ⅩⅩ 《審判》 五十年目の真実
ルクルは、椅子へ座っても、しばらく何も言わなかった。
窓から入る朝日が、その膝を照らしていた。赤い服には、まだ月の白い粉が残っている。袖口のほつれも、肩の濡れた跡も、店で見る顔には似合わなかった。
ライトは、ルファの手を握っていた。
指の間から漏れる青い光が、二人の肌を同じ色に染めている。
「止められるんだろ」
沈黙に耐えられず、先に言った。
ルクルが顔を上げた。
「このままでは、止められない」
「このままって、どういうことだ」
ルクルは窓の外を見た。
路地を、自転車が通った。荷台に載った籠が揺れ、店の前を過ぎていった。そのありふれた音を、彼は最後まで聞いていた。
「今から話すのは、ルファの身体だけのことじゃない」
ライトはその唇をじっと見た。
「マルクトのことだよ。この店も、君たちの家も、あの道を通る人も含めた、世界のことだ」
階段で足音が止まった。
扉の隙間から、レインが顔を覗かせていた。
ルクルは気付いていたが、何も言わなかった。
*
「ルファの魔法は、作ったものの中だけに残るわけじゃない」
ルクルが言った。
階段の窓から、青い光が流れていた。
壁へ映るはずの色が、空中で細くほどけている。レインは触れかけ、手を引いた。
「ものが動けば、周りも変わる。誰かがそれを受け取れば、その人の暮らしも変わる。魔法が終わったあとも、その変化は残っていく」
ライトは、作業台に残った傷を思い出した。
小さな硝子の獅子。光が消えたあとも、机に残った三本の擦り傷は消えなかった。
「今、溢れている光の粒は、その魔法なのか」
「世界が、抱えていられなくなったものだ」
ルファが、自分の手を見た。
「私、今は何もしていないわ」
「うん。止めていても、もう使ったものは蓄積されて消えない」
彼女は指を閉じた。
爪の縁から、青い光が滲んだ。
ルクルが続けた。
「塔で使った魔法も、月に残った硝子も、消えてはいない。ルシフェルの力を繭へ戻しても、ルファが生み出したものまでは戻らなかった」
「なら、壊せば」
言いかけて、ライトは口を閉じた。
割れた器の欠片を、自分は別の作品へ使った。形を変えても、そこにあったものが、なくなるわけではなかった。
「壊れた硝子にも、残るんだな」
ルクルが頷いた。
「ものだけじゃない。そこから広がったものにも」
ルファの指が、ライトの掌の中で冷えた。
「このままだと、どうなるの」
ルクルは彼女を見た。
「魔法と、魔法ではないものの境が保てなくなる。ルファ自身も、世界も」
廊下で、何かが鳴った。
レインが振り返った。
窓枠の縁に、細い亀裂が入っていた。だが、裂けているのは木ではなかった。木に落ちていた影が、途中からずれていた。
ライトはそれを見た。
言われたことを信じたわけではない。
それでも、説明のつかないことが、目の前で起きていた。
「前にも、あったのか」
ルクルの目が戻った。
「ある」
「何度も?」
「……うん」
月で聞いた言葉が、胸の奥で形になった。
「五十日」
ルクルは目を伏せた。
「ティファレトで、五十日ごとに変わるって。あれは」
「マルクトで、五十年ごとに起こしてきたことの影響だ」
部屋の中から、音がなくなった。
「何を、起こしたんだ」
ライトが訊いた。
ルクルは、今度は目を逸らさなかった。
「世界を、作り直してきた」
*
アディーが部屋へ入ってきた。
その後ろに、母がいた。レインが扉を押さえ、全員が入ると、静かに手を離した。
椅子は足りなかった。
アディーは壁際に立ち、母はライトの寝ている長椅子の端へ腰を下ろした。
誰も、今の言葉を聞き返さなかった。
聞き間違いだと思うには、店のあちこちで硝子が鳴りすぎていた。
「作り直すって、壊れたところを直すってことか」
ライトが言った。
「それで済むなら、そうする」
「だったら、何だよ」
ルクルは、掌を開いた。
何も持っていなかったはずのそこに、一枚のカードがあった。
四隅に生物の模様があり、中央を、終わりのない輪が囲んでいた。
輪は、紙の上に浮き上がった。
ルファの手から漏れる光が、わずかに向きを変えた。
呼ばれたように、輪の方へ伸びかけた。
ルクルは掌を閉じた。
光がルファへ戻った。
「僕は、この世界を保つ役目を持っている」
アディーの眉が動いた。
「お前が」
「うん」
「ずっと、店にいたお前がか」
ルクルは頷いた。
「ルクルという名で、君たちと暮らしてきた。ずっと前には、ワルド王子と呼ばれていた」
その名を、ライトは知らなかった。
知らないはずの名前が、部屋の中で、重いもののように落ちた。
「神と、呼ばれていたこともある」
ライトは彼の顔を見た。
店で飴を渡してくれた顔だった。
叱られたとき、アディーの背後で笑っていた。母へ渡す作品がうまく包めずにいると、黙って紐の端を持ってくれた。
その一つひとつが、嘘だったのか。
そう訊こうとして、訊けなかった。
「今、作り直したあとの世界へ、前の世界の記憶を持っていけるのは、僕だけだ」
ルクルが言った。
ライトは、その言葉の途中で顔を上げた。
「僕だけって」
ルクルは黙っていた。
「ほかは?」
ルファの声がした。
「私たちは、どうなるの」
彼の喉が動いた。
「世界の都合に合わせて、記憶も変わる」
*
ライトは、ルファの手を強く握った。
彼女がわずかに息を呑んだ。
慌てて緩めた。指先の光は消えず、二人の手の間に溜まっていた。
「全部、忘れるのか」
自分の声が、どこから出たのかわからなかった。
「俺がここへ来たことも。ルファに、硝子を教わったことも」
ルクルが頷いた。
「忘れる、だけじゃない」
ライトは彼を見た。
「魔法が生んだものと、その影響を、世界の歴史からほどいていく。そこに、矛盾のない別の暮らしがつながる」
「別の、暮らし」
「虹色Caféに出会わなかった、君の暮らしだ」
母の手が、ライトの肩へ触れた。
ライトは、店の入口を思い出した。
取っ手に触れられず、窓から覗いた日。ナイフを握っていた手。床に散った青い欠片。
あれが、なかったことになる。
「店は」
アディーが言った。
ルクルは彼を見た。
「この店も、あったままでは残せない」
アディーが、壁から背を離した。
手近にあった椅子へ手を置いた。
椅子の背を、一度、強く握った。
ルファは部屋を見回した。
窓。机。長椅子。扉の上の、小さな傷。
彼女が毎日見てきたものを、ライトも目で追った。
「二十年以上前に、私が開いた店でしょう」
「うん」
「一晩で現れたって、皆が驚いた。あのとき……」
「君が望んだ店を、ここに作った」
ルクルが言った。
「どんな窓にするか、どんな席を置くか。君は、ずいぶん迷っていた」
ルファの唇が、わずかに開いた。
「私、覚えてる」
誰かへ確かめるように言った。
「最初のお客さんが、扉を開けたことも」
ルクルが頷いた。
「それも、なくなるの」
「……うん」
ルファは、膝へ目を落とした。
ライトは、何か言わなければと思った。
だが、何を言っても、今そこにある店を守る言葉にはならなかった。
*
「信じろって、言うのか」
ライトは言った。
ルクルがこちらを見た。
「今まで黙ってたのに。急に、世界がなくなるとか、俺たちが忘れるとか」
「信じられないのは、わかる」
「わかるなら」
続きが出なかった。
レインが、鞄をこちらへ寄せた。
椅子から持ち上げ、ライトの手の届く場所へ置いた。
泥のついた布の間に、赤い色が見えた。
リンゴだった。
双子桜の根元で拾ったもの。
天秤の前で、隠されていた言葉を口にさせたもの。
ライトは手を伸ばした。
「これを持っても、同じことを言えるか」
ルクルは赤い硝子を見た。
少しも笑わなかった。
両手で受け取った。
掌に、小さな赤い光が落ちた。
その色だけは、ほかの硝子から流れる光と違い、静かに、そこに留まっていた。
「僕は、世界を作り直してきた」
ルクルが言った。
「そのたびに、人々が生きた歴史と記憶を変えた。君たちが暮らしているのは、そのあとに続いた世界だ」
ライトは彼の口元を見ていた。
「ルファも?」
「ルファも」
「今度が、初めてじゃないんだな」
「初めてじゃない」
ルファの声がした。
「何回?」
ルクルの指が、リンゴの葉の飾りへ触れた。
「次で、四百三十九回目になる」
誰も、何も言わなかった。
多すぎて、数えられなかった。
五十年という長ささえ、自分はまだ生きていない。その時間を、何百回も失った人が、隣に座っていた。
ルファは彼の手を見ていた。
「私、そのたびに、何かをしていたのね」
「うん」
「誰かと、話して」
「うん」
ルクルの返事が、掠れた。
ルファは、それ以上訊かなかった。
訊いたところで、覚えていない人の名前が増えるだけなのだと、ライトには分かってしまった。
*
「どうして、私の父のことまで」
ルファが言った。
彼は、リンゴを持ったまま顔を上げた。
「君は、もともとルシフェルの娘として生まれた。その記憶も、過去の世界とのつながりも、僕が消してきた」
「父も、忘れていたの」
「自分たちがどう結ばれていたかを、失っていた。異なる世界にいても、つながっている部分には影響が届く」
月の水盤に浮かんだ文字を、ライトは思い出した。
記録と景色が合わなくなる。
五十日ごとに、どこかが変わる。
「向こうには、消えきらない痕跡が残ることがあった。ルシフェルは波の間隔に気づいた。あの白い部屋の男も、食い違いを記録していた。おそらく、ノアティファクトの中で影響を免れていたのかも知れない」
「それを知ってて、黙ってたのか」
ライトの問いに、彼は頷いた。
「月で、ミカエルの力を使われた。ルシフェルは、僕の中に残っていた記憶へ触れたんだと思う」
ルファが目を閉じた。
思い出そうとしているのではなかった。
もう、思い出せないと知った顔だった。
「私が知らないことを、あなたは、ずっと知っていた」
「うん」
「私が知らない私も」
ルクルは答えなかった。
リンゴを持つ指が、白くなっていた。
ライトは、その手を見た。
「俺の力も、そうなのか」
ルクルの目が戻った。
「俺の力の正体を、最初から知ってたのか」
「違う。君はイレギュラーだった」
彼は少し間を置いた。
「七年前、君が店を見つけた日。白い猫を、抱いただろう」
ライトは動きを止めた。
青と緑の首飾り。
掌へ触れた額の温かさ。
その向こうにあった窓。
「あの猫は、僕だった」
レインが、小さく息を吸った。
ライトは彼を見た。
白銀の髪。こちらを見る目。答えを聞く前から、思い当たるものがあったことが、腹立たしかった。
「僕に触れたことで、君の中に、僕の力の一部が通るようになった。そう考えている」
「お前が、そうしたのか」
「意図して、渡したわけじゃない。器が光って割れるまで、僕も気づかなかった」
赤いリンゴは、静かだった。
「君は、作られたものへ、力を渡せた。動かしたり、形を保たせたり。ルファの魔法とは違う形で」
ライトは自分の手を見た。
あの獅子も、ランタンも、白い馬も。
できるようになったことを、ルファと二人で確かめてきた。
「全部、見てたのか」
「全部ではない。絵の向こうで何が起きているか、見えなかった時間の方が長い」
「ルファが魔法を使い過ぎたら、こうなることも」
「知っていた」
ライトは顔を上げた。
彼は、じっと目を見ていた。
「五十年までは、保てると思っていた。これまでは、その区切りより前に限界が来たことはなかった」
「思ってた、だけか」
「……そうだよ」
返事が、部屋に落ちた。
ルクルの指から、少し力が抜けた。
「君の力で、ルファの作ったものが、以前より強く世界に残るようになった。それを見ていても、僕は、まだ大丈夫だと思っていた。塔でも、月でも、彼女をもっと早く止められると思っていた」
ルファの手を、ライトは見た。
抱き合って落ちた。
壊れた翼を、最後まで直そうとしてくれた。
「俺が、使わせたからか」
「それは違う」
ルクルが言った。
リンゴを握り直し、もう一度言った。
「知っていたのは、僕だ。君たちが知らないまま使うのを、僕が止めなかった」
責任を引き受ける言葉を聞いても、何も戻ってこなかった。
そのことが、いちばん悔しかった。
*
「魔法を使うのをやめる」
ルファが言った。
「もう、何も作らない。それでも、駄目なの」
彼は首を振った。
「すでに世界へ散っているものは、それでは戻らない」
「集めることは」
「世界をほどかずに全部集める方法を、僕は見つけられなかった」
「ルシフェルにしたみたいに、時間を戻せば」
ライトが言った。
「ルファが魔法を使う前に」
ルクルは赤い硝子を見た。
「あれで戻したのは、彼の術が変えた、彼自身の形だ。ルファの身体だけを戻しても、世界に起きたことは残る」
ライトは歯を食いしばった。
「なら、別の世界へ行く。ルファと俺だけでも……」
「魔法は、離れても切れない。だから、ティファレトにも影響が届いた」
どの道も、同じところへ戻ってきた。
ライトは手を動かそうとした。
ルファの指に触れたまま、あの金色の光を呼ぼうとした。形を保てるなら、彼女も、この店も。
掌が、温かくなった。
青い光が、急に濃くなった。
ルファが息を詰めた。
窓辺で、硝子が鋭く鳴った。
ライトは手を開いた。
光が薄れた。
「今は、力を重ねないで」
ルクルの声がした。
ライトは動けなかった。
助けようとすると、苦しませる。
何もできないことより、その方が怖かった。
ルファが、彼の手の甲へ指を載せた。
「隣にいて」
ライトは彼女を見た。
「何もしなくていいから」
自分が月で言った言葉に、よく似ていた。
ライトは頷いた。
光を出さずに、ただ、その手を支えた。
*
母が、ルクルへ顔を向けた。
「この子たちは、生きられるの」
初めて口にした問いだった。
ルクルは頷いた。
「そのために、世界を保ち直します」
「それで、この子が苦しかったことも、帰ってきたことも、わからなくなるのね」
「この旅につながる記憶は、残りません」
母はライトを見た。
包帯のある脇腹ではなく、その顔を見た。
レインが壁から離れた。
「私が、覚えておけば?」
ルクルの目が移った。
「ライトから聞いたことを、私が覚えておいて、あとで話す。母さんも、アディーさんもいるし」
「君たちの記憶も、変わった歴史につながり直す」
「だったら、書けば」
レインは鞄から手帳を出した。
紐をほどき、頁を開いた。ところどころ波打っていた。雪に濡れた紙だった。
ライトはその頁を見た。
ルファと、春を待った。
自分の字があった。
少し急いで、忘れないうちにと書いた字だった。
「これを、持ってればいい」
レインが笑った。
ルクルは、しばらくその頁を見ていた。
「記録も、この世界の一部なんだ」
妹の笑顔が止まった。
「文字だけを残して、起きたこととのつながりを守ることはできない。ほかの記録になるか、書かれていない頁になるか……そのまま、証拠にはできない」
「写真も?」
ルクルが頷いた。
「誰かに預けても?」
もう一度、頷いた。
レインは手帳を閉じなかった。
ライトはそこへ手を伸ばした。
妹は両手で、彼の膝へ載せた。
この字を、誰が書いたのか。
このとき何を見ていたのか。
今なら、一つずつ話せた。
朝の雪が、薄い桃色に染まっていた。
ルファの肩が、隣にあった。
忘れるという言葉の意味が、ようやく、自分の身体へ入ってきた。
*
「記憶まで、消さなければならないの」
ルファが訊いた。
ルクルは顔を上げた。
「世界を直すことと、私たちが忘れることは、同じなの?」
ライトは彼を見た。
ルクルはリンゴへ目を落とした。
答えるまでに、長い時間がかかった。
「同じでは、ない」
ライトの胸が動いた。
「最初は、君の記憶だけを、残したことがある」
ルファが、瞬きをした。
「……私だけ?」
「君は、今のマルクトができるより前から生きていた。その君を、変わる世界の外に留めようとした」
ルクルの声は低かった。
「君は、覚えていた。よく話していた人の名前も、会う約束をした場所も。けれど、行ってみると、相手は君を知らなかった」
ルファは黙っていた。
「君が知っている家がなかった。手紙を出しても、届かなかった。目の前に同じ顔の人がいても、君と過ごしたことだけが、なかった」
ライトはルファの手を見た。
この手を、知らないと言う。
あの窓の下で笑った人を、初めて会う人として見る。
思い描こうとして、できなかった。
「君は、何度も話しかけた。忘れているだけなら、話せばわかると思っていたんだと思う」
ルクルが息を吐いた。
「ある日、話すのをやめて、泣いた」
赤いリンゴに、朝の光が当たった。
「僕は、その顔を覚えている」
「だから、消したの?」
ルファの問いに、ルクルはすぐには答えなかった。
「それも、理由だ」
彼は言った。
「世界を守るためだけだったと言えば、嘘になる」
アディーが、顔を上げた。
ルクルは続けた。
「君の中に過去が残ると、消したはずの魔法も、そこを拠り所に形を保とうとした。眠っているときにも、君が思い出したものの色が戻った。君だけを切り離しておくことは、長くはできなかった」
ルファは、自分の指先を見た。
閉じても消えなかった青い色を。
「だからといって、僕が迷わず決めてよかったことにはならない」
ルクルの声が、わずかに震えた。
「僕は、君が何も知らずに笑ってくれる方を、選びたかった」
誰も、言葉を挟まなかった。
「消したあと、君は、知らない僕へ挨拶をした。普通に、笑った」
彼の目が、ルファを見た。
「そのとき、僕は、ほっとしたんだ」
彼女は目を逸らさなかった。
「それから、ずっとそうしてきたのね」
「うん」
「私が、何を失ったかも知らないまま、笑えるように」
ルクルは頷いた。
掌のリンゴが、小さく傾いた。
落とさないように持ち直す手つきが、ひどくぎこちなかった。
*
「今度は、俺も残してくれ」
ライトは言った。
ルクルがこちらを向いた。
「ルファを、一人にしなければいいんだろ。俺も覚えてる。二人で、忘れた人たちに会えばいい」
ルファの手が動いた。
ライトは続けた。
「知らないって言われても、一緒に帰ればいい。そんなの、今までだって――」
違う、と気づいた。
そんな経験は、自分にはなかった。
けれど、言い直す余裕がなかった。
「つらくても、いいから」
ルクルは首を振った。
「二人が覚えていれば、二人の間に、消した世界とのつながりが残る。悲しみを分けられても、魔法を切り離せるわけではないんだ」
「お前は、覚えていられるんだろ」
「僕は、作り直す世界を支える側にいる。僕まで同じようにほどけてしまえば、次をつなげられない」
「だったら、俺たちもそっちへ」
「君たちを、僕と同じものに変える方法を、僕は知らない」
ライトはルクルを睨んだ。
リンゴを持つ手も、目も、逸れてはいなかった。
嘘ではない。
それが、腹立たしかった。
「神なんだろ」
声が、震えた。
「それなのに、できないことばっかりじゃないか」
ルクルは、答えなかった。
ライトは彼の胸元を掴もうとした。
身体を起こした瞬間、脇腹に痛みが走った。母の手が背を支え、ルファが椅子から身を乗り出した。
ルクルも、立ち上がりかけた。
「来るな」
言うと、彼は止まった。
ライトは俯き、息を整えた。
握りしめた手が、何も掴めないまま、膝へ落ちた。
「……さっき、帰ってきたんだぞ」
誰も、返事をしなかった。
「やっと、帰ってきたんだ」
*
レインが、窓を少し開けた。
空気が入ってきた。
焼いたパンの匂いがした。どこかの家で食器が鳴り、通りの向こうで、誰かが人を呼んでいた。
誰も、終わるとは思っていない朝だった。
「この人たちも?」
レインが訊いた。
「この人たちの暮らしも、作り直すの?」
ルクルは頷いた。
妹は窓から顔を戻した。
「誰も、知らないのに」
「うん」
答えは、それだけだった。
ライトは膝の手帳を見た。
綺麗な字ではなかった。急いで書いたところは、自分にしか読めなかった。
それでも、今の自分には、わかった。
「父さんは、どうなる」
ルクルが目を上げた。
「店がなかったら、『深海の太陽』も、エマの旅も、同じにはならないんだろ」
「同じには、ならない」
「父さんが、帰ってこなかったことも?」
ルクルは少し間を置いた。
「別の歴史につながる可能性はある。でも、君の望む形で戻ると、約束はできない」
母の手が、ライトの背で止まった。
ライトは、その温かさを感じていた。
父がいるかもしれない。
幼いころから、ずっと待っていた家があるかもしれない。
その代わり、ルファと出会わない。
天秤のように考えかけて、やめた。
自分が選べば片方を差し出せるようなものではなかった。
「父さんに会いたかったことは、嘘じゃない」
ライトは言った。
「今でも、一緒に帰りたかった」
ルファは、黙って聞いていた。
「でも、そのために、ここへ来たことまでなかったことにしたいわけじゃない」
母の手が、背中をゆっくり撫でた。
ライトは顔を上げた。
「どっちも、あったんだ」
ルクルは頷いた。
「知っている」
「お前が知ってても、俺が知らなくなるんだろ」
ルクルの口が閉じた。
*
ルファが椅子の背へ身体を預けた。
疲れたのだと、ライトは思った。
だが、次の瞬間、握っていた指の輪郭が薄くなった。
光が強くなったのではなかった。
彼女の手を通して、下にある自分の指が、わずかに見えていた。
「ルファ」
彼女も見ていた。
アディーが近づいた。
ルクルはリンゴを机へ置き、一枚のカードを二人の手の下へ差し入れた。
輪が広がった。
青い光が、その縁を流れた。
彼女の手に、重さが戻った。
ライトは息を吐いた。
いつから止めていたのか、わからなかった。
「今ので、治せないのか」
ルクルは首を振った。
「少し、留めているだけだ」
「どのくらい」
ルクルは答えなかった。
その沈黙で、わかった。
ルファがライトの手を撫でた。
指先には、まだ温かさがあった。
「私、忘れたくない」
誰にも代わりに言わせないような、はっきりした声だった。
ルクルが彼女を見た。
「つらかったことも、嬉しかったことも。全部、私にあったことでしょう」
「うん」
「知らない方が幸せだって、言わないで」
ルクルの目が揺れた。
「……言わない」
ルファは、机のリンゴを見た。
それから、ルクルの顔へ目を戻した。
「あなたが覚えているなら」
少し、息を継いだ。
「私が、忘れたくないと言ったことも、覚えていて」
ルクルは俯いた。
頷くまでに、長い時間がかかった。
*
「下へ、行きたい」
ルファが言った。
ライトは顔を上げた。
「店を、見たいの」
ルクルが頷いた。
アディーはもう、廊下へ出ていた。階段を確かめ、途中の荷物を退ける音がした。
母がルファの上着を直した。
レインが手帳を閉じ、ライトへ渡した。
ライトは、両手で受け取った。
アディーが戻ってきた。
「先に、お前だ」
「歩ける」
「今朝、医者に叱られたのは誰だ」
いつもの声だった。
ライトは何も言えなくなった。
アディーが背と膝の下へ腕を入れた。子供のころのように持ち上げられ、思わず服を掴んだ。
階段の窓が近づいた。
青い飾りが、光っていた。
傍を通ると、古い欠片の金色が、短く揺れた。
ライトは手を伸ばしかけた。
外せば、持っていける気がした。
だが、指は届く前に止まった。
ここに掛けてもらった日の窓の高さを、まだ覚えていた。
作品の形が気になって、階段を上るたび、下りるたび、少しずつ角度を変えて見た。
最後に、ルファが言った。
ここがいいわ。
だから、ここにあった。
ライトは手を下ろした。
*
一階には、朝の色が満ちていた。
窓辺の青は床へ流れ、琥珀色の器の光は、隣の皿まで届いていた。棚の小鳥は動かなかった。ただ、その内側に、小さな灯りがともっていた。
アディーはライトを長椅子へ下ろした。
少し遅れて、ルファが母とレインに支えられて階段を下りてきた。
二人は、並んで座った。
いつも客が座る場所だった。
ここから見ると、カウンターの高さが違った。ルファは、椅子へ置いた手を動かさず、店内を見渡していた。
「お茶を、飲めるか」
アディーが訊いた。
ルクルは、店の中央に立っていた。
足元で、細い輪が形を結びかけている。彼はそれを見てから、アディーへ頷いた。
「少しなら」
湯が注がれた。
カップを置く音がした。
五つのカップが、テーブルへ並んだ。
アディーはカウンターへ戻りかけ、途中で止まった。
もう一つ、カップを出した。
ルクルの前へ置いた。
ルクルはそれを見た。
「……僕も?」
「いつもの場所があるだろ」
アディーは答えた。
全てを受け入れたという声ではなかった。
ただ、そこに立ったままの彼を、店の外のものとして扱う声でもなかった。
ルクルは椅子へ座った。
レインは両手でカップを包んだ。
母は湯気を見ていた。
ライトは片手で持ち上げたが、指が震えて、少しこぼした。
ルファが皿を寄せてくれた。
そんなことまで、忘れる。
ライトは飲み込んだ。
熱かった。舌に、少し苦みが残った。
ルファが、窓の方を見た。
「この席からだと、朝は、こんなふうに見えるのね」
誰も答えなかった。
彼女は、しばらく眺めていた。
その顔を、ライトも見ていた。
*
ルクルがカップを置いた。
音は、小さかった。
それでも、皆が顔を上げた。
彼の指先で、輪が光っていた。
その内側へ、店じゅうの色が、少しずつ向きを変えていた。
「もう、始めなければならない」
ルクルが言った。
ライトは、膝の手帳を握った。
反対の手で、ルファの手を取った。
握っても、逃げ道にはならなかった。
知っていた。
それでも、離すことはできなかった。
ルファの指が、握り返した。
ルクルは二人を見た。
何か言おうとして、口を閉じた。
安心させる言葉は、もうなかった。
「まだ、話したいことがある」
ライトは言った。
ルクルは黙って聞いていた。
「ルファに」
彼女が、こちらを向いた。
飛行機を作りたかった。
鳥の話を、最後までしたかった。
帰ってからなら、いつでも言えると思っていたことが、いくつもあった。
言葉を探している間にも、窓の色が揺れた。
ルクルが、ゆっくり両手を開いた。
輪が広がった。
店の床へ、扉へ、窓の向こうへ。
カップの中で、小さな波が立った。
ルファの手は、まだ温かかった。
ライトは、その温かさを知っていた。
今は、まだ。




