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ステンドグラスの彼方に  作者: 羽月楓


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20/22

ⅩⅩ 《審判》 五十年目の真実

挿絵(By みてみん)




 ルクルは、椅子へ座っても、しばらく何も言わなかった。


 窓から入る朝日が、その膝を照らしていた。赤い服には、まだ月の白い粉が残っている。袖口のほつれも、肩の濡れた跡も、店で見る顔には似合わなかった。


 ライトは、ルファの手を握っていた。

 指の間から漏れる青い光が、二人の肌を同じ色に染めている。


「止められるんだろ」


 沈黙に耐えられず、先に言った。


 ルクルが顔を上げた。


「このままでは、止められない」


「このままって、どういうことだ」


 ルクルは窓の外を見た。

 路地を、自転車が通った。荷台に載った籠が揺れ、店の前を過ぎていった。そのありふれた音を、彼は最後まで聞いていた。


「今から話すのは、ルファの身体だけのことじゃない」


 ライトはその唇をじっと見た。


「マルクトのことだよ。この店も、君たちの家も、あの道を通る人も含めた、世界のことだ」


 階段で足音が止まった。

 扉の隙間から、レインが顔を覗かせていた。


 ルクルは気付いていたが、何も言わなかった。


     *


「ルファの魔法は、作ったものの中だけに残るわけじゃない」


 ルクルが言った。


 階段の窓から、青い光が流れていた。

 壁へ映るはずの色が、空中で細くほどけている。レインは触れかけ、手を引いた。


「ものが動けば、周りも変わる。誰かがそれを受け取れば、その人の暮らしも変わる。魔法が終わったあとも、その変化は残っていく」


 ライトは、作業台に残った傷を思い出した。

 小さな硝子の獅子。光が消えたあとも、机に残った三本の擦り傷は消えなかった。


「今、溢れている光の粒は、その魔法なのか」


「世界が、抱えていられなくなったものだ」


 ルファが、自分の手を見た。


「私、今は何もしていないわ」


「うん。止めていても、もう使ったものは蓄積されて消えない」


 彼女は指を閉じた。

 爪の縁から、青い光が滲んだ。


 ルクルが続けた。


「塔で使った魔法も、月に残った硝子も、消えてはいない。ルシフェルの力を繭へ戻しても、ルファが生み出したものまでは戻らなかった」


「なら、壊せば」


 言いかけて、ライトは口を閉じた。

 割れた器の欠片を、自分は別の作品へ使った。形を変えても、そこにあったものが、なくなるわけではなかった。


「壊れた硝子にも、残るんだな」


 ルクルが頷いた。


「ものだけじゃない。そこから広がったものにも」


 ルファの指が、ライトの掌の中で冷えた。


「このままだと、どうなるの」


 ルクルは彼女を見た。


「魔法と、魔法ではないものの境が保てなくなる。ルファ自身も、世界も」


 廊下で、何かが鳴った。


 レインが振り返った。

 窓枠の縁に、細い亀裂が入っていた。だが、裂けているのは木ではなかった。木に落ちていた影が、途中からずれていた。


 ライトはそれを見た。

 言われたことを信じたわけではない。


 それでも、説明のつかないことが、目の前で起きていた。


「前にも、あったのか」


 ルクルの目が戻った。


「ある」


「何度も?」


「……うん」


 月で聞いた言葉が、胸の奥で形になった。


「五十日」


 ルクルは目を伏せた。


「ティファレトで、五十日ごとに変わるって。あれは」


「マルクトで、五十年ごとに起こしてきたことの影響だ」


 部屋の中から、音がなくなった。


「何を、起こしたんだ」


 ライトが訊いた。


 ルクルは、今度は目を逸らさなかった。


「世界を、作り直してきた」


     *


 アディーが部屋へ入ってきた。

 その後ろに、母がいた。レインが扉を押さえ、全員が入ると、静かに手を離した。


 椅子は足りなかった。

 アディーは壁際に立ち、母はライトの寝ている長椅子の端へ腰を下ろした。


 誰も、今の言葉を聞き返さなかった。

 聞き間違いだと思うには、店のあちこちで硝子が鳴りすぎていた。


「作り直すって、壊れたところを直すってことか」


 ライトが言った。


「それで済むなら、そうする」


「だったら、何だよ」


 ルクルは、掌を開いた。


 何も持っていなかったはずのそこに、一枚のカードがあった。

 四隅に生物の模様があり、中央を、終わりのない輪が囲んでいた。


 輪は、紙の上に浮き上がった。


 ルファの手から漏れる光が、わずかに向きを変えた。

 呼ばれたように、輪の方へ伸びかけた。


 ルクルは掌を閉じた。

 光がルファへ戻った。


「僕は、この世界を保つ役目を持っている」


 アディーの眉が動いた。


「お前が」


「うん」


「ずっと、店にいたお前がか」


 ルクルは頷いた。


「ルクルという名で、君たちと暮らしてきた。ずっと前には、ワルド王子と呼ばれていた」


 その名を、ライトは知らなかった。

 知らないはずの名前が、部屋の中で、重いもののように落ちた。


「神と、呼ばれていたこともある」


 ライトは彼の顔を見た。


 店で飴を渡してくれた顔だった。

 叱られたとき、アディーの背後で笑っていた。母へ渡す作品がうまく包めずにいると、黙って紐の端を持ってくれた。


 その一つひとつが、嘘だったのか。


 そう訊こうとして、訊けなかった。


「今、作り直したあとの世界へ、前の世界の記憶を持っていけるのは、僕だけだ」


 ルクルが言った。


 ライトは、その言葉の途中で顔を上げた。


「僕だけって」


 ルクルは黙っていた。


「ほかは?」


 ルファの声がした。


「私たちは、どうなるの」


 彼の喉が動いた。


「世界の都合に合わせて、記憶も変わる」


     *


 ライトは、ルファの手を強く握った。


 彼女がわずかに息を呑んだ。

 慌てて緩めた。指先の光は消えず、二人の手の間に溜まっていた。


「全部、忘れるのか」


 自分の声が、どこから出たのかわからなかった。


「俺がここへ来たことも。ルファに、硝子を教わったことも」


 ルクルが頷いた。


「忘れる、だけじゃない」


 ライトは彼を見た。


「魔法が生んだものと、その影響を、世界の歴史からほどいていく。そこに、矛盾のない別の暮らしがつながる」


「別の、暮らし」


「虹色Caféに出会わなかった、君の暮らしだ」


 母の手が、ライトの肩へ触れた。


 ライトは、店の入口を思い出した。

 取っ手に触れられず、窓から覗いた日。ナイフを握っていた手。床に散った青い欠片。


 あれが、なかったことになる。


「店は」


 アディーが言った。


 ルクルは彼を見た。


「この店も、あったままでは残せない」


 アディーが、壁から背を離した。


 手近にあった椅子へ手を置いた。

 椅子の背を、一度、強く握った。


 ルファは部屋を見回した。

 窓。机。長椅子。扉の上の、小さな傷。


 彼女が毎日見てきたものを、ライトも目で追った。


「二十年以上前に、私が開いた店でしょう」


「うん」


「一晩で現れたって、皆が驚いた。あのとき……」


「君が望んだ店を、ここに作った」


 ルクルが言った。


「どんな窓にするか、どんな席を置くか。君は、ずいぶん迷っていた」


 ルファの唇が、わずかに開いた。


「私、覚えてる」


 誰かへ確かめるように言った。


「最初のお客さんが、扉を開けたことも」


 ルクルが頷いた。


「それも、なくなるの」


「……うん」


 ルファは、膝へ目を落とした。


 ライトは、何か言わなければと思った。

 だが、何を言っても、今そこにある店を守る言葉にはならなかった。


     *


「信じろって、言うのか」


 ライトは言った。


 ルクルがこちらを見た。


「今まで黙ってたのに。急に、世界がなくなるとか、俺たちが忘れるとか」


「信じられないのは、わかる」


「わかるなら」


 続きが出なかった。


 レインが、鞄をこちらへ寄せた。

 椅子から持ち上げ、ライトの手の届く場所へ置いた。


 泥のついた布の間に、赤い色が見えた。


 リンゴだった。


 双子桜の根元で拾ったもの。

 天秤の前で、隠されていた言葉を口にさせたもの。


 ライトは手を伸ばした。


「これを持っても、同じことを言えるか」


 ルクルは赤い硝子を見た。

 少しも笑わなかった。


 両手で受け取った。


 掌に、小さな赤い光が落ちた。

 その色だけは、ほかの硝子から流れる光と違い、静かに、そこに留まっていた。


「僕は、世界を作り直してきた」


 ルクルが言った。


「そのたびに、人々が生きた歴史と記憶を変えた。君たちが暮らしているのは、そのあとに続いた世界だ」


 ライトは彼の口元を見ていた。


「ルファも?」


「ルファも」


「今度が、初めてじゃないんだな」


「初めてじゃない」


 ルファの声がした。


「何回?」


 ルクルの指が、リンゴの葉の飾りへ触れた。


「次で、四百三十九回目になる」


 誰も、何も言わなかった。


 多すぎて、数えられなかった。

 五十年という長ささえ、自分はまだ生きていない。その時間を、何百回も失った人が、隣に座っていた。


 ルファは彼の手を見ていた。


「私、そのたびに、何かをしていたのね」


「うん」


「誰かと、話して」


「うん」


 ルクルの返事が、掠れた。


 ルファは、それ以上訊かなかった。

 訊いたところで、覚えていない人の名前が増えるだけなのだと、ライトには分かってしまった。


     *


「どうして、私の父のことまで」


 ルファが言った。


 彼は、リンゴを持ったまま顔を上げた。


「君は、もともとルシフェルの娘として生まれた。その記憶も、過去の世界とのつながりも、僕が消してきた」


「父も、忘れていたの」


「自分たちがどう結ばれていたかを、失っていた。異なる世界にいても、つながっている部分には影響が届く」


 月の水盤に浮かんだ文字を、ライトは思い出した。

 記録と景色が合わなくなる。

 五十日ごとに、どこかが変わる。


「向こうには、消えきらない痕跡が残ることがあった。ルシフェルは波の間隔に気づいた。あの白い部屋の男も、食い違いを記録していた。おそらく、ノアティファクトの中で影響を免れていたのかも知れない」


「それを知ってて、黙ってたのか」


 ライトの問いに、彼は頷いた。


「月で、ミカエルの力を使われた。ルシフェルは、僕の中に残っていた記憶へ触れたんだと思う」


 ルファが目を閉じた。


 思い出そうとしているのではなかった。

 もう、思い出せないと知った顔だった。


「私が知らないことを、あなたは、ずっと知っていた」


「うん」


「私が知らない私も」


 ルクルは答えなかった。


 リンゴを持つ指が、白くなっていた。


 ライトは、その手を見た。


「俺の力も、そうなのか」


 ルクルの目が戻った。


「俺の力の正体を、最初から知ってたのか」


「違う。君はイレギュラーだった」


 彼は少し間を置いた。


「七年前、君が店を見つけた日。白い猫を、抱いただろう」


 ライトは動きを止めた。


 青と緑の首飾り。

 掌へ触れた額の温かさ。

 その向こうにあった窓。


「あの猫は、僕だった」


 レインが、小さく息を吸った。


 ライトは彼を見た。

 白銀の髪。こちらを見る目。答えを聞く前から、思い当たるものがあったことが、腹立たしかった。


「僕に触れたことで、君の中に、僕の力の一部が通るようになった。そう考えている」


「お前が、そうしたのか」


「意図して、渡したわけじゃない。器が光って割れるまで、僕も気づかなかった」


 赤いリンゴは、静かだった。


「君は、作られたものへ、力を渡せた。動かしたり、形を保たせたり。ルファの魔法とは違う形で」


 ライトは自分の手を見た。


 あの獅子も、ランタンも、白い馬も。

 できるようになったことを、ルファと二人で確かめてきた。


「全部、見てたのか」


「全部ではない。絵の向こうで何が起きているか、見えなかった時間の方が長い」


「ルファが魔法を使い過ぎたら、こうなることも」


「知っていた」


 ライトは顔を上げた。


 彼は、じっと目を見ていた。


「五十年までは、保てると思っていた。これまでは、その区切りより前に限界が来たことはなかった」


「思ってた、だけか」


「……そうだよ」


 返事が、部屋に落ちた。


 ルクルの指から、少し力が抜けた。


「君の力で、ルファの作ったものが、以前より強く世界に残るようになった。それを見ていても、僕は、まだ大丈夫だと思っていた。塔でも、月でも、彼女をもっと早く止められると思っていた」


 ルファの手を、ライトは見た。


 抱き合って落ちた。

 壊れた翼を、最後まで直そうとしてくれた。


「俺が、使わせたからか」


「それは違う」


 ルクルが言った。


 リンゴを握り直し、もう一度言った。


「知っていたのは、僕だ。君たちが知らないまま使うのを、僕が止めなかった」


 責任を引き受ける言葉を聞いても、何も戻ってこなかった。

 そのことが、いちばん悔しかった。


     *


「魔法を使うのをやめる」


 ルファが言った。


「もう、何も作らない。それでも、駄目なの」


 彼は首を振った。


「すでに世界へ散っているものは、それでは戻らない」


「集めることは」


「世界をほどかずに全部集める方法を、僕は見つけられなかった」


「ルシフェルにしたみたいに、時間を戻せば」


 ライトが言った。


「ルファが魔法を使う前に」


 ルクルは赤い硝子を見た。


「あれで戻したのは、彼の術が変えた、彼自身の形だ。ルファの身体だけを戻しても、世界に起きたことは残る」


 ライトは歯を食いしばった。


「なら、別の世界へ行く。ルファと俺だけでも……」


「魔法は、離れても切れない。だから、ティファレトにも影響が届いた」


 どの道も、同じところへ戻ってきた。


 ライトは手を動かそうとした。

 ルファの指に触れたまま、あの金色の光を呼ぼうとした。形を保てるなら、彼女も、この店も。


 掌が、温かくなった。


 青い光が、急に濃くなった。


 ルファが息を詰めた。

 窓辺で、硝子が鋭く鳴った。


 ライトは手を開いた。

 光が薄れた。


「今は、力を重ねないで」


 ルクルの声がした。


 ライトは動けなかった。


 助けようとすると、苦しませる。

 何もできないことより、その方が怖かった。


 ルファが、彼の手の甲へ指を載せた。


「隣にいて」


 ライトは彼女を見た。


「何もしなくていいから」


 自分が月で言った言葉に、よく似ていた。


 ライトは頷いた。

 光を出さずに、ただ、その手を支えた。


     *


 母が、ルクルへ顔を向けた。


「この子たちは、生きられるの」


 初めて口にした問いだった。


 ルクルは頷いた。


「そのために、世界を保ち直します」


「それで、この子が苦しかったことも、帰ってきたことも、わからなくなるのね」


「この旅につながる記憶は、残りません」


 母はライトを見た。

 包帯のある脇腹ではなく、その顔を見た。


 レインが壁から離れた。


「私が、覚えておけば?」


 ルクルの目が移った。


「ライトから聞いたことを、私が覚えておいて、あとで話す。母さんも、アディーさんもいるし」


「君たちの記憶も、変わった歴史につながり直す」


「だったら、書けば」


 レインは鞄から手帳を出した。

 紐をほどき、頁を開いた。ところどころ波打っていた。雪に濡れた紙だった。


 ライトはその頁を見た。


 ルファと、春を待った。


 自分の字があった。

 少し急いで、忘れないうちにと書いた字だった。


「これを、持ってればいい」


 レインが笑った。


 ルクルは、しばらくその頁を見ていた。


「記録も、この世界の一部なんだ」


 妹の笑顔が止まった。


「文字だけを残して、起きたこととのつながりを守ることはできない。ほかの記録になるか、書かれていない頁になるか……そのまま、証拠にはできない」


「写真も?」


 ルクルが頷いた。


「誰かに預けても?」


 もう一度、頷いた。


 レインは手帳を閉じなかった。


 ライトはそこへ手を伸ばした。

 妹は両手で、彼の膝へ載せた。


 この字を、誰が書いたのか。

 このとき何を見ていたのか。

 今なら、一つずつ話せた。


 朝の雪が、薄い桃色に染まっていた。

 ルファの肩が、隣にあった。


 忘れるという言葉の意味が、ようやく、自分の身体へ入ってきた。


     *


「記憶まで、消さなければならないの」


 ルファが訊いた。


 ルクルは顔を上げた。


「世界を直すことと、私たちが忘れることは、同じなの?」


 ライトは彼を見た。


 ルクルはリンゴへ目を落とした。

 答えるまでに、長い時間がかかった。


「同じでは、ない」


 ライトの胸が動いた。


「最初は、君の記憶だけを、残したことがある」


 ルファが、瞬きをした。


「……私だけ?」


「君は、今のマルクトができるより前から生きていた。その君を、変わる世界の外に留めようとした」


 ルクルの声は低かった。


「君は、覚えていた。よく話していた人の名前も、会う約束をした場所も。けれど、行ってみると、相手は君を知らなかった」


 ルファは黙っていた。


「君が知っている家がなかった。手紙を出しても、届かなかった。目の前に同じ顔の人がいても、君と過ごしたことだけが、なかった」


 ライトはルファの手を見た。


 この手を、知らないと言う。

 あの窓の下で笑った人を、初めて会う人として見る。


 思い描こうとして、できなかった。


「君は、何度も話しかけた。忘れているだけなら、話せばわかると思っていたんだと思う」


 ルクルが息を吐いた。


「ある日、話すのをやめて、泣いた」


 赤いリンゴに、朝の光が当たった。


「僕は、その顔を覚えている」


「だから、消したの?」


 ルファの問いに、ルクルはすぐには答えなかった。


「それも、理由だ」


 彼は言った。


「世界を守るためだけだったと言えば、嘘になる」


 アディーが、顔を上げた。


 ルクルは続けた。


「君の中に過去が残ると、消したはずの魔法も、そこを拠り所に形を保とうとした。眠っているときにも、君が思い出したものの色が戻った。君だけを切り離しておくことは、長くはできなかった」


 ルファは、自分の指先を見た。

 閉じても消えなかった青い色を。


「だからといって、僕が迷わず決めてよかったことにはならない」


 ルクルの声が、わずかに震えた。


「僕は、君が何も知らずに笑ってくれる方を、選びたかった」


 誰も、言葉を挟まなかった。


「消したあと、君は、知らない僕へ挨拶をした。普通に、笑った」


 彼の目が、ルファを見た。


「そのとき、僕は、ほっとしたんだ」


 彼女は目を逸らさなかった。


「それから、ずっとそうしてきたのね」


「うん」


「私が、何を失ったかも知らないまま、笑えるように」


 ルクルは頷いた。


 掌のリンゴが、小さく傾いた。

 落とさないように持ち直す手つきが、ひどくぎこちなかった。


     *


「今度は、俺も残してくれ」


 ライトは言った。


 ルクルがこちらを向いた。


「ルファを、一人にしなければいいんだろ。俺も覚えてる。二人で、忘れた人たちに会えばいい」


 ルファの手が動いた。


 ライトは続けた。


「知らないって言われても、一緒に帰ればいい。そんなの、今までだって――」


 違う、と気づいた。

 そんな経験は、自分にはなかった。


 けれど、言い直す余裕がなかった。


「つらくても、いいから」


 ルクルは首を振った。


「二人が覚えていれば、二人の間に、消した世界とのつながりが残る。悲しみを分けられても、魔法を切り離せるわけではないんだ」


「お前は、覚えていられるんだろ」


「僕は、作り直す世界を支える側にいる。僕まで同じようにほどけてしまえば、次をつなげられない」


「だったら、俺たちもそっちへ」


「君たちを、僕と同じものに変える方法を、僕は知らない」


 ライトはルクルを睨んだ。

 リンゴを持つ手も、目も、逸れてはいなかった。


 嘘ではない。

 それが、腹立たしかった。


「神なんだろ」


 声が、震えた。


「それなのに、できないことばっかりじゃないか」


 ルクルは、答えなかった。


 ライトは彼の胸元を掴もうとした。

 身体を起こした瞬間、脇腹に痛みが走った。母の手が背を支え、ルファが椅子から身を乗り出した。


 ルクルも、立ち上がりかけた。


「来るな」


 言うと、彼は止まった。


 ライトは俯き、息を整えた。

 握りしめた手が、何も掴めないまま、膝へ落ちた。


「……さっき、帰ってきたんだぞ」


 誰も、返事をしなかった。


「やっと、帰ってきたんだ」


     *


 レインが、窓を少し開けた。


 空気が入ってきた。

 焼いたパンの匂いがした。どこかの家で食器が鳴り、通りの向こうで、誰かが人を呼んでいた。


 誰も、終わるとは思っていない朝だった。


「この人たちも?」


 レインが訊いた。


「この人たちの暮らしも、作り直すの?」


 ルクルは頷いた。


 妹は窓から顔を戻した。


「誰も、知らないのに」


「うん」


 答えは、それだけだった。


 ライトは膝の手帳を見た。

 綺麗な字ではなかった。急いで書いたところは、自分にしか読めなかった。


 それでも、今の自分には、わかった。


「父さんは、どうなる」


 ルクルが目を上げた。


「店がなかったら、『深海の太陽』も、エマの旅も、同じにはならないんだろ」


「同じには、ならない」


「父さんが、帰ってこなかったことも?」


 ルクルは少し間を置いた。


「別の歴史につながる可能性はある。でも、君の望む形で戻ると、約束はできない」


 母の手が、ライトの背で止まった。


 ライトは、その温かさを感じていた。


 父がいるかもしれない。

 幼いころから、ずっと待っていた家があるかもしれない。


 その代わり、ルファと出会わない。


 天秤のように考えかけて、やめた。

 自分が選べば片方を差し出せるようなものではなかった。


「父さんに会いたかったことは、嘘じゃない」


 ライトは言った。


「今でも、一緒に帰りたかった」


 ルファは、黙って聞いていた。


「でも、そのために、ここへ来たことまでなかったことにしたいわけじゃない」


 母の手が、背中をゆっくり撫でた。


 ライトは顔を上げた。


「どっちも、あったんだ」


 ルクルは頷いた。


「知っている」


「お前が知ってても、俺が知らなくなるんだろ」


 ルクルの口が閉じた。


     *


 ルファが椅子の背へ身体を預けた。


 疲れたのだと、ライトは思った。

 だが、次の瞬間、握っていた指の輪郭が薄くなった。


 光が強くなったのではなかった。

 彼女の手を通して、下にある自分の指が、わずかに見えていた。


「ルファ」


 彼女も見ていた。


 アディーが近づいた。

 ルクルはリンゴを机へ置き、一枚のカードを二人の手の下へ差し入れた。


 輪が広がった。

 青い光が、その縁を流れた。


 彼女の手に、重さが戻った。


 ライトは息を吐いた。

 いつから止めていたのか、わからなかった。


「今ので、治せないのか」


 ルクルは首を振った。


「少し、留めているだけだ」


「どのくらい」


 ルクルは答えなかった。


 その沈黙で、わかった。


 ルファがライトの手を撫でた。

 指先には、まだ温かさがあった。


「私、忘れたくない」


 誰にも代わりに言わせないような、はっきりした声だった。


 ルクルが彼女を見た。


「つらかったことも、嬉しかったことも。全部、私にあったことでしょう」


「うん」


「知らない方が幸せだって、言わないで」


 ルクルの目が揺れた。


「……言わない」


 ルファは、机のリンゴを見た。

 それから、ルクルの顔へ目を戻した。


「あなたが覚えているなら」


 少し、息を継いだ。


「私が、忘れたくないと言ったことも、覚えていて」


 ルクルは俯いた。


 頷くまでに、長い時間がかかった。


     *


「下へ、行きたい」


 ルファが言った。


 ライトは顔を上げた。


「店を、見たいの」


 ルクルが頷いた。

 アディーはもう、廊下へ出ていた。階段を確かめ、途中の荷物を退ける音がした。


 母がルファの上着を直した。

 レインが手帳を閉じ、ライトへ渡した。


 ライトは、両手で受け取った。


 アディーが戻ってきた。


「先に、お前だ」


「歩ける」


「今朝、医者に叱られたのは誰だ」


 いつもの声だった。


 ライトは何も言えなくなった。

 アディーが背と膝の下へ腕を入れた。子供のころのように持ち上げられ、思わず服を掴んだ。


 階段の窓が近づいた。


 青い飾りが、光っていた。

 傍を通ると、古い欠片の金色が、短く揺れた。


 ライトは手を伸ばしかけた。

 外せば、持っていける気がした。


 だが、指は届く前に止まった。


 ここに掛けてもらった日の窓の高さを、まだ覚えていた。

 作品の形が気になって、階段を上るたび、下りるたび、少しずつ角度を変えて見た。


 最後に、ルファが言った。


 ここがいいわ。


 だから、ここにあった。


 ライトは手を下ろした。


     *


 一階には、朝の色が満ちていた。


 窓辺の青は床へ流れ、琥珀色の器の光は、隣の皿まで届いていた。棚の小鳥は動かなかった。ただ、その内側に、小さな灯りがともっていた。


 アディーはライトを長椅子へ下ろした。

 少し遅れて、ルファが母とレインに支えられて階段を下りてきた。


 二人は、並んで座った。


 いつも客が座る場所だった。

 ここから見ると、カウンターの高さが違った。ルファは、椅子へ置いた手を動かさず、店内を見渡していた。


「お茶を、飲めるか」


 アディーが訊いた。


 ルクルは、店の中央に立っていた。

 足元で、細い輪が形を結びかけている。彼はそれを見てから、アディーへ頷いた。


「少しなら」


 湯が注がれた。

 カップを置く音がした。


 五つのカップが、テーブルへ並んだ。


 アディーはカウンターへ戻りかけ、途中で止まった。

 もう一つ、カップを出した。


 ルクルの前へ置いた。


 ルクルはそれを見た。


「……僕も?」


「いつもの場所があるだろ」


 アディーは答えた。


 全てを受け入れたという声ではなかった。

 ただ、そこに立ったままの彼を、店の外のものとして扱う声でもなかった。


 ルクルは椅子へ座った。


 レインは両手でカップを包んだ。

 母は湯気を見ていた。

 ライトは片手で持ち上げたが、指が震えて、少しこぼした。


 ルファが皿を寄せてくれた。


 そんなことまで、忘れる。


 ライトは飲み込んだ。

 熱かった。舌に、少し苦みが残った。


 ルファが、窓の方を見た。


「この席からだと、朝は、こんなふうに見えるのね」


 誰も答えなかった。


 彼女は、しばらく眺めていた。

 その顔を、ライトも見ていた。


     *


 ルクルがカップを置いた。


 音は、小さかった。

 それでも、皆が顔を上げた。


 彼の指先で、輪が光っていた。

 その内側へ、店じゅうの色が、少しずつ向きを変えていた。


「もう、始めなければならない」


 ルクルが言った。


 ライトは、膝の手帳を握った。

 反対の手で、ルファの手を取った。


 握っても、逃げ道にはならなかった。

 知っていた。


 それでも、離すことはできなかった。


 ルファの指が、握り返した。


 ルクルは二人を見た。

 何か言おうとして、口を閉じた。


 安心させる言葉は、もうなかった。


「まだ、話したいことがある」


 ライトは言った。


 ルクルは黙って聞いていた。


「ルファに」


 彼女が、こちらを向いた。


 飛行機を作りたかった。

 鳥の話を、最後までしたかった。

 帰ってからなら、いつでも言えると思っていたことが、いくつもあった。


 言葉を探している間にも、窓の色が揺れた。


 ルクルが、ゆっくり両手を開いた。


 輪が広がった。

 店の床へ、扉へ、窓の向こうへ。


 カップの中で、小さな波が立った。


 ルファの手は、まだ温かかった。


 ライトは、その温かさを知っていた。


 今は、まだ。



 

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