Ⅶ 《戦車》 止められない心
ルファは、向かいの椅子に座った。
テーブルには、まだ誕生日の飾りが残っていた。レインが折った紙の花。その隣で、コップの水が窓明かりを受けている。ライトは鞄を足元へ寄せた。両手が空いたので、膝に置いた。
「あなたのお父さんは、ステンドグラスの職人だったわ」
ルファが言った。
「それから、冒険家でもあった」
ライトは彼女を見ていた。父についての言葉が、こんなふうに続いたことはなかった。
「二十年以上前、この店へ来るようになったの。旅先で見つけたものを持ってきては、私に見せてくれた。硝子の欠片や、古い道具や、どこで拾ったのかわからない石まで」
「……飛行機も?」
「ええ。あれは、ジンが作ったもの」
ライトは二階へ目を向けた。あの細い翼を、父が作った。硝子を選び、切って、形を合わせた。自分が今日まで繰り返してきたことを、父も、どこかの机に向かってしていた。
「本当に作ったの?」
「ええ」
「見たのか?」
訊いてから、そんなことを聞きたかったわけではないと思った。居場所を聞けばいい。ここに何度来たとか、どんな人だったとか、それはあとでもいいはずだった。
ルファは少し考えた。
「うまくいかないと、道具の置き場所を変えるの。硝子切りを右へ置いたり、左へ置いたり。最後には机を片づけ始めて、何を作っていたのかわからなくなる」
ライトの口元が、わずかに動いた。笑いそうになったことに気づき、唇を結び直す。
「でも、仕上げは丁寧だった。表から見えないところも、何度も指で確かめていたわ」
ルファはそこで言葉を止めた。懐かしそうに話していることに、気づいたのかもしれなかった。
「……どこへ行ったんだ」
ライトは尋ねた。
「父さんは」
*
赤い髪の女がいた。
名前はエマ。ジンと同じように、旅の話を好んで聞く客だったという。
ある日、そのエマが店に並んだ一足の靴を買った。
「『深海の太陽』という名前だったわ。ステンドグラスを使った靴で、海の底にある宝の地図が細工されていたの」
「地図?」
「普通に見ただけではわからない。光を通すと、道筋が現れるものだった」
ルファの指が、テーブルの上を短く辿った。
「エマは、その場所を探しに出かけた。それきり、帰らなかった」
ライトは、何も言わずに聞いていた。
「五年経っても、便りはなかった。その年の暮れに、店の裏の池へ、深海の精霊が訪ねてきたの」
見慣れた店の裏庭が、頭に浮かんだ。落ち葉の浮く小さな池。夏にはルクルが、そこへ足を浸そうとしてアディーに叱られていた。
「精霊は、エマが『願い』と引き換えに、絵の中へ閉じ込められたと教えてくれた。その絵があるのは、深海の美術館だと」
「父さんは、そこへ行ったのか」
「ええ。エマを探しに」
ルファは頷いた。
「それから、父さんも帰らなかった」
「……ええ」
時計の針が進んだ。
父に会えない理由は、もっとわかりやすいものだと思っていた。誰かに連れ去られた。どこかに閉じ込められた。そういう不幸が一つあって、それさえ取り除けば、帰ってくるのだと。
父は、自分で出かけていた。
「そのとき、俺たちは?」
ルファの視線が揺れた。
「あなたとレインさんが、生まれたころよ」
ライトはコップへ手を伸ばした。飲みたかったわけではない。何かを持たなければ、手の置き場所がなくなりそうだった。
「知ってたんだろ。子供がいるって」
「知っていたわ」
「それでも、行ったんだ」
ルファは少し間を置いた。
「これを最後の冒険にする、と言っていた」
最後。
ライトはコップの水を見た。それで終わりになるはずの旅が、自分の知っている人生より長く続いていた。
「その人のことは、放っておけなかったんだな」
ルファは答えなかった。
「俺たちは、ずっと待ってたのに」
言うつもりのない言葉だった。アディーが台所の入口で、顔を上げた。
誰も、そんな言い方をするなとは言わなかった。 ライトは水を一口飲んだ。ぬるかった。飲み込んだあとも、喉の奥に硬いものが残った。
*
「生きてるのか」
ようやく、ライトは訊いた。
「今も、父さんは」
ルファは、まっすぐに彼を見た。
「わからない」
短い言葉が落ちた。
「便りも、姿を見たという確かな知らせも、私のところには届いていないの」
嘘でもいいから頷いてほしいと思い、ライトはその考えを振り払った。嘘をつかれたことで、ここに座っているのだ。
「探した?」
「探したわ。でも、ジンが向かった場所から、同じようには辿り着けなかった。深海の美術館は、海に潜れば見つかる場所ではないの」
「別の行き方は?」
ルファはすぐには答えなかった。
ライトは、その沈黙を見逃さなかった。
「あるんだな」
「手掛かりになりそうなものは、ある」
「何年も前から?」
「……ええ」
椅子の脚が床を擦った。立ち上がりかけたライトは、そのまま止まった。目の前の人を見下ろす高さになって、ようやく、自分が何をしようとしたのかわからなくなった。
「それを、俺には言わなかった」
「言わなかった」
「何も知らないって」
「ええ」
ルファの返事は、どれも短かった。言い訳をしないことが、今はかえって腹立たしかった。何か言ってくれれば、それを責めることもできるのに。
「何で、平気で教えてたんだよ」
ルファが顔を上げた。
「硝子のこと。父さんもやってたんだろ。同じ道具を使って、同じものを作って。俺が何も知らないで喜んでるの、どんな顔で見てたんだよ」
彼女の唇が、わずかに開いた。
「平気では、なかったわ」
「俺には、平気に見えた」
「……そうね」
ライトは椅子へ座り直した。膝がテーブルに当たり、紙の花が倒れた。直そうとして手を伸ばしたが、途中でやめた。
「カップを割ったとき、怒らなかったのも、父さんの子供だったから?」
「怪我をしていないか、心配だったからよ」
今度は、すぐに返ってきた。
「あなたが通ってくることも、作ったものを見せてくれることも、嬉しかった。それは、本当」
ライトは顔を上げなかった。
「でも、それを信じてほしいと頼める立場ではないわね」
窓の外を、自転車が通り過ぎた。細い光が店内を横切り、二人の足元で消えた。
「最初は、十歳のあなたを、戻ってこられるかもわからない場所へ向かわせたくなかった」
ルファは続けた。
「それで、知らないと言った。あなたが大きくなってからも、言い直さなかった。あなたがここで楽しそうにしているのを見て、もう少しこのままでいられたらと思ってしまった」
ライトは、倒れた紙の花を見た。
「俺のため?」
「それだけでは、なかったと思う」
ルファの声が、少し掠れた。
「この店へ来なくなるのが、怖かったの」
ライトは彼女を見た。何度も来た店で、初めて聞く声だった。
「ごめんなさい」
許せるとは、思わなかった。けれど、ナイフを向けた日のように、この人を恐ろしい魔女にしてしまうことも、もうできなかった。
今なら、傷つける言葉をいくつも知っている。そのどれもを自分に使わせないために、ライトはしばらく息を整えていた。
*
「見せてほしい」
ライトが言うと、ルファは顔を上げた。
「その、手掛かりになるもの」
ルファは頷き、立ち上がった。保管室へ向かう足音が聞こえた。ライトは階段を見上げたまま待った。
やがて戻ってきた彼女は、両腕で一枚の額を抱えていた。
テーブルの上に布を敷き、その上へ置く。描かれていたのは、町外れの道だった。
黄昏の空。白い石畳。低い屋根の家が道の両側に並び、その先は緩く曲がって、画面の外へ消えている。絵の具ではなかった。空も家も、細かな硝子を継いで作られていた。
「『道』という作品よ」
ライトは身を乗り出した。遠くの窓に、橙色の光があった。その輪郭が、ほんの少し滲んだように見えた。
「……動いた?」
「少しずつ、変わるの。空の色も、道の様子も」
「まさか、この絵の中に父さんが」
「それはわからない。エマを閉じ込めている絵と、これが同じものなのかも。ただ、この道は、こちらとは別の場所へ続いている」
ライトは額の縁を見た。木の枠は古びていた。角に、小さな傷がある。店にあるほかの作品と同じように、両手で持ち上げられそうな大きさだった。
その中に、人の行ける場所がある。
「ここから、探せるかもしれないんだな」
「ええ。けれど、辿り着けるという確証はないわ」
「ルファも、この道は知らない?」
「知っているとは言えない。だから、簡単に連れていけるとは言わない」
ライトは、絵の中に立つ自分の姿を想像した。そして、曲がり角から父が出てくればいいと思った。聞きたいことは山ほどあったのに、実際に顔を見たら、何も言えなくなるかもしれない。殴りたくなるのか、抱きつきたくなるのかもわからない。
確かめるには、会うしかなかった。
「行く」
ルファは、何も言わなかった。
「誰かを助けるためだったから仕方ないとか、きっと帰りたかったはずだとか、そういう話だけ聞いて、待つのはもう嫌だ」
声にすると、ようやく、胸の中にあるものの形がわかった。
「会って、父さんに訊きたい」
ルファはゆっくりと頷いた。
「そうね」
「俺たちのこと、どう思ってたのか。今も、帰ってきたいのか」
最後の言葉で、声が揺れた。ルファは急かさなかった。
しばらくしてから、彼女は言った。
「私も行くわ」
ライトは顔を上げた。
「謝る代わりに?」
「謝って済むことではないもの」
ルファは、額から手を離した。
「ジンがエマを探しに行ったことも、あなたに何も話さずにいたことも、私は知っている。ここで待っていていいとは、もう思えない」
ライトは彼女を見つめた。
「ただ、あなたが一緒に行きたくないなら、そう言って」
断ることもできた。ここで背を向ければ、ルファがどんな顔をするか、少しは想像できた。
けれど、知らない道を一人で歩く自分を思い浮かべたとき、その隣に彼女がいないことを、喜べなかった。
「まだ、怒ってるから」
「ええ」
「すぐに元どおりには、できない」
「わかってる」
ライトは絵へ目を戻した。石畳の先で、道が曲がっていた。
「……それでも、一緒に来てほしい」
ルファは頷いた。
笑わなかった。それが、今はありがたかった。
*
「出るのは、今夜じゃねえぞ」
アディーが、初めて口を挟んだ。
ライトは振り向いた。大男は台所の入口に立っていた。腕を組んでいる。七年前には、それだけで逃げ道を塞がれた気がした。
「わかってる」
「家に帰れ。母親と妹が待ってる」
レインの持って帰ったケーキを思い出した。今日は二人の誕生日だった。まだ、家での祝いも終わっていない。
時計を見ると、思っていたより遅くなっていた。
「……電話、借りる」
ルファが頷いた。
カウンターへ行き、番号を押した。呼び出す音が二度して、妹が出た。
「遅い」
第一声だった。ライトは、受話器を持ち直した。
「ごめん。今から帰る」
「片づけ、まだ終わってないの?」
「終わった。……ちょっと、話してた」
向こうで、母の声がした。妹が何か答え、また受話器の近くへ戻ってきた。
「母さん、ご飯温めるって」
「うん」
「ライト?」
「何」
「何かあった?」
ライトは目を閉じた。
「帰ったら、話す」
今度は、本当に話すつもりだった。
*
家の食卓には、皿が三枚並んでいた。
母は怒っていなかった。それが、かえって辛かった。
ライトの前へ温め直した料理を置き、席に着いた。レインは先に食べたと言いながら、まだ残っていたパンをちぎっていた。
ライトは鞄から道具入れを出した。机の上では邪魔になると気づき、膝へ戻した。
「父さんのことが、少しわかった」
母の手が止まった。
飛行機のことから話した。ルファがジンを知っていたこと。父が最後に向かった場所。そして、自分も探しに行きたいということ。
途中で何度も、言葉が止まった。絵の中に入るなど、どう説明すればいいのかわからなかった。けれど、わからないところを、わかったふりでは話さなかった。
母は、最後まで黙って聞いていた。
「帰ってこられるの」
訊かれて、ライトはすぐには答えられなかった。
「……帰ってくるつもりだ」
「あの人も、そうだった」
母の声は低かった。怒鳴られるより、その一言の方が痛かった。
「すぐ帰るつもりだったのよ」
レインがパンを皿へ置いた。ライトは、膝の道具入れを握った。
父とは違うと言いたかった。
けれど、戻ると口にするだけなら、自分も同じだと思った。
「まだ、入口も、帰り方も、ちゃんと確かめてない」
正直に言うと、母が顔を上げた。
「明日、聞く。危ないことも、必要なことも。聞いたら、母さんにも話す。それまでは出かけない」
母は、しばらくライトを見ていた。
「今夜ここで、行っておいでとは言えない」
「うん」
「あなたまで、いなくなるのは嫌よ」
ライトは頷いた。見つけたい人のことばかり考えていた。自分がいなくなったあとの椅子のことは、考えていなかった。
「探すなって言われても、無理だからね」
レインが言った。こちらを見ずに、パンの屑を指で集めていた。
「急にいなくなったら、私、探すから」
「……黙っては行かない」
「絶対」
「うん」
母が、食べなさいと言った。料理はもう冷めていた。
ライトは道具入れを隣へ置き、匙を取った。
*
その夜、鞄を開けたまま、ずいぶん長く座っていた。
着替えを入れると、道具の場所がなくなった。道具を減らすと、何かを忘れたような気がした。机の上に並べ直し、一つずつ考えた。
引き出しの奥に、赤い硝子のリンゴがあった。
双子桜の根元で拾ってから、ずっと持っていた。チエに訊くつもりで、それきりになったものだ。手に取ると、葉の飾りの下に、わずかな埃が溜まっていた。布で拭き、そのまま包んだ。
窓辺には、練習で作った小さな作品が並んでいる。 母に渡した花の飾り。レインに、魚か葉っぱかわからないと言われた硝子。自分ではうまくできたつもりだったのに、光へかざすと隙間の見える枠。
ルファに教えてもらったものばかりだった。
父のことを知らされなかった七年間。
硝子を作れるようになった七年間。
どちらも、同じ時間だった。
ライトは道具入れを巻いた。紐を結ぶところだけ、何も考えなくても指が動いた。
*
翌朝、虹色Caféの窓はまだ開いていなかった。
ライトは店の前で立ち止まった。いつもの鞄より大きなものを背負っている。ただし、今朝は旅立つためではない。何を持っていくべきか、何を知らなければならないのか、それを確かめに来た。
ノックをすると、すぐに鍵の回る音がした。
「おはよう」
ルファだった。
少し疲れた顔に見えた。眼鏡の奥の目が、ライトを捉え、それから背の鞄へ移った。
「家の方と、話せた?」
「話した。まだ、いいとは言われてないけど」
ルファは頷いた。
「帰り方もわからないまま、出ていかないって約束した」
「ええ」
「だから、教えてほしいんだ。昨日、聞けなかったことを」
扉が、もう少し大きく開いた。
中にはアディーとルクルがいた。テーブルの中央に、布を掛けた額が置かれている。
ライトは敷居を越えた。いつも鞄を置く階段の脇を通り過ぎ、ルファと向かい合う椅子へ置いた。
「ルファ」
彼女が振り向いた。
「俺が知ったら困ることも、話してほしい」
ルファは、その言葉を受け止めるように、少し間を置いた。
「わかった」
ライトは頷いた。
どんな試練があったとしても、自分の目で確かめ、自分で訊かなければならない。
ルファが額の布へ手をかけた。
「じゃあ、ここから始めましょう」
布が取り払われた。
硝子の道は、昨日よりわずかに暗くなっていた。家々の窓に、灯りが増えている。
ライトは椅子を引き寄せた。
曲がり角の先を、今度は目を逸らさずに見つめた。




