Ⅷ 《力》 掌の中の獅子
絵の中には、まだ同じ薄闇が残っていた。
白い石畳は青みを帯び、家々の屋根が、暗い空へ輪郭を溶かしている。遠くの窓に、一つだけ灯りがあった。その小さな橙色を、ライトは見つめた。
額のこちらでは、夏の朝日が椅子の背に届いていた。
「最初に、帰り方を聞きたい」
ルファは頷いた。額を両手で起こし、光に向ける。
「この絵は、向こうへ渡るための入口になる。この額は、お店に残しておくわ」
「向こうからも、戻れる?」
「まず、それを確かめる。私が先に入って、一度戻るところを見てもらうわ。帰り道が開かなければ、あなたは入らないで」
ライトは顔を上げた。
「もし、戻れなかったら?」
彼女の指が、額の縁で止まる。
ルファは答えなかった。昨日までなら、それなら自分が先に行くと言ったかもしれなかった。ライトは、彼女が口を開くのを待った。
「……そうね。それでは、あなたに待つ役を押しつけるだけね」
額が、布の上へ置かれた。
「境目を確かめるところから始めましょう。何か手があるはずよ。お店の側にも、手を貸してもらって」
「おう」
アディーが椅子を引いた。ルクルも、飲みかけのカップを脇へ寄せた。
「でも、戻れるってわかっても、遠くへ行ったら同じようには戻れないでしょうね」
ルファが言った。
「入口まで引き返す必要がある。道が塞がることも、帰り道を見失うことも、考えなければいけないわ」
ライトは絵の曲がり角を見た。昨日は、その先に父がいればいいと思った。けれど、その先は帰れない場所へ続いているのだ。
「二人とも帰ってこれないかもしれない」
「ええ」
頷くのに、少し時間がかかった。
*
入口を開く前に、ルファは棚から小さな窓飾りを持ってきた。
赤と青の二羽の鳥。昨日、ライトが客に渡した作品のもとになったものだった。
「ステンドグラスの形をしていても、同じものではないの」
ルファはそれを、絵の隣へ置いた。
「あなたが作った鳥は、人の手で作った硝子細工。この鳥には、魔法が使われている」
指先で枠を傾けると、青い鳥の翼の位置が変わった。ライトはもう驚かなかったが、仕組みがわかるわけではなかった。
「そして、この『道』は、ノアティファクトと呼ばれるものよ」
「……ノアティファクト」
「神が作ったと伝えられているもの。人が作った品とも、私が作るものとも違う。形だけなら似せられても、その働きまでは真似できない」
ライトは絵へ目を戻した。小さな窓の灯りが、消えていた。
「ルファにも、作れないのか」
「作れないわ」
はっきりした答えだった。
「行きたい場所へ、好きに道を繋げられるわけでもない。私は、この絵を使わせてもらうの」
ライトは木の枠の傷を見た。作った者の手がわからない。どれだけの時間を経たものかもわからない。それでも、人が触れた跡だけは残っていた。
自分たちより前にも、この道へ入った人がいたのだろうか。
そう考えたとき、卓上を小さな影が横切った。
ルファに似た人形だった。
黒い髪。丸い眼鏡。両腕に抱えた布が大きすぎて、前が見えていない。テーブルの端でよろめいたので、ライトは慌てて手を出した。人形はその手へ布を預けると、腰に両手を当てた。
「生きてるのか?」
ライトが訊くと、ルクルが人形の調子でおどけた。
「あたしは、ちびルファ、布を運んであげたのよ」
人形は、ルファの手に乗って棚へ戻された。
「これは、私が作ったものよ」
ルファが言った。ライトは受け取った布を畳んだ。
「俺が来る前から、ここに?」
「ええ。長く手伝ってもらっているわ」
棚の上で、人形が眼鏡を押し上げた。
初めて窓を覗いたとき、確かに何かが動いた。それを、ずっと見間違いだったことにしていた。
七年間で見慣れたものが、少しずつ違う姿を見せ始めていた。
*
「俺の手から出る光は?」
ライトは掌を開いた。
「それも、同じ魔法なのか」
ルファはその手を見た。
「それを、もう少し確かめたいの」
彼女はテーブルから鳥を下げ、厚い布を広げた。その上に、掌へ収まるほどの獅子を置いた。琥珀色の硝子を組み合わせた、古い置物だった。前脚を揃え、顔を少し横へ向けている。たてがみの先だけ、透明な硝子になっていた。
「これも、私が作ったもの」
「何をするんだ?」
「置いておくものよ。今のところは」
ルファも向かいに腰を下ろした。
「あの夜、あなたが触れて光ったカップも、私が作ったものだったの。家のコップや、学校の窓では、同じことは起こらなかったのよね」
「うん」
あれからも、光が見えた気がする瞬間はあった。けれど、確かめようとしたときには消えていた。日差しの反射と区別がつかないこともあった。ルファに見せようとすると何も起きず、そのうち、二人とも決まった答えを出さないままにしてしまった。
「だからといって、今すぐ仕組みがわかったとは言えない。まずは、触れてみてくれる?」
ライトは頷いた。指を伸ばし、獅子の背へ触れる。
冷たかった。
しばらく待ってみた。何も起きなかった。
ライトは指を置き直した。青いカップを持ったときの感覚を思い出そうとした。掌の熱と、金色の糸。それから、床へ落ちたときの音。
獅子は動かなかった。
「もっと、強く?」
「押さえる強さではないと思うわ」
言われて、手を緩めた。しばらくすると、また指に力が入った。
ルファが、獅子の方へ手を伸ばしかけた。ライトは反射的にそれを引き寄せた。
「まだ」
少し強い声が出た。ルファの手が止まった。
「もう少し、やらせて」
「ええ。でも、出ないことを責めるために、やっているのではないわ」
「わかってる」
わかっているはずだった。なのに、彼女が何かを言おうとするたび、やめなさいと聞こえる気がした。
まだ早い。
あなたには無理。
待っていなさい。
昨夜、知らされなかった七年間の話を聞いたばかりだった。
「これが使えなかったら、行くなって言うのか」
ルファが顔を上げた。
「違うわ」
答えを聞いたときには、掌が熱くなっていた。
*
光は、指の間から漏れた。
一本、二本。
金色の糸が獅子の背へ絡み、細い継ぎ目を伝って腹の下へ回った。琥珀色の内側に灯りが入り、たてがみの先まで駆け上がる。
「ルファ」
名を呼ぶと、糸が増えた。獅子の前脚が、布を掻いた。
ライトは息を止めた。
もう一度、前脚が動いた。硝子の爪が布に引っ掛かり、身体を前へ引こうとしている。掌の中で、硬い背が捩れた。
「動いてる」
嬉しさは、一瞬だった。
獅子は、手を抜け出そうとしていた。取り落とさないように掴むと、ますます強く身をよじる。糸が指へ巻きつき、手首の内側まで伸びた。熱さで、皮膚が突っ張った。
「止まれ」
声に出しても、止まらなかった。
アディーが椅子を退けた。その音に肩が跳ね、ライトは獅子をいっそう強く握り込んだ。
金属の継ぎ目が、かすかに鳴った。
「近づくな!」
ルファの足が止まった。伸ばしかけていた手を、その場で下ろした。
「わかった。ここにいる」
ライトは彼女を見られなかった。光が目の前で絡み合っている。押さえ込むほど、掌の熱が強くなった。
「手を、開けそう?」
「落ちる」
「下に、布があるわ」
「でも」
また割れる。それよりも、手を放した獅子がどこへ行くのか、わからなかった。
ルファは獅子を取り上げようとしなかった。
「急がなくていい。まず、腕を下ろして」
ライトは自分の肘を見た。いつの間にか、獅子を胸の近くまで持ち上げていた。テーブルがひどく遠く感じた。
腕を下げる。硝子の足が、布へ触れた。
「そう。ゆっくり」
指を緩めた。獅子の背が掌を押し返した。反射的に握り直そうとして、ライトは歯を食いしばった。
ルファの手が、視界の端にあった。届くところにいるのに、触れずに待っていた。
小指から、離した。次に薬指。
金色の糸が指先を滑った。布の上へ垂れ、細い輪を作ったあと、光を弱めた。
最後に親指が離れた。
獅子は一歩だけ進んだ。それから、もとの姿勢のまま止まった。
ライトは両手を開いたまま、動けなかった。
*
誰も、成功したとは言わなかった。
アディーは退けた椅子を戻し、窓を少し広く開けた。ルクルが水を持ってきた。グラスではなく、取っ手のついた金属のカップだった。
ライトはそれを、両手で受け取った。指がまだ震えていた。
「痛いところは?」
ルファに訊かれ、首を振った。
「熱い感じはする。でも、痛くはない」
「見てもいい?」
頷くと、彼女は手首を支えた。指を一本ずつ確かめる。その仕草を、ライトは覚えていた。
「……また、同じことした」
ルファの指が止まった。
「カップのときと」
しばらく、返事がなかった。
「今日は、落とさなかったわ」
「ルファに言われたからだ」
「ええ。私の声が聞こえていたのね」
それだけを言って、彼女は手を離した。
ライトは獅子を見た。前脚の下で、布の糸が何本か切れていた。たてがみの一枚に、細いひびが入っている。
「握りすぎた」
「そうね」
ルファは頷いた。
「止めたいのに、どんどん出てきたんだ。怖くなると、余計に」
「何が起きているか、わからなかったものね」
否定されないことは、少しつらかった。ライトは水を飲んだ。喉へ落ちていく冷たさを、今度は感じた。
「俺、ここで待てって言われるのが嫌だった」
言うと、ルファが顔を上げた。
「力があれば、連れていくしかなくなるだろ。役に立てるってわかれば、もう、何も知らないままにされないと思った」
ルファは黙っていた。
「……まだ、疑ってるんだ」
「疑われることをしたわ」
「でも、今のは、ルファがやったんじゃない」
ライトは獅子へ目を戻した。ひびの入ったたてがみが、陽射しを細く反射していた。
「自分で握った。放せなくなった」
ルファは少しのあいだ、その横顔を見ていた。
「あなたの力がどれだけ強いかで、話すことを変えたりはしない」
声は静かだった。
「教えてもらうために、何かを証明しなくていいの」
ライトは、カップの縁へ目を落とした。信じたいと思った。その気持ちまで、昨日の嘘に取り上げられたわけではなかった。
*
少し休んでから、もう一度だけ触れた。
獅子を持ち上げず、布の上へ置いたまま、人差し指を背に添えた。
光が現れるまで待った。
さっきより長くかかった。何も起きないかもしれないと思ったころ、指の下に金色の点が灯った。
「出た」
ルファが頷いた。
点は細い線になり、背の継ぎ目を伝った。ライトは肩に力が入るのを感じた。獅子が動くところを見たい。もう一度できると、確かめたい。
けれど、そこで指を離した。
光はすぐには消えなかった。琥珀色の中を少し進み、前脚へ届く前に薄くなった。
ライトは息を吐いた。
「今日は、ここまでにするよ」
「ええ」
ルファは獅子を片づける前に、彼の顔を見た。ライトが頷くのを待ってから、布の四隅を持ち上げた。
その下のテーブルには、小さな擦り傷が三本残っていた。ライトは指の腹で触れた。さっきまでなかった傷だった。木目の中に、ごく薄い金色が沈んでいるように見えた。
光が消えれば、何もなかったことになるわけではない。
彼は指を離した。
*
昼を過ぎてから、『道』の入口を確かめた。
額は店の奥の、壁に近い場所へ据えた。アディーが足元を支え、ルクルが周囲の椅子を運んだ。ルファは眼鏡を外し、布で一度拭いてから掛け直した。
「始めるわ」
指先が、絵の石畳に触れた。
硝子が凹んだ。
そう見えたのは、一瞬だった。指が沈むにつれ、石畳の継ぎ目が奥行きを持ち、家々の屋根が離れていった。冷たい風が、店の中へ吹いた。
ライトは思わず目を閉じた。土と、どこか遠くの水の匂いがした。さっきまで窓の外から聞こえていた蝉の声が、不意に薄くなった。
ルファが手を引き上げた。
五本の指は、もとのままだった。次は腕を通し、それからまた戻す。彼女は急がなかった。
開かれた境目の向こうに、石畳が見えた。額の寸法で切り取られた小さな絵だったはずなのに、今は立った人が通れるほどの奥行きがあった。枠が広がったのか、こちらの距離が変わったのか、目で追ってもわからなかった。
「向こうに、足が着く」
片足を通したルファが言った。アディーが、こちら側に残る彼女の手を支えている。
「滑るなよ」
「大丈夫。濡れてもいない」
ルファは振り返った。
「ここからは、お店が見える」
ライトは彼女の顔を見た。同じ人なのに、頬に当たる光が違っていた。店内の夏の明るさと、向こうの青い黄昏が、一つの身体の上で分かれていた。
ルファはもう片方の足を向こうへ移し、すぐにこちらへ戻った。
靴底が、店の床を踏んだ。
ライトは、自分もアディーと同じように息を詰めていたことに気づいた。
「戻れた」
ルファは頷いた。
「今、この入口は、両側から通れるわ」
言い切ってから、絵へ目を戻した。
「ただ、長く戻らなかった時に、何か身体に変化が現れるかもしれない」
ライトは頷いた。
境目が閉じると、石畳は再び硝子の絵に戻った。冷たい風だけが、しばらく店の床を這っていた。
*
その日は、出発しなかった。
ライトは家へ帰り、見たものを話した。母は帰り道のことを何度も訊いた。レインは話の途中で、自分も入口を見たいと言った。
翌朝、三人でカフェへ向かった。
母は、ルファの顔を長く見た。ルファも、その視線から逃げなかった。
名前を呼び合う代わりに、母が先に言った。
「あの人が最後に行った場所を、知っていたんですね」
「ええ」
「この子に、隠していた」
「……はい」
母は鞄の持ち手を握り直した。言いたいことが、ほかにもある顔だった。けれど、隣にいるライトを見て、それ以上は続けなかった。
入口を確かめるあいだも、母はルファの手元より、ライトの顔を見ていた。
青い黄昏が開き、冷たい風が三人の髪を揺らした。 レインが、小さく息を呑んだ。
「本当だったんだ」
「うん」
ライトは答えた。
ルファは、わかっていることと、まだわからないことを話した。道の先にジンがいるという確証はない。向こうで何に出会うのかも、どれだけの時間が必要なのかも、約束はできない。
母は黙って聞いた。
「それでも、行くの」
訊かれ、ライトは母を見た。
「行きたい」
それから、言い直した。
「でも、父さんを見つけないと帰らない、とは言わない。先へ進めないとわかったら、一度帰るよ」
母の目が揺れた。
「見つからなくても?」
「うん」
言うと、胸が痛んだ。ようやく道が見つかったのに、その先から手ぶらで帰る自分を想像するのは、思っていたより苦しかった。
「帰って、何がわかったかを話す」
母は、しばらく答えなかった。
やがて、ルファの方を向いた。
「この子がそれを忘れたら、止めてください」
「はい」
ルファが答えた。
「私が先へ急ごうとしたら、ライトにも止めてもらいます」
母は、もう一度息子を見た。その目には、まだ不安があった。
不安のまま、頷いた。
*
荷物は、昨日より少し軽くなった。
大きな工具を家へ戻し、その代わりに、厚い上着を底へ入れた。母が持ってきた包みは、潰れないところへ収めた。レインは鞄の留め金を開けたり閉めたりして、緩んでいないか確かめた。
「取れると困るから」
ライトが見ているのに気づくと、そう言った。
「そんなに、引っ張るなよ」
「ちゃんと確認してるの」
昔から、変わらない言い方だった。
アディーが、二人分の食料をテーブルへ置いた。布で包んだパンと、持ち歩けるように用意したものが入っていた。
「歩きながら食うなよ」
「わかってる」
「お前じゃねえ」
大男は、ルファを見た。彼女は少しだけ目を逸らした。
ライトは思わず笑った。笑ってから、顔を見合わせた。
何もかも元に戻ったわけではなかった。それでも、こんなふうに笑える瞬間が、もう一度あるのだとわかった。
ルクルが小さな包みを差し出した。
「甘いものも、いるでしょう」
「自分の分は?」
「あるよ。ちゃんと残してある」
そう言って笑った。ライトは受け取り、母の包みの隣へ入れた。
ルファが、鞄の肩紐を直していた。胸元に手を当て、何かを確かめている。ライトと目が合うと、その手を下ろした。
「準備はいい?」
ライトは頷きかけて、止まった。
「少し、怖い」
ルファは、こちらを見た。
「私も」
短い答えだった。
ライトは鞄を背負い直した。
「じゃあ、二人とも、本気で怖くなったら言おうな」
ルファは頷いた。
「そうしましょう」
*
出発の前に、ライトは一度だけ階段を見上げた。
小窓に、青い窓飾りが掛かっていた。片側だけ太い継ぎ目。直さないまま残した、最初の作品。
今朝も、その青が床に落ちている。
持っていこうとは思わなかった。帰ってきたとき、また、ここで見たかった。
「行ってくる」
母は頷いた。レインが片手を上げ、途中で下ろした。それから近づき、ライトの鞄の紐をもう一度だけ引いた。
「帰ってきたら、話してよ」
「うん」
「おもしろかったことだけじゃなくて」
ライトは妹を見た。
「うん。ちゃんと話す」
ルファが入口を開いた。青い空気が店内へ流れ込み、机の上の紙の花を揺らした。
彼女が先に、境目を越えた。向こうの石畳に立ち、振り返る。
手が差し出された。
ライトは一歩進んだ。
指を開き、その手を取った。引かれるのを待たず、自分の足を、向こうの道へ下ろした。
冷たさが、靴底から伝わった。
すぐ後ろには、まだカフェが見えていた。 テーブル。椅子。アディーの太い腕。母とレイン。その脇から、ルクルが大きく手を振っている。
ライトも手を上げた。
少しずつ、店の音が遠くなった。皿の触れる音も、通りを走る車の音も、夏の蝉の声も。
代わりに、どこか遠くで、風が鳴っていた。
ライトは隣を見た。ルファも、知らない町を見つめていた。手を離すとき、二人は一度、互いの顔を確かめた。
白い石畳の上へ、二人分の影が落ちていた。
その先で、道が静かに曲がっていた。




