Ⅴ 《教皇》 双子桜
その日、ライトは初めて、窓を覗かずに扉を開けた。
呼び鈴が鳴ると、カウンターの向こうでルファが顔を上げた。眼鏡の奥の目が少し細くなる。それだけで、来る前に用意していた言葉が、順番を失くした。
「……何も、起きなかった」
挨拶の代わりに言うと、ルファは手にしていた布を置いた。
「光のこと?」
ライトは頷いた。家のコップにも、学校の窓にも触れてみた。掌を暗いところで開き、指を一本ずつ曲げてもみた。けれど、あの金色の糸は現れなかった。
「そう。手が痛くなったりは?」
「してない」
「それなら、今日は無理に考えなくていいわ。何か気づいたことがあったら、教えてね」
それで、用事は終わった。ライトは鞄の紐を握り直した。扉まで戻るには、身体の向きを変えるだけでよかった。
「今、お茶を淹れるところなの」
ルファが棚へ手を伸ばした。
「飲んでいく?」
返事をするまでに、少し間が空いた。
「……割れるやつじゃなければ」
出てきたのは、厚手の陶器のカップだった。
*
それから、放課後の帰り道が少し長くなった。
毎日ではない。妹と約束のない日や、宿題が少ない日にだけ、古い線路を越えた。ルクルに「今日は窓からじゃないんだ」と言われたときは、帰ろうかと思った。それでも、翌々日にはまた行った。
ルファは、いつも何かを作っていた。鉛筆で線を引いている日もあれば、色硝子を灯りへかざしている日もあった。ライトが来ても、すぐには手を止めない。しばらく待っていると、「どうしたの」と顔を上げる。その待ち時間に、棚の人形の位置を覚え、床板の軋むところを覚えた。
ある日、ルファが図案から目を上げた。
「妹さんは、今日は一緒じゃないのね」
「神社で待ってる。あとで行くんだ」
「仲がいいのね」
「別に。双子だから」
答えてから、それだけでは説明にならない気がした。双子でも、レインは甘いものを最後まで残すし、ライトは先に食べる。妹の方が走るのは速い。それを人前で言われると、腹が立つ。
「友達も来るから」
「どんなお友達?」
「そっちも双子。チエとエリっていうんだ。でも……」
ルファが顔を上げた。
「最近は、一人しか来ない」
*
海の見える神社だった。
石段を上りきると、鳥居の向こうに水平線が見えた。夏には、手すりが触れないほど熱くなった。四人は競争して駆け上がり、社殿の裏へ回って、大きな桜の木陰で息を整えた。
チエとエリに初めて会ったのも、そこだった。
「こんにちは、御二人さん」
声が重なったので、ライトは驚いた。同じ顔をした少女が、二人並んで立っていた。目の色は、日陰なのに桜の花びらのように淡かった。
「どっちがお姉ちゃん?」
レインが訊くと、片方が手を上げた。
「私。チエ」
「でも、ちょっとだけよ」
もう片方が、すぐに言った。
「私が先に咲く年もあるもの」
「咲く?」
ライトが聞き返すと、チエは妹の脇をつついた。二人が笑い出したので、レインもつられて笑った。何がおかしいのかわからないまま、ライトも笑った。
それから四人で遊ぶようになった。
鬼ごっこでは、エリが一番弱かった。逃げながら振り返るので、決まって捕まった。チエは隠れ場所を見つけるのがうまかったが、妹が呼ぶと返事をしてしまった。駄菓子屋へ行けば、二人は必ず同じものを選んだ。一つしか残っていない飴は買わず、別の瓶を覗き込んだ。
「半分にすればいいじゃん」
ライトが言うと、エリは首を振った。
「だって、割ったら形が違うもの」
隣で、チエも頷いていた。
八月、港の花火大会のあとに、神社で火事があった。風に運ばれた花火の破片が、社殿の裏の桜に燃え移ったのだという。翌日、石段には濡れた灰がこびりつき、裏手へ続く道は縄で塞がれていた。
エリが来なくなったのは、そのころだった。
「病気なの」
チエは、そう言った。
「お見舞いに行ってもいい?」
レインが訊いた。チエは少し困った顔をして、首を振った。
「まだ、会いたくないんだって」
ライトはエリの分の飴を、チエに預けた。翌日、どうだった、と訊くと、「ありがとうって」と返ってきた。いつもの声だった。それなのに、なぜか、エリが言ったところを思い浮かべられなかった。
夏が過ぎた。半袖では肌寒くなっても、エリは戻ってこなかった。
チエは三人で遊んだ帰りに、時々、妙なことを訊いた。
「さっき、レインは何て言ったの?」
「いつ?」
「ライトが土手から滑っちゃったとき。みんなで笑ったでしょう」
「『近道になったね』って」
「そう。それ」
チエは嬉しそうに繰り返した。ライトは、もう思い出さなくていいのにと思った。尻に土をつけて帰ったら、母に叱られたのだ。
別の日には、拾った木の実を手の中で何度も数えていた。大きいもの、小さいもの。レインが虫食いの穴を見つけたもの。誰がどこで拾ったのか、チエはよく覚えていた。
「エリにも話すの?」
訊くと、頷いた。
「でも、最近、あんまり聞いてくれないの」
手の中の木の実が、かすかに鳴った。
「前は、何でも一緒に笑ったのに」
*
時計が十二時を打つと、店の扉が開いた。
ルファは顔を上げた。桜模様のフードを被った少女が、戸口に立っていた。右手で扉の縁を確かめ、敷居を越える。足音は窓辺の席を通り過ぎ、いつものカウンターの端で止まった。
「こんばんは、エリさん」
「こんばんは」
少女は椅子の背を探り、腰を下ろした。この一か月、ほとんど毎晩、同じ時刻に来ていた。さくらんぼのジュースを一杯飲み、帰っていく。ルファが話しかければ答えたが、自分から長く話すことはなかった。
「いつものでいい?」
「うん」
ルファはグラスを置き、その位置を告げた。少女の指がカウンターを滑り、グラスに触れた。しかし今日は、持ち上げなかった。
「ねえ」
「なあに」
「双子なのに、片方だけ変わっちゃったら、どうなるの」
ルファは布を畳み、脇へ置いた。
エリの指が、グラスの水滴をなぞっていた。
「私、三か月前まで、見えていたの」
フードの陰から、淡い桜色の瞳が覗いた。ルファの方を向いていたが、その顔を捉えてはいなかった。
「花火の晩に、火がついて。それから、何も見えなくなった。目を開けても、閉じても、同じなの」
外を風が通った。窓の向こうで転がった枯れ葉の音に、エリが顔を向けた。
「お姉ちゃんは変わらないの。友達に会って、いろんなところへ行って。帰ってくると、今日も楽しかったって話すの」
水滴が一つ、指を伝って落ちた。
「誰が転んだとか。何を食べたとか。私の知らないことばかり、増えていく」
「あなたも、そこにいたかったのね」
「……行ったって、前みたいには遊べない」
答えは、しばらくしてから返ってきた。
「どっちへ逃げればいいかもわからないもの。手を引いてもらったら、鬼ごっこにならないでしょう。みんな、私に合わせなきゃいけなくなる」
エリは唇を噛んだ。
「それなのに、お姉ちゃんは、会いたがってるよって言うの。あの子たちはそんなこと気にしないって。……私が気にするのに」
ルファは何も言わなかった。カウンターの向こうで、冷蔵庫が低く唸っていた。
「あの人の話を聞いていると、私がいなくても、何も困らないんだってわかる」
「お姉さんに、そう話した?」
少女は首を振った。
「言ったら、今度は楽しくなかったって嘘をつくわ」
グラスを包んでいた手が、離れた。
「もう、聞きたくない。お姉ちゃんも、話せなくなればいいのに」
言い終えたあと、エリは動かなかった。その言葉を、どんな顔をして話したのか、確かめることができなかった。
やがて、ルファが椅子を引く音がした。棚が開き、何かが持ち上げられた。戻ってきた足音は、エリのそばで止まった。
「手を出して」
両手を開くと、ひんやりとした重みが載った。丸く、上の方に小さなくぼみがある。指で辿ると、細い軸と、一枚の葉に触れた。
「リンゴ?」
「ええ。声が出なくなる毒リンゴ」
少女の指が止まった。もう一度触れると、表面には細かな継ぎ目があった。爪が触れて、硝子の音がした。
「……これを、食べさせるの?」
「お姉さんに渡してみて」
ルファの声はすぐ近くにあった。
「でも、その前に、今ここで話したことを伝えてほしいの。お姉さんが何と答えるか、最後まで聞いてね」
エリはリンゴを握った。冷たかったはずの硝子が、掌の温度を帯びていった。
*
神社の石段を上りきるまで、エリは一度もフードを脱がなかった。
手すりの切れるところ。石畳から土に変わるところ。大きな根を跨ぐところ。暗くなる前から知っていた道を、足の裏で確かめながら進んだ。潮の匂いに、湿った樹皮の匂いが混じる。
「おかえり」
姉の声がした。
「今日ね、レインが——」
「聞きたくない」
声が止まった。
いつもなら、黙っていれば終わった。姉が話し疲れ、夜が明けるのを待てばよかった。今夜は、フードの下に隠したリンゴが重かった。
「何を聞いても、そこに私はいないじゃない」
「エリ……」
「私がいなくても、楽しいんでしょう」
姉は答えなかった。その沈黙を、エリは頷いたのだと思った。
「同じものが好きだったのに。同じものを食べて、同じものを見てたのに。私だけ、何もなくなっちゃった」
息を吸うと、胸の奥が痛んだ。
「お姉ちゃんばっかり、ずるい」
海鳴りが聞こえた。
昼には友達の声に紛れていた音が、夜にはここまで上ってくる。エリはこの夏から、そのことを知った。姉に教えようと思った晩もあった。
「……そんなふうに思ってたのね」
姉の声が、すぐ前で聞こえた。
「ごめんね」
優しい声だった。それが、たまらなかった。
「これ、食べて」
エリは両手を突き出した。
「声が出なくなるんだって。これで、お姉ちゃんにもわかるでしょう」
姉の指がリンゴに触れた。取り上げられると思った。叱られるかもしれないとも思った。けれど、姉は、いつか分け合った木の実を受け取るように、そっと両手で包んだ。
「私、今日で最後だったの」
姉の小さな呟きに、エリは顔を上げた。
「……何が」
「レインたちに、会いに行けるの」
リンゴが手の中で小さく光ったように見えた。姉自身も、言うつもりのなかった言葉に驚いたようだった。
「もっと、覚えてきたかった。冬になったら何をして遊ぶのか、レインが編んでるものが、何になるのか。ライトが通ってるお店のことも」
エリは息を止めた。
「何で、そんな話……」
「いっぱい話せば、エリもそこにいるみたいに感じてくれると思ったの」
リンゴの赤い硝子に、月の光が溜まっていた。
「ライトが足を滑らせたことも、レインの笑い方も。私がちゃんと覚えて帰れば、四人で遊んだことにできると思ってた」
「嘘よ」
声が鋭くなった。
「私が怒ったから、そう言ってるだけ」
「嘘は言えないよ」
別の声がした。
エリは振り向いた。石畳を靴底が打つ音が、二つ、三つと近づいてきた。
「お店の……?」
「うん。ルクル」
白銀の髪が、月明かりの下で揺れた。赤い服の裾を枝に引っ掛けないよう押さえ、ルクルは二人のそばへ来た。
「そのリンゴは、食べなくていいんだ。受け取った人が、本当のことを話してしまうものだから」
エリは姉の方へ顔を戻した。
「声が、出なくなるんじゃ……」
「ならないよ」
ルクルの答えは短かった。チエが何かを言いかけ、唇を結んだ。その代わりに、鼻をすする小さな音がした。
エリは手を伸ばした。姉の袖に触れた。そこから手首を辿ると、いつもより細かった。自分と同じはずの手を両手で包んでも、指の収まるところが違った。
「お姉ちゃん。最後って、どういうこと」
チエは答えなかった。けれど、今度の沈黙は、さっきと違っていた。
「枝は?」
エリの声が変わった。
「あと、どのくらい残ってるの」
夜風が二人の間を抜けた。
答えを待ちきれず、エリは姉の手を放した。足元の根を辿り、すぐ隣の幹へ触れる——
二本の桜は、地面から立ち上がるところで互いに捻れ、離れかけてはまた寄り添っていた。
子供たちは、その木を双子桜と呼んだ。
右の幹は、夏の火事で炭になった肌がほとんどだった。エリが手を伸ばしたのは、焼けずに残った、左の幹だった。
手探りで辿るが、あるはずのところに枝がなかった。
低く張り出し、子供たちの帽子を引っ掛けていた枝。毎年、妹より少し遅れて花をつける枝。手を伸ばすたび、指に触れたのは、裂けた木肌ばかりだった。一番低い傷口は、まだ湿っていた。
桜が人の姿をとるには、自分の枝を一本、折らなければならない。
エリも知っていた。この一か月、店へ行く夜には、自分の残った枝を使っていた。帰り道を歩ける足も、ジュースの冷たさを感じる指も、そのたびに枝と引き換えにしていた。
姉は、夏からずっと出かけていた。
帰ってくる声は、いつもと変わらなかった。枝があと何本残っているのか、見えないエリにはわからなかった。
「もう、残ってないの……?」
指先が、折れ口から離れなかった。
「そんなに折ったら、春になっても……」
花が咲かない。
その言葉を、最後まで口にできなかった。
エリの背中を温もりが包んだ。姉をすぐそばで感じた。
「どうして、何も言ってくれなかったの」
「言ったら、もう行かないでって言うでしょう」
「言うよ」
エリは振り返った。
「こんなになるまで、行かなくてよかったのに」
チエは答えなかった。
エリが手を伸ばすと、リンゴを抱えた姉の指に触れた。その指は、冷たい硝子を強く握っていた。
「また、笑ってくれると思ったの」
ようやく、姉が言った。
「前は、同じことで笑えたでしょう。だから、もっとおもしろいことを覚えて帰れば、今度こそって」
声が詰まった。
「エリが黙ってると、今日の話もだめだったんだって思ってた。明日は、もっと楽しい話を持って帰ろうって。そればっかり……」
チエの掌から、リンゴが滑り落ちた。
落ち葉に受け止められ、鈍い音を立てたが、二人とも拾おうとしなかった。
エリは、木肌に添えていた手を下ろした。
姉が帰ってくるのを、毎日待っていた。
足音が近づくと嬉しかった。けれど、姉の話が始まると、そこには自分の知らない場所と、自分のいない笑い声があった。聞いているうちに、せっかく帰ってきた姉が、また遠くへ行ってしまう気がした。
「私、お姉ちゃんと一緒にいたかった」
やっと、言えた。
「何もおもしろいことがなくても、よかったの」
姉の指が動いた。
伸ばした手を探すように触れ、それから、そっと握った。
「……うん」
「お姉ちゃんには、春に、いっぱい花を咲かせてほしかった」
言いながら、涙が落ちた。
隣には変わらない姉がいて、春になれば、以前と同じように花をつけるのだと思っていた。その枝が減っていることに、自分は気づかなかった。
「私のために、もう折らないで」
チエの手に、力がこもった。
「うん」
エリはその手を引き寄せた。
姉の腕が背中へ回る。肩へ額を押しつけると、チエも泣いているのがわかった。
話してほしいことは、エリにもあった。
夜には、ここまで海の音が聞こえること。風が止むと、落ち葉を踏む足音が、石段の方からわかること。
その足音を、ずっと待っていたこと。
「おかえり」
何度も言わずにいた言葉が、ようやく出た。
「……ただいま」
姉が答えた。
今夜初めて、二人は何も話さずにいた。海鳴りが聞こえていた。ときおり風が吹き、足元の落ち葉が、寄っては離れた。
ルクルは少し離れた石段に腰を下ろした。呼びかけることもなく、膝に頬杖をつき、海の方を見ていた。
夜が明けるころには、境内に少女の姿はなかった。 ぼろぼろの枝先と、黒く焼けた幹が、薄い朝靄の中で寄り添っていた。
*
次の日、チエは来なかった。
昨日、別れ際に「明日も来る?」と訊いたら、チエは何も言わずに首を振った。だから来ないことはわかっていた。それでも、ライトとレインは、いつもの時刻まで待った。
社殿の裏の縄は、少し前から外されていた。レインが先に入り、ライトもあとへ続いた。夏のあいだ四人で休んだ木陰には、もう日を遮る枝がほとんどなかった。
「こんなに、折れてたっけ」
妹の声が小さくなった。ライトも二本の幹を見上げた。片方が焼けたことは知っていた。だが、焼けなかった方まで、こんな姿になっているとは思わなかった。
根元に、赤いものが見えた。
屈んで拾い上げると、リンゴだった。硝子を継ぎ合わせて作られている。葉の形をした小さな飾りに、乾いた土がついていた。
「忘れ物かな」
レインが覗き込んだ。ライトは袖で土を払い、夕日にかざした。赤の中に、金色の細い線が走っていた。
「チエが来たら、訊いてみよう」
鞄の内側のポケットへ、そっと入れた。
それからも、ときどき神社へ寄った。
二人は来なかった。境内には霜が下り、石段を上ると息が白くなった。ライトはポケットのリンゴに触れるたび、まだ訊いていないことを思い出した。
*
春、神社へ続く土手が、菜の花で黄色くなった。
レインに呼ばれたとき、ライトは石段の途中にいた。走るなと言い返そうとして、妹が社殿の裏を指さしているのに気づいた。
「来て。早く」
息を切らして回り込むと、双子桜の前で、レインが立ち止まっていた。
折れた枝の付け根から、細い芽が伸びていた。 焼けた幹へ触れそうなところまで伸び、その先に、一輪だけ花が咲いていた。
ライトは鞄を地面へ置いた。レインが顔を近づける。触れそうになった指を引っ込めて、それから、少し場所を譲った。
「……咲いたね」
「うん」
薄い花びらだった。向こう側から差す光が透け、中心のあたりだけが、ほんの少し濃い色をしていた。
ライトはしばらく見つめていた。店にある硝子を思い浮かべたが、全くの同じ色は、まだ知らなかった。
「チエたちにも、教えたいね」
レインが言った。
ライトは頷き、隣にしゃがんだ。
海から風が上ってきた。菜の花の匂いが境内に届き、二本の幹のあいだで、小さな花が揺れた。
二人は風がやむまで、その前を動かなかった。




