Ⅲ 《女帝》 宵の明星
鞄の底に、ナイフが入っていた。
ライトは指先で、その硬い柄を確かめた。工作に使う、刃を折り畳める小さなものだった。今朝、机の引き出しから取り出したときには、何かあったら困るからだと自分に言い聞かせた。
何か、が何なのかは考えなかった。入れておくだけで、昨日より少し歩ける気がした。
雨はやんでいた。青い雨樽からあふれた水が石段を濡らし、低いところへ細い流れを作っている。学校からここまでの道を、もう確かめる必要はなかった。角を曲がれば線路がある。その向こうには店があり、色硝子の窓がある。
今日は聞く。
昨日も、同じことを考えていた。閉店の札が裏返されるまで窓の下にいたくせに、結局、何も聞かずに帰った。家では母が夕食を温め直してくれた。
遅くなった理由を尋ねられ、友達と遊んでいたと答えた。誰と、と聞かれて、よく知っている同級生の名前を言った。その子とは昨日、一言も話していない。
ライトは鞄から手を抜き、店の扉を見た。
小さな硝子越しに、人影があった。昨日、泣いていた女だった。今日は髪をまとめ、乾いた服を着て、窓辺の席に座っている。ライトは立ち止まった。客がいるなら仕方がない。そう思ってほっとした自分が、ひどく嫌だった。
建物の脇へ回る。昨日と同じ窓が、細く開いていた。
「昨夜は、姉のところに泊まりました」
声が聞こえた。ライトは窓の下で、鞄を抱え直した。
*
女の前には、紅茶と、小さな焼き菓子の皿が置かれていた。
「あまり眠れませんでしたけど。姉が隣の部屋にいると思うと、少し……」
女は言葉を探し、カップの持ち手へ指を添えた。
「目が覚めても、灯りをつけずにいられました」
ルファは頷いた。
「病院にも、もう一度連絡しました。今度は姉も一緒に来てくれるそうです」
「そうですか」
「忙しいのに、申し訳なくて」
そう言ってから、女は少し笑った。
「それを言ったら、叱られました。『忙しいかどうかは、私が決める』って」
ルファも微笑んだ。
今日は、鏡を出さなかった。女も求めなかった。テーブルの上には紅茶の湯気が二つ立ち、二人の間で薄くなっていた。
「昨日、帰るときに、話せなかったことがあるとおっしゃっていましたね」
女の指が止まった。
「……ええ」
カップを置き、膝の上で両手を重ねる。話すために来たはずだった。道を歩いているあいだには、どこから話そうかと何度も考えていた。それなのに席へ着くと、準備していた言葉はどれも違う気がした。
窓の外で、樋から水が落ちた。
「母のことです」
それだけ言うのに、ずいぶん時間がかかった。
*
ライトは壁に預けていた背を離した。
母親の話を聞きに来たのではなかった。席を外して、客が帰るのを待てばいい。けれど、女が「もう亡くなっているんです」と続けたとき、足が止まった。
「人前では、よく私を褒めてくれました。手のかからない子だって」
開いた窓から、女の横顔が見えた。笑っているようだったが、目は伏せられていた。
「父が早くに亡くなって、母が一人で育ててくれたんです。朝早く出て、夜遅く帰ってくる。私が起きたときには、もう台所に朝ご飯が置いてありました」
ルファは口を挟まなかった。
「お弁当も、毎日。どんなに帰りが遅くても、作ってくれました。だから……大切にされていたんだと思います」
女はテーブルの端を見つめた。
「そう思わないと、いけないんです」
ルファの手が、カップのそばで止まった。
「でも、違うことも覚えているんですね」
女は顔を上げた。すぐには答えなかった。やがて、小さく頷いた。
「お弁当箱を、洗って返すことになっていました。ある日、それを忘れたんです。帰ってから遊びに行ってしまって」
言いながら、親指がもう片方の手の甲を擦っている。
「母は何も言いませんでした。ただ、流しに立って、ずっと洗っていました。私が横から謝っても、顔を見てくれなくて」
女は、そのときの水音を聞いているように黙った。
「怒鳴られた方がよかった、なんて言ったら、贅沢でしょうか」
「返事が欲しかったんですね」
「……はい」
その返事だけは、すぐに出た。
ライトは窓枠の剥げた塗装を見た。
母も、父のことを聞くと手を動かし始めた。洗い物をしたり、畳みかけの服を揃えたりする。その手が止まるのを待っているうちに、自分から別の話をした。学校で何があったとか、明日は何が必要だとか。そうすると母は顔を上げた。ちゃんと答えてくれた。
父の話も、同じように聞いてほしかった。
「泣くと、母は困りました」
窓の向こうで女が続けた。
「母を困らせていると思うと、余計に泣いてしまって。最後には、自分でも何で泣いているのかわからなくなりました」
女は息を吸った。
「だから、先に笑うようになったんです。平気だって言えば、母は安心してくれたから」
ルファは女の目を見ていた。
「大人になってからも、それが抜けなくて。怒っていないのに謝るなって言われても、謝らないでいる方が怖いんです」
女の指が、カップの持ち手へ戻った。持ち上げることはしなかった。
「昨日の鏡にいた、笑っている方の私。あの顔、母の前でしていた顔でした」
ライトは息を殺した。昨日、白い布に包まれた金色のものを思い出していた。あれは鏡だったのか。そこに、別の顔が映ったのか。
「母が亡くなったとき、涙が出ませんでした」
女の声が低くなった。
「葬儀の間も、ずっと。人が来たら挨拶をして、お茶を出して。最後に顔を見てあげてと言われても、何をしたらいいのかわからなくて」
その手が持ち手から滑り、テーブルの上で止まった。
「家に帰ったら、電話が鳴ったんです。母じゃないってわかっているのに、最初に、何か言われてしまうって思って」
ルファは黙っていた。
「そのあとで、もう叱られないんだって気づいて」
女はうつむいた。
「……ほっとしたんです」
長い沈黙になった。
店の奥では食器を片づける音がしていたが、それもいつの間にか止んでいた。ライトは窓の下で身を縮めた。立ち去るなら今だと思ったが、靴を動かす音さえ立てたくなかった。
「ひどいでしょう」
女が言った。
「育ててもらったのに。あんなに苦労してくれた人なのに、私は」
「お弁当のことを、覚えているんですね」
女が顔を上げた。ルファは、責めるでも慰めるでもない声で続けた。
「毎朝、用意してくれたことも。流しで、こちらを向いてくれなかったことも」
女は唇を結んだ。
「どちらかを、なかったことにしようとしなくてもいいと思います」
女の目が揺れた。
「でも、母はもう、何も言えません」
「ええ」
「私だけが、こんなふうに話して……」
ルファは女の前へ、ハンカチを置いた。
「今は、あなたがどうして欲しかったのかを聞いています」
女はその白い布を見つめた。
しばらくして、手を伸ばした。昨日ほど慌てずに、端をつまんで、自分の方へ引き寄せた。
「……寂しかった」
言い終える前に、涙が落ちた。
「母が帰ってくるの、いつも待っていたんです。帰ってきたら、今日あったことを聞いてほしかった。でも、疲れているのがわかるから」
ハンカチが握り込まれた。
「今じゃないんだって。明日なら、聞いてくれるかなって」
女は顔を覆った。
テーブルの上で、冷めかけた紅茶が微かに揺れた。
*
ライトは、鞄の紐を握っていた。
明日なら。
自分も、何度もそう思った。
母の機嫌がいい日なら。仕事が休みの日なら。父の話をするには、いつも、もっといい日がある気がした。待っているうちに、聞き方までわからなくなった。
窓の向こうの女は、大人だった。大人になっても、聞いてもらえなかった話を覚えている。ライトは、自分もいつかあんなふうに泣くのだろうかと思った。背が伸びて、学校へ行かなくなって、母に心配されなくなっても、父さんはどうして帰ってこなかったんだろうと考えるのだろうか。
嫌だった。
壁に背中をつけると、煉瓦の冷たさが服を通して伝わった。鞄の底で、硬いものが触れた。
ライトは窓から目を逸らした。
*
客が帰り支度を始めるころ、雲の下がわずかに明るくなった。
ルクルが空いたカップを取りに来ると、女は目元を拭きながら礼を言った。昨日よりも声がはっきりしていた。
「ごちそうさまでした。長居をしてしまって」
「お菓子、残ってるよ」
ルクルが皿を指さした。手つかずの焼き菓子が一つあった。女が何か言う前に、小柄な店員は紙を取りに引き返した。
「包んどくね。あとでお腹すくから」
女は小さく笑った。
ルファが椅子を引くと、女も立ち上がった。鏡の入った棚へ一度目を向け、ためらってから尋ねた。
「昨日の、暗い方の私は……今日も同じ顔をしているでしょうか」
「見てみますか」
女は少し考えた。そして首を振った。
「今日は、いいです」
受け取った紙包みを、鞄へしまう。
「姉に、母の話をしてみます。姉は姉で、覚えていることがあるでしょうから」
「ええ」
「同じ家にいたのに、ちゃんと話したことがなかったんです」
女は扉へ向かいかけ、ルファを振り返った。
「私、母に会いたいと思う日もあるんです」
ルファは頷いた。
「さっき、あんなことを言ったのに」
返事を待つように口を閉じたが、今度は自分で続きを探した。
「……それも、話していいんですね」
「ええ」
女は深く息を吐いた。扉が開くと、雨上がりの風が髪を揺らした。客は店先で傘を畳み直し、頭を下げて歩きだした。水たまりを避けながら、ゆっくりと。
ライトはその背中が角を曲がるまで見ていた。
あの人も、会いたかったのだ。
魔女は、帰ってこない母親を連れ戻してはくれなかった。少なくとも、ライトが見ているあいだには。けれど、あの人は礼を言って帰った。
どういうことなのだろう。
店の中でルクルが何かを言い、ルファが微笑んだ。二人でカップを片づけている。湯気の消えたテーブルが布で拭かれ、椅子が元の位置へ戻された。ライトはその様子を見つめた。
あの人に、自分も話せるだろうか。
父親の声を知らないこと。母に聞くのが怖いこと。生きていると知ったとき、嬉しかったのに、そのあとで、死んでいたと思っていたころより寂しくなったこと。
そこまで考えて、顔が熱くなった。窓の外から見ているだけで、もう何かを取られていそうだった。誰にも言わずにおいたことが、あの女の前では勝手に口から出てしまう気がした。
だから魔女なのだろうか。
優しそうに見えるのも、安心させるためかもしれない。そう考えると、少しだけ意気込みがついた。用心していればいい。何もかも話す必要はない。父のことだけ聞いて、帰ればいい。
ライトは鞄に手を入れた。指に触れたナイフの柄を握ると、肩に入っていた力が少し抜けた。
持っているだけだ。
誰に言われたわけでもないのに、心の中で繰り返した。
*
真鍮の取っ手は、思っていたより冷たかった。
引くと、扉は簡単に開いた。高いところで鈴が鳴った。三日間、外から聞いていた音が、今は頭のすぐ上にある。
「いらっしゃいませ」
女が顔を上げた。
ライトは敷居の向こうへ足を置いた。甘い匂いが近くなった。窓越しにはわからなかった木の床の艶や、棚に積まれた本の厚みが目に入る。どれも、窓から覗いたときよりずっと近かった。
入ってしまった。
背後で扉が閉まる。思わず肩が動いたのを、女に見られた気がした。
「窓のところにいた子ね」
ライトは鞄の中の手を握り直した。
「……知ってたのか」
「ええ。雨に濡れなかった?」
訊かれたことがわからず、一瞬黙った。昨日の雨の話だ。
「別に」
「そう。よかった」
耳のそばで脈が高鳴っている。
女はカウンターのそばに立っていた。丸い眼鏡の奥に、あの翡翠色の瞳がある。昨日も、一昨日も、何も言えなくなった目だった。近くで見ると、恐ろしいところなど見当たらなかった。それがかえって腑に落ちない。
「一人?」
ライトは頷いた。
「好きな席へどうぞ」
さっきの客が座っていた椅子へ、女の視線が動いた。そこに座れば、自分も泣いてしまうのだろうか。
「あんたが、魔女なのか」
思っていたより強い声が出た。女は手を止めた。
「そう呼ばれることはあるわ」
「何でもできるのか」
「何でも、というわけにはいかないけれど」
「人を、どこかへやったりも?」
女の表情から笑みが消えた。
「どういうこと?」
ライトは息を吸った。父の名前を言えばよかった。知っているかと聞けばよかった。石段を下りるときから、ずっとそう決めていたのに。
けれど、女が真剣な顔でこちらを見た途端、その口から何を言われるのかが怖くなっていた。
「……わかってるんだろ」
女は答えなかった。
「俺が、何を聞きに来たのか」
「まだ、わからないわ」
「嘘だ」
声が上ずった。
「さっきの人のことは、わかってたじゃないか。鏡で、何か見せたんだろ。あの人の中にあるものを」
女は一度、窓へ目を向けた。それからライトへ視線を戻す。
「お話を聞いていたのね」
責める声ではなかった。だからこそ、逃げ場がなくなった気がした。
「俺にだって……」
そこから先が出てこなかった。
聞いてほしかった。あの女の人みたいに、最初から最後まで。けれど、母の声が耳の奥に残っていた。
魔女のせいなの。
もし、この女が。
女はゆっくりと、持っていた布を置いた。
「誰かを、探しているの?」
ライトは息を止めた。
まだ言っていない。父のことも、名前も、何も言っていない。
「……父さんを」
ようやく出た言葉は、小さすぎた。女がわずかに身体を寄せた。
「お父さん?」
ライトは後ずさった。背中が扉に触れ、鈴が短く鳴った。顔が熱い。うまく息が吸えない。あの女に見られている。待たれている。その目の前で、喉の奥にあったものが崩れてしまいそうだった。
「どこへやったんだよ」
女の目が動いた。鞄から抜いたライトの手へ。
小さな刃が開いていた。
いつ開いたのか、自分でもよくわからなかった。握り慣れた柄なのに、指が収まらない。切っ先が震え、窓からのわずかな光を散らした。
女は動かなかった。
「返せよ」
ライトの声が、静かな店内へ落ちた。
父はどこかで生きている。自分に会いたくないわけではない。帰れないのだ。誰かが、帰れなくしているのだ。
目の前の女が違うと言ったら、次はどうすればいいのだろう。
「父さんを返せ!」
窓の外では、雲の切れ間に一番星が出ていた。暮れ残る西の空に、ほかのどの星よりも早く。
ライトには見えなかった。
滲む視界の中で、女が何かを言おうとしていた。
そのとき、店の奥で椅子を引く音がした。




