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ステンドグラスの彼方に  作者: 羽月楓


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Ⅳ 《皇帝》 虚勢

挿絵(By みてみん)



 椅子の音がした方へ、顔を向ける暇もなかった。


 ナイフを持った手が、横から押さえられた。分厚い掌だった。振りほどこうとしたときには、もう片方の手で上着の背を掴まれ、ライトの爪先は床を離れていた。


「店の中で、何を振り回してる」


 低い声が、耳のそばで響いた。

 見上げると、茶色い髭を太い三つ編みにした男がいた。肩幅が扉を塞ぎそうなほど広く、袖をまくった腕は、ライトの脚より太く見えた。その腕一本で吊り上げられているのに、男の息は少しも乱れていない。


「離せよ!」


「先に、こっちを離せ」


 ナイフを持つ手は動かなかった。指をいっそう強く握ろうとしたが、男に見下ろされると、力が入らなくなった。


 柄が掌を離れた。男は刃を閉じ、背後の棚へ置いた。たったそれだけで、ライトが朝から頼りにしていたものは、手の届かないところへ行ってしまった。


「下ろせ!」


 声だけが大きくなった。

 男はすぐに下ろした。足が床についたのに、膝がうまく伸びず、ライトは扉へ背中をぶつけた。もう掴まれていない。動こうと思えば動けるはずだった。けれど、目の前の太い腕を見ると、指先まで冷たくなった。


「アディー」


 女が呼んだ。


「もう大丈夫よ」


「お前はいつも、そう言う」


 男はライトを見たまま答えた。ルファは、その隣へ来た。


「怪我はしていない?」


 ライトは顔を上げなかった。


「……してない」


「そう」


 女の声は、さっき客と話していたときより低かった。


「あれを向けるのは、やめてね」


「……どうせ、怖くなかったんだろ」


 女はすぐには答えなかった。ライトはようやく顔を上げた。丸い眼鏡の奥の目は、笑っていなかった。


「怖かったわ」


 そう言われるとは思っていなかった。


「じゃあ、なんで逃げなかったんだよ」


「あなたが扉の前にいたでしょう」


 ライトは背中の扉を見た。自分が逃げられなくなったことばかり考えていた。あの女も、ここから出られなかったのだ。喉の奥で、何かが引っ掛かった。


「私は、お話なら聞けるわ。でも、ナイフを向けられたままでは聞けない」


 ライトは何も言わなかった。握るものを失った手を、ズボンの脇へ押しつけた。


     *


 アディーが手を伸ばしてきたとき、ライトはまた肩をすくめた。その手は頭上を通り、扉の札を裏返した。


「今日は終いだ」


「……閉めるのか」


「こんな騒ぎのあとで、客を入れられるか」


 鍵の回る音がするかと思ったが、男は取っ手から手を離しただけだった。ルファが窓辺の椅子を引いた。


「座る?」


 ライトは動かなかった。先ほどの客が座っていた席だった。テーブルの上には、水滴の跡さえ残っていない。


「立っていてもいいけれど」


 背中で扉を押して帰ることもできた。そうすればもう、この店に来る理由を考えなくて済む。魔女は恐ろしかった。何も教えてくれなかった。そう思って、いつもの道を帰ればよかった。


 でも、まだ父の名前を言っていない。


 ライトは鞄を持ち直し、椅子へ向かった。アディーも向かいに座った。木の椅子がわずかに軋んだ。大きな手がテーブルへ置かれると、ライトは自分の手を膝の間へ挟んだ。


「名前は?」


 男に訊かれ、口を結ぶ。


「名前くらい、あるだろ」


「……ライト」


 女が、その名前を繰り返した。


「ライト君ね。私はルファ。こちらがアディー」


 ライトは二人を交互に見た。名前を知ったところで、何かが変わるわけではなかった。それでも、胸の中で魔女と呼んでいた人に、別の呼び方ができてしまった。


「家の方には、ここへ来ることを話してある?」


 ライトは首を振った。


「帰りが遅くなるなら、連絡した方がいいわね」


「……母さんは、まだ帰ってない」


「そう。何時ごろ?」


 ライトは時計を見た。思っていたより遅くなっていた。母が帰るまでには、まだ少しあったが、妹はもう家にいるはずだった。


「妹が、いる」


「電話はできる?」


 頷くと、ルファはカウンターの端を示した。


 電話の前まで行き、番号を押す。何度か呼び出す音がして、聞き慣れた声がした。


「……俺。少し遅くなるから」


 どこにいるの、と訊かれた。口を開く前に、昨日ついた嘘を思い出した。


「虹色Caféっていう店。……あとで話す」


 妹は、そんな店を知らないと言った。ライトも、一昨日まで知らなかった。


 電話を終えて戻ると、テーブルにはスープが三つ並んでいた。


     *


 ルファが座り、アディーが先に匙を取った。


「……食べろってこと?」


「腹、減ってないのか」


「別に」


 答えたすぐあとに、腹が鳴った。アディーが顔を上げたので、ライトは睨み返した。男は何も言わず、口へ運んだ肉を噛んだ。ルファも笑わなかった。それで、かえって顔が熱くなった。


 器からは温かい香りが上がっていた。野菜と肉が入っている。昼に食べてから、何時間も経っていた。  ライトは匙を持ち上げ、また置いた。


「変なもの、入ってないだろうな」


 アディーは飲み込み、それから自分の器を見た。


「俺が作った。文句は食ってから言え」


 しばらく男が食べるところを見ていたが、倒れる様子はなかった。ルファも同じものを口に運んでいる。  ライトは再び匙を取った。


 熱かった。慌てて飲み込もうとして、喉まで熱くなった。咳き込むと、横から水の入ったグラスが差し出された。


「誰も取らねえよ」


 アディーだった。受け取ったグラスを両手で持つ。水が喉を通っていくと、ようやく呼吸が落ち着いた。  二口目は、冷ましてから飲んだ。柔らかな豆が舌の上で潰れ、煮込まれた野菜の甘みが残った。


 うまかった。


 そのことが悔しくて、顔を上げずにもう一口飲んだ。


     *


「お父さんを探しているのね」


 器の底が少し見えたころ、ルファが口を開いた。  ライトは匙を止めた。


「……うん」


「いつから会っていないの?」


「会ったこと、ない」


 アディーの手も止まった。ライトは二人の顔を見ないように、豆を一つ、匙の先で寄せた。


「俺が覚えてないだけかもしれないけど。ずっと、いないんだ」


「そう」


「母さんも、前は教えてくれなかった。訊くと嫌そうな顔をするから、死んだんだと思ってた。話すと悲しくなるから、言いたくないのかなって」


 何度も考えてきたことだった。けれど、誰かに順番に話すのは初めてだった。口にすると、今まで自分が何を知らずにいたのか、一つずつ確かめさせられるようだった。


「でも、何年か前に、生きてるって言われた」


 ルファは黙って聞いていた。


「どこかで生きてるんだって。それなら、帰ってくればいいだろ。会えないなら、手紙でもいい。声だけでも」


 匙を握る指に力が入った。


「一回くらい、何か……」


 その先が続かなかった。アディーが自分の器を少し横へずらした。その音に紛らすように、ライトは息を吐いた。


「俺のこと、嫌いなのかなって思った」


 言った途端、後悔した。こんなことまで話すつもりはなかった。父がどこにいるかを聞けば、それでよかったはずだった。


「母さんには、違うって言われたけど」


 慌てて付け加えた。


「父さんも会いたいと思ってるって。でも、会えないんだって」


「……それで、魔女の話が出たの?」


 ライトは頷いた。


「魔女のせいだって、言ったんだ」


 ルファの顔を見た。


「だから、あんたなら」


 言いかけて止まった。自分でも、何を言いたいのかわからなくなっていた。連れ去ったのはこの人だと決めて来たはずなのに、今は、知らないと言われることの方が怖かった。


「返してくれると思ったのね」


 ルファの声は静かだった。


「……うん」


 初めて、頷けた。


「ライト君。私は、あなたのお父さんを連れ去ってはいないわ」


 時計が時を刻んでいた。ライトは膝の上の鞄を引き寄せた。


「本当に?」


「ええ」


 疑う言葉は、もう出てこなかった。店にいるのは、目の前の女と、スープを作った大男と、奥で食器を拭いている若い店員だけだった。父はどこにもいない。  そんなことは、入ったときからわかっていたはずだった。


「……違ったんだ」


 呟くと、急に疲れた。ここへ来るまで、何度も引き返したくなった。見つからなければよかったとさえ思った。それでも、見つけた店の名前を忘れないように、毎晩、心の中で繰り返していた。


 また、違う窓を探すのか。


「お名前は?」


 ルファが尋ねた。ライトは顔を上げた。


「お父さんの」


「……ジン」


 ルファはカップを持ったまま、動かなかった。その目がこちらへ向いたので、ライトは背筋を伸ばした。


「知ってる?」


 女はカップを置いた。


「いいえ。あなたのお父さんを、私は知らないわ」


「……そっか」


 椅子の背へ身体を戻した。今度は、それほど驚かなかった。ルファは少し間を置き、続けた。


「何か手掛かりが見つかったら、あなたに伝える」


 ライトは彼女を見た。


「……どうして」


「あなたが、探しているから」


「でも、俺」


 棚に置かれたナイフへ目が行った。小さかった。手に握っていたときには、あんなに頼りにしていたものが、棚の上では、ありふれた道具にしか見えなかった。


 ルファは返事を待っていた。


「さっきは……ごめん」


 声が小さくなった。


「ナイフ、向けて」


「ええ」


 軽く笑って済ませてはくれなかった。それでよかった気がした。ライトは膝の上で、指をほどいた。


     *


 窓の外は、すっかり暗くなっていた。


 食べ終えた器をルクルが下げ、新しいカップを運んできた。金色の縁取りに、青い硝子を組み合わせたものだった。持ち手にも細かな細工があり、温かい茶の色が、内側から透けて見えた。


「綺麗でしょ」


 ルクルが言った。ライトは頷きかけ、白い髪の店員を見た。


「これも、売ってるの?」


「うん。そっちの棚のは、ルファが作ったの」


 指さされた棚には、カップや小皿が並んでいた。一つとして同じ模様のものはない。昼に外から見た短剣も、その隣にあった。


「あれも?」


「そう」


「硝子じゃ、すぐ割れるだろ」


「大切に使えば、長く持つわ」


 ルファが答えた。ライトはカップへ目を戻した。  青の中に、少し緑の混じったところがあった。猫の首飾りを思い出した。あの猫は、今日も見かけなかった。


 持ち手へ指をかける。


 掌が、かすかに熱くなった。


 茶の温かさだと思った。けれど、熱は持ち手に触れていない指へも広がり、手首の内側まで上ってきた。  ライトは手を返した。


 指の間に、光があった。


「……何だ、これ」


 金色の、細い糸だった。糸は人差し指からほどけるように伸び、カップの縁へ触れた。そこを伝い、次の継ぎ目へ渡っていく。青い硝子の一枚一枚が、内側から順番に照らされた。


 ルファが立ち上がった。


「ライト君、手を」


 アディーの椅子も鳴った。その音に、ライトは反射的に肩をすくめた。


 カップが手から滑った。


 短い落下のあいだにも、光は伸び続けた。指先と器の間を幾筋もの糸が結び、底の模様が、一瞬、青い花のように開いた。


 鋭い音がした。


 床に、青い破片が散らばっていた。椅子の脚へ熱い茶がかかり、その向こうまで細い筋を引いている。金色の縁が半分ほど残った破片が、最後にくるりと回って止まった。


 光は消えていた。


     *


 ライトは自分の手を見ていた。


 指が五本ある。いつもと同じ手だった。さっきナイフを握り、スプーンを持ち、カップに触れた手。どこにも光はなかった。


「俺、何も」


 言葉が途切れた。アディーがテーブルを避け、こちらへ来た。


「動くな」


 ライトは身を固くした。男は膝をつき、椅子の下を見た。それからライトの靴を少し持ち上げた。爪先のすぐ脇に、尖った硝子片があった。


「踏んじまうぞ」


 そう言って、椅子ごとわずかに後ろへずらした。


 ルファは隣にしゃがんでいた。


「手を見せて」


 ライトは、両手を差し出した。触れられる直前、思わず引いた。


「また、なるかもしれない」


 ルファの指が止まった。そのまま、手の届くところで待っている。


 ライトは自分の掌を見た。いつまで見ていても、そこに何があるのか分からなかった。やがて、少しずつ、彼女の方へ差し出した。ルファは掌を下から支え、指を一本ずつ確かめた。


「傷はないわね。熱くない?」


「……今は」


「そう」


 すぐそばで、黒い髪が揺れた。焼き菓子とは少し違う、あの甘い匂いがした。ルファは手を離した。


「足にも、かかっていないみたい」


「カップ」


 ライトは床を見た。


「ごめん。落とすつもりじゃなかったんだ」


「見ていたわ」


 ルクルが布と小さな箒を持ってきた。アディーが受け取り、まず大きな破片を集め始めた。ライトも椅子から腰を浮かせた。


「俺がやる」


「座ってろ。まだ散ってる」


「でも」


「頼むから、今は足を下ろすな」


 声に押され、ライトは座り直した。


 アディーは床の近くまで顔を寄せていた。太い指が、椅子の脚の陰にある小さな欠片を探している。刃物を取り上げたときと同じ手が、今は布の上へ、硝子を一つずつ載せていた。


 ライトは膝を揃え、その手を見ていた。


     *


 片づけが終わると、テーブルの上に小さな木箱が置かれた。


 ルファはその中へ、拾い集めた硝子を移した。青い欠片に金の縁取りが交じり、箱の底にばらばらの模様ができていた。


「捨てないの?」


「まだ使えるところがあるから」


 ルファは一片をつまみ、灯りへかざした。


「小さく切れば、別のものにできるわ」


 ライトはそれを見た。さっきまで飲み物の入っていた器が、もう器には見えない。けれど、光を通した青は、割れる前と同じだった。


「……弁償する」


「その話は、今日はいいわ」


「でも」


「もう、帰らないと」


 時計を見て、ライトは立ち上がった。足元を確かめてから一歩を踏み出す。鞄を持つと、底が妙に軽かった。


 アディーが棚からナイフを取った。


「これは、しまっとけ」


 閉じられた刃を確かめ、ライトへ渡す。


「使うところを間違えるなよ」


 ライトは頷いた。今度は取り出しやすいところには入れなかった。教科書の間へ挟み、鞄の留め金を閉じた。


 扉の前まで行ってから、振り返った。


「さっきの光、何だったんだ」


 ルファは木箱のそばに立っていた。


「今は、まだわからないわ」


「魔法?」


 彼女はライトの手へ目を落とした。


「そうかもしれない。でも、確かめないと」


 ライトは鞄の持ち手を握り直した。家の戸や、食器や、妹の手に触れたらどうなるのだろう。その考えが浮かぶと、店を出るのが怖くなった。


「また何か起きたら、来てもいい?」


「ええ」


 返事はすぐだった。それを聞いて、ようやく取っ手へ手を伸ばせた。


 冷たい真鍮は、光らなかった。


「……スープ、うまかった」


 顔を戻さずに言った。後ろで、アディーが鼻を鳴らした。


「次は冷まして食え」


 ライトは頷き、外へ出た。


     *


 夜の路地には、窓の灯りが落ちていた。


 ライトはその中を歩いた。靴の先を青い光が通り過ぎた。振り返ると、ルファがまだ扉のところに立っていた。何か言おうとしたが、うまく言葉が見つからず、頭を一つ下げた。


 線路を越えるころには、窓の灯りは見えなくなっていた。父の居場所は、わからないままだった。明日、どこを探せばいいのかも。


 それなのに、来たときと同じ気持ちではなかった。鞄の中にナイフは戻っていた。でも、もう柄を確かめようとは思わなかった。


 石段の手前で、右手を開いた。暗がりでは、指の輪郭が見えるだけだった。あれほど眩しかった光が、本当にここから出たのだろうか。


 女に向けた切っ先の震えを、覚えていた。


 その同じ手を支えていた、ルファの指の感触も。



 

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