ⅩⅫ 《愚者》 はじめまして
日曜日の朝、ライトは家族の誰よりも早く、朝食の席を立った。
「店を開けるのは、お前の仕事じゃないぞ」
父に言われ、戸口で振り返る。
「分かってる。先に机を出しておきたいんだ」
「自分の分の皿ぐらい、片づけていって」
レインは、まだ半分ほど残っているパンを口へ運びながら言った。
ライトは食卓へ戻った。
母が笑って、空になった父の皿もその上へ重ねた。
流しに皿を置き、水を張る。窓の外では、干された布が、朝の風をいっぱいにはらんでいた。
雨の心配はなさそうだった。
*
工房の前へ長机を運び出すと、向かいの家の窓から、女の子が顔を出した。
「もう行ってもいい?」
「まだ。硝子を並べてから」
答える間に、小さな頭は窓から引っ込んだ。
ほどなくして、玄関の扉が開く音がした。
ライトは苦笑し、机の脚が石畳の溝にはまっていないか、確かめた。
父と営む工房では、月に二度、子供たちにステンドグラスを教えていた。教室と呼ぶほど立派なものではない。軒先に机を出し、縁を磨いておいた色硝子を選んでもらう。小さな窓飾りがひとつできるまでには、たいてい午前中いっぱいかかった。
工房の看板の下へ、教室の札を掛けようとしたときだった。
右手が煉瓦に当たり、硬い音がした。
「あ」
指輪の青い硝子が、縁から小さく欠けていた。
初めて自分で受けた仕事の代金で、材料を買って作ったものだった。翼の形をした銀の枠へ硝子を収めるのに、何日もかかった。指輪にしては大きすぎると父に言われたが、気に入って、休みの日にはよく着けていた。
欠けたところに触れないよう外し、上着のポケットへ入れる。
直すのは、子供たちが帰ってからだ。
「何色があるの?」
さっきの女の子が、机の前でつま先立ちになっていた。
「いま持ってくる」
ライトは工房へ戻り、硝子の箱を抱えた。
箱の中で、赤と緑が触れ合った。
乾いた、小さな音がした。
*
黒い外套の女性に気づいたのは、子供の選んだ硝子を、紙の上へ並べ直しているときだった。
通りの向こうに立っていた。
肩には旅の鞄を掛け、片手に折り畳んだ地図を持っている。被っていたフードを少し後ろへずらし、机の上を眺めていた。
店の場所を探しているのかと思ったが、目はずっと、硝子を追っていた。
「ご覧になりますか」
声を掛けると、女性は顔を上げた。
「邪魔にならないかしら」
「いまなら、まだ座れます」
空いている椅子を引くと、隣の男の子が、自分の硝子を慌てて寄せた。
「お姉さんも作るの?」
「できるかしら」
「できるよ。僕、二回目だから」
男の子が胸を張る。
女性は笑って、鞄を椅子の脇へ下ろした。
外套を脱ぐと、黒い髪が肩へ落ちた。袖口には、何度か繕った細い縫い目があった。机に置いた指は、硝子へすぐには触れず、色を確かめるように、その上をゆっくり動いた。
「切ったりするのは、初めてですか」
「ええ。見るのは好きなのだけれど」
「今日は、切らなくて大丈夫です。縁を磨いたものを選んでありますから」
ライトは、浅い木箱を彼女の前へ滑らせた。
「俺はライト。この工房で、父と仕事をしています」
彼女は木箱から目を上げた。
「ルファよ」
それから、少し姿勢を正した。
「はじめまして」
「はじめまして」
挨拶を終えたところで、隣の男の子が、二人の間へ黄色い硝子を差し出した。
「これ、お姉さんにあげる」
「あら。使わないの?」
「僕のは海だから」
ルファは、男の子の前に並んだ青や緑を見た。
黄色を一度、その脇へ置いてみる。
「海のそばに、窓を作ってもいいと思うけれど」
男の子は、考え込んだ。
やがて黄色を取り戻すと、青の隣に、そっと置いた。
*
昼の鐘が鳴るころには、机の上に、大小さまざまな窓飾りができていた。
ルファが作ったものは、小さな四角だった。
黄色と薄い緑、その間に細い透明な硝子が入っている。接ぎ目の幅が揃わず、片側だけが少し重たく見えた。
「ここが、難しいのね」
彼女は、自分の指で継ぎ目をなぞった。
「最初は、どうしても太くなります」
「最初だけ?」
ライトは少し笑った。
「俺も、急ぐと」
「では、急がないことにするわ」
子供たちが帰ったあとも、彼女はしばらく、自分で作った硝子を光にかざしていた。
父が工房から出てきて、残っていた椅子を壁へ寄せた。机の上を見て、ライトの指輪に気づく。
「それ、やったのか」
「看板を掛けるときに」
「だから、作業の前には外せと言っただろう」
「外すつもりだった」
「つもりで済めば、うちの修理仕事は半分になるな」
父は指輪を裏返し、枠の歪みを確かめてから置いた。
ルファが身を乗り出した。
「それも、あなたが?」
「ええ。少し前に」
「見てもいい?」
「欠けたところには、触らないでください。尖っているので」
渡すと、彼女は両手で受け取った。
翼の先から、机へ青い光が落ちた。
欠けた箇所だけ、色が抜けている。
「ここには、同じ青を入れるの?」
「近い色を探そうかと」
父が、端硝子の入った引き出しを抜いてきた。
「違う色でもいいんじゃないか。どうせ自分のだ」
引き出しを机へ置き、二人を残して、工房へ引っ込んだ。
ルファは中を覗き込んだ。
小さな欠片ばかりだった。窓を作った余り、曲線を切り取ったあとの端。光に透かさなければ、何色か分からないものもある。
「選んでみますか」
ライトが言うと、彼女は指輪と引き出しを見比べた。
「大切なものなのでしょう」
「だから、気に入らなかったら、そう言います」
ルファは顔を上げた。
その言い方が意外だったのか、少しの間、ライトを見た。
「それなら、遠慮なく」
選んだのは、ごく淡い、琥珀色だった。
青の隣へ置くと、硝子の中に朝の光が差したように見えた。ライトは、指輪を少し傾けた。
「これにしましょう」
「本当に?」
「こっちの方が好きです」
ルファが笑った。
必要な大きさに切り出すのは、ライトがした。
彼女には磨くところを手伝ってもらった。教えたとおりに手を添え、少しずつ縁を整えていく。何度も指輪の脇へ置き、幅を確かめる。
一度、削りすぎそうになって、二人で同時に声を出した。
ルファが手を止めた。
ライトも、伸ばしかけた手を止めた。
互いの顔を見て、笑った。
すべて収まり、仕上げた指輪を布で拭くころには、道の半分が日陰になっていた。
ルファは、その向こうから覗いた。
「どう?」
指輪の小さな翼越しに、彼女の片目が見えた。
翡翠色の瞳が、ライトの返事を待っていた。
「よくなりました」
そう答えてから、もうひとつ付け足した。
「直す前より」
*
ルファは、川沿いの宿に部屋を取っていた。
この街へ来たのは三日前で、次の市が立つまで滞在する予定だという。
「何を探しているんですか」
「いろいろ」
答えながら、鞄から小さな包みを取り出した。
広げた布の上には、青い釉薬のかかった匙、小さな木彫りの鳥、平たい石がふたつあった。
「こっちは、海で拾ったもの。濡れると、もう少し赤くなるの」
ライトは石を見た。
「それも、持って歩いてるんですか」
「重いのよ」
「でしょうね」
「でも、拾ったときには、持って帰ろうと思ってしまうでしょう」
同意を求められて、ライトは自分の工房を振り返った。
いつか使うつもりで取ってある硝子が、棚の隅まで詰まっていた。
「……分かります」
ルファは満足そうに包みを閉じた。
日が傾き、彼女が立ち上がったあとも、ライトは机を片づけずにいた。
さっきまで硝子のあったところへ、四角い埃の跡が残っている。
「滞在中に、また来ませんか」
ルファが振り返った。
「教室は、再来週なのでしょう」
「工房は開いています。見てもらいたい硝子も、まだありますから」
言ってから、売り物の話に聞こえたかもしれないと思った。
言い直すより先に、ルファが尋ねた。
「今日の黄色とは違うもの?」
「もっと薄いのがあります。夕方の光で見た方がきれいな」
「では、夕方に」
彼女は、そう約束した。
*
次にルファが訪ねてきたとき、ライトは高い窓の修復をしていた。
脚立の上から声を掛けると、彼女は入口で鞄を下ろし、待っていると言った。
しばらくして振り向くと、机に肘をつき、旅の手帳へ何かを書いていた。
「待たせてすみません」
「ここ、明るくていいわね」
見せてくれた頁には、窓が描かれていた。
その下に、小さな机がふたつ。
奥には棚らしい四角と、湯気のような線がある。
「宿ですか」
「カフェ。いつか、自分で開きたいの」
まだ鉛筆の線だけの店だった。
ライトは脚立を畳み、その横へしゃがんだ。
「旅は、やめるんですか」
「少なくするかもしれない。でも、出かけたくなったら、出かけるわ。休みの日を、長めに取って」
彼女は手帳の下の方へ、扉を描き足した。
「知らない街へ着くと、最初にお茶を飲めるところを探すの。宿を決める前に、少し座りたくなるから」
慣れない道を歩いた足を休める。
鞄を下ろし、湯が沸く音を聞く。
注文したものが運ばれてくるまで、何もしなくていい。
「そういう店を、私もひとつ、作れたらと思って」
ライトは、紙の上の机を見た。
「この席には、午後の日が入りますね」
「分かるの?」
「工房と、同じ向きの窓だから」
ルファは紙を少し回した。
夕日が、描かれた店の上へ落ちた。
「この街で開くかは、まだ決めていないの」
言われて、ライトは顔を上げた。
「そうですか」
「ええ」
ルファは、彼の表情を見ていた。
ライトは立ち上がり、約束していた硝子を取りに行った。
棚から出した薄い黄色は、日にかざすと、向こうの道が透けて見えた。
ルファは窓辺へ立ち、長いこと、それを眺めた。
「これは、朝にも見ていい?」
「もちろん」
「では、明日も来るわ」
*
彼女のいる時間が、少しずつ増えた。
昼過ぎに姿を見せる日もあれば、来ない日もあった。
市場で見つけた果物を持ってくることもあったし、手帳を広げたまま、ライトの仕事が終わるまで何時間も黙っていることもあった。
ルファは、硝子を切る練習を始めた。
真っすぐな線を引くことにも、思った以上に力加減が要った。
失敗すると、欠片をしばらく眺めてから、別の形に使えないか考えた。どうしても使えないものは、自分で箱へ戻した。
ライトは、何でも教えたくなった。
けれど、彼女が考えているときには、口を挟まずに待つ方がいいことも知った。
ルファの方も、ライトが硝子を選ぶとき、急に返事をしなくなることを覚えた。
ある午後、二度目の問いかけにも答えがなく、彼女が覗き込んできた。
「その二枚、そんなに違う?」
「こっちは、縁に緑がある」
並べて見せると、ルファは窓へ顔を近づけた。
「本当ね」
言葉のあとも、その場を離れなかった。
ライトが次の硝子を選ぶのを、隣で見ていた。
窓の狭い光を分け合うために、肩が少し触れていた。
*
市の立つ日が過ぎても、ルファは街に残った。
ただ、北へ向かう旅は、取りやめなかった。
知り合いの宿へ、夏の忙しい間だけ手伝いに行く約束をしているのだという。茶の淹れ方も、菓子の焼き方も、その宿で教わったのだと話した。
発つ日の朝、ライトは停車場まで鞄を運んだ。
「重い」
「石が、少し増えたの」
「知ってる」
川岸で一緒に拾ったものだった。
乗合馬車の屋根へ荷物を載せる間、ルファは袖口の紐を結び直した。
いつも椅子の背に掛けていた外套を、今日は身につけている。
それを見ると、急に、旅人なのだと分かった。
「手紙を出してもいいですか」
ライトが尋ねた。
ルファは、鞄の小さなポケットから、紙を取り出した。
「宿の名前を書いてきたの。渡そうと思って」
紙には、北の町の名と、宿の名があった。
その下に、彼女の名前が書かれていた。
ライトは、折らずにしばらく持っていた。
「戻ってきたら、続きを作りませんか。あの窓飾り」
「ええ」
「それから」
馭者が、最後の荷物を縄で留めていた。
ルファは急かさず、ライトの言葉を待った。
「硝子の用がなくても、会いたい」
言ってしまうと、飾り気のない言葉だった。
他に言い方を探している間に、ルファが笑った。
「私も、そう思っていたの」
ライトを見て、それから、手元の紙を見る。
「手紙にも、仕事以外のことを書いてね」
「何を?」
「あなたが、その日、私に話したかったこと」
馬車へ上がる彼女の手を、ライトは支えた。
踏み段の上で、ルファの指が、一度だけ彼の手を握り返した。
馬車が通りへ出ても、ライトはその場に立っていた。
角を曲がる前に、窓から手が出た。
彼も、手を上げた。
*
最初の手紙を書くのに、二晩かかった。
窓の修復が終わったこと。
父が仕入れた青い硝子に、細かな気泡が入っていたこと。
教室の男の子が、今度は船を作ると言っていたこと。
そこまで書いて、読み返した。
ほとんど仕事の話だった。
紙の下には、まだ余白があった。
ライトは窓を開けた。
夜の空気の中に、昼の熱が少し残っていた。
彼女の座っていた椅子へ、明日は誰かが座るかもしれない。
そうでなければ、一日、空いたままだ。
机へ戻り、続きを書いた。
夕方になると、入口を見る癖がつきました。
そこだけ消すかどうか、しばらく迷った。
結局、そのまま封をした。
返事には、宿の忙しさと、焦がしてしまった菓子の話が書いてあった。
北の町では、もう朝が寒い。
窓を開けると、山の斜面が見える。
近くに硝子を扱う店があるので、休みの日に見てくるつもりだという。
最後の数行だけ、少し小さな字になっていた。
こちらでは、夕方になると、お茶が二杯淹れたくなります。
帰ったら、飲みに来てください。
ライトは手紙を畳み、引き出しへしまった。
それからもう一度開いて、帰ったら、というところを読んだ。
*
ルファが戻ってきたのは、街路樹の葉の先が、黄色くなり始めたころだった。
昼下がりの工房へ、鞄を肩に掛けたまま入ってきた。
ライトは、手にしていた道具を置いた。
「宿は?」
「これから」
「先に、部屋を取った方がよかったんじゃ」
「そう思ったのだけれど」
ルファは言って、入口から一歩、入ってきた。
「こちらへ来たくなったの」
ライトは椅子を引いた。
彼女が鞄を下ろす。
少し迷ったあとで、ライトはその肩へ手を置いた。
ルファが見上げた。
そのまま身を寄せてきたので、腕を回した。
外套は、外の風の匂いがした。
旅の鞄の留め金が、二人の間で、小さく鳴った。
「おかえり」
「ただいま」
離れたあと、ルファは笑っていた。
ライトも、何を言えばいいのか分からないまま、笑った。
*
カフェにする場所は、三軒見て回った。
表通りの店は、家賃が高すぎた。
広場の角の空き家は、明るかったが、水場を直すのに手間がかかった。
三軒目は、昔、仕立屋だったという小さな店だった。
運河へ下る道の途中にあり、表から見ると、二階の窓の方が大きい。階下の扉は少し傾いていて、開けるのに肩で押す必要があった。
中は埃っぽかった。
長いこと家具の置かれていた壁に、薄い日焼けの跡が残っている。
ルファは鞄を下ろした。
部屋の奥まで歩き、それから、窓のそばへ戻ってきた。
外では、配達の荷車が坂を上がっていた。車輪の音が遠ざかると、運河の水音がかすかに聞こえた。
「ここにしようと思うの」
ライトは、窓枠を見ていた顔を上げた。
「まだ、二階を見てない」
「二階も見るわ。屋根も、水場も」
ルファは笑った。
「でも、ここでお茶を淹れたいと思ったの」
鞄から手帳を出し、以前描いた店の頁を開いた。
何度も描き直して、線が重なっていた。
「窓を、お願いできる?」
「俺に?」
「ええ。あなたに」
ライトは手帳を受け取った。
そこに描かれた窓と、目の前の古い枠を見比べた。
「どんな光にしたい?」
ルファはすぐには答えなかった。
窓の外を人が通った。
その影が、床を横切っていく。
「朝、ひとりで座った人が、自分の手を少し眺めたくなるような」
彼女は掌を上へ向けた。
「綺麗な色が載っていたら、お茶を待つ間、退屈しないでしょう」
ライトは、紙の端へ線を引いた。
「全部を色硝子にすると、外が見えなくなる」
「道は見たいわ」
「なら、下は透明にして、上に色を入れよう」
「青も?」
「青も」
窓辺の床へ二人でしゃがみ、手帳を広げた。
線を引くたびに、鉛筆の音が、何もない部屋へ響いた。
*
店は、一日ではできなかった。
ルファが鍵を受け取ってからも、扉はしばらく開けにくいままだった。床を磨けば、翌日には棚を取りつける木屑が積もった。運び込んだ椅子はひとつ、脚が短かった。
ライトは工房の仕事を終えてから通った。
父も何度か手を貸してくれたが、頼まれていた窓が入ると、そちらへ戻った。
夕方、二人だけになった店で、冷めかけたパンを食べることがあった。
ルファが茶を注ぐ。
ライトは、まだ色の入っていない窓越しに、通りを見た。
「疲れた?」
「腕が、上がらないわ」
「今日は、やめよう」
「あと、あの棚だけ」
「それ、さっきも言ってた」
ルファは壁を見上げた。
やがて諦めたように息をつき、両手でカップを包んだ。
まだ、何も売っていなかった。
窓辺には硝子の代わりに紙の型が貼ってあり、床の隅には、包みから出していない皿が重ねてあった。
それでも、茶の湯気が上がると、少しだけ店らしくなった。
ルファはそれを眺め、疲れた顔で微笑んだ。
ライトは、その顔を見ていた。
手伝いに来るたびに、好きなところが増えていった。
*
窓の色を決めるときには、一度、意見が合わなかった。
ライトが選んだ深い赤を、ルファはもっと明るくしたいと言った。
「この方が、他の色が引き立つ」
「でも、午後には暗くならない?」
「窓に入れれば、違って見える」
「入れる前に見たいの。毎日、ここに座るのだから」
ライトは返しかけた言葉を止めた。
それぞれの赤を枠へ仮に留め、午後まで待った。
ルファはその下へ椅子を運び、本を開いた。
夕方には、薄い方の赤を選んだ。
代わりに、隣の青を少し深くした。
するとルファが、最初の図案より好きだと言った。
ライトも、そう思った。
彼女は、同じようには硝子を見なかった。
まだその色に気づくのかと、何度も思わされた。
そのたびに、次も一緒に見たいと思った。
*
最後の一枚は、ルファが切った。
小さな、透明な硝子だった。
表面にわずかな揺らぎがあり、その向こうのものを、柔らかく歪めて映した。
線を入れるあいだ、ライトは隣に立っていた。
細い音が途切れた。
ルファが手を止める。
「ここまで?」
「うん」
彼女は息を吐いてから、硝子を割り離した。
余分な部分が、きれいに落ちた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
ルファが、切り取った一枚を持ち上げた。
「できた」
ライトは頷いた。
彼女の目が、硝子越しにこちらを見た。
今度は青でも琥珀でもなく、そのままの色だった。
ルファは硝子を机へ置いた。
それから、ライトの手を取った。
「ありがとう」
その手を、彼は握り返した。
指先を包むようにすると、彼女の方から、もう少し近づいてきた。
*
白猫は、向かいの軒下にいた。
冬の近い日だったが、陽の当たる石はまだ温かかった。
店の扉が開け放たれ、中で二人が、出来上がった窓を見上げていた。
ルクルは、前脚の間へ顎を下ろした。
窓は、以前のものとは違っていた。
背が低く、色の置き方も、縁を巡る模様も違う。透明な部分が多いので、中に座った人の顔が、通りからよく見えた。
ルファが何か言った。
ライトが、窓の端を指で示した。
声までは届かなかった。
窓の下に並んだ二人を、ルクルは見ていた。
雪山で何を話したかも、最後の朝に何を失ったかも、二人は知らなかった。
彼の中には、そのひとつひとつがあった。
ルファが、忘れたくないと言った声も。
ライトが、その名を呼べなくなるまで呼んでいたことも。
いま笑っている二人を見ても、消えなかった。
奪った時間を、返せたわけではなかった。
窓辺で、ライトが手を伸ばした。
硝子の表面を布で拭き、少し離れて、光を確かめた。
ルファは、その隣へ椅子を持ってきた。
実際に腰を下ろし、膝に載った色を見て、彼を呼んだ。
ライトが近づいた。
彼女の掌にも、淡い黄色が載っていた。
ルクルは、長く、そこにいた。
風が吹いて、店先に立て掛けてあった紙が倒れた。
ルファが出てきて拾った。
軒下の猫に気づき、目を細める。
「暖かいところを知っているのね」
彼女はそれだけ言って、店へ戻った。
白猫は目を閉じた。
しばらくして、石畳から立ち上がった。
*
開店の朝、ライトは工房から花を持ってきた。
母に頼まれた白い百合だった。
途中でレインに会い、店の菓子がなくなる前に行くと、言づけられた。
ルファは花を受け取ると、水差しを探して棚を開けた。
「忙しいのに、来てくれたのね」
「午前中はいいって、父さんが」
「そう」
その一言のあとで、彼女は少し笑った。
朝から張りつめていた肩が、ようやく下がったように見えた。
ライトは窓際へ花を運んだ。
向きを変えると、白い花びらに青が載った。
少し戻すと、今度は黄色になった。
「そこがいいわ」
ルファの声に、手を止めた。
席は、まだ六つしかなかった。
壁際に二人掛けの小さな机がふたつ。
窓辺に、ひとりでも座れる席がふたつ。
扉は直っていた。
手を掛ければ、静かに開いた。
厨房の奥で、湯が沸き始めている。
ルファが火を弱め、並べたカップをひとつずつ確かめた。
ライトは壁へ掛ける札を裏返した。
虹色Café。
何枚も紙に書き、声に出してみて、二人で選んだ名前だった。
ルファは、出来上がった札を受け取ると、扉のそばへ持っていった。
「曲がっていない?」
「少し、右が高い」
直してから、こちらを見る。
「これで?」
「うん」
札から手を離す。
誰の支えもなく、そこに掛かっていた。
ルファは、一歩下がって店を見た。
椅子、机、窓、花。
それから、ライトを見た。
「今日の夕方、時間はある?」
「あるよ」
「終わったら、一緒にお茶を飲みたいの。どんな一日だったか、聞いてほしい」
ライトは、窓辺の席を見た。
「ここに座っても?」
「もちろん」
彼女はその椅子の背に触れた。
「あなたの一日も、聞かせて」
*
店先に、人が立っていた。
淡い髪が、風に揺れていた。
看板を見上げ、それから、窓の中へ目を向けた。
ライトが先に気づいた。
「お客さん」
ルファは振り向いた。
前掛けの裾を一度整え、扉へ歩いていった。
開けると、小さな鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
ルクルは、敷居の外に立っていた。
焼いた菓子の匂いがした。
奥にはライトがいて、窓から入る光が、彼の右手の指輪へ落ちていた。
ルファは、ルクルの顔を見た。
そして、初めて来た客へ向ける笑顔で、言った。
「今日、開けたばかりなの。よかったら、お茶を飲んでいかない?」
ルクルは、すぐには答えられなかった。
ルファは待っていた。
彼は、扉の取っ手に添えられた手を見た。
硝子を磨いた指先に、小さな擦り傷があった。
「……うん」
顔を上げた。
「いただこうかな」
「お好きな席へどうぞ。私はルファ。あちらは、窓を作ってくれたライト」
ライトが会釈した。
ルクルは、二人を見た。
「はじめまして」
声は、思っていたより静かに出た。
「僕は、ルクル」
ルファが、彼の名前を繰り返した。
ルクルは敷居を越えた。
窓辺の、空いている椅子へ向かった。
*
最初の茶を運び終えると、ルファは扉のそばへ戻ってきた。
ライトは、道に面した窓を少し開けていた。
風に揺れる百合が、薄い影を机へ落とした。
通りの向こうから、話し声が近づいてくる。
店の看板に気づいた誰かが、足を緩めた。
ルファは、ライトの隣に立った。
窓を通った光が、二人の足元に重なっていた。
その先には、まだ色のついていない、朝の道が続いていた。
「開けておこうか」
ライトが、扉に手を掛けた。
ルファは外を見た。
それから、頷いた。
「ええ」
二人で、扉を大きく開いた。
了




