ⅩⅨ 《太陽》 黄金の夜明け
父の目が、自分の手を見ていた。
ライトは短剣を下ろした。
刃先が床へ触れ、小さく鳴った。その音に、目の前の男の肩が動いた。
「硝子を……」
掠れた声だった。
男の右手が持ち上がりかけ、縄に引かれて止まった。
「お前も、作るのか」
ライトは頷いた。
言葉が出るまでに、少し時間がかかった。
「ルファに、教わったんだ」
男の視線が、彼の後ろへ移った。
ルクルに支えられたルファがいた。目は開いていたが、誰も見ていなかった。持ち上がった指先から、天井へ細い光が伸びている。
男の顔に、苦しそうな皺が寄った。
父の顔だった。
けれど、その身体は父のものではなかった。
「ライト」
ルクルが低く呼んだ。
「そこにあるのは、ジンから奪われた記憶だ。話しているからといって、本心とは限らない」
ライトは頷いた。
わからないことは、わからないままだった。
父の魂がどこにあるのか。この声に、どこまで父の意思が残っているのか。それを確かめる方法はなかった。
ただ、聞きたいことがあった。
そのために、ここまで来た。
「……どうして、行ったの」
男の顔が、ゆっくりとこちらへ戻った。
「俺たち、生まれたばかりだったんでしょ」
縄が軋んだ。
男は腕を動かさず、ライトを見ていた。
「エマを、連れ戻せると思った」
「父さんなら?」
男は、すぐには答えなかった。
やがて、頷いた。
「そう、思っていた」
天井で硝子が擦れた。
重なった一角から、細い破片が落ちた。ルクルのカードが受け止め、粉にして床へ落とした。
ライトは父の顔から目を離さなかった。
「最後の冒険にするって、言ったんだってな」
「ああ」
「母さんにも?」
「ああ」
返事が短くなるたびに、腹が立った。
それだけの言葉で出ていけたのか。自分たちのいる家を、最後だという約束一つに預けて。
「俺が生まれて、怖くなった?」
訊くつもりのなかったことが、口をついた。
男が息を止めた。
「二人も子供ができて、もう好きなところへ行けないから。だから、最後にって」
言葉が続かなくなった。
そんなことを考えていた自分を、知られたくなかった。父に会いたかった理由の中に、聞いたら取り返しのつかない答えまで、ずっと隠れていた。
「お前たちが、嫌だったわけではない」
声が返ってきた。
ライトは唇を噛んだ。
「じゃあ、どうして」
男は俯いた。
父のものではない長い指が、縛られた縄の中で曲がった。
「……家は、待っていてくれると思っていた」
ライトは動かなかった。
「帰る場所があることと、そこにいる人が待てることを、同じにしていた」
床に落ちた硝子が、光を返した。
ライトは、ようやく口を開いた。
「待ててたんじゃない」
自分の声が、ひどく幼く聞こえた。
「待つしか、なかったんだよ」
男は顔を上げなかった。
ライトは父を見ていた。
何度も想像した再会だった。抱きつくかもしれないと思った。殴るかもしれないとも思った。
実際には、膝をついたまま、言葉を絞り出すことしかできなかった。
「母さん、俺には言わなかった。寂しいとか、帰ってきてほしいとか。俺とレインには、あまり」
息を吸うと、脇腹が痛んだ。
「だから、平気なんだと思ってた」
男の唇が開いた。
何も出てこなかった。
ライトは、もう少しだけ話したかった。
「父さんを探しに行くって言ったとき、初めて聞いたんだ。俺までいなくなるのは嫌だって」
男の顔が歪んだ。
「……すまなかった」
欲しかった言葉の一つだった。
けれど、それを聞いても、胸に溜まっていたものは消えなかった。怒りも、寂しさも、父に会えたと思ってしまう嬉しさも、同じ場所に残っていた。
「俺にだけ、謝らないでくれ」
男が顔を上げた。
「母さんと、レインにも。帰って、自分で言ってくれ」
そのとき、父の口元が笑った。
父の表情ではなかった。
*
「帰れるとも」
滑らかな声が言った。
頬の皺が薄くなり、顎の影が消えた。
若い男の顔が、その下から現れた。
「出ていく前の朝へ。何も間違えていなかった朝へ」
ライトは短剣の柄を握った。
ルシフェルの手首へ、縄が深く食い込んだ。
男は顔を顰め、肩を捻った。楽器の弦が一本、硬い音を立てて切れた。
「黙れ」
ランカスターの声がした。
ルシフェルは目を閉じた。
次の瞬間、口元が引きつった。
「厄介だな。誰の声を聞けばいい」
赤い上着の胸元を、水の筋が走った。
片方の袖には細い縄が増え続け、もう片方の手は、楽器を掴もうとして途中で止まっていた。
彼の中で、人々が抵抗していた。
ライトは顔を上げた。
父の声も、その一つだったのかもしれなかった。
「そんなに、嫌か」
ルシフェルが言った。
「失う前へ戻してやると言っているんだ」
ルクルのカードが、ルファの指を一本ずつ包むように重なりあっていた。
それでも、光は漏れていた。天井を覆う硝子の塊が重さを増し、柱の上から落ちる粉は止まらない。
ルシフェルの視線が、ルファへ移った。
「お前なら、わかるはずだ」
ルファの肩が動いた。
「ルファ。お前まで、私から奪われたもののような顔をするのか」
ライトは振り返った。
彼女の目に、初めて何かが映った。目の前のものを見ようとしている。額に力が入り、唇が、わずかに開いた。
「……誰」
声は細かった。
ルシフェルの表情が止まった。
長い一瞬のあと、彼はルクルを見た。
「それも奪ったのか」
ルクルは答えなかった。
「私の娘、ルファ姫よ」
男が言った。
硝子の軋む音が、遠くなった。
ライトはルファを見た。
彼女はルシフェルを見つめていた。懐かしさの浮かぶ顔ではなかった。どこかへ手を伸ばし、その先に何もないことを確かめているような顔だった。
「……本当なの」
ルファが尋ねたのは、ルクルだった。
ルクルの指が止まった。
カードが一枚、床へ落ちた。
「本当だよ」
ルファは目を閉じた。
ほんの短い間だった。目を開けたときにも、答えを見つけたようには見えなかった。
ルシフェルが身を乗り出した。
「思い出せなくてもいい。私のところへ来れば――」
ルファの右手が、下がった。
自分で、下ろそうとしていた。
ルシフェルの顔が変わった。
細い光が強く張り、彼女の手首を引き上げた。
「ルファ」
声に、初めて命令の響きが剥き出しになった。
彼女は肩を震わせた。
痛みを堪えるように、息を短く吐いた。
「もう、作れない」
「作れる。そこに、いくらでもあるではないか」
天井の硝子が鳴った。
ルファの指が、もう一度曲がった。
開かされていた掌を、ゆっくり自分の胸へ戻そうとする。
「作りたく、ないの」
ルクルがその腕を支えた。
光がカードを焼き、白い端が黒く縮れた。
ルシフェルの喉から、低い声が漏れた。
「私を誰だと――」
「聞いたわ」
ルファは顔を上げた。
泣いてはいなかった。
何かを懐かしむ余裕も、憎む余裕もない。ただ、目の前で起きていることを、必死に見ようとしていた。
「あなたは、ライトを傷つけた」
ライトは息を止めた。
「私の手を使って」
ルシフェルの口が閉じた。
ルファは自分の手を見た。
指の腹に、乾きかけた血が残っていた。
その手を、もう一度下ろした。
水の音がした。
ルシフェルの胸元から流れた水が、ルファから伸びる光の糸を横切っていた。
誰が動かしたのか、わからなかった。青い杯は水盤の底に倒れ、赤い羽が一枚、その縁に引っ掛かっていた。
糸が、緩んだ。
ルファの腕が落ちる。
今度は、引き上げられなかった。
*
ライトは短剣を床へ置いた。
ルファの目が、その音を追った。
彼女は刃に残る血を見て、それから、彼の脇腹を見た。
「ライト」
一歩、近づこうとした。
膝が崩れ、ルクルが支えた。
ライトは手を伸ばした。
ルファの手も動いた。だが、触れる前に止まった。
指先が震えていた。
ライトの手も、震えていた。
それを隠すことはできなかった。
「今は、ここにいてくれ」
言った。
大丈夫だとは、まだ言えなかった。
ルファは彼の顔を見た。
唇を噛み、小さく頷いた。
伸ばしかけた手を、彼の隣の床へ置いた。
二人の指の間には、硝子一枚ほどの隙間があった。
頭上で、大きな音がした。
光の糸が切れても、硝子は消えなかった。
積み上がった塊がゆっくり傾き、天井を押していた。亀裂が星座を横切り、柱の上端へ伸びていく。
ルクルが立った。
「ここを出る」
「あれは」
ライトは窓の外を見た。
ティファレトを覆う黒い影は、まだ広がっていた。
「戻す」
ルクルが、ルシフェルを見た。
「君が自分に使った術を、借りるよ」
男の目が閉じた。
すぐに、開いた。
「それは、やめろ」
初めて聞く声だった。
怒りよりも、恐れが先にあった。
ルクルは手を上げた。
宙に残っていたカードが、裏返った。
白い面に、細い輪が浮かんだ。
輪は折り重なり、繭のような形を作った。その内側に、若い男の輪郭が映る。
「自分の身体を、若い姿へ戻した。同じ流れを、繭だったところまで辿らせる」
「そんなことが、できるのか」
ライトが訊くと、ルクルは一度だけこちらを見た。
「彼の術が、まだ残っているうちなら」
「父さんたちは」
ルクルの目が止まった。
「取り込まれる前まで、戻せないのか」
返事が来るまでの間に、床へ粉が降り積もった。
「起きたことは、何でもやり直せるわけじゃないんだ」
ライトは父の消えた顔を見た。
若い男が、縄の中で腕を捻っていた。
ランカスターの鎌が、その胸元へ押し戻された。
「やってくれ」
声がした。
「こっちで、押さえておく」
水盤の底で、青い杯が鳴った。
水が縁を越え、ルシフェルの靴へ絡んだ。縄が梁へ深く食い込み、男の両腕を引き留めた。
「私の中にいるんだぞ」
ルシフェルの声が割れた。
「私を閉じれば、お前たちも――」
「聞こえてる」
ランカスターが答えた。
それ以上は、言わなかった。
ライトは床についた手を握った。
中にいる人々を救い出せたわけではなかった。それでも、誰もがルシフェルと同じものを望んでいるわけではない。
彼らが今、こちらへ道を残そうとしていた。
ルクルのカードが、男を囲んだ。
*
白い布が、赤い上着の縫い目からほどけた。
袖が引かれ、襟が崩れた。
若い顔に皺が戻りかけ、途中で白い糸に覆われた。糸は顔も腕も包み、身体を丸く閉じていく。
広間の水が、逆に流れ始めた。
水盤へ、青い杯へ、その奥に開いた暗い裂け目へ。
窓の向こうで、黒い影が細くなった。
ライトは見た。
ティファレトの縁に、ほんの少し、元の色が戻るのを。
城が無事なのか、世界樹はどうなったのか、ここからはわからなかった。
ただ、広がっていたものが、今は戻っていた。
ルクルが腕を引いた。
円形の扉に刻まれた輪が、一つずつ回った。
中央に線が生まれた。
硝子が見えた。
色のついた、見覚えのある硝子だった。
その向こうに、階段があった。
「……店だ」
ライトの声が掠れた。
扉の縁に、太い腕が掛かった。
向こうから、誰かが身体を乗り出した。
「ライト!」
アディーだった。
何度も叱られた声だった。
その声が聞こえた途端、自分がどれほど疲れていたかを、ようやく知った。
立ち上がろうとしたが、足が動かなかった。
ルクルがルファを支えて扉へ運ぶ。
アディーが受け取り、向こう側へ下ろした。
「もう一人!」
アディーの声がした。
ライトは短剣を拾おうとして、止まった。
ルクルが先に布で包み、荷物へ入れた。その袋を扉へ滑らせてから、ライトの腕を肩へ回した。
床が揺れた。
白い繭の中から、声がした。
「ライト」
振り返った。
繭の中に、顔があった。
父の顔だった。
ルクルの足が、一瞬止まった。
「母さんに」
声が途切れた。
布が口元を覆いかけた。内側から押し返すように、父の顎が動いた。
「お前が、謝ることはない」
ライトの喉が鳴った。
「……自分で、言ってくれよ」
父の目が、彼を見ていた。
「父さん」
その呼び方を、もう一度した。
返事をする顔を見ながら、呼べるうちに。
父の唇が動いた。
「帰りなさい」
ライトは首を振った。
子供のように、ただ振った。
父の顔に、泣きそうな表情が浮かんだ。
「お前は、帰るんだ」
天井が割れた。
ルクルの腕に、強い力がこもった。
ライトの身体が扉へ引かれた。向こうから伸びたアディーの手が、その背を受け止めた。
父の顔が、小さくなった。
「父さん!」
繭が閉じた。
その直前に、もう一度、声がした。
「すまなかった」
硝子の塊が、月の広間へ落ちた。
扉が閉じた。
*
煮立つ湯の音がしていた。
ライトは、目を開けた。
低い天井があった。レースのカーテンが揺れ、その隙間に暗い窓が見えた。
虹色Caféの二階だった。
起き上がろうとすると、脇腹が痛んだ。
声を呑むより早く、額に手が触れた。
「動かないで」
母だった。
ライトは目を見開いた。
顔が近かった。髪に白いものが増えていた。目の下にも、知らない疲れがあった。
見間違いではなかった。
「……母さん」
母の口元が、何度か動いた。
それから、額に当てていた手が頬へ移った。
「帰ってきたのね」
ライトは頷いた。
母の指が、頬の傷へ触れないように止まった。
どこへ触れていいのかわからない、というような手だった。
ライトはその手を取った。
握ると、母の顔が歪んだ。
「ただいま」
やっと言えた。
母は目を閉じた。
声を出さずに泣いた。
入口で、足音がした。
レインが立っていた。手に、水を入れたコップを持っている。髪が、出かけた日の記憶より長かった。
妹はコップを机へ置いた。
強く置きすぎて、水が少しこぼれた。
「遅い」
声が震えていた。
ライトは笑おうとして、できなかった。
「……ごめん」
「何度も、来たんだから」
「うん」
「何度も」
それ以上は続かなかった。
レインが椅子へ座り、両手で顔を覆った。
母の手を握ったまま、ライトは妹を見ていた。
旅の時間を、初めて見た気がした。
手帳へ書いた数字でも、女王の言葉でもなかった。目の前にいる二人が、自分のいなかった時間を生きていた。
戻っただけでは、埋まらなかった。
それでも、戻ってこられた。
「何日も、帰り方がわからなかった」
ライトは言った。
「怖いことも、あった。……話す。ちゃんと」
レインが顔を上げた。
「今は、寝て」
母が言った。
「お医者さんにも、言われたでしょう。しばらく動かさないようにって」
言われた覚えはなかった。
視線を下げると、服が替えられ、腹には厚く包帯が巻かれていた。扉を越えたあと、ところどころの音しか残っていない。アディーの腕。電話を掛ける声。傷へ触れられた痛み。
「ルファは」
「向こうの部屋にいる。目を覚ましたよ」
母の答えを聞いて、息が抜けた。
レインが、袖で顔を拭った。
「先に、あんたのこと聞いてた」
ライトは目を閉じた。
掌に残っていた硝子の冷たさが、少しずつ遠のいていった。
*
母は、父のことをすぐには訊かなかった。
ライトに水を飲ませ、ずれた毛布を直した。窓の鍵を確かめ、もう一度、顔を見た。
その一つ一つが終わるたび、部屋が静かになった。
ライトは、その静けさの中で言った。
「父さんには、会えた」
母の手が止まった。
レインも顔を上げた。
「……一緒には、帰れなかった」
母は座った。
ゆっくりと、ライトのそばの椅子へ。
何から話せばいいのか、わからなかった。
絵も、塔も、白い布も。説明しようとするほど、父の顔が遠ざかる気がした。
ライトは、確かに自分が見たことから話した。
「手を、握った」
母が頷いた。
「父さん、俺がわからなかった。最初は。俺が生まれたころのことばかり、繰り返してた」
母は口元へ手を当てた。
「すぐ戻るって」
目を閉じた。
その顔を見て、ライトは言葉を止めた。
自分にとっては、この旅で初めて聞いた声だった。母はずっと、その声と暮らしていたのだ。
「最後に、俺を見た」
続けるまでに、少し時間がかかった。
「大きくなったって。……それから、謝ってた」
母の手が膝へ下りた。
握った指の間に、布が寄った。
「そう」
それだけだった。
ライトは待った。
母は窓を見た。
暗い硝子に、三人の姿が映っていた。
「それは、自分で言いに来てほしかったわね」
声は、驚くほど静かだった。
ライトは頷いた。
涙が頬を伝った。
母の手が戻ってきた。
頬へではなく、握りしめていた手の上へ。
「あなたが謝ることではないのよ」
ライトは俯いた。
父にも、そう言われた。
同じ言葉を聞いたのに、二人はもう、同じ部屋にいなかった。
レインが隣へ椅子を寄せた。
何も訊かなかった。ただ、床へ投げ出されていたライトの鞄を拾い、自分の膝へ載せた。
泥だらけの紐を、指でほどきかけた。
途中でやめて、そのまま抱えていた。
*
窓が、少し明るくなっていた。
眠ったのかどうか、ライトにはわからなかった。
目を開けると、母は椅子で休んでいた。レインは一階へ下りたらしく、空いた椅子に鞄が置かれていた。
扉が、小さく鳴った。
ルファが立っていた。
アディーに片腕を支えられていた。肩から上着を掛け、傷めた腕は胸元で留められている。
ライトは身体を起こしかけた。
「お前は動くな」
アディーが言った。
ルファも、頷いた。
母が目を覚ました。
ルファを見ると、立ち上がって椅子を空けた。
アディーがルファを座らせた。
母は水差しを持って、彼と一緒に部屋を出た。扉は少し開けたままだった。
二人になった。
ルファは、膝の上へ置いた手を見ていた。
指の間まで洗われていた。それでも、そこに血があるように見えているのだと、ライトにはわかった。
「覚えてる?」
訊くと、彼女は頷いた。
「全部では、ないわ」
声が掠れていた。
「塔を落ちたこと。そのあとは、暗いところで、誰かが話していて……あなたが呼ぶのも、聞こえていた気がする」
彼女の指が曲がった。
「手を、止めたかった」
ライトは黙って聞いた。
「でも、止まらなかった」
脇腹が痛んだ。
その痛みを、彼女に隠したくなった。隠さなければ、傷つける気がした。
けれど、何もなかったような顔を続けたら、彼女はこれから何度でも、自分の表情を窺うだろう。
「怖かったよ」
ライトは言った。
ルファの目が上がった。
「ルファが起きて、俺を呼んだから。もう、大丈夫だと思ってた」
「……ええ」
「だから、怖かった」
彼女は頷いた。
目を逸らさなかった。
「ごめんなさい」
ライトは、すぐに返事をしなかった。
窓の外で、鳥が鳴いた。
どこにでもいる、小さな鳥の声だった。
「ルファも、怖かっただろ」
彼女の口元が歪んだ。
その顔を見て、ライトは自分の手を毛布の上へ出した。
ルファはそれを見たが、動かなかった。
「今なら、聞ける」
ライトは言った。
「手を繋いでもいい?」
彼女の目から、涙が落ちた。
頷くまでに、少し時間がかかった。
ライトは手を伸ばした。
ルファも、ゆっくり手を動かした。
指先が触れた。
怖さがすべて消えたわけではなかった。
けれど今度は、どちらも、自分で手を伸ばしていた。
彼女の掌は温かかった。
「あの人のこと、何も思い出せないの」
ルファが言った。
「父だと言われても。……何も」
ライトは、つないだ手を見た。
父の顔を知らないまま育った自分にも、その空白がどんなものかは、わからなかった。
「ルクルに、聞こう。俺も一緒にいるから」
彼女は頷いた。
まだ、聞かなければならないことがあった。帰ってきたこの部屋にも、二人の知らないことが残っていた。
*
夜明けの光が、窓の縁へ届いた。
薄い金色が、床を少しずつ広がっていった。埃が浮かび、机の脚が長い影を落とす。見慣れた部屋の中へ、朝が戻ってきていた。
「飛行機」
ライトが言った。
ルファが顔を上げた。
「父さんの作ったやつ。まだ、あるよな」
「ええ。あの棚に」
「今度、ちゃんと見せてほしい。裏も」
ルファは彼を見た。
「見えないところまで、丁寧に作ってたんだろ」
彼女は小さく頷いた。
ライトは窓へ目を向けた。
「一つ、作ってみたい」
「飛行機を?」
「同じものには、ならないと思うけど」
父の手が、頭に浮かんだ。
自分の手を見ていた目も。
聞けなかったことが、いくつもあった。
道具をどんなふうに並べるのか。どの色を、最初に選ぶのか。うまく切れなかったとき、どこまで直し、どこから作り直すのか。
教わることは、できなかった。
それでも、父の作ったものは残っていた。
「裏まで、見てみたいんだ」
ルファの指が、彼の手を少しだけ握った。
「手が動くようになったら、一緒に見ましょう」
今ではなかった。
明日とも言わなかった。
その先に、一緒に何かをする時間がある。
そういう話ができたことが、嬉しかった。
一階から、レインの声がした。
「ルファさん、鳥って何の話?」
二人は顔を見合わせた。
開いた鞄を、見られたのだと気づいた。
手帳に、帰ってから話したいものを、いくつも書いてあった。
「世界樹のところで、見たんだ」
ライトが答えた。
「白くて、羽の裏が少し桃色で」
「何羽?」
ルファの肩が、かすかに動いた。
ライトは彼女を見た。
口元に、笑いかける形があった。涙の跡は、まだ乾いていなかった。
「……数えてない」
一階で、レインが何か言った。
聞き取れなかった。
ルファが顔を伏せた。
今度は、笑っていた。
声になるほどの笑いではなかった。
それでも、その横顔を見て、ライトはようやく、自分たちが帰ってきたのだと思った。
*
朝日が、階段の窓へ差し込んだ。
青い硝子が光を受けた。
ライトが初めて作った飾りだった。継ぎ目の揃わない、小さな作品。真ん中に嵌めた古い欠片が、金色を含んで輝いた。
レインが階段の途中で立ち止まった。
「これ、こんなに光ったっけ」
ライトは扉の方を見た。
階段の壁に、青い光が伸びていた。
朝の光なら、何度も見た。
けれど、その光は、影へ入っても薄くならなかった。
ルファの手が止まった。
彼女の指先に、同じ色が浮かんでいた。
今は何も作っていなかった。掌を閉じても、色は爪の縁から漏れた。
一階で、硝子が鳴った。
一つだけではなかった。
棚の小鳥。
窓辺の器。
天井から吊った飾り。
かすかな音が、店のあちこちで重なった。
青い光のそばに、赤が生まれた。淡い黄色が伸び、そのどれもが、触れるもののない空中へ細く漂い始めた。
階段を上がる足音がした。
ルクルが、入口に立った。
白銀の髪に朝日が当たっていた。両手には、何も持っていなかった。
「ルクル」
ルファが呼んだ。
ルクルは、光る指先を見た。
それから、二人の顔を見た。
「もう、休ませるだけでは戻らないんだね」
ルファの声は静かだった。
ルクルは頷いた。
ライトは、彼女の手を握り直した。
「何が、起きてるんだ」
ルクルは部屋へ入った。
椅子を一つ引き、二人の前へ座った。
朝の光の中で、その顔がひどく疲れて見えた。
「話すよ」
ルクルが言った。
「君たちに、黙っていたことを」
階下で、また一つ、硝子が鳴った。




