ⅩⅪ 《世界》 ア・フィギュア・オブ・ビューティー
最初に変わったのは、カップの中の色だった。
窓から落ちていた青が、紅茶の表面を離れた。細い帯になり、湯気とともに持ち上がる。けれど、湯気が薄れても、その色は消えなかった。テーブルの縁を越え、床に広がる輪へ、ゆっくり引かれていった。
何も割れなかった。
大きな音もしなかった。
目の前にあるものが、目の前にあるまま、少しずつ別のものになり始めていた。
握っていたルファの指が動いた。
「聞いてるわ」
ライトは彼女を見た。
「話したいことが、あるんでしょう」
さっき、自分が言った言葉だった。
頷くと、ルファも小さく頷いた。急がせずに待ってくれた。
いつも、そうだった。うまく説明できない図案を持っていったときも、何かに怒って、黙ったまま作業台の前へ座ったときも。
けれど今日は、待ってもらう時間がなかった。
「俺、これからも、ここへ来るつもりだった」
ルファの目が、わずかに細くなった。
「自分の工房を持てても。父さんが帰ってきても。それでも、ここへ来て、作ったものを見せて」
言葉をつなぐほど、話したかったことから遠ざかる気がした。
「見てほしかったんだ。俺が、何を作れるようになるか」
「見たかったわ」
すぐに返事があった。
出来の悪い継ぎ目を指摘する声も、自分では気づかなかった色を見つける声も、ずっと聞いていたかった。知らない景色を前にして、ほんの少し高くなる声も。
「ルファ」
「なあに」
「好きだ」
声にすると、驚くほど短かった。
ルファは動かなかった。ただ、握っていた指に少しだけ力が入った。
「教えてくれたからとか、助けてくれたからだけじゃなくて」
ライトは彼女を見た。
「一緒に、いたいんだ」
ルファの唇が震えた。
笑おうとしたのかもしれなかった。けれど、笑う前に、涙が一つ落ちた。
「私も」
その先を言うまでに、彼女は息を整えた。
「あなたと、これからも生きていたい」
ライトは頷いた。
望んでいた答えだった。それなのに、次に何を言えばいいのかわからなかった。
二人の手に落ちていた青い色が、ほどけていった。
その行方を目で追うと、店の中央にルクルがいた。両手の間で輪が回り、その向こうへ、窓の色が流れ込んでいる。赤も、琥珀も、深い緑も、混ざることなく、見えないところへ吸い込まれていった。
ライトは膝の手帳を開いた。
指が滑り、ルファが片側を持ってくれた。
煤のついた頁があった。端が少し波打ち、開くと、ほかの頁より硬かった。
ルファと、春を待った。
まだ、読めた。
「ここに、書いたんだ」
ルファが文字へ顔を寄せた。
「見せてもらってなかったわね」
「城への道しか、書いてないと思った?」
彼女が、かすかに笑った。
ライトも笑いかけた。
その途中で、字が薄くなった。
墨が滲んだのではなかった。紙の繊維の間へ、文字だけが沈んでいくようだった。
ライトは指で押さえた。ルファという名前の上へ。
「待って」
指を離すと、白かった。
背表紙に挟んでいた鉛筆を抜き、同じところへ書こうとした。一文字目を書き終える前に、線の端が薄れた。
力を入れた。紙がへこんだ。黒い芯が折れ、掌へ小さな欠片が落ちた。
「まだ、覚えてる」
ライトは言った。
「文字が消えただけだ。俺は、まだ」
ルファが頷いた。
「ええ」
その声に促されるように、ライトは話し始めた。
「雪が降ってた」
石でできた、低い天井の小屋だった。入口の隙間を風が抜け、火から離れると、すぐに指先が冷えた。
「老人に、灯りを渡したんだ。黄色い硝子で、下のところが青くて」
「ラタさんに」
「そう。ラタさんだ」
その名を、もう一度、胸の中で繰り返した。
「朝、城の窓に灯りが見えた。ちゃんと着いたんだと思った」
ルファは頷いた。二人とも、同じものを見ているようだった。それが嬉しくて、ライトは続きを探した。
「小屋で、何を食べたっけ」
「パンと、お母さまの干し肉」
「ああ。スープも作った」
「少し、塩を入れて」
器を両手で包んだ。飲むと、冷えていた胸の奥まで温かくなった。
その温かさはわかった。
けれど、どんな器を持っていたのかが、思い浮かばなかった。指を曲げ、器を包む形を作ってみても、そこへ収まるものがなかった。
「夜に、俺が起こしたんだ。空が、綺麗だったから」
「緑の光が流れてて。硝子で作れるかなって、話した」
ルファが口を開いた。
「一枚では、難しいって……」
そこで止まった。
「重ねればいいって、俺が言ったんだ」
「そうね」
「そしたら、ルファが」
隙間。
光を通す隙間を残さなければいけない。
言おうとして、口が止まった。
言葉の形が、舌のすぐ向こうにある気がした。ほんの少し考えれば出てくる。いつもなら、そうやって思い出せるはずだった。
ルファが、自分の額へ指を当てた。
「私、何て言ったかしら」
ライトは答えられなかった。
空の色は、まだ浮かんだ。その下に二人で立っていたことも。なのに、話していたことだけが抜けていた。
「朝のことは」
「春になるとき、起こしてって頼んだ」
ルファの目が上がった。
「……約束したわね」
「起こしてくれた」
肩へ置かれた手。近くにあった彼女の顔。
「ちゃんと、起こしてくれたんだ」
ルファが頷いた。
ライトは、その先を話そうとした。
外へ出た。手を取った。雪の下に、花があった。
何色だった。
白い。
白かったはずだ。
そう思ったときには、もう、花を見た場所がわからなかった。小屋から何歩ほど歩いたのか。どちらを向いてしゃがんだのか。隣にいたルファの顔にも、朝の光が当たっていたはずなのに。
棚の小鳥から、光が抜けた。
羽に沿っていた淡い輝きが消え、ただの硝子の置物になった。その形も、少しずつ薄れていく。
アディーが棚の前に立った。手を伸ばしかけ、止めた。
「それ……何を書いてたの」
レインが、開いた手帳を見ていた。
ついさっき、彼女が自分へ渡したものだった。読んで、残そうとしてくれた。
レインも、自分の問いに驚いたような顔をした。
「違う。覚えてる。書いておけばって、私が……」
言葉が止まった。
母が、娘の肩へ手を置いた。
ライトは手帳を閉じた。閉じても消える速さは変わらない。それでも、白い頁を見続けていることはできなかった。
ルファの手を取った。
「外へ行こう」
彼女が顔を上げた。
逃げられないことは、聞いた。別の世界へ行っても、つながりは切れない。
けれど、ここに座り、自分の中から消えていくものを数えることには、耐えられなかった。
「少しだけでいい。ここから、離れよう」
立ち上がろうとして、脇腹が痛んだ。膝が折れかけたところへ、アディーの太い腕が入った。
「扉までだ」
ライトは、その腕へ縋った。
ルファは母に支えられて立ち上がった。ルクルがこちらを見たが、止めなかった。
床に広がった輪を、一歩ずつ越えた。
階段の窓へ目が向いた。
青い飾りがなかった。
吊ってあった紐も、小さな金具も、窓枠に残るはずの跡さえなかった。
「俺の」
ライトは足を止めた。
アディーがこちらを見た。
「あそこに、掛けて……」
続きを言おうとした。
自分の作ったものだった。誰かが、ここがいいと言った。
それが何だったのか、形が出てこなかった。
扉の鈴が、カランと鳴った。
もう一つ続くはずの音は、聞こえなかった。
外は、朝だった。
石畳に水が残っていた。いつ降った雨なのか、わからなかった。低い屋根の端から、一滴ずつ雫が落ちている。
アディーの腕を借り、ライトは戸口の脇へ腰を下ろした。背中に煉瓦の冷たさが触れた。
ルファが隣へ座る。
母の手が、ライトの髪に触れた。
「あなたは、ここにいる」
頷くと、母は何かを言おうとして、店の方を振り返った。レインが、その手を取った。二人の背後を、窓から溢れた色が横切った。
ライトはルファの肩を抱いた。
抱き上げることはできなかった。支え合って座っているだけだった。それでも、腕の中には重さがあった。
彼女は、ここにいる。
まだ話せることがある。
「世界樹」
ルファが顔を上げた。
「あそこにも、行っただろ」
少し遅れて、彼女が頷いた。
「大きな木が、湖の真ん中に」
「そうだ。白い馬を作った。脚に、昔の傷をつけるかって訊いて。つけなかった。あいつが、首を振ったから」
誰が。
その顔が浮かばなかった。
黒い衣は見えた。古い手綱が、木の根元に置かれていた。
「名前は? あの人の名前。湖にいた」
彼女の口が開いた。
何も出てこなかった。
「橋は? 馬の背中に乗って、渡っただろ」
「……下を、見ないようにしてた」
ルファが言った。
「怖かったから」
ライトは笑いそうになり、喉が詰まった。
「俺も、怖かった」
「ええ」
「でも、鳥が来た。白くて、羽の裏が」
何色だった。
答えを待つように彼女を見ると、ルファは空へ目を上げていた。鳥を探しているようだった。
「帰って、話そうって」
彼女が言った。
ライトは強く頷いた。
「そう。レインに。何羽いたか訊かれるって」
言ってから、そこがおかしかったことだけを思い出した。
何がおかしかった?
湖があった。大きな木があった。鳥が飛んでいた。
その下を渡る橋を、思い描こうとした。
けれど、橋の先がどこへ続いていたのか、もうわからなかった。
二人で見たはずの景色なのに、自分の立っていた場所が見つからなかった。
「やめてくれ」
声が出た。
ルファがこちらを向いた。彼女へ言ったのではなかった。
「やめてくれよ。まだ、覚えてるんだ」
店の方を見た。
ルクルがいた。扉の内側で、両手を開いていた。
その周りに、いくつもの光が浮かんでいた。暖炉の火のような色。氷の底のような青。花びらを透かしたような、薄い桃色。
「ルクル」
呼ぶと、彼は顔を上げた。
「一つでいい。全部じゃなくていいから」
こちらを見ている目へ、ライトは言った。
「この人のことだけ……忘れないようにしてくれよ……」
涙が溢れた。
ルファの指が、ライトを掴んだ。
ルクルは唇を結んだ。首を振るまでに、ほんの少し時間がかかった。
その間、ライトは待ってしまった。今度こそ、違う返事が来るかもしれないと。
ライトはルファを抱き寄せた。強くしすぎないようにと思った。どこかを傷めていたはずだった。
自分も、どこかが痛かった。
もう、痛くなかった。
治ったことを喜べなかった。痛かった理由まで、なくなっていた。
ルファは彼の胸へ寄りかかった。
「誕生日に、皆が来てくれた。ケーキがあって、煮込みが少し辛くて、誰かが、水を飲んで。……誰かが笑って」
硝子を透かした西日。皿を拭ったパンの柔らかさ。隣にいる人の横顔。
何でもない一日だった。終わりがあると思っていなかった。
ルファの指が、彼の背へ回った。
ライトは目を閉じた。その日のルファを、思い出そうとした。
笑っていた。
隣にいた。
どんな声で笑ったのか。
どんなふうにカップを持ち上げたのか。
毎日のように見ていた仕草が、ひとつも戻ってこなかった。
枠を押さえる形。
刃を滑らせる角度。
光へかざすときの、少しだけ腕を伸ばす癖。
「俺、下手だったんだよな」
ルファが顔を上げた。
「最初に作ったの、曲がってて。それでも」
何だった。
青いものだった。
青くて、四角い。
動かした右手で、指輪が光った。
ルファが、小さな翼の縁を指先でなぞった。
「これ」
「くれたんだ。俺に」
彼女が頷いた。
受け取ったときのことを思い出そうとした。箱があった。小さな箱だった。落ちて、拾った。
その先がなかった。
「誕生日に、渡そうとして」
ルファの言葉も、そこで止まった。
二人は、指輪を見つめた。
ルファの目から、涙が落ちた。
ライトは空いた手で、その頬へ触れた。濡れていた。
ずっと前にも、この人を悲しませたことがある。
小さなナイフを向けて、何かを叫んだ。
何と言ったのかは、わからなかった。ひどいことを言ったのだとだけ、思った。
「ごめん」
ルファが首を振った。
「何に、謝ってるの」
答えようとした。
何に。
頬へ置いた手だけが、動かなくなった。
彼女の肩越しに、店の窓が見えた。
赤い硝子が透明になり、その向こうの棚が透けていた。棚に置かれたものが消え、棚そのものも、壁の模様へ溶けていく。
看板が揺れた。
虹色Café。
ライトは、その文字を読んだ。
知っている名前だった。大切な場所だった。ここに、毎日のように来ていた。
何をしに。
息が止まった。
腕の中の人を見た。
黒い髪。眼鏡。濡れた頬。
知っている。
この人を、知っている。
「ルファ」
声にすると、彼女がこちらを向いた。
ライトはその顔を見つめた。
眉の形も、目の色も、唇の小さな傷も、一つずつ見た。失ったものを探す代わりに、今、目の前にいる人を覚え直そうとした。
覚えられるはずだった。
目の前にいるのだから。
けれど、瞬きをすると、その前の顔が残らなかった。目を開けるたび、同じ人を、初めて見るようになっていった。
「ルファ」
もう一度、呼んだ。
「ルファ」
「ここにいるわ」
「絶対、忘れない」
ルファの顔が歪んだ。
「忘れない。俺は、絶対忘れないから」
どうすればいいのか、わからなかった。
「ルファ!」
彼女の両腕が、背へ回った。
抱きしめられた。
ライトは顔を埋めた。
温かかった。まだ、ここにいた。
朝の光が、二人の間へ入ってきた。隙間などなかった。それでも、光は肩を、指を、重ねた腕を透かした。
掌へ伝わる背中の重さだけが、今、確かなものだった。
「ルファ」
呼ぶと、腕の力が少し強くなった。
もう一度呼ぼうとした。
名前が出てこなかった。
ライトは息を吸った。今、言ったばかりだった。喉に、その声の形が残っているのに、何と言えばいいのかわからなかった。
涙が、彼女の髪へ落ちた。
彼女が顔を上げた。何かを待つように、こちらを見た。
大切な人だった。
そのことだけが、かろうじてわかった。
「さよなら」
言いたくなかった。
けれど、何も言えなくなる前に、この人へ届く言葉を、一つだけ渡したかった。
ライトは唇を動かした。
名を呼んで、引き留めようとした。
声にはならなかった。
腕を緩めまいとした。何を失いたくないのか、わからなくなっても、その動きだけは続いていた。
頬へ、指が触れた。
濡れていた。
なぜ、泣いているのだろう。
腕の中の重さが薄くなった。掴もうとした指は、何にも届かなかった。
目の前に、光があった。
その向こうに、人がいた気がした。
戸口の二人の姿が光に溶けても、ルクルは手を閉じなかった。
窓の最後の一枚が、輪の中へ戻った。人々が触れた取っ手も、何度も引かれた椅子も、長椅子の縁についた細い傷も、その形を失っていった。
階段があった場所に、壁が続いた。
店先へ落ちていた影が、隣の建物の影につながった。
この朝だけの出来事ではなかった。
誰かが店の前を通った日の道順が変わった。ここで買ったものを包んで帰った手に、別の荷物があった。待ち合わせをした人々は、別の場所で会った。
何年も前から、そうだった世界が、朝の中へ重なっていく。
焼いた菓子の匂いが消えた。
扉の鈴が鳴ったことも、その音を聞いた人の記憶も、なくなった。
ルクルの前に、道が残った。
彼はそこを見ていた。
ライトが、ルファの名前を呼んでいた。ルファが、彼の背へ腕を回していた。
もう、誰の中にもない光景だった。
彼の中にだけ、あった。
手を閉じると、輪が小さくなった。
最後に戻ってきたのは、青い光だった。
継ぎ目の揃わない、四角い窓飾り。作った少年が、何度も見上げたもの。
その形は残らなかった。
ルクルは、空になった掌を見た。
忘れたくないと言ったことも、覚えていて。
約束は、果たされていた。
彼は、覚えていた。
その言葉を、もう一度言ってくれる人はいなかった。
向かいの窓が開いた。
ルクルが顔を上げると、誰かが鉢へ水をやり、通りを走ってきた子供へ声を掛けていた。荷台に籠を載せた自転車が、角を曲がっていった。
朝は、続いていた。
*
硝子の縁が、朝日を返した。
作業台の上に、切り分けた青い硝子が並んでいた。その隣には、まだ線を入れていない緑があった。布の端から、使い込まれた道具の柄が覗いている。
ライトは、椅子から顔を上げた。
窓が開いていた。
風が入り、机の紙を持ち上げた。重しを置こうと手を伸ばすと、右手の指輪が薄く光った。
階下から声がした。
「ライト、朝飯だぞ」
父の声だった。
いつもより少し大きいのは、上で作業をしていると思っているからだろう。
ライトは窓の光を見た。
硝子を選ぶには、いい朝だった。
「いま行く」
返事をして、道具を布の上へ揃えた。
誰に、この並べ方を教わったのか。
迷うことはなかった。
父だった。




