Ⅵ 《恋人たち》 楽園
「もう少し、こっちへ」
ルファの指が、硝子の端を示した。ライトは支えていた枠を傾けた。窓から入る光が、その中の青い翼を透かした。隣には、赤い翼。二羽の鳥が、同じ空を渡っている。
「これで?」
「ええ。そのまま」
二階のアトリエは、午後の熱を溜めていた。開け放した窓の外で、蝉が鳴いている。古い線路に沿って伸びた草が、風のたびに片側へ倒れた。白いカーテンが膨らみ、作業台の端にある紙を浮かせる。ライトは空いた手で、その一枚を押さえた。
「ありがとう」
ルファは目を上げずに言った。
そういう短いやり取りが、いつの間にか増えていた。彼女が道具を探して顔を巡らせるより先に、それを差し出せることもある。冬には椅子を窓から離し、夏には午後の光が眩しくなる前に、薄い布を掛けた。
虹色Caféへ通うようになって、七度目の夏だった。
ライトは今日、十七歳になった。昔は両腕を伸ばして覗き込んだ作業台が、今では少し低い。ルファと話すときにも、いつからか視線を下げるようになっていた。
「……うん。もう大丈夫」
ルファが枠から手を離した。ライトはゆっくりと窓飾りを持ち上げた。磨き終えた金属の線が、鳥の羽を細かく縁取っている。青は海に似ていた。赤は、光の薄いところでは葡萄酒のように暗く、陽射しへ入れると、羽の先から燃え始めた。
「尾羽、少し短かったかな」
「図案とは違うわね」
「切るときに欠けたから」
「知ってる」
ルファは窓飾りを裏から覗いた。
「でも、私はこの形が好きよ。飛んでいる途中みたい」
ライトは、赤い鳥を見直した。失敗したところは、ほかの誰より自分が知っていた。そこを好きだと言われると、何だか、どう答えていいかわからなくなる。
「作った人の名前、入れた?」
「……まだ」
「それなら、忘れずに」
窓飾りは、今日、客に渡すものだった。注文を受け、図案を描き、硝子を選んだ。途中で何度も教えてもらったが、最後まで自分の手で仕上げた。
ライトは台座の裏へ、小さく名前を入れた。
*
二羽の鳥を初めて見たのは、まだこの作業台へ上がることも許されていなかったころだ。
雨の日だった。
店に来た男は、濡れた外套を脱ぐ前に、連れの女の椅子を引いた。彼女の鞄を置き、温かいものを頼み、言葉が足りないと思うたびに何かを付け加えた。女は、その隣で小さな手帳を開いていた。
アダムと、婚約者のエヴァ。ライトが名前を覚えたのは、帰ったあとも、ルファが二人の使った席をしばらく見ていたからだった。
エヴァは歌い手だった。けれど、声が出なくなっていた。医者に通っても、まだ理由ははっきりしないのだと、アダムは説明した。結婚をする予定だという。商いを営む彼の家には、伴侶になる者が舞台に立ってはいけないという決まりがあった。
「彼女も、納得してくれています」
アダムがそう言ったとき、エヴァの鉛筆が止まった。
そのあとに何が話されたか、ライトはもう細かく覚えていない。皿を運ぶ手伝いをしながら、途切れ途切れに聞いていただけだった。
ただ、手帳に書かれた一行だけは、長く残った。
『あなたと結婚したいです。でも、歌うこともやめたくありません』
エヴァは書いたものを消そうとした。アダムが、手帳の端へそっと手を置いた。
「消さないで」
声が低くなっていた。
「まだ、読んでいるから」
テーブルには、ルファが持ってきた古いステンドグラスが置かれていた。赤い鳥と青い鳥。いつの間にか赤い翼が大きく広がり、もう一羽を、その下へ隠していた。ライトは皿を持ったまま、見入ってしまった。
「君が決めてくれたから、僕は何も考えなくていいと思っていた」
アダムは、手帳から顔を上げた。
「間違っていた。歌っている君を好きになったはずなのに」
エヴァが何かを書き始めると、今度は途中で言葉を挟まなかった。
二人はずいぶん長く話した。アダムが「家を出よう」と言えば、エヴァは首を振った。代わりにあなたが全部失うのは嫌だと、細い字で書いた。仕事のこと、家族のこと。明日の住まいのことまで、話は戻ったり、進んだりした。ライトには、その場で答えの出ない話を、なぜいつまでも続けるのか分からなかった。
最後にアダムが言った。
「父と話す。仕事の引き継ぎもする。それで家を出ることになっても、君のせいにはしない」
エヴァは、しばらく彼を見ていた。やがて、手帳に新しい一行を書いた。
『歌えないままでも、一緒にいてくれますか』
「うん」
アダムは答えた。
「でも、また歌いたくなったら、そのときは聴かせてほしい」
硝子の中で、青い翼が動いた。見間違いかと思い、ライトは目を擦った。赤い鳥の陰から、もう一羽が出てくるところだった。
帰るときにも、エヴァの声は出なかった。ルファは二人に傘を渡し、手帳を鞄へしまうまで扉を押さえていた。
それから、何通か手紙が届いた。
知らない町の名前を、ライトは封筒で覚えた。小さな部屋を借りたこと。アダムが新しい仕事を始めたこと。劇場の裏方を手伝うようになったこと。
エヴァが再び人前で歌ったという便りは、ずっとあとに来た。最初は一曲だけだったと書かれていた。
ルファはその手紙を、二度読んだ。それからライトに差し出した。
「読んでみる?」
紙には、遠い町の匂いがした。
*
最初に硝子を習いたいと言ったとき、ルファはすぐには頷かなかった。
「何を作りたいの?」
ライトは、割ってしまった青いカップだと答えた。 ずっと弁償しないままなのが気になっていた。けれど、毎週持っていける小遣いを数えても、棚の値札にはなかなか届かなかった。
「カップは、最初には難しいわ」
「じゃあ、ほかのものでもいい」
そう言うと、ルファは少し考え、棚から小さな木箱を下ろした。蓋を開けると、青い硝子の欠片が入っていた。
まだ、取ってあった。
「ここから選びましょうか」
初めて作ったのは、四角い窓飾りだった。真ん中に青い硝子を一枚、その周りに無色の硝子を並べただけのもの。それでも、枠に収まるまで何日もかかった。 今も階段の小窓に吊ってある。片側だけ太くなった継ぎ目は、もう直せる。何度かそう言ったが、ルファは、これはこのままがいいと言った。
作品が増えるうちに、道具を入れる場所ができた。 椅子が一脚増えた。家から持ってきた本が、いつの間にかルファの図案集と並んだ。
父を探すことを、やめたわけではなかった。新しい客が来れば、話の途中にその名が出ないか耳を澄ませた。噂を聞いて知らない店を訪ね、違う人だったこともある。母に訊いて、結局、同じ沈黙の前で立ち止まった晩もあった。
それでも、父の話をしないで帰る日が増えていった。
細い曲線がうまく切れた日。
ルクルが新しい菓子を見つけてきた日。
アディーの煮込みに何が入っているか、最後まで当てられなかった日。
カフェへ来る理由が、少しずつ増えていた。
*
階下で、何かが落ちた。
「今の音、何?」
ライトが振り向くと、すぐにルクルの声が上がった。
「何でもない!」
「何でもなくはねえだろ」
アディーの低い声が続いた。ルファは笑いをこらえながら、窓飾りの包み紙を広げた。
「手伝いに行った方がいいんじゃないか」
「もう少ししたらね」
「さっきから、そればっかり」
今日は夕方から貸切だった。何を準備しているのか、知らないわけではない。朝からレインが妙によそよそしかったし、ルクルはライトが階段へ近づくたびに、用事を思い出したふりをして呼び戻した。
それでも、知らない顔をしていることにした。
ライトは包み終えた窓飾りを、台の端へ置いた。ルファの手元には、まだ小さな箱が残っていた。彼女は蓋を閉じ、柔らかな布で包んだ。
「それは?」
「まだ、渡していないもの」
「手伝おうか」
「大丈夫。これは私が」
ライトは頷き、散らばった道具を片づけ始めた。いつかは、そういう仕事も任せてもらえるだろうか。彼女が机に向かっている横で、自分も別の客のために手を動かす。そんな先のことを、最近はよく考えた。
「ルファ」
「なあに」
「俺、これを仕事にしたい」
布を畳んでいた手が止まった。ライトは硝子切りを道具入れへ戻した。こちらを見られているのがわかったが、顔を上げるまでに少し時間がかかった。
「ステンドグラス。習い事じゃなくて」
「ええ」
「ちゃんと、作っていきたいんだ」
ルファは、包み終えた二羽の鳥へ目を向けた。
「今日、お渡ししたときの顔を、よく見ておいて」
「……顔?」
「その人の家に、自分が作ったものを置いてもらうのよ。毎日、見てもらうの。そういうものを作る仕事だから」
ライトも包みを見た。さっきまで気に入らなかった尾羽が、急に心配になった。
「気に入ってもらえるかな」
「それは、渡してみないと」
ルファが微笑んだ。
「でも、よくできていると思うわ。あなたの作品」
ライトは頷いた。褒められたことよりも、最後の言葉が嬉しかった。
窓から風が入り、ルファの黒い髪を頬へ流した。彼女は指でそれを耳へかけた。七年前にも見た仕草だった。丸い眼鏡も、翡翠色の瞳も、少しも変わらない。
「……俺、ずいぶん背が伸びたな」
「今ごろ気づいたの?」
「いや。こうしてると、昔と同じ気がするから」
ルファはライトを見上げた。
「同じじゃないわ」
ほんの少し、間があった。
「もう、棚の上のものを取ってあげなくてもいいもの」
「それだけ?」
「ほかにも、いろいろ」
その答えを待つ前に、階下から名前を呼ばれた。 今度はレインだった。
*
ライトが階段を下りると、拍手が起きた。
歌い出しは揃わなかった。ルクルが一拍早く、レインが笑って止まり、アディーだけが構わず低い声で続けた。途中から、澄んだ歌声が重なった。
窓辺にエヴァが立っていた。隣ではアダムが、拍子に合わせて手を打っている。
エヴァの声を聴くのは、初めてだった。
誰も急かさない、ゆっくりとした歌だった。聞き慣れた誕生日の歌なのに、窓の光も、テーブルの皿も、少し違って見えた。最後の音が消えるまで、ライトは階段の途中に立っていた。
「おめでとう、ライト」
ルクルがクラッカーを鳴らした。紙の帯が降ってきて、髪に引っ掛かった。
「レインも、おめでとう!」
「私はさっき言ってもらったよ」
「何回言ってもいいでしょ」
レインが笑った。長くなった髪を一つに結び、店から借りたエプロンをつけている。誕生日の本人なのに、ずいぶん準備を手伝ったらしかった。
「驚いた?」
「……少し」
「うそ。顔、変だったよ」
ライトは髪についた紙を取った。取ったそばから、ルクルがもう一本鳴らした。
テーブルの中央には、ケーキがあった。二つ並んだ小さな札に、ライトとレインの名前が書いてある。蝋燭を立てようとしたルクルを、アディーが止めた。
「三十四本も刺すな。穴だらけになる」
「二人分だよ?」
「十七で一緒に吹き消せばいいだろ」
結局、そうなった。レインは昔から、こういうときだけライトの方を見る。せーの、と目で合図して、一緒に息を吹いた。
一本、残った。
「今の、ライトの方だね」
「区切ってなかっただろ」
笑い声の中で、ライトはもう一度、息を吹きかけた。
*
アダムとエヴァは、巡業の途中で町へ寄ったのだという。
「ここへ来るなら、この日がいいと教えてもらったんです」
アダムが言うと、ルクルが胸を張った。
「僕」
エヴァは昔と同じように小さな手帳を持っていた。次の公演の予定や、歌の題名が書いてあるのだという。見せてもらうと、余白に食べ物の名前も並んでいた。
「それは、この人の字」
エヴァが夫を見た。
「町に着くたび、何を食べるか調べるの」
「移動ばかりだと、楽しみも必要でしょう」
ライトは笑った。かつては一行を書くのにもためらっていた人が、今は夫の言い訳を聞きながら、次の頁を見せてくれる。
二羽の鳥を渡すと、エヴァは包みを膝の上で開いた。
すぐには何も言わなかった。窓へかざし、少し角度を変え、もう一度、真正面から見た。
「あの日の鳥」
「似せて作ったんです。ルファに、元のものを見せてもらって」
ライトは答えた。
「ただ、これは動きません。魔法のものじゃないから」
エヴァは首を振った。
「このままがいい」
指が、短い赤い尾羽の手前で止まった。
「二羽とも、よく見える」
アダムが隣へ寄った。
「新しい部屋の窓に置こうか」
「まだ、借りてないでしょう」
「じゃあ、これの似合う部屋を探そう」
エヴァが笑った。ライトは、その顔を見ていた。
台座の裏の名前に気づくと、アダムは窓飾りを両手で持ち直した。
「ありがとう、ライト君。大切にします」
言葉が、まっすぐに届いた。
ライトは顔を上げ、少し離れたところにいるルファを見た。彼女はテーブルを拭きながら、小さく頷いた。
*
ケーキを切り分けるころには、西日が窓を満たしていた。
アディーの煮込みは、今日は少し辛かった。ルクルが水を飲み、レインが笑い、ライトはパンで皿の底を拭った。
エヴァは道中の失敗を話した。アダムが違う町の宿を予約してしまったこと。二人で駅のベンチに座って夜を明かしたこと。話の途中で、アダムが何度か訂正を入れ、そのたびに話が長くなった。
ずっと幸福だったわけではないのだろう。家族と話ができるようになるまで、何年もかかったとも聞いた。けれど、いま二人は、どちらの記憶が正しいかで笑っている。
ライトは空になった皿を重ねた。ルファがその上へもう一枚を載せた。指が触れたのは一瞬だったが、顔を見ると、彼女はまだ客の話に笑っていた。
当たり前のように、隣にいる。
階段の小窓には、下手な四角い窓飾りが揺れていた。ルクルは残ったクリームを狙い、アディーに手を叩かれた。レインが、母に持ち帰る分を先に包んでいる。
来年も、こうしているだろうか。
考えてから、ライトは少し可笑しくなった。明日も来るつもりだった。明後日も、次の休みも。次は何を作るか、まだ決めていない。その相談をする時間が、当然あると思っていた。
「ライト、その皿、お願い」
「うん」
返事をして、台所へ運んだ。
*
ルファが二階へ戻ると、作業台に西日が届いていた。
小さな箱を開ける。中には指輪があった。太陽と羽をかたどった細い枠に、幾つもの色硝子が収まっている。磨いたばかりの縁へ指を添え、彼女はもう一度、引っ掛かるところがないか確かめた。
「まだ渡してなかったの?」
階段のところに、ルクルがいた。
「お客様が帰られてから」
「ふうん」
近づいて、箱の中を覗く。
「何?」
「別に。いつから作ってたのかなって」
ルファは返事をせず、指輪を箱へ戻した。ルクルは笑ったが、それ以上は訊かなかった。
階下でライトの声がした。昔より低くなった声だった。何を話しているのかは聞き取れない。続いて、客の笑い声が上がった。
ルファは箱の蓋を閉じた。胸元のポケットへしまい、少し曲がっていたリボンを指で直してから、階段へ向かった。
*
日が落ちると、店の中が急に広くなった。
アダムとエヴァは、列車に間に合うように帰っていった。レインも、母へのケーキを持って先に家へ向かった。ライトが片づけを手伝ってから帰ると言うと、遅くならないでね、といつもの言い方で念を押した。
テーブルを元の位置へ戻し、借りてきた椅子を奥へ運んだ。床にはクラッカーの紙がまだ残っていた。箒をかけても、椅子の脚や棚の下から、少しずつ出てくる。
「これ、来年まで残ってそうだな」
「だったら、来年は撒かなくて済むね」
ルクルが答えた。
「そういうことじゃない」
ライトは最後の一枚を拾い、塵取りへ落とした。
鞄は二階に置いたままだった。アトリエへ上がり、作業台の下から引き出す。帰り支度をしながら、今日渡した窓飾りがあった場所へ目をやった。
そこだけ、空いていた。
嬉しいのに、少し寂しかった。もう手元にはない。今ごろは、二人の膝に載せられて、列車を待っているのだろう。
道具入れの紐を結び直し、鞄へ入れた。帰ろうとしたとき、廊下の奥に細い光が見えた。
保管室の扉が開いていた。
普段は鍵が掛かっている部屋だった。今日は中から予備の椅子を出していたから、閉め忘れたのだろう。隙間から、低くなった空の光が差していた。
ライトは扉へ手をかけた。閉めようとして、その奥にあるものを見た。
飛行機の模型だった。
棚の上で、細い翼を広げていた。両腕に収まりそうな大きさだったが、遠目にも、作り込まれているのがわかった。透明な硝子を中心に、青と琥珀色が幾何学模様を描いていた。機首には、小さなプロペラまでついている。
もう少し近くで見たかった。
部屋へ一歩、入った。
壁際には古い木箱が積まれ、布を掛けた額や、蓋を閉じた長いケースが並んでいた。飛行機の翼だけが、残った光を受けている。
その尾翼に、葉の模様があった。
ライトは立ち止まった。
一枚、二枚、三枚。
四枚ではない。
五つ葉だった。
母が持っている、古い素描帳を思い出した。父が使っていたものだという。ほとんど何も話してくれない母が、一度だけ見せてくれた。建物や道具の図に混じって、窓の模様が描かれていた。その頁の隅に、同じ印があった。
五枚の葉。
一枚だけ少し細く、茎の先が左へ曲がっている。
ライトは棚へ近づいた。
模型の台座に、小さな金属の札がついていた。薄暗く、文字が読めなかった。窓からの光を遮らないよう身体をずらし、目を凝らした。
寄贈 ジン。
その下に刻まれた日付は、自分が生まれるより前だった。
ライトは、もう一度、名前を読んだ。
同じ名前の人なら、ほかにもいる。
けれど、五つ葉の印まで同じだった。
手を伸ばしかけて、止めた。触れたら、何かが決まってしまうような気がした。
父が作ったのだろうか。誰かに作ってもらい、ここへ持ってきたのだろうか。
どちらでもよかった。
父はこの店を知っていた。自分が猫を追って辿り着くよりも、ずっと前から。
階下で、皿を重ねる音がした。
毎日のように聞いてきた音だった。ライトがいない日にも、この店では皿が洗われ、菓子が焼かれ、窓に朝の光が入った。
そのすぐ上に、父の名前があった。
七年間。
ライトは棚の縁へ手をついた。
父のことを訊いた日も。何も聞かず、硝子を切ることだけを考えて帰った日も。
壁一枚の向こうに、この名前があった。
*
「忘れ物、見つかった?」
階段を下りると、ルファが振り向いた。手には、小さな箱を持っていた。
ライトは最後の段で立ち止まった。
「奥の部屋、開いてた」
ルファの手が止まった。
「飛行機があった」
返事はなかった。
「あれ、誰の?」
ルクルが顔を上げた。台所で水の音が止まった。ルファは箱をカウンターへ置いた。
「……見たのね」
知らないと言ってほしかった。あれは違う人だと、何かの間違いだと、いつもの声で教えてほしかった。
「父さんの名前があった。五つ葉の印も」
ルファは目を伏せなかった。
それが、答えだった。
「知ってたんだな」
声は、思ったより小さかった。
「あの日から、ずっと」
「ええ」
短い返事だった。
聞いた途端、今まで確かめようともしなかったことが、一度に押し寄せた。
なぜ、父の名を聞いたとき、カップを置いたのか。
なぜ、手掛かりが見つかったという話は、一度も出なかったのか。
ルファは、静かに言った。
「あなたに、嘘をついたわ」
ライトは鞄の持ち手を握った。
今日は、ここを自分の働く場所にしたいと話したばかりだった。彼女のそばで、作り続けたいと思った。その気持ちは、まだ消えていなかった。
だから、痛かった。
「どうして」
ルファはすぐには答えなかった。階段の小窓で、青い窓飾りがかすかに揺れた。
「お父さんのことを話せば、あなたはきっと、ここを出ていこうとする」
ライトは彼女を見た。
「危険な場所へ行くことになるかもしれない。知る前と同じようには、暮らせなくなるかもしれないわ」
「だから、知らないままでいろって?」
「……いいえ」
ルファの指が、カウンターの端から離れた。
「それを、私が決めてはいけなかった」
閉じた扉の向こうで、ヒグラシが鳴いていた。 さっきまでの歌声が、遠い日のことのようだった。
ライトは鞄を椅子へ置いた。
「俺は、父さんのことを知りたい」
ルファが頷いた。
「それから、ルファが何を知ってたのかも」
彼女はもう一度、頷いた。
ライトは椅子を引いた。十歳の夜にも座った、窓辺の席だった。
あのときは、ここで話を聞いてもらった。
今夜は、自分が聞く番だった。




