ⅩⅧ 《月》 月の裏側
列車の窓に、二つの顔が映っていた。
一つは、眠っているルファ。
もう一つは、その傍らで目を開けている自分だった。
重なった星のせいで、窓の中のルファは目を覚ましているように見えた。ライトは何度も隣を確かめた。そのたびに、同じ寝顔があった。呼吸は続いていた。手も温かかった。
ただ、呼んでも返事がなかった。
車輪の音が、少しずつ間遠になった。
窓の向こうに白い柱が現れた。一本が過ぎると、その奥から次の一本が現れる。等しい間隔で並ぶ柱の根元には、細かな砂が溜まっていた。
列車は音もなく滑り込み、長い回廊の前で止まった。
ルクルがルファを抱き上げる。
ライトは荷物と白い杯を持って、そのあとへ続いた。
足元が、薄く鳴った。
石に見えた床には、磨かれた硝子のような艶があった。自分の靴が、もう一足、その下へ沈んでいる。歩くたびに影がついてきたが、柱の陰へ入ると輪郭がぼやけ、足を止めても、まだ動いているように見えた。
振り返ると、列車の向こうが透けていた。
長椅子が、窓枠が、次第に夜へ溶けていく。最後に二本の線路だけが残り、それも、遠くの端から光を失った。
「待って」
声を掛けたときには、もう何もなかった。
帰る列車があるのか。
次にいつ来るのか。
聞く相手のいない問いを抱えたまま、ライトは荷物を持ち直した。
*
回廊の先は、屋根の高い広間だった。
白銀の柱が円を描いて並び、その間に透明な結晶が嵌め込まれていた。天井には、星と星をつなぐ細い線が走っている。獣の背、翼を広げた鳥、見知らぬ道具。空で見たばかりの星が、ここでは一つずつ名を持つものの形になっていた。
中央には、浅い水盤があった。
縁に伏せた二頭の獣の像は、片方が顔を上げ、もう片方が水へ鼻先を向けていた。表面の擦り減った背に、白い粉が積もっている。
風はなかった。
それでも、水面に映る星は揺れていた。
ルクルは柱の陰に上着を敷き、ルファを寝かせた。
ライトが膝をつくと、床の冷たさが布越しに伝わった。荷物から残った衣類を出し、彼女の肩の下へ重ねる。
布に包まれた短剣が、袋の口へ滑ってきた。
刃には黒い筋が残っていた。ライトはそれを袋の脇へ寄せ、外套を引き出した。
「ここが、イェソドか」
「そうだね」
「マルクトへの道は、どこにある?」
ルクルは広間の奥を見た。
二本の柱の間に、大きな円形の扉があった。継ぎ目の見えない白い面に、いくつもの輪が刻まれている。
「あの先を、確かめる」
場所を知っているような答えだった。
ライトはルクルの横顔を見た。
店では、こんな顔をしたことがあっただろうか。客の注文を忘れて笑っていたときも、アディーに皿を渡されていたときも、目の奥では、別のことを考えていたのだろうか。
ルクルは扉へ向かう前に、ルファの手首へ触れた。
しばらく待ち、その手を外套の中へ戻した。
「まだ、休ませた方がいい」
「さっきも、そう言った」
責めるつもりはなかった。
けれど、声にすると、責める言い方にしかならなかった。
ルクルは目を伏せた。
「うん」
「目が覚めない理由、わからないのか」
「……今、見えていることだけじゃ」
ライトはルファの顔へ戻った。
何でも知っているように見えた。
塔が崩れたときに現れ、虹の城壁を作り、硝子の塔まで作った。そんなルクルにも、できないことがある。
できないのか。
しないのか。
そう考えた自分が嫌になった。それでも、その違いを確かめたいと思った。
「俺の力も?」
ルクルがこちらを向いた。
「ルファの作った硝子だけだと思ってた。でも、お前の作ったものでも、光った」
ルクルの指が、カードの端を撫でた。
「最初に、あの器が割れたときから、何か知ってたんじゃないのか」
七年前。
父を返せと叫んだあと、自分の手から光が溢れた。青い器は割れ、破片だけが残った。その破片を、ルファは捨てなかった。
長いあいだ、自分だけが何も知らなかったのではないか。
そう思うと、店で過ごした日々まで、知らない部屋のように見えてきた。
「気づいたことは、あった」
ルクルが言った。
「それを、話してくれないか」
沈黙が落ちた。
水盤の方で、小さな音がした。
*
白い杯の水が、揺れていた。
ライトは床へ置いた杯を見た。
水面が盛り上がり、一滴が、縁を越えた。床へ落ちるはずの水は細く伸び、宙を這った。
広間の中央へ向かっていた。
ルクルがカードを投げた。
水の糸は、その手前で黒く染まった。
「離れて」
ライトはルファの身体を支え、柱の陰へ引いた。
杯が倒れた。こぼれた水は床を濡らさず、一筋に集まり、水盤の中へ流れ込んだ。
映っていた星が消えた。
代わりに、赤いものが浮かび上がった。
服だった。水の底を、誰かが歩いていた。
男が顔を上げた。
知らない、若い顔だった。
頬に皺はなく、薄く笑った口元にも、塔の上で見た疲れはなかった。赤い上着の襟を整えながら、浅いはずの水から、ゆっくりと上がってくる。
左手には、青い杯があった。
「いいところへ、着いたね」
声を聞いて、わかった。
ライトは短剣へ手を伸ばしかけた。
ルクルのカードが、二人と男の間へ並んだ。
「ルシフェル」
ルクルが呼んだ。
男は目を細めた。
「その顔をするのか。私にも」
青い杯が傾いた。
最後の水が水盤へ落ち、白い杯から伸びていた糸が切れた。
ミカエルが残していった杯だった。
あれを持って、ここまで逃げてきた。
ライトは唇を噛んだ。
「ミカエルはどこだ」
ルシフェルは、空になった青い杯を見た。
「彼女か? ここにいるよ」
「どこにいるって、聞いてるんだ」
男の胸のあたりで、赤いものが揺れた。
羽の先だった。服の模様かと思うほど薄く現れ、すぐに消えた。
ルシフェルが目を閉じた。
「君は、自分がここへ連れてきてしまったと思っている」
ライトの指が止まった。
「白い杯を捨てていれば、と」
誰にも言っていなかった。
今、自分の中に生まれたばかりの考えだった。
ルシフェルは、再び目を開けた。
「彼女は、よく人の心を見ていた。見すぎて、間違えることもあったようだけれど」
ルクルのカードが、一斉に向きを変えた。
ルシフェルはその動きを眺め、微笑んだ。
「そう急がないでほしい。ようやく、話ができるようになったんだ」
*
遠くの窓から、丸い影が見えた。
青とも緑ともつかない、大きな星だった。
その縁を、黒い染みが覆っていた。雲にしては輪郭が濃く、夜にしては、境が不自然だった。
ルシフェルがそちらへ目を向けた。
「ティファレトだよ」
ライトは立ち上がりかけた。
ルファの肩を支えていた手に力が入った。
世界樹があった。
城も、雪の下で春を待つ森もあった。ラタの灯りが、どこかを歩いているはずだった。
見えるほど遠くへ来てしまった。
それなのに、さっきの出来事が、あの丸い影の上で、まだ続いていた。
「何をした」
ルシフェルは答えなかった。
「戻しなよ」
ルクルが言った。
静かな声だった。
「外へ出したものを、戻すんだ」
「戻せ……私にだけ、そう言うのか」
ルシフェルは水盤の縁へ指を載せた。
水面に、細かな線が生まれた。文字だった。一つ書かれるたび、その上へ次の文字が重なっていく。
ライトはその書き方を知っていた。
白い部屋の壁。
砕けた天秤の破片。
読めなくなるほど、何度も書かれた言葉。
「彼は、よく記録していた」
ルシフェルが言った。
「昨日と今日で、同じ場所が違っている。道の曲がり方。窓から見える枝。誰かと交わしたはずの言葉。自分の間違いだと言われれば、それまでだ。だから書いた」
水面を覆った文字が崩れた。
新しい文字が、その上へ生まれた。
「それでも、記録と目の前の景色が合わなくなる」
「もういい」
ルクルが言った。
ライトは彼を見た。
ルシフェルは笑わなかった。
ただ、ゆっくりと目を閉じた。
「五十日」
広間が、急に静かになった気がした。
「ティファレトでは、およそ五十日ごとだった。私は、遠くから来る波のようなものだと思っていたよ。水面が揺れるのに、石を投げた者が見えない」
ルクルのカードが水盤へ落ちた。
文字が消えた。
「彼の記憶を、勝手に使うな」
「記憶を勝手に扱うのは、私だけかい」
ライトは二人を見比べた。
五十日。
この世界の一日が、向こうの一年なら。
数えかけて、やめた。
それを数えたところで、何がわかるのか。道が変わるという話と、自分たちの家で流れる時間が、どうつながるのか。
わからないことが増えるたびに、ルクルの顔だけが遠くなった。
「何か知ってるのか」
返事はなかった。
「ルクル」
「変化があったことは、否定しない」
ルクルはライトを見た。
口を開きかけた。その目が、ライトの肩越しで止まった。
布の擦れる音がした。
*
ルファが起きていた。
外套が肩から落ち、膝の上へ溜まっていた。
ライトは振り向いたまま、息を止めた。
「ルファ」
黒い髪が、頬へ掛かっていた。
彼女はゆっくり顔を上げた。
目が合った。
胸の奥で、何かがほどけた。
さっきまでの話も、ルシフェルのことも、一瞬だけ遠くなった。
「よかった。俺――」
ルファの唇が動いた。
「ライト」
その声だった。
雪山で呼ばれた声。工房で、次の硝子を渡すときの声。
ライトは手を伸ばした。
脇腹へ、冷たいものが触れた。
痛みは、あとから来た。
息を吸おうとして、吸えなかった。自分の身体の中へ、何かが入ってくる。その感覚だけが、妙にはっきりしていた。
視線を落とした。
短剣の柄があった。
その柄を握っているのは、ルファの手だった。
ライトは彼女の手首を掴んだ。
指が、ひどく冷たかった。
「……ルファ?」
彼女の手が、さらに押そうとした。
ライトは両手で止めた。彼女の肩は傷ついている。力を入れたら痛むはずだ。それなのに、目も、唇も、何も動かなかった。
違う。
そう思った瞬間、彼女の腕が引かれた。
刃が抜け、ライトは床へ倒れた。
ルクルのカードが、ルファの手から短剣を弾いた。
硝子の刃が遠くへ滑っていく。
ルファはそれを見なかった。
ルシフェルを見ていた。
「おかえり」
男が言った。
ルファの足が、床を離れた。
*
ルクルの手が、ライトの脇腹へ布を当てた。
押さえられると、痛みの形がはっきりした。ライトは声を呑み、ルクルの袖を掴んだ。
「何をした」
ルシフェルはルファを見上げていた。
「疲れているようだね」
「何をしたんだ!」
男の視線が戻った。
「君には、彼女のことがどれだけわかっている?」
ライトは答えなかった。
答えるための息が、足りなかった。
「何を好むか。何を怖がるか。何を隠しているか。知っていることを並べれば、それが彼女になるのかな」
ルファの指先で、光が生まれた。
眠っている間も消えなかった、あの薄い光だった。
細い線になって肩へ昇り、髪の間へ広がった。
月明かりの下で、彼女の輪郭だけが白く浮いた。
「やめろ。もう、作れないんだ」
ルファの周囲に、四角い硝子が現れた。
一枚ではなかった。薄い面が次々に重なり、羽根のように広がっていく。縁だけが鋭く光っていた。
ルクルが上を向いた。
ルファの手が下がった。
硝子が降った。
カードの翼が開いた。
ライトの頭上で、硬い音が続けざまに弾けた。白い翼へ硝子が食い込み、その向こうへ抜けた破片が床を削った。
水盤の獣像の耳が、欠けた。
ライトは頭を庇いながら、ルファを見た。
肩の傷へ光が集まっていた。彼女の指は、開いたまま動かなかった。
「ルファ、もういい!」
声は届かなかった。
ルクルが数枚のカードを自分の周りへ立てた。
残ったカードが再び翼となり、彼の背へ集まる。
「ここを押さえていて」
ルクルは、脇腹の布へライトの手を重ねた。
「あれは、彼女が自分でやっていることじゃない」
「わかってる」
ルクルがこちらを見た。
わかっている、と、もう一度言おうとした。
そのとき初めて、自分の声が震えていることに気づいた。
さっき触れたのはルファの手だった。
自分の名を呼んだあの声も、彼女の声だった。
頭で否定しても、身体は覚えていた。
ルクルは一瞬、口元を歪めた。
何か言いかけ、やめた。
白い翼が床の粉を巻き上げ、白い柱の間を上昇した。
*
硝子の雨が、横へ逸れた。
ルクルのカードがルファの周囲を回り、一枚ずつ、降ってくる刃を受けていた。空いた隙間から、彼女の手首へカードが近づく。だが、触れる前に新しい硝子が生まれ、紙を切り裂いた。
ライトは床に片手をついた。
立たなければと思った。
身体が、それに従わなかった。
目の前に、赤い靴が止まった。
「助けに行くつもりかい」
ルシフェルの手に、黒い楽器があった。
長い柄へ六本の弦が張られ、胴には黒い木と虹色の金属が嵌まっていた。
ランカスターのものだった。
あるはずの鎌の刃だけが、見えなかった。
ルシフェルが弦を撫でた。
音は、床から来た。
石を伝い、膝へ入り、骨の奥で低く鳴った。ライトは息を詰めた。支えていた腕が、勝手に折れた。
「返せ」
「どれを?」
次の音が鳴った。
足が動かなくなった。痛みのせいなのか、自分の足でなくなったのか、区別がつかなかった。
「彼は、器用だったね。水の流れを鈍らせるだけではなかった」
ルシフェルは楽器へ目を落とした。
指の動きまで、ランカスターのものに見えた。
ライトは床を探った。
短剣は、水盤のそばに落ちていた。身体を引きずれば届くかもしれない。そう思った途端、そこへ赤い靴が載った。
「考えたことが、そのまま顔に出る」
ルシフェルは目を閉じていた。
顔を見ているのではない。
考えてはいけないと思った。
そう思うほど、頭の中が言葉でいっぱいになった。
ルファ。
剣。
父さん。
痛い。
帰りたい。
弦が鳴った。
ライトは声を上げた。
上げた声まで、柱に当たって返ってきた。
音がやんでも、身体の中で鳴り続けた。
耳を塞ぎたい。けれど片手を離せば、脇腹の布が落ちる。もう片方の手を床から上げれば、倒れてしまう。
何もできなかった。
頭上で、ルクルの翼が大きく広がった。
こちらへ降りようとしている。その前へルファが滑り込み、両手を上げた。
硝子の壁が、二人を隔てた。
「忙しそうだね」
ルシフェルは言った。
「二人とも」
ライトは返事をしなかった。
ルファを見上げた。
白い光の中で、彼女の右腕だけが小さく震えていた。
肩が痛むのだ。
気づくと、かえって息が苦しくなった。
痛みがなくなったわけではない。あの身体のどこかに、まだ彼女がいる。
「……休ませてくれ」
声が掠れた。
ルシフェルの指が止まった。
「彼女を、休ませてやってくれ」
男はライトを見た。
しばらくして、静かに首を傾けた。
「彼女が欲しいのだろう」
ライトは顔を上げた。
「君を見て、君の名を呼んでくれる彼女が」
ルファの手が動いた。
頭上の硝子が、淡い青に変わった。
「戻してあげようか。君が望む顔に」
怖かった。
その言葉に、ほっとしかけたことが。
あの声で、もう一度名前を呼んでほしかった。
工房へ戻り、何もなかったように、隣で硝子を選んでほしかった。
ライトは目を閉じた。
耳の奥で、自分の鼓動がした。
「……あいつが、決めることだ」
ルシフェルが、少しだけ眉を動かした。
「何を?」
「俺と帰るかどうかも。まだ、魔法を使うかどうかも」
声が途切れた。
息を継いで、続けた。
「お前が、決めるな」
楽器を持つ手が動いた。
ライトは身を縮めた。
次の音を、待つしかなかった。
だが、弦は鳴らなかった。
*
一本の弦が、男の指へ巻きついていた。
ルシフェルは手を引いた。
弦は離れなかった。爪ごと巻き付け、指を胴へ押し戻した。
「……まだ、そんなことを」
楽器の内側で、低い声がした。
「人の道具を、勝手に使うな」
ライトは顔を上げた。
ランカスターの声だった。
ルシフェルが弦を掴んだ。
その手首に、別のものが絡んだ。
縄だった。
白い布ではなかった。擦り切れた細い繊維が幾本も撚られ、袖口から伸びていた。縄は男の腕を巻き、そのまま天井へと飛び出した。
星座の刻まれた梁に、端が絡みついた。
ルシフェルの身体が引かれた。
片足が床を離れた。
水盤の表面へ、文字が浮かんだ。
返せ。
何度も、何度も、その二文字が書かれた。
「私が拾ってやったんだぞ」
ルシフェルが言った。
初めて、声から余裕が消えた。
「瓦礫の下に残しておけば――」
縄が締まった。
言葉が途切れた。
楽器の縁から、曲がった刃が少しずつ現れた。ランカスターの鎌だった。ゆっくりと、持ち主を思い出すように形を取り戻していく。
「小僧」
声がした。
「聞こえるか」
ライトは頷いた。
声を出して頷き直した。
「聞こえる」
それだけのことに、喉が詰まった。
取り込まれた人々が、すべて消えたわけではなかった。
まだ、声がした。
ルシフェルの命令と違うことをする手が、中に残っていた。
「長くは、押さえられねえ」
鎌の刃が、男の胸元へ向いた。
ルファの動きが止まった。
天井近くで広がっていた硝子が、一枚、下へ落ちた。
ルクルのカードが、その隙間へ入った。
彼女の腕を包み、肩を支えた。
「ライト!」
呼ばれた。
ライトは立ち上がろうとして、膝をついた。
床に落ちた短剣が、指先から遠かった。
ルクルはルファを抱いて降りてきた。
足が床へ触れるより早く、彼女の手が、もう一度持ち上がった。
指先から細い光が伸びた。
天井の硝子が、それに引かれて集まり始めた。
「まだ、繋がってる」
ルクルが言った。
ライトは短剣へ手を伸ばした。
今度は、指が柄へ触れた。
*
柄には、血がついていた。
自分の血だった。
それを見たとき、初めて吐き気がした。喉の奥が冷たくなり、手を離しそうになった。
ライトは目を閉じ、息を吐いた。
ルファが作ってくれた剣だった。
何度も助けられた。城の梁へ届いたのも、檻から出られたのも、この刃があったからだった。
その剣で、彼女に傷つけられた。
どちらも、起きたことだった。
一方をなかったことにして、もう一方だけを覚えることはできなかった。
目を開けた。
握った手は、まだ震えていた。
ルシフェルがこちらを見ていた。
縄に腕を取られ、鎌の刃を胸へ向けられている。その姿は、白い部屋に吊られていた男に似ていた。
「斬れば、済むと思うか」
男が言った。
ライトは剣を持ち上げた。
刃先が揺れた。
父が、いる。
その考えが浮かんだ途端、ルシフェルの目が閉じた。
「そうだよ」
柔らかい声になった。
「ここにいる」
ライトは、伸ばしかけた腕を止めた。
ルクルが背後で、彼の名を呼んだ。
聞こえていた。ルファの腕を押さえながら、近づくなと言っている。
聞こえていたのに、視線を動かせなかった。
ルシフェルの頬に、皺が生まれた。
薄かった顎の影が濃くなり、口元に、見覚えのある疲れが現れた。
顔が変わっていった。
あの窪地で、自分を見ようとした顔へ。
「……ライト」
足元が遠くなった。
同じ名前だった。
さっきはルファに呼ばれた。今は、父に呼ばれている。
望んでいた声ほど、疑わなければならない。
そんな場所まで、来てしまった。
「ライト、見るんだ」
ルクルの声がした。
「その身体は、ルシフェルのものだ」
わかっていた。
若い顔が変わるところを、自分で見ていた。
それでも、父の口が動けば、聞いてしまう。
「大きく、なったな」
剣を持つ手が下がった。
ずっと、その言葉を待っていた。
十歳のときも。背が伸びて、母の手が頭に届きにくくなったときも。初めて自分の硝子を、店の窓へ掛けたときも。
今、言わないでほしかった。
言ってほしかった。
どちらも本当で、息ができなかった。
父の顔が、わずかに歪んだ。
胸元で、鎌の刃が震えた。
「目を逸らすな」
ランカスターが言った。
こちらへ向けた言葉なのか、内側の誰かへ言ったのか、わからなかった。
水盤に浮かんでいた文字が、一つずつ崩れていった。
頭上では、硝子が集まり続けていた。
星座の線を隠し、白い天井を覆っていく。ルファの肩が小さく震えた。ルクルのカードがその指を包んでも、光は隙間から漏れ出していた。
時間がなかった。
ライトは剣を握り直した。
父の顔を見たまま、問いかけた。
「……帰ろうと、したのか」
男の唇が止まった。
「俺の手に触れたとき」
誰が聞いているのか、わからなかった。
ルシフェルかもしれない。奪われた記憶が、声になっているだけかもしれない。
それでも、あの一瞬を確かめずにはいられなかった。
「俺が、いたって……わかった?」
父の顔が俯いた。
長い沈黙だった。
硝子の擦れる音だけが、降ってきた。
やがて、その喉が動いた。
「……手が」
声が掠れた。
ルシフェルが誰かの声を真似るときの、滑らかな調子とは違っていた。
「……もう、こんなに大きいのかと」
ライトの指から、少しだけ力が抜けた。
目の前の男が、顔を上げた。
その目に映っていたのは、剣ではなかった。
剣を握るライトの、手だった。




