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ステンドグラスの彼方に  作者: 羽月楓


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19/22

ⅩⅨ 《太陽》 黄金の夜明け

挿絵(By みてみん)


 


 父の目が、自分の手を見ていた。


 ライトは短剣を下ろした。

 刃先が床へ触れ、小さく鳴った。その音に、目の前の男の肩が動いた。


「硝子を……」


 掠れた声だった。

 男の右手が持ち上がりかけ、縄に引かれて止まった。


「お前も、作るのか」


 ライトは頷いた。

 言葉が出るまでに、少し時間がかかった。


「ルファに、教わったんだ」


 男の視線が、彼の後ろへ移った。

 ルクルに支えられたルファがいた。目は開いていたが、誰も見ていなかった。持ち上がった指先から、天井へ細い光が伸びている。


 男の顔に、苦しそうな皺が寄った。


 父の顔だった。

 けれど、その身体は父のものではなかった。


「ライト」


 ルクルが低く呼んだ。


「そこにあるのは、ジンから奪われた記憶だ。話しているからといって、本心とは限らない」


 ライトは頷いた。


 わからないことは、わからないままだった。

 父の魂がどこにあるのか。この声に、どこまで父の意思が残っているのか。それを確かめる方法はなかった。


 ただ、聞きたいことがあった。

 そのために、ここまで来た。


「……どうして、行ったの」


 男の顔が、ゆっくりとこちらへ戻った。


「俺たち、生まれたばかりだったんでしょ」


 縄が軋んだ。

 男は腕を動かさず、ライトを見ていた。


「エマを、連れ戻せると思った」


「父さんなら?」


 男は、すぐには答えなかった。

 やがて、頷いた。


「そう、思っていた」


 天井で硝子が擦れた。

 重なった一角から、細い破片が落ちた。ルクルのカードが受け止め、粉にして床へ落とした。


 ライトは父の顔から目を離さなかった。


「最後の冒険にするって、言ったんだってな」


「ああ」


「母さんにも?」


「ああ」


 返事が短くなるたびに、腹が立った。

 それだけの言葉で出ていけたのか。自分たちのいる家を、最後だという約束一つに預けて。


「俺が生まれて、怖くなった?」


 訊くつもりのなかったことが、口をついた。


 男が息を止めた。


「二人も子供ができて、もう好きなところへ行けないから。だから、最後にって」


 言葉が続かなくなった。

 そんなことを考えていた自分を、知られたくなかった。父に会いたかった理由の中に、聞いたら取り返しのつかない答えまで、ずっと隠れていた。


「お前たちが、嫌だったわけではない」


 声が返ってきた。


 ライトは唇を噛んだ。


「じゃあ、どうして」


 男は俯いた。

 父のものではない長い指が、縛られた縄の中で曲がった。


「……家は、待っていてくれると思っていた」


 ライトは動かなかった。


「帰る場所があることと、そこにいる人が待てることを、同じにしていた」


 床に落ちた硝子が、光を返した。


 ライトは、ようやく口を開いた。


「待ててたんじゃない」


 自分の声が、ひどく幼く聞こえた。


「待つしか、なかったんだよ」


 男は顔を上げなかった。


 ライトは父を見ていた。

 何度も想像した再会だった。抱きつくかもしれないと思った。殴るかもしれないとも思った。


 実際には、膝をついたまま、言葉を絞り出すことしかできなかった。


「母さん、俺には言わなかった。寂しいとか、帰ってきてほしいとか。俺とレインには、あまり」


 息を吸うと、脇腹が痛んだ。


「だから、平気なんだと思ってた」


 男の唇が開いた。

 何も出てこなかった。


 ライトは、もう少しだけ話したかった。


「父さんを探しに行くって言ったとき、初めて聞いたんだ。俺までいなくなるのは嫌だって」


 男の顔が歪んだ。


「……すまなかった」


 欲しかった言葉の一つだった。


 けれど、それを聞いても、胸に溜まっていたものは消えなかった。怒りも、寂しさも、父に会えたと思ってしまう嬉しさも、同じ場所に残っていた。


「俺にだけ、謝らないでくれ」


 男が顔を上げた。


「母さんと、レインにも。帰って、自分で言ってくれ」


 そのとき、父の口元が笑った。


 父の表情ではなかった。


     *


「帰れるとも」


 滑らかな声が言った。


 頬の皺が薄くなり、顎の影が消えた。

 若い男の顔が、その下から現れた。


「出ていく前の朝へ。何も間違えていなかった朝へ」


 ライトは短剣の柄を握った。


 ルシフェルの手首へ、縄が深く食い込んだ。

 男は顔を顰め、肩を捻った。楽器の弦が一本、硬い音を立てて切れた。


「黙れ」


 ランカスターの声がした。


 ルシフェルは目を閉じた。

 次の瞬間、口元が引きつった。


「厄介だな。誰の声を聞けばいい」


 赤い上着の胸元を、水の筋が走った。

 片方の袖には細い縄が増え続け、もう片方の手は、楽器を掴もうとして途中で止まっていた。


 彼の中で、人々が抵抗していた。


 ライトは顔を上げた。

 父の声も、その一つだったのかもしれなかった。


「そんなに、嫌か」


 ルシフェルが言った。


「失う前へ戻してやると言っているんだ」


 ルクルのカードが、ルファの指を一本ずつ包むように重なりあっていた。

 それでも、光は漏れていた。天井を覆う硝子の塊が重さを増し、柱の上から落ちる粉は止まらない。


 ルシフェルの視線が、ルファへ移った。


「お前なら、わかるはずだ」


 ルファの肩が動いた。


「ルファ。お前まで、私から奪われたもののような顔をするのか」


 ライトは振り返った。

 彼女の目に、初めて何かが映った。目の前のものを見ようとしている。額に力が入り、唇が、わずかに開いた。


「……誰」


 声は細かった。


 ルシフェルの表情が止まった。


 長い一瞬のあと、彼はルクルを見た。


「それも奪ったのか」


 ルクルは答えなかった。


「私の娘、ルファ姫よ」


 男が言った。


 硝子の軋む音が、遠くなった。


 ライトはルファを見た。

 彼女はルシフェルを見つめていた。懐かしさの浮かぶ顔ではなかった。どこかへ手を伸ばし、その先に何もないことを確かめているような顔だった。


「……本当なの」


 ルファが尋ねたのは、ルクルだった。


 ルクルの指が止まった。

 カードが一枚、床へ落ちた。


「本当だよ」


 ルファは目を閉じた。

 ほんの短い間だった。目を開けたときにも、答えを見つけたようには見えなかった。


 ルシフェルが身を乗り出した。


「思い出せなくてもいい。私のところへ来れば――」


 ルファの右手が、下がった。


 自分で、下ろそうとしていた。


 ルシフェルの顔が変わった。

 細い光が強く張り、彼女の手首を引き上げた。


「ルファ」


 声に、初めて命令の響きが剥き出しになった。


 彼女は肩を震わせた。

 痛みを堪えるように、息を短く吐いた。


「もう、作れない」


「作れる。そこに、いくらでもあるではないか」


 天井の硝子が鳴った。


 ルファの指が、もう一度曲がった。

 開かされていた掌を、ゆっくり自分の胸へ戻そうとする。


「作りたく、ないの」


 ルクルがその腕を支えた。

 光がカードを焼き、白い端が黒く縮れた。


 ルシフェルの喉から、低い声が漏れた。


「私を誰だと――」


「聞いたわ」


 ルファは顔を上げた。


 泣いてはいなかった。

 何かを懐かしむ余裕も、憎む余裕もない。ただ、目の前で起きていることを、必死に見ようとしていた。


「あなたは、ライトを傷つけた」


 ライトは息を止めた。


「私の手を使って」


 ルシフェルの口が閉じた。


 ルファは自分の手を見た。

 指の腹に、乾きかけた血が残っていた。


 その手を、もう一度下ろした。


 水の音がした。


 ルシフェルの胸元から流れた水が、ルファから伸びる光の糸を横切っていた。

 誰が動かしたのか、わからなかった。青い杯は水盤の底に倒れ、赤い羽が一枚、その縁に引っ掛かっていた。


 糸が、緩んだ。


 ルファの腕が落ちる。


 今度は、引き上げられなかった。


     *


 ライトは短剣を床へ置いた。


 ルファの目が、その音を追った。

 彼女は刃に残る血を見て、それから、彼の脇腹を見た。


「ライト」


 一歩、近づこうとした。

 膝が崩れ、ルクルが支えた。


 ライトは手を伸ばした。

 ルファの手も動いた。だが、触れる前に止まった。


 指先が震えていた。


 ライトの手も、震えていた。

 それを隠すことはできなかった。


「今は、ここにいてくれ」


 言った。

 大丈夫だとは、まだ言えなかった。


 ルファは彼の顔を見た。

 唇を噛み、小さく頷いた。


 伸ばしかけた手を、彼の隣の床へ置いた。

 二人の指の間には、硝子一枚ほどの隙間があった。


 頭上で、大きな音がした。


 光の糸が切れても、硝子は消えなかった。

 積み上がった塊がゆっくり傾き、天井を押していた。亀裂が星座を横切り、柱の上端へ伸びていく。


 ルクルが立った。


「ここを出る」


「あれは」


 ライトは窓の外を見た。

 ティファレトを覆う黒い影は、まだ広がっていた。


「戻す」


 ルクルが、ルシフェルを見た。


「君が自分に使った術を、借りるよ」


 男の目が閉じた。


 すぐに、開いた。


「それは、やめろ」


 初めて聞く声だった。

 怒りよりも、恐れが先にあった。


 ルクルは手を上げた。

 宙に残っていたカードが、裏返った。


 白い面に、細い輪が浮かんだ。

 輪は折り重なり、繭のような形を作った。その内側に、若い男の輪郭が映る。


「自分の身体を、若い姿へ戻した。同じ流れを、繭だったところまで辿らせる」


「そんなことが、できるのか」


 ライトが訊くと、ルクルは一度だけこちらを見た。


「彼の術が、まだ残っているうちなら」


「父さんたちは」


 ルクルの目が止まった。


「取り込まれる前まで、戻せないのか」


 返事が来るまでの間に、床へ粉が降り積もった。


「起きたことは、何でもやり直せるわけじゃないんだ」


 ライトは父の消えた顔を見た。

 若い男が、縄の中で腕を捻っていた。


 ランカスターの鎌が、その胸元へ押し戻された。


「やってくれ」


 声がした。


「こっちで、押さえておく」


 水盤の底で、青い杯が鳴った。

 水が縁を越え、ルシフェルの靴へ絡んだ。縄が梁へ深く食い込み、男の両腕を引き留めた。


「私の中にいるんだぞ」


 ルシフェルの声が割れた。


「私を閉じれば、お前たちも――」


「聞こえてる」


 ランカスターが答えた。


 それ以上は、言わなかった。


 ライトは床についた手を握った。

 中にいる人々を救い出せたわけではなかった。それでも、誰もがルシフェルと同じものを望んでいるわけではない。


 彼らが今、こちらへ道を残そうとしていた。


 ルクルのカードが、男を囲んだ。


     *


 白い布が、赤い上着の縫い目からほどけた。


 袖が引かれ、襟が崩れた。

 若い顔に皺が戻りかけ、途中で白い糸に覆われた。糸は顔も腕も包み、身体を丸く閉じていく。


 広間の水が、逆に流れ始めた。

 水盤へ、青い杯へ、その奥に開いた暗い裂け目へ。


 窓の向こうで、黒い影が細くなった。


 ライトは見た。

 ティファレトの縁に、ほんの少し、元の色が戻るのを。


 城が無事なのか、世界樹はどうなったのか、ここからはわからなかった。

 ただ、広がっていたものが、今は戻っていた。


 ルクルが腕を引いた。

 円形の扉に刻まれた輪が、一つずつ回った。


 中央に線が生まれた。


 硝子が見えた。

 色のついた、見覚えのある硝子だった。


 その向こうに、階段があった。


「……店だ」


 ライトの声が掠れた。


 扉の縁に、太い腕が掛かった。

 向こうから、誰かが身体を乗り出した。


「ライト!」


 アディーだった。


 何度も叱られた声だった。

 その声が聞こえた途端、自分がどれほど疲れていたかを、ようやく知った。


 立ち上がろうとしたが、足が動かなかった。


 ルクルがルファを支えて扉へ運ぶ。

 アディーが受け取り、向こう側へ下ろした。


「もう一人!」


 アディーの声がした。


 ライトは短剣を拾おうとして、止まった。

 ルクルが先に布で包み、荷物へ入れた。その袋を扉へ滑らせてから、ライトの腕を肩へ回した。


 床が揺れた。


 白い繭の中から、声がした。


「ライト」


 振り返った。


 繭の中に、顔があった。

 父の顔だった。


 ルクルの足が、一瞬止まった。


「母さんに」


 声が途切れた。

 布が口元を覆いかけた。内側から押し返すように、父の顎が動いた。


「お前が、謝ることはない」


 ライトの喉が鳴った。


「……自分で、言ってくれよ」


 父の目が、彼を見ていた。


「父さん」


 その呼び方を、もう一度した。

 返事をする顔を見ながら、呼べるうちに。


 父の唇が動いた。


「帰りなさい」


 ライトは首を振った。

 子供のように、ただ振った。


 父の顔に、泣きそうな表情が浮かんだ。


「お前は、帰るんだ」


 天井が割れた。


 ルクルの腕に、強い力がこもった。

 ライトの身体が扉へ引かれた。向こうから伸びたアディーの手が、その背を受け止めた。


 父の顔が、小さくなった。


「父さん!」


 繭が閉じた。

 その直前に、もう一度、声がした。


「すまなかった」


 硝子の塊が、月の広間へ落ちた。


 扉が閉じた。


     *


 煮立つ湯の音がしていた。


 ライトは、目を開けた。

 低い天井があった。レースのカーテンが揺れ、その隙間に暗い窓が見えた。


 虹色Caféの二階だった。


 起き上がろうとすると、脇腹が痛んだ。

 声を呑むより早く、額に手が触れた。


「動かないで」


 母だった。


 ライトは目を見開いた。

 顔が近かった。髪に白いものが増えていた。目の下にも、知らない疲れがあった。


 見間違いではなかった。


「……母さん」


 母の口元が、何度か動いた。

 それから、額に当てていた手が頬へ移った。


「帰ってきたのね」


 ライトは頷いた。


 母の指が、頬の傷へ触れないように止まった。

 どこへ触れていいのかわからない、というような手だった。


 ライトはその手を取った。

 握ると、母の顔が歪んだ。


「ただいま」


 やっと言えた。


 母は目を閉じた。

 声を出さずに泣いた。


 入口で、足音がした。

 レインが立っていた。手に、水を入れたコップを持っている。髪が、出かけた日の記憶より長かった。


 妹はコップを机へ置いた。

 強く置きすぎて、水が少しこぼれた。


「遅い」


 声が震えていた。


 ライトは笑おうとして、できなかった。


「……ごめん」


「何度も、来たんだから」


「うん」


「何度も」


 それ以上は続かなかった。

 レインが椅子へ座り、両手で顔を覆った。


 母の手を握ったまま、ライトは妹を見ていた。


 旅の時間を、初めて見た気がした。

 手帳へ書いた数字でも、女王の言葉でもなかった。目の前にいる二人が、自分のいなかった時間を生きていた。


 戻っただけでは、埋まらなかった。


 それでも、戻ってこられた。


「何日も、帰り方がわからなかった」


 ライトは言った。


「怖いことも、あった。……話す。ちゃんと」


 レインが顔を上げた。


「今は、寝て」


 母が言った。


「お医者さんにも、言われたでしょう。しばらく動かさないようにって」


 言われた覚えはなかった。

 視線を下げると、服が替えられ、腹には厚く包帯が巻かれていた。扉を越えたあと、ところどころの音しか残っていない。アディーの腕。電話を掛ける声。傷へ触れられた痛み。


「ルファは」


「向こうの部屋にいる。目を覚ましたよ」


 母の答えを聞いて、息が抜けた。


 レインが、袖で顔を拭った。


「先に、あんたのこと聞いてた」


 ライトは目を閉じた。

 掌に残っていた硝子の冷たさが、少しずつ遠のいていった。


     *


 母は、父のことをすぐには訊かなかった。


 ライトに水を飲ませ、ずれた毛布を直した。窓の鍵を確かめ、もう一度、顔を見た。

 その一つ一つが終わるたび、部屋が静かになった。


 ライトは、その静けさの中で言った。


「父さんには、会えた」


 母の手が止まった。


 レインも顔を上げた。


「……一緒には、帰れなかった」


 母は座った。

 ゆっくりと、ライトのそばの椅子へ。


 何から話せばいいのか、わからなかった。

 絵も、塔も、白い布も。説明しようとするほど、父の顔が遠ざかる気がした。


 ライトは、確かに自分が見たことから話した。


「手を、握った」


 母が頷いた。


「父さん、俺がわからなかった。最初は。俺が生まれたころのことばかり、繰り返してた」


 母は口元へ手を当てた。


「すぐ戻るって」


 目を閉じた。


 その顔を見て、ライトは言葉を止めた。

 自分にとっては、この旅で初めて聞いた声だった。母はずっと、その声と暮らしていたのだ。


「最後に、俺を見た」


 続けるまでに、少し時間がかかった。


「大きくなったって。……それから、謝ってた」


 母の手が膝へ下りた。

 握った指の間に、布が寄った。


「そう」


 それだけだった。


 ライトは待った。


 母は窓を見た。

 暗い硝子に、三人の姿が映っていた。


「それは、自分で言いに来てほしかったわね」


 声は、驚くほど静かだった。


 ライトは頷いた。

 涙が頬を伝った。


 母の手が戻ってきた。

 頬へではなく、握りしめていた手の上へ。


「あなたが謝ることではないのよ」


 ライトは俯いた。


 父にも、そう言われた。

 同じ言葉を聞いたのに、二人はもう、同じ部屋にいなかった。


 レインが隣へ椅子を寄せた。

 何も訊かなかった。ただ、床へ投げ出されていたライトの鞄を拾い、自分の膝へ載せた。


 泥だらけの紐を、指でほどきかけた。

 途中でやめて、そのまま抱えていた。


     *


 窓が、少し明るくなっていた。


 眠ったのかどうか、ライトにはわからなかった。

 目を開けると、母は椅子で休んでいた。レインは一階へ下りたらしく、空いた椅子に鞄が置かれていた。


 扉が、小さく鳴った。


 ルファが立っていた。

 アディーに片腕を支えられていた。肩から上着を掛け、傷めた腕は胸元で留められている。


 ライトは身体を起こしかけた。


「お前は動くな」


 アディーが言った。


 ルファも、頷いた。


 母が目を覚ました。

 ルファを見ると、立ち上がって椅子を空けた。


 アディーがルファを座らせた。

 母は水差しを持って、彼と一緒に部屋を出た。扉は少し開けたままだった。


 二人になった。


 ルファは、膝の上へ置いた手を見ていた。

 指の間まで洗われていた。それでも、そこに血があるように見えているのだと、ライトにはわかった。


「覚えてる?」


 訊くと、彼女は頷いた。


「全部では、ないわ」


 声が掠れていた。


「塔を落ちたこと。そのあとは、暗いところで、誰かが話していて……あなたが呼ぶのも、聞こえていた気がする」


 彼女の指が曲がった。


「手を、止めたかった」


 ライトは黙って聞いた。


「でも、止まらなかった」


 脇腹が痛んだ。

 その痛みを、彼女に隠したくなった。隠さなければ、傷つける気がした。


 けれど、何もなかったような顔を続けたら、彼女はこれから何度でも、自分の表情を窺うだろう。


「怖かったよ」


 ライトは言った。


 ルファの目が上がった。


「ルファが起きて、俺を呼んだから。もう、大丈夫だと思ってた」


「……ええ」


「だから、怖かった」


 彼女は頷いた。

 目を逸らさなかった。


「ごめんなさい」


 ライトは、すぐに返事をしなかった。


 窓の外で、鳥が鳴いた。

 どこにでもいる、小さな鳥の声だった。


「ルファも、怖かっただろ」


 彼女の口元が歪んだ。


 その顔を見て、ライトは自分の手を毛布の上へ出した。

 ルファはそれを見たが、動かなかった。


「今なら、聞ける」


 ライトは言った。


「手を繋いでもいい?」


 彼女の目から、涙が落ちた。

 頷くまでに、少し時間がかかった。


 ライトは手を伸ばした。

 ルファも、ゆっくり手を動かした。


 指先が触れた。


 怖さがすべて消えたわけではなかった。

 けれど今度は、どちらも、自分で手を伸ばしていた。


 彼女の掌は温かかった。


「あの人のこと、何も思い出せないの」


 ルファが言った。


「父だと言われても。……何も」


 ライトは、つないだ手を見た。

 父の顔を知らないまま育った自分にも、その空白がどんなものかは、わからなかった。


「ルクルに、聞こう。俺も一緒にいるから」


 彼女は頷いた。

 まだ、聞かなければならないことがあった。帰ってきたこの部屋にも、二人の知らないことが残っていた。


     *


 夜明けの光が、窓の縁へ届いた。


 薄い金色が、床を少しずつ広がっていった。埃が浮かび、机の脚が長い影を落とす。見慣れた部屋の中へ、朝が戻ってきていた。


「飛行機」


 ライトが言った。


 ルファが顔を上げた。


「父さんの作ったやつ。まだ、あるよな」


「ええ。あの棚に」


「今度、ちゃんと見せてほしい。裏も」


 ルファは彼を見た。


「見えないところまで、丁寧に作ってたんだろ」


 彼女は小さく頷いた。


 ライトは窓へ目を向けた。


「一つ、作ってみたい」


「飛行機を?」


「同じものには、ならないと思うけど」


 父の手が、頭に浮かんだ。

 自分の手を見ていた目も。


 聞けなかったことが、いくつもあった。

 道具をどんなふうに並べるのか。どの色を、最初に選ぶのか。うまく切れなかったとき、どこまで直し、どこから作り直すのか。


 教わることは、できなかった。


 それでも、父の作ったものは残っていた。


「裏まで、見てみたいんだ」


 ルファの指が、彼の手を少しだけ握った。


「手が動くようになったら、一緒に見ましょう」


 今ではなかった。

 明日とも言わなかった。


 その先に、一緒に何かをする時間がある。

 そういう話ができたことが、嬉しかった。


 一階から、レインの声がした。


「ルファさん、鳥って何の話?」


 二人は顔を見合わせた。


 開いた鞄を、見られたのだと気づいた。

 手帳に、帰ってから話したいものを、いくつも書いてあった。


「世界樹のところで、見たんだ」


 ライトが答えた。


「白くて、羽の裏が少し桃色で」


「何羽?」


 ルファの肩が、かすかに動いた。


 ライトは彼女を見た。

 口元に、笑いかける形があった。涙の跡は、まだ乾いていなかった。


「……数えてない」


 一階で、レインが何か言った。

 聞き取れなかった。


 ルファが顔を伏せた。

 今度は、笑っていた。


 声になるほどの笑いではなかった。

 それでも、その横顔を見て、ライトはようやく、自分たちが帰ってきたのだと思った。


     *


 朝日が、階段の窓へ差し込んだ。


 青い硝子が光を受けた。

 ライトが初めて作った飾りだった。継ぎ目の揃わない、小さな作品。真ん中に嵌めた古い欠片が、金色を含んで輝いた。


 レインが階段の途中で立ち止まった。


「これ、こんなに光ったっけ」


 ライトは扉の方を見た。


 階段の壁に、青い光が伸びていた。

 朝の光なら、何度も見た。


 けれど、その光は、影へ入っても薄くならなかった。


 ルファの手が止まった。


 彼女の指先に、同じ色が浮かんでいた。

 今は何も作っていなかった。掌を閉じても、色は爪の縁から漏れた。


 一階で、硝子が鳴った。


 一つだけではなかった。


 棚の小鳥。

 窓辺の器。

 天井から吊った飾り。


 かすかな音が、店のあちこちで重なった。

 青い光のそばに、赤が生まれた。淡い黄色が伸び、そのどれもが、触れるもののない空中へ細く漂い始めた。


 階段を上がる足音がした。


 ルクルが、入口に立った。

 白銀の髪に朝日が当たっていた。両手には、何も持っていなかった。


「ルクル」


 ルファが呼んだ。


 ルクルは、光る指先を見た。

 それから、二人の顔を見た。


「もう、休ませるだけでは戻らないんだね」


 ルファの声は静かだった。


 ルクルは頷いた。


 ライトは、彼女の手を握り直した。


「何が、起きてるんだ」


 ルクルは部屋へ入った。

 椅子を一つ引き、二人の前へ座った。


 朝の光の中で、その顔がひどく疲れて見えた。


「話すよ」


 ルクルが言った。


「君たちに、黙っていたことを」


 階下で、また一つ、硝子が鳴った。



 

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