわからない」


「閉じたら、あの人たちは」


 ミカエルの声が、初めて荒れた。

 振り向いた顔に、涙が流れていた。


 ライトは立ち上がろうとした。

 ルファの肩が腕の中で傾き、慌てて支え直した。


「あの人は、待つんです」


 ミカエルは城壁へ顔を戻した。


「帰ってこないとわかっていても。ずっと、あの湖で」


 赤い翼が、震えていた。


「昔、湖に紛れ込んだ海の魔物に襲われました。私を助けようとして、あの馬が……」


 言葉が途切れた。

 ランカスターが根元へ残した、古い手綱を思い出した。新しい馬には着けなかった手綱だった。


「今日こそ、待たせなくて済むと思ったのに」


 ルクルの札が隙間へ集まった。

 塞ぐより早く、柱の内側を黒い筋が走った。水の流れに逆らうように、繭から細い布が伸びている。


 ミカエルは、白い杯を草へ置いた。


「上の門は、まだ残っています。塔が崩れたとき、主の封じがほどけるのが見えました」


 杯の水面に、白い点が浮かんでいた。

 空が映っているのだと、ライトは遅れて気づいた。雲の向こうにある何かが、小さく明滅していた。


「ルファ様を、連れていってあげてください」


「一緒に来いよ」


 言葉が出た。

 ミカエルの横顔が、わずかにこちらを向いた。


「繭の中へ入ったら、出られるのか」


 答えはなかった。


「わからないんだろう。だったら――」


「置いていけません」


 その一言は、ライトにも覚えがあった。

 ついさっき、ルクルの腕を振りほどこうとしたとき、自分も同じことしか考えられなかった。


 だが、彼女を行かせていい理由にはならなかった。


「ミカエル!」


 ルクルの札が、赤い翼へ伸びた。

 水がそれを押し返した。


 ミカエルは青い杯を胸へ抱き、城壁の隙間へ身体を向けた。

 水の柱が一斉に撓んだ。彼女が作った小さな通り道を、内側から白い布がこじ開けていた。


 赤い翼が、呑まれた。


 一枚の羽が外に残り、草へ落ちた。

 誰を呼ぶ声も、もう聞こえなかった。


 城壁が内側へ折れた。

 虹の梁が次々に砕け、水へ戻る間もなく、白い繭へ吸い込まれていった。


 ルクルが腕を引いた。

 戻ってきた札の半分は、色を失っていた。


「離れよう」


 地面が、足元で裂けた。


     *


 ルファを抱き上げると、背中に鋭い痛みが走った。

 ライトは膝を伸ばしきれなかった。ルクルが片側を支え、二人で斜面を上がった。荷物は数枚の札に持ち上げられ、すぐ後ろをついてきた。


 湿った草が足へ絡んだ。

 いや、草が伸びたのではなかった。地面ごと、後ろへずれていた。


 振り返ると、塔の礎石が動いていた。

 ひとつが倒れ、見えない力に押されるように繭へ滑っていく。崩れ残った庇も、その下に置いてきた硝子の翼も、土煙の向こうへ隠れた。


 首へ結んだ布が、最後に見えた。

 橋を渡ってきた馬を、連れて帰るつもりだった。


 ライトは目を逸らした。

 数歩先の草へ、足を置いた。


 ルクルが空へ札を放った。

 白い翼が開き、三人の身体が地面を離れた。だが、すぐに傾いた。風が内側へ巻いている。大きく羽ばたくほど、繭の方へ引かれていった。


 ルクルは斜面の岩陰へ降りた。

 紙の翼が、軋む音を立てて畳まれる。


 ライトはルファを抱き直した。

 自分たちの上を、土と石が流れていく。岩陰を出れば、立っていられるかどうかもわからなかった。


「月へ、飛べないのか」


「門を通らないと、別の世界へは渡れない」


「さっきの杯」


 ルクルが懐から白い杯を出した。

 水はまだ残っていた。揺れる水面の中で、白い点が細くなったり、丸く広がったりしていた。


 ライトは空を見上げた。

 流れる雲の切れ目に、かすかな光があった。


 星に見えた。


 けれど、水面の中で拡がったそれには、四角い縁があった。塔の上にあったはずの門だった。支えるものを失ってなお、空の一点に残っていた。


「届けば、通れる?」


「まだ、つながっていると思う。でも、この風の中を、三人では――」


 言い終わる前に、岩の上を大きな石が跳ねていった。


 ライトはルファに覆いかぶさった。

 彼女の手が胸へ触れた。自分の意思で動かしたのではなかった。それでも、その指の形を見たとき、忘れていた部屋が、ひどく鮮明に浮かんだ。


 作業台。

 並べられた硝子。

 まだ何も知らなかった自分の手の上へ、重ねられた手。


 全部を、一度につなごうとしなくていい。


 ルファはそう教えた。

 隣り合う二枚が、ちゃんと支え合えるように。そこを確かめてから、次へ進む。


 ライトは顔を上げた。


「塔を作れないか」


 ルクルが見た。


「硝子で。さっき、ミカエルの魔法を真似たみたいに」


 ルクルの視線が、ルファへ落ちた。


「形は作れる。でも、あの高さまで伸ばしたら、この風には耐えられない」


「俺が、触れば」


 口にしてから、怖くなった。


 塔を壊した光が、自分の手から放たれた。

 止めようとしても止まらなかった。あれがもう一度、ルファのそばで起きたら。


 ライトは、開いた掌を見た。


「……壊さないように、やってみる」


 ルクルはすぐには頷かなかった。


「僕の作った硝子で、できるかい」


「わからない」


 女王の冷たい手を思い出した。

 どれだけ願っても、何も起こらなかった。


「小さいのでいい、確かめたい」


 ルクルは一枚の札を差し出した。


 その上に、淡い青の硝子が生まれた。

 薄い枠に囲まれた、小さな四角だった。ルファが工房で作るときと、よく似た光の集まり方をしていた。


 ライトは指を載せた。


 何も起こらなかった。


 息が浅くなった。

 掌を押しつけそうになり、止めた。


 指を緩める。

 冷たさを、確かめる。


 厚さの違うところがあった。縁の一角が、わずかに浮いていた。

 いつもの作業なら、そこを直してから次へ進む。


 ライトは、その一角へ指を滑らせた。


 金色の筋が走った。


 光はすぐには広がらなかった。縁に沿ってゆっくり進み、青い面を一周したところで、指の下へ戻ってきた。


 ルクルが硝子を持ち上げた。

 風へ差し出しても、割れなかった。


 二人は顔を見合わせた。


「これなら、いけるかもしれない」


 ライトは頷いた。

 できると言い切ることは、もうできなかった。

 それでも、次に手を伸ばす場所は見えた。


     *


 最初の柱が、岩陰から伸びた。


 赤い札が四隅へ散り、白い札が間を渡った。その上に薄い硝子が張られ、風を受ける前に、ライトの掌から走った金色の線が枠をつないだ。


 低い音がした。

 柱が、持ちこたえた。


 次の柱が立つ。

 その間に床が生まれる。


 ルクルがルファを抱き、ライトは片手を壁へ当てて進んだ。

 もう片方の手には荷物を持った。軽いはずの袋が、指へ食い込んだ。肩の傷が痛み、上へ伸ばすたびに、息が詰まった。


 階段ができた。

 足を載せた段の奥へ、金色の光が沈んだ。


 一段。

 その次。


 完成した塔を昇るのではなかった。

 足を置ける場所を、自分たちの前に作っていた。


 壁の向こうを、黒い石が横切った。

 硝子に当たり、弾かれた。細い亀裂が入る。ライトは立ち止まり、その縁へ掌を移した。


「止まれる?」


「少しなら」


 ルクルの声にも、余裕はなかった。

 数枚の札が風へ剥がされ、暗い空へ消えていく。


 ライトは亀裂を見た。

 埋めようとするほど、光が一か所へ集まった。刃に雷が落ちたときの熱が、手首に蘇った。


 違う。


 傷口を無理に塞ぐのをやめた。

 その周りの枠へ、指を移した。隣の一枚へ重さを渡し、さらに、その隣へ渡す。


 七年、そうしてきた。

 上手にできなかった硝子を、すぐに捨てずに済む方法を探してきた。


 亀裂は残った。

 だが、壁は崩れなかった。


「行こう」


 ルクルが頷いた。


 硝子の塔は、少しずつ形を変えた。

 風の強い側には、小さな面を幾つも重ねた。大きく張れば割れるところを、細い枠で分けた。傾いた床は、その上に低い段を作って補った。


 真っ直ぐな塔にはならなかった。


 ライトが初めて作った、あの青い飾りに似ていた。

 継ぎ目が揃わず、近くで見れば直した跡がわかる。それでも窓に掛けると、朝の光を受け止めた。


 今は、三人の重さを受け止めていた。


 ルクルの腕から、ルファの手が下がった。

 その指先が、壁へ触れた。


 何も作られなかった。

 彼女は眠ったままだった。


 ライトは、そのすぐ横へ手を置いた。


「ここは、俺たちにまかせて」


 風に紛れるほどの声で言った。


 次の段が、金色に照らされた。


     *


 雲の中へ入った。


 硝子の向こうが、何も見えなくなった。

 雨の匂いがした。下から響いていた地鳴りが遠のき、その代わり、塔そのものが軋む音だけが近くなった。


 ライトは段を数えるのをやめていた。

 指の感覚も、ほとんどなかった。


 ルクルが足を止めた。


「もう少しだ」


 顔を上げる。

 白い霧の奥に、細い縦の光があった。


 ルクルが札を放った。

 最後の梁が伸び、その光を挟むように立ち上がった。


 扉だった。


 石でも硝子でもない白い縁だけが、空中に残っていた。向こうには、こちらと違う暗さがあった。


 夜だった。


 ライトは最後の床へ手を当てた。

 金色の光が走る。途中で薄くなった。自分の身体から、何かが抜けていくようだった。


「そこまででいい」


 ルクルが言った。


 扉の縁へ札が重なった。

 紙の翼がもう一度開き、ルファを抱いた身体が浮いた。ライトも腕を取られ、足が床を離れた。背後で、階段が割れた。


 白い縁を越えた瞬間、風がやんだ。


 足元に、狭い足場があった。

 三人が降りると、その先から細い線が二本、闇へ伸びているのが見えた。


 線路だった。


 空に掛かっていた。

 支える柱は見えなかった。遠くで、二本の線が星明かりを受け、一本に重なっていた。


 ライトは息をした。

 冷たい、乾いた空気だった。


 初めて、空に星があることに気づいた。

 数えきれないほどの光が、静かに散っていた。あれほど風が吹いていたのに、ここでは、ひとつも揺れていなかった。


 背後の門から、硝子の砕ける音がした。


 足場が傾いた。


「ルクル」


「聞こえる?」


 遠くで、金属が鳴っていた。

 一定の間隔で近づいてくる音だった。レールに置いた靴の裏から、かすかな震えが伝わった。


 闇の奥に、灯りがともった。


 一つ、二つ。

 やがて幾つもの窓になった。青い窓、琥珀色の窓。細い黒の縁取りに区切られた光が、夜の中を滑ってくる。


 ステンドグラスの列車だった。


 硝子の車体が、星を透かしていた。

 その内側には、誰も座っていない長椅子が並んでいる。


 車輪が長く軋み、三人の前で速度を落とした。

 ルクルが白い杯を掲げると、先頭の窓に同じ白い光が映った。扉が開いた。


 ルクルが先に乗り、ルファを長椅子へ横たえた。

 ライトは荷物を投げ入れ、縁を掴んだ。


 足場が、落ちた。


 靴の底が空を掻いた。

 ルクルの手が、上着を掴んだ。ライトは肘を床へ押しつけ、身体を引き上げた。


 扉が閉じた。


 床へ倒れたまま、しばらく動けなかった。

 頬に、冷たい硝子の感触があった。耳のすぐ下で、車輪の音が続いていた。


 走っている。


 ライトは顔を上げた。

 窓の外で、白い門が小さくなっていった。その手前に残っていた硝子の塔が、下から順にほどけていた。


 崩れた破片が、光を返した。

 ひとつずつ、暗い雲へ沈んでいく。


 ライトは最後まで見ていた。

 やがて、何も見えなくなった。


     *


 ルファのそばへ座った。


 靴から泥が落ち、青い床に小さな山を作った。

 袖も、指も、汚れていた。右手の指輪の溝にまで、白い石の粉が入っていた。


 ライトは袖口でそれを拭った。

 小さな翼の模様が現れた。


 ルファはまだ目を覚まさなかった。

 列車の揺れに合わせて髪が動く。胸は、静かに上下していた。


 その手を取った。


 父の手とは違った。

 ずっと知っているはずの手なのに、こうして温かさを確かめるたび、知らなかったものに触れる気がした。


「父さんが」


 声が、思ったより掠れていた。


 向かいに座ったルクルが、顔を上げた。


「帰るって、言いかけたんだ」


「うん」


「……そう、聞こえた」


 言い直すと、涙が落ちた。

 こらえようとしたが、間に合わなかった。


 七年前には、父を返せと叫べばよかった。

 奪った誰かがいて、その誰かを見つければ、すべて元に戻ると思っていた。


 実際に触れた父の手には、自分の知らない歳月があった。

 母を待たせた時間も、自分たちを知らずにいた時間も、ひとつも消えていなかった。


 それでも、あの手を離したくなかった。


「聞きたいこと、まだあるんだ」


 ルクルは何も言わなかった。

 膝の上で札を揃える音だけが、車輪の音に混じった。


 ライトはルファの手を両手で包んだ。

 握りしめずに、ただ、載せた。


 父の声が本当に自分へ向けられたものだったのか、わからない。

 ルファがいつ目を覚ますのかも、帰るまでにあとどれだけの時間が過ぎるのかも。


 けれど、この手の温かさは、今ここにあった。


 窓へ目を向けた。

 幾つもの色に分かれた夜が、ゆっくり流れていた。琥珀色の硝子を通る星は金色に、青い硝子を通る星は冷たく澄んで見えた。


 ルファに教わった。

 同じ光でも、通る硝子で変わるのだと。


 ライトは、彼女の顔へ戻る星明かりを見ていた。

 やがて、声を落として言った。


「鳥、結局何羽いたんだろうな」


 返事はなかった。


「レインに聞かれたら、一緒に困ってくれよ」


 車輪が、継ぎ目を越えた。

 彼女の指が揺れ、掌へ少し深く収まった。


 ライトはその手を支えた。


 夜の向こうに、白い月が見え始めていた。



 

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