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ステンドグラスの彼方に  作者: 羽月楓


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18/22

ⅩⅧ 《月》 月の裏側

挿絵(By みてみん)




 列車の窓に、二つの顔が映っていた。


 一つは、眠っているルファ。

 もう一つは、その傍らで目を開けている自分だった。


 重なった星のせいで、窓の中のルファは目を覚ましているように見えた。ライトは何度も隣を確かめた。そのたびに、同じ寝顔があった。呼吸は続いていた。手も温かかった。


 ただ、呼んでも返事がなかった。


 車輪の音が、少しずつ間遠になった。

 窓の向こうに白い柱が現れた。一本が過ぎると、その奥から次の一本が現れる。等しい間隔で並ぶ柱の根元には、細かな砂が溜まっていた。


 列車は音もなく滑り込み、長い回廊の前で止まった。


 ルクルがルファを抱き上げる。

 ライトは荷物と白い杯を持って、そのあとへ続いた。


 足元が、薄く鳴った。


 石に見えた床には、磨かれた硝子のような艶があった。自分の靴が、もう一足、その下へ沈んでいる。歩くたびに影がついてきたが、柱の陰へ入ると輪郭がぼやけ、足を止めても、まだ動いているように見えた。


 振り返ると、列車の向こうが透けていた。

 長椅子が、窓枠が、次第に夜へ溶けていく。最後に二本の線路だけが残り、それも、遠くの端から光を失った。


「待って」


 声を掛けたときには、もう何もなかった。


 帰る列車があるのか。

 次にいつ来るのか。


 聞く相手のいない問いを抱えたまま、ライトは荷物を持ち直した。


     *


 回廊の先は、屋根の高い広間だった。


 白銀の柱が円を描いて並び、その間に透明な結晶が嵌め込まれていた。天井には、星と星をつなぐ細い線が走っている。獣の背、翼を広げた鳥、見知らぬ道具。空で見たばかりの星が、ここでは一つずつ名を持つものの形になっていた。


 中央には、浅い水盤があった。

 縁に伏せた二頭の獣の像は、片方が顔を上げ、もう片方が水へ鼻先を向けていた。表面の擦り減った背に、白い粉が積もっている。


 風はなかった。

 それでも、水面に映る星は揺れていた。


 ルクルは柱の陰に上着を敷き、ルファを寝かせた。

 ライトが膝をつくと、床の冷たさが布越しに伝わった。荷物から残った衣類を出し、彼女の肩の下へ重ねる。


 布に包まれた短剣が、袋の口へ滑ってきた。

 刃には黒い筋が残っていた。ライトはそれを袋の脇へ寄せ、外套を引き出した。


「ここが、イェソドか」


「そうだね」


「マルクトへの道は、どこにある?」


 ルクルは広間の奥を見た。

 二本の柱の間に、大きな円形の扉があった。継ぎ目の見えない白い面に、いくつもの輪が刻まれている。


「あの先を、確かめる」


 場所を知っているような答えだった。


 ライトはルクルの横顔を見た。

 店では、こんな顔をしたことがあっただろうか。客の注文を忘れて笑っていたときも、アディーに皿を渡されていたときも、目の奥では、別のことを考えていたのだろうか。


 ルクルは扉へ向かう前に、ルファの手首へ触れた。

 しばらく待ち、その手を外套の中へ戻した。


「まだ、休ませた方がいい」


「さっきも、そう言った」


 責めるつもりはなかった。

 けれど、声にすると、責める言い方にしかならなかった。


 ルクルは目を伏せた。


「うん」


「目が覚めない理由、わからないのか」


「……今、見えていることだけじゃ」


 ライトはルファの顔へ戻った。


 何でも知っているように見えた。

 塔が崩れたときに現れ、虹の城壁を作り、硝子の塔まで作った。そんなルクルにも、できないことがある。


 できないのか。

 しないのか。


 そう考えた自分が嫌になった。それでも、その違いを確かめたいと思った。


「俺の力も?」


 ルクルがこちらを向いた。


「ルファの作った硝子だけだと思ってた。でも、お前の作ったものでも、光った」


 ルクルの指が、カードの端を撫でた。


「最初に、あの器が割れたときから、何か知ってたんじゃないのか」


 七年前。

 父を返せと叫んだあと、自分の手から光が溢れた。青い器は割れ、破片だけが残った。その破片を、ルファは捨てなかった。


 長いあいだ、自分だけが何も知らなかったのではないか。

 そう思うと、店で過ごした日々まで、知らない部屋のように見えてきた。


「気づいたことは、あった」


 ルクルが言った。


「それを、話してくれないか」


 沈黙が落ちた。


 水盤の方で、小さな音がした。


     *


 白い杯の水が、揺れていた。


 ライトは床へ置いた杯を見た。

 水面が盛り上がり、一滴が、縁を越えた。床へ落ちるはずの水は細く伸び、宙を這った。


 広間の中央へ向かっていた。


 ルクルがカードを投げた。

 水の糸は、その手前で黒く染まった。


「離れて」


 ライトはルファの身体を支え、柱の陰へ引いた。

 杯が倒れた。こぼれた水は床を濡らさず、一筋に集まり、水盤の中へ流れ込んだ。


 映っていた星が消えた。


 代わりに、赤いものが浮かび上がった。

 服だった。水の底を、誰かが歩いていた。


 男が顔を上げた。


 知らない、若い顔だった。

 頬に皺はなく、薄く笑った口元にも、塔の上で見た疲れはなかった。赤い上着の襟を整えながら、浅いはずの水から、ゆっくりと上がってくる。


 左手には、青い杯があった。


「いいところへ、着いたね」


 声を聞いて、わかった。


 ライトは短剣へ手を伸ばしかけた。

 ルクルのカードが、二人と男の間へ並んだ。


「ルシフェル」


 ルクルが呼んだ。


 男は目を細めた。


「その顔をするのか。私にも」


 青い杯が傾いた。

 最後の水が水盤へ落ち、白い杯から伸びていた糸が切れた。


 ミカエルが残していった杯だった。

 あれを持って、ここまで逃げてきた。


 ライトは唇を噛んだ。


「ミカエルはどこだ」


 ルシフェルは、空になった青い杯を見た。


「彼女か? ここにいるよ」


「どこにいるって、聞いてるんだ」


 男の胸のあたりで、赤いものが揺れた。

 羽の先だった。服の模様かと思うほど薄く現れ、すぐに消えた。


 ルシフェルが目を閉じた。


「君は、自分がここへ連れてきてしまったと思っている」


 ライトの指が止まった。


「白い杯を捨てていれば、と」


 誰にも言っていなかった。

 今、自分の中に生まれたばかりの考えだった。


 ルシフェルは、再び目を開けた。


「彼女は、よく人の心を見ていた。見すぎて、間違えることもあったようだけれど」


 ルクルのカードが、一斉に向きを変えた。


 ルシフェルはその動きを眺め、微笑んだ。


「そう急がないでほしい。ようやく、話ができるようになったんだ」


     *


 遠くの窓から、丸い影が見えた。


 青とも緑ともつかない、大きな星だった。

 その縁を、黒い染みが覆っていた。雲にしては輪郭が濃く、夜にしては、境が不自然だった。


 ルシフェルがそちらへ目を向けた。


「ティファレトだよ」


 ライトは立ち上がりかけた。

 ルファの肩を支えていた手に力が入った。


 世界樹があった。

 城も、雪の下で春を待つ森もあった。ラタの灯りが、どこかを歩いているはずだった。


 見えるほど遠くへ来てしまった。

 それなのに、さっきの出来事が、あの丸い影の上で、まだ続いていた。


「何をした」


 ルシフェルは答えなかった。


「戻しなよ」


 ルクルが言った。

 静かな声だった。


「外へ出したものを、戻すんだ」


「戻せ……私にだけ、そう言うのか」


 ルシフェルは水盤の縁へ指を載せた。

 水面に、細かな線が生まれた。文字だった。一つ書かれるたび、その上へ次の文字が重なっていく。


 ライトはその書き方を知っていた。


 白い部屋の壁。

 砕けた天秤の破片。

 読めなくなるほど、何度も書かれた言葉。


「彼は、よく記録していた」


 ルシフェルが言った。


「昨日と今日で、同じ場所が違っている。道の曲がり方。窓から見える枝。誰かと交わしたはずの言葉。自分の間違いだと言われれば、それまでだ。だから書いた」


 水面を覆った文字が崩れた。

 新しい文字が、その上へ生まれた。


「それでも、記録と目の前の景色が合わなくなる」


「もういい」


 ルクルが言った。


 ライトは彼を見た。


 ルシフェルは笑わなかった。

 ただ、ゆっくりと目を閉じた。


「五十日」


 広間が、急に静かになった気がした。


「ティファレトでは、およそ五十日ごとだった。私は、遠くから来る波のようなものだと思っていたよ。水面が揺れるのに、石を投げた者が見えない」


 ルクルのカードが水盤へ落ちた。

 文字が消えた。


「彼の記憶を、勝手に使うな」


「記憶を勝手に扱うのは、私だけかい」


 ライトは二人を見比べた。


 五十日。

 この世界の一日が、向こうの一年なら。


 数えかけて、やめた。

 それを数えたところで、何がわかるのか。道が変わるという話と、自分たちの家で流れる時間が、どうつながるのか。


 わからないことが増えるたびに、ルクルの顔だけが遠くなった。


「何か知ってるのか」


 返事はなかった。


「ルクル」


「変化があったことは、否定しない」


 ルクルはライトを見た。

 口を開きかけた。その目が、ライトの肩越しで止まった。


 布の擦れる音がした。


     *


 ルファが起きていた。


 外套が肩から落ち、膝の上へ溜まっていた。

 ライトは振り向いたまま、息を止めた。


「ルファ」


 黒い髪が、頬へ掛かっていた。

 彼女はゆっくり顔を上げた。


 目が合った。


 胸の奥で、何かがほどけた。

 さっきまでの話も、ルシフェルのことも、一瞬だけ遠くなった。


「よかった。俺――」


 ルファの唇が動いた。


「ライト」


 その声だった。

 雪山で呼ばれた声。工房で、次の硝子を渡すときの声。


 ライトは手を伸ばした。


 脇腹へ、冷たいものが触れた。


 痛みは、あとから来た。


 息を吸おうとして、吸えなかった。自分の身体の中へ、何かが入ってくる。その感覚だけが、妙にはっきりしていた。


 視線を落とした。


 短剣の柄があった。

 その柄を握っているのは、ルファの手だった。


 ライトは彼女の手首を掴んだ。


 指が、ひどく冷たかった。


「……ルファ?」


 彼女の手が、さらに押そうとした。

 ライトは両手で止めた。彼女の肩は傷ついている。力を入れたら痛むはずだ。それなのに、目も、唇も、何も動かなかった。


 違う。


 そう思った瞬間、彼女の腕が引かれた。

 刃が抜け、ライトは床へ倒れた。


 ルクルのカードが、ルファの手から短剣を弾いた。

 硝子の刃が遠くへ滑っていく。


 ルファはそれを見なかった。


 ルシフェルを見ていた。


「おかえり」


 男が言った。


 ルファの足が、床を離れた。


     *


 ルクルの手が、ライトの脇腹へ布を当てた。

 押さえられると、痛みの形がはっきりした。ライトは声を呑み、ルクルの袖を掴んだ。


「何をした」


 ルシフェルはルファを見上げていた。


「疲れているようだね」


「何をしたんだ!」


 男の視線が戻った。


「君には、彼女のことがどれだけわかっている?」


 ライトは答えなかった。

 答えるための息が、足りなかった。


「何を好むか。何を怖がるか。何を隠しているか。知っていることを並べれば、それが彼女になるのかな」


 ルファの指先で、光が生まれた。

 眠っている間も消えなかった、あの薄い光だった。


 細い線になって肩へ昇り、髪の間へ広がった。

 月明かりの下で、彼女の輪郭だけが白く浮いた。


「やめろ。もう、作れないんだ」


 ルファの周囲に、四角い硝子が現れた。

 一枚ではなかった。薄い面が次々に重なり、羽根のように広がっていく。縁だけが鋭く光っていた。


 ルクルが上を向いた。


 ルファの手が下がった。


 硝子が降った。


 カードの翼が開いた。

 ライトの頭上で、硬い音が続けざまに弾けた。白い翼へ硝子が食い込み、その向こうへ抜けた破片が床を削った。


 水盤の獣像の耳が、欠けた。


 ライトは頭を庇いながら、ルファを見た。

 肩の傷へ光が集まっていた。彼女の指は、開いたまま動かなかった。


「ルファ、もういい!」


 声は届かなかった。


 ルクルが数枚のカードを自分の周りへ立てた。

 残ったカードが再び翼となり、彼の背へ集まる。


「ここを押さえていて」


 ルクルは、脇腹の布へライトの手を重ねた。


「あれは、彼女が自分でやっていることじゃない」


「わかってる」


 ルクルがこちらを見た。


 わかっている、と、もう一度言おうとした。

 そのとき初めて、自分の声が震えていることに気づいた。


 さっき触れたのはルファの手だった。

 自分の名を呼んだあの声も、彼女の声だった。


 頭で否定しても、身体は覚えていた。


 ルクルは一瞬、口元を歪めた。

 何か言いかけ、やめた。


 白い翼が床の粉を巻き上げ、白い柱の間を上昇した。


     *


 硝子の雨が、横へ逸れた。


 ルクルのカードがルファの周囲を回り、一枚ずつ、降ってくる刃を受けていた。空いた隙間から、彼女の手首へカードが近づく。だが、触れる前に新しい硝子が生まれ、紙を切り裂いた。


 ライトは床に片手をついた。

 立たなければと思った。

 身体が、それに従わなかった。


 目の前に、赤い靴が止まった。


「助けに行くつもりかい」


 ルシフェルの手に、黒い楽器があった。

 長い柄へ六本の弦が張られ、胴には黒い木と虹色の金属が嵌まっていた。


 ランカスターのものだった。


 あるはずの鎌の刃だけが、見えなかった。


 ルシフェルが弦を撫でた。


 音は、床から来た。

 石を伝い、膝へ入り、骨の奥で低く鳴った。ライトは息を詰めた。支えていた腕が、勝手に折れた。


「返せ」


「どれを?」


 次の音が鳴った。

 足が動かなくなった。痛みのせいなのか、自分の足でなくなったのか、区別がつかなかった。


「彼は、器用だったね。水の流れを鈍らせるだけではなかった」


 ルシフェルは楽器へ目を落とした。

 指の動きまで、ランカスターのものに見えた。


 ライトは床を探った。

 短剣は、水盤のそばに落ちていた。身体を引きずれば届くかもしれない。そう思った途端、そこへ赤い靴が載った。


「考えたことが、そのまま顔に出る」


 ルシフェルは目を閉じていた。


 顔を見ているのではない。


 考えてはいけないと思った。

 そう思うほど、頭の中が言葉でいっぱいになった。


 ルファ。

 剣。

 父さん。

 痛い。

 帰りたい。


 弦が鳴った。


 ライトは声を上げた。

 上げた声まで、柱に当たって返ってきた。


 音がやんでも、身体の中で鳴り続けた。

 耳を塞ぎたい。けれど片手を離せば、脇腹の布が落ちる。もう片方の手を床から上げれば、倒れてしまう。


 何もできなかった。


 頭上で、ルクルの翼が大きく広がった。

 こちらへ降りようとしている。その前へルファが滑り込み、両手を上げた。


 硝子の壁が、二人を隔てた。


「忙しそうだね」


 ルシフェルは言った。


「二人とも」


 ライトは返事をしなかった。

 ルファを見上げた。


 白い光の中で、彼女の右腕だけが小さく震えていた。


 肩が痛むのだ。


 気づくと、かえって息が苦しくなった。

 痛みがなくなったわけではない。あの身体のどこかに、まだ彼女がいる。


「……休ませてくれ」


 声が掠れた。


 ルシフェルの指が止まった。


「彼女を、休ませてやってくれ」


 男はライトを見た。

 しばらくして、静かに首を傾けた。


「彼女が欲しいのだろう」


 ライトは顔を上げた。


「君を見て、君の名を呼んでくれる彼女が」


 ルファの手が動いた。

 頭上の硝子が、淡い青に変わった。


「戻してあげようか。君が望む顔に」


 怖かった。

 その言葉に、ほっとしかけたことが。


 あの声で、もう一度名前を呼んでほしかった。

 工房へ戻り、何もなかったように、隣で硝子を選んでほしかった。


 ライトは目を閉じた。

 耳の奥で、自分の鼓動がした。


「……あいつが、決めることだ」


 ルシフェルが、少しだけ眉を動かした。


「何を?」


「俺と帰るかどうかも。まだ、魔法を使うかどうかも」


 声が途切れた。

 息を継いで、続けた。


「お前が、決めるな」


 楽器を持つ手が動いた。


 ライトは身を縮めた。

 次の音を、待つしかなかった。


 だが、弦は鳴らなかった。


     *


 一本の弦が、男の指へ巻きついていた。


 ルシフェルは手を引いた。

 弦は離れなかった。爪ごと巻き付け、指を胴へ押し戻した。


「……まだ、そんなことを」


 楽器の内側で、低い声がした。


「人の道具を、勝手に使うな」


 ライトは顔を上げた。


 ランカスターの声だった。


 ルシフェルが弦を掴んだ。

 その手首に、別のものが絡んだ。


 縄だった。


 白い布ではなかった。擦り切れた細い繊維が幾本も撚られ、袖口から伸びていた。縄は男の腕を巻き、そのまま天井へと飛び出した。


 星座の刻まれた梁に、端が絡みついた。


 ルシフェルの身体が引かれた。

 片足が床を離れた。


 水盤の表面へ、文字が浮かんだ。


 返せ。


 何度も、何度も、その二文字が書かれた。


「私が拾ってやったんだぞ」


 ルシフェルが言った。

 初めて、声から余裕が消えた。


「瓦礫の下に残しておけば――」


 縄が締まった。

 言葉が途切れた。


 楽器の縁から、曲がった刃が少しずつ現れた。ランカスターの鎌だった。ゆっくりと、持ち主を思い出すように形を取り戻していく。


「小僧」


 声がした。


「聞こえるか」


 ライトは頷いた。

 声を出して頷き直した。


「聞こえる」


 それだけのことに、喉が詰まった。


 取り込まれた人々が、すべて消えたわけではなかった。

 まだ、声がした。

 ルシフェルの命令と違うことをする手が、中に残っていた。


「長くは、押さえられねえ」


 鎌の刃が、男の胸元へ向いた。


 ルファの動きが止まった。

 天井近くで広がっていた硝子が、一枚、下へ落ちた。


 ルクルのカードが、その隙間へ入った。

 彼女の腕を包み、肩を支えた。


「ライト!」


 呼ばれた。


 ライトは立ち上がろうとして、膝をついた。

 床に落ちた短剣が、指先から遠かった。


 ルクルはルファを抱いて降りてきた。

 足が床へ触れるより早く、彼女の手が、もう一度持ち上がった。


 指先から細い光が伸びた。

 天井の硝子が、それに引かれて集まり始めた。


「まだ、繋がってる」


 ルクルが言った。


 ライトは短剣へ手を伸ばした。

 今度は、指が柄へ触れた。


     *


 柄には、血がついていた。


 自分の血だった。

 それを見たとき、初めて吐き気がした。喉の奥が冷たくなり、手を離しそうになった。


 ライトは目を閉じ、息を吐いた。


 ルファが作ってくれた剣だった。

 何度も助けられた。城の梁へ届いたのも、檻から出られたのも、この刃があったからだった。


 その剣で、彼女に傷つけられた。


 どちらも、起きたことだった。

 一方をなかったことにして、もう一方だけを覚えることはできなかった。


 目を開けた。

 握った手は、まだ震えていた。


 ルシフェルがこちらを見ていた。

 縄に腕を取られ、鎌の刃を胸へ向けられている。その姿は、白い部屋に吊られていた男に似ていた。


「斬れば、済むと思うか」


 男が言った。


 ライトは剣を持ち上げた。

 刃先が揺れた。


 父が、いる。


 その考えが浮かんだ途端、ルシフェルの目が閉じた。


「そうだよ」


 柔らかい声になった。


「ここにいる」


 ライトは、伸ばしかけた腕を止めた。


 ルクルが背後で、彼の名を呼んだ。

 聞こえていた。ルファの腕を押さえながら、近づくなと言っている。


 聞こえていたのに、視線を動かせなかった。


 ルシフェルの頬に、皺が生まれた。

 薄かった顎の影が濃くなり、口元に、見覚えのある疲れが現れた。


 顔が変わっていった。


 あの窪地で、自分を見ようとした顔へ。


「……ライト」


 足元が遠くなった。


 同じ名前だった。

 さっきはルファに呼ばれた。今は、父に呼ばれている。


 望んでいた声ほど、疑わなければならない。


 そんな場所まで、来てしまった。


「ライト、見るんだ」


 ルクルの声がした。


「その身体は、ルシフェルのものだ」


 わかっていた。

 若い顔が変わるところを、自分で見ていた。


 それでも、父の口が動けば、聞いてしまう。


「大きく、なったな」


 剣を持つ手が下がった。


 ずっと、その言葉を待っていた。

 十歳のときも。背が伸びて、母の手が頭に届きにくくなったときも。初めて自分の硝子を、店の窓へ掛けたときも。


 今、言わないでほしかった。


 言ってほしかった。


 どちらも本当で、息ができなかった。


 父の顔が、わずかに歪んだ。

 胸元で、鎌の刃が震えた。


「目を逸らすな」


 ランカスターが言った。

 こちらへ向けた言葉なのか、内側の誰かへ言ったのか、わからなかった。


 水盤に浮かんでいた文字が、一つずつ崩れていった。


 頭上では、硝子が集まり続けていた。

 星座の線を隠し、白い天井を覆っていく。ルファの肩が小さく震えた。ルクルのカードがその指を包んでも、光は隙間から漏れ出していた。


 時間がなかった。


 ライトは剣を握り直した。

 父の顔を見たまま、問いかけた。


「……帰ろうと、したのか」


 男の唇が止まった。


「俺の手に触れたとき」


 誰が聞いているのか、わからなかった。

 ルシフェルかもしれない。奪われた記憶が、声になっているだけかもしれない。


 それでも、あの一瞬を確かめずにはいられなかった。


「俺が、いたって……わかった?」


 父の顔が俯いた。


 長い沈黙だった。

 硝子の擦れる音だけが、降ってきた。


 やがて、その喉が動いた。


「……手が」


 声が掠れた。

 ルシフェルが誰かの声を真似るときの、滑らかな調子とは違っていた。


「……もう、こんなに大きいのかと」


 ライトの指から、少しだけ力が抜けた。


 目の前の男が、顔を上げた。


 その目に映っていたのは、剣ではなかった。


 剣を握るライトの、手だった。



 

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