Ⅱ 《女教皇》 鏡は語らない
扉の向こうで、取っ手が小さく鳴った。
ルファは読みかけの本から顔を上げた。雨の午後だった。窓の色は薄く、青も赤も、床へ届く前に雨雲の灰色にほどけている。奥の厨房から煮込み鍋の音がするほかは、柱時計の振り子が往復しているだけだった。
しばらく待っても、扉は開かなかった。
栞を挟んで立ち上がる。扉を引くと、軒下に女がいた。
傘は持っていなかった。肩に張りついた髪から、雫が上着の襟へ落ちている。取っ手へ伸ばした手を中途半端に浮かせたまま、女はルファを見た。
「……魔女のいるお店は、ここですか」
唇に、ほとんど色がなかった。
「ええ。そう聞いて来られる方もいます」
「あなたが?」
ルファが頷くと、女の手がようやく下がった。
「少し、入っていってもいいでしょうか」
「もちろん。どうぞ」
扉を大きく開けても、女は敷居の手前に立っていた。視線を辿ると、磨かれた床を見ている。靴の爪先から水が滴り、戸口に黒い染みを作っていた。
「濡らしてしまいます」
「あとで拭けますから」
女は、なおも動かなかった。
ルファは扉を押さえたまま、店の奥へ声をかけた。
「ルクル、乾いた布をお願い」
食器の触れ合う音が止まった。ほどなく、白い髪の小柄な店員が、畳んだタオルを抱えて現れた。赤い服の裾から覗く白いフリルが、歩くたびに揺れている。
「大きいのにしたよ」
「ありがとう」
差し出されたタオルに、女は両手を伸ばした。受け取った途端、その厚みに驚いたように指を沈める。
「……すみません」
そう言って、ようやく店へ入った。
*
女が選んだのは、窓からいちばん遠い席だった。
濡れた上着を椅子の背へ掛け、髪を拭く。ルファが温かいスープを置くと、女はすぐに鞄を開けた。財布の金具がうまく外れず、何度か爪を滑らせている。
「冷めないうちに召し上がって。お勘定は、あとで」
女は手を止めた。向かいに座ったルファの顔を窺い、それからスプーンを取った。
最初のひと口を、ずいぶん長い時間をかけて飲んだ。喉が動き、肩が少し下がる。二口目は、もう少し早かった。ルファは何も尋ねず、自分の紅茶を飲んだ。
やがて女が、匙の先を器の縁へ揃えて置いた。
「人の中にあるものを、取り出せますか」
ルファはカップから指を離した。
「どんなものを?」
「私にも、わからないんです」
女の手が襟元へ上がった。首を覆うように巻かれた薄い布を押さえている。外すつもりなのかと思ったが、指はそこで止まった。
「眠ると、首を絞められるんです」
雨粒が窓を叩いた。
「夢だと思っていました。誰かに押さえつけられて、声が出なくて。目が覚めれば終わるんだって、いつも……」
女は布から手を下ろした。その手を、テーブルの下へ隠した。
「でも、目を開けたとき、まだ苦しかった。自分の手が、ここにかかっていたんです」
最後の言葉だけが、かすれた。
ルファは女が示した首元を見て、それから顔へ視線を戻した。
「一度だけですか」
女は首を振った。
「病院には?」
「行きました。眠っている間のことを調べるそうです。でも、次に眠るのは今夜なんです」
語尾が強くなったことに気づいたのか、女は唇を結んだ。
「ごめんなさい。先生には、ちゃんと話を聞いていただきました。ただ、家に帰ると……」
ルファは続きを待った。
「灯りを消せないんです。消さなくても、朝まで起きていられるわけじゃない。椅子に座っているうちに眠ってしまって、目が覚めるたび、手がどこにあるか確かめるんです」
膝の上で、布が擦れる音がした。
「私、死にたくないんです」
「ええ」
「なのに、この手が」
女はテーブルの下から、両手を出した。爪は短く切られ、指の節に赤みがあった。自分のものを差し出しているのに、触れることをためらうように、指同士が離れていた。
「私の中に、別の誰かがいるんでしょうか。私の知らないところで、私を嫌っている誰かが」
ルファは答える前に、女の目を見た。
「そう思うようになったのですね」
「ほかに、どう考えたらいいのかわからなくて」
女は手を引っ込めた。
「ここなら、その誰かを追い出せるかもしれないと思ったんです」
*
ルファが奥の棚から取り出したのは、布に包まれた鏡だった。
女は顔を上げ、すぐに俯いた。
「自分の顔は、見たくありません」
「顔だけが映る鏡ではないんです」
布をほどくと、金の細工に縁取られた丸い鏡が現れた。上部には太陽、その左右には翼を広げた鳥が配されている。羽の一枚一枚には薄い色硝子がはめ込まれ、曇り空の下でも、根元に淡い金色を含んでいた。
ルファは鏡を伏せたまま、テーブルに置いた。
「見たくないと思ったら、そう言ってください。すぐに伏せます」
女はその金の縁を見つめていた。やがて、一度だけ頷いた。
ルファは台座を起こし、鏡を彼女へ向けた。
そこには、店も女の顔も映らなかった。
黒かった。
表面が黒いのではなく、硝子の向こうに奥行きがあり、その奥行きのすべてが暗闇で満たされていた。
女が身を引くと、椅子の脚が床を擦った。ルファの指先が、太陽の飾りへ触れた。
すると、闇の奥に光が生まれた。
ひとつ、またひとつ。針で開けた穴のような小さな輝きが散らばり、やがて細かな星の群れとなった。青白い帯が鏡の底を横切っていく。見ていると、自分の座っている椅子まで、ゆっくり傾いていくようだった。
「これは……」
女はテーブルの縁を掴んだ。
遠い星々の間から、ひときわ強い光が昇ってきた。白に近い金色が鏡を満たし、濡れた女の髪を照らした。まだ乾ききらない雫が、頬の横で光った。
太陽だった。
眩しさに目を細めると、光の中へ人の輪郭が浮かんだ。
そこには女自身が映っていた。
よく眠った朝のように顔色がよく、髪も整っている。微笑んでいた。口角の上げ方まで、見覚えのある笑い方だった。
女の指が、テーブルの縁を強く掴んだ。
鏡の中の肩越しに、もう一つ、顔があった。
同じ顔だった。けれど髪は乱れ、眉を寄せ、暗がりからこちらを睨んでいる。笑っている自分がわずかに動くと、その陰の顔は押し隠された。しかし、その顔がまた身を乗り出し、口を開く。
声は聞こえなかった。
「その人です」
女が言った。
「その人が、私の中にいるんです」
女が身を乗り出した拍子に袖が器へ触れた。スプーンが落ち、残っていたスープがテーブルを伝った。女は音に怯えたように肩を跳ねさせた。
「すみません」
鞄から布を出そうとして、鏡を見た。また、暗い方の顔が動いていた。
「消してください」
ルファは鏡の縁に手を添えた。
「お願いします。早く」
鏡が伏せられた。
黄金の光が消え、灰色の午後が戻った。女は息を切らしながら、伏せられた鏡を見ていた。やがて、恐る恐る尋ねた。
「……いなくなったんですか」
「鏡を伏せただけです」
ルファはそう答え、膝へ流れ落ちる前に、こぼれたスープを布で受け止めた。女も慌てて手伝おうとした。
「ごめんなさい。私、何を」
「火傷はありませんか」
女は自分の手元を見て、首を振った。
ルファは床のスプーンを拾った。厨房から顔を出したルクルへ目で合図をすると、新しいものがすぐに運ばれてきた。
テーブルが拭かれる間、女は何度も口を開きかけ、そのたびに閉じた。
やがて、小さな声で尋ねた。
「あれが、私の首を絞めるんですね」
ルファは布を畳む手を止めた。
「そこまでは、この鏡ではわかりません」
「でも、見えたでしょう。私を睨んでいました」
「ええ。怒っているように見えました」
「だったら」
「何に怒っているのかは、まだ聞いていません」
女は黙った。
窓を伝う雨筋が、いくつも重なって太くなった。軒からあふれた水が、戸口の石を叩いている。
「あんな顔、したくありません」
長い沈黙のあと、女が言った。
「人に腹を立てたり、羨ましがったり。優しくしてくれた人にまで、ひどいことを思うんです。口には出しませんけど」
親指で、もう片方の爪の縁を擦っている。
「ちゃんと笑えば、そのうち本当に、そういう人になれると思っていました」
ルファの目が、伏せた鏡へ向いた。あの、明るい方の顔。女が見慣れていると言いたげに、少しだけ口元を動かした顔だった。
「ずっと、笑っていたんですか」
女は、かすかに笑った。そして、その表情のまま目を伏せた。
「笑っていた方が、早く済みますから」
ルファは何も言わなかった。時計の振り子が、往き、戻った。
しばらくして、女が鏡の縁へ手を伸ばした。
「……もう一度、見てもいいですか」
*
再び起こされた鏡には、星々と太陽が戻っていた。 その中で、女は笑っていた。背後の顔も、まだそこにあった。
今度は、すぐに目を逸らさなかった。
暗い方の自分は、唇を動かしていた。何かを言いかけ、そのたびに光の中の笑顔に隠される。眉間の皺も、強く結ばれる口元も、見ていたくないものばかりだった。
けれど、目だけは違った。
女は少し身体を寄せ、鏡を覗いた。
暗がりの目が、濡れていた。
「……何か、言いたいの?」
自分でも思いがけないほど小さな声だった。鏡の中の口が止まった。
女は待った。
声は、やはり聞こえなかった。太陽の光がその頬をかすめ、一筋だけ、濡れた跡を見せた。
頬へ触れる。
女自身の指も、濡れていた。
「嫌なのね」
それが鏡に向けた言葉なのか、自分の口から出てきた返事なのか、わからなかった。
女は唇を押さえた。何かを言おうとしたが、喉が詰まった。代わりに、肩が一度、大きく震えた。
ルファは鏡を動かさず、清潔なハンカチを手の届くところに置いた。
女はそれを取った。折り目を開こうとした指が止まり、そのまま目元へ押し当てた。
雨は降り続いていた。
人の泣く声は、雨音の中では小さかった。ルファは向かいの席に座り、女が顔を上げるまで待っていた。
*
女の呼吸が落ち着くと、ルファは太陽の飾りを指でなぞった。星々が遠のき、光が薄れて、鏡には店の壁と女の顔が戻った。
スープは冷めきっていた。
女はそこに映った顔を、しばらく見ていた。目が赤く、鼻の頭も赤い。人に見せたくない顔だったが、今度は慌てて隠さなかった。
「何を言おうとしていたのか、まだわかりません」
「ええ」
「でも……嫌だって、言いたかった気がします」
ルファは頷いた。
それ以上を尋ねると、ようやく口にできた言葉まで、女は引っ込めてしまいそうだった。
鏡を片づけようとすると、女の目が、窓の暗さへ移った。
「夜のことは、これで……」
言い終えず、ルファを見た。
ルファは首を横に振った。
「治ったとは言えません。起きたことは、病院にももう一度伝えてください。今夜、一緒にいてもらえる人はいませんか」
女はハンカチを握り直した。
「姉が、近くに住んでいます。でも、急にこんなことを頼んだら」
その先が途切れた。
女は、まだテーブルに置かれている鏡を見た。そこには、自分の手が映っていた。
「……頼んでも、いないですね」
鞄から携帯電話を出す。画面に触れた指が何度か止まったが、やがて、女はそれを耳へ当てた。
呼び出す音が微かに聞こえた。
「お姉ちゃん」
声が返ってきた途端、女の顔が崩れた。
「ごめんね。仕事中だった?」
返事を聞いて、頷いている。目元を拭い、いつもの話し声へ戻そうと息を整えた。ルファは布を持ち上げ、鏡を包もうとした。
そのとき、女の指が金の縁に触れた。
「……大丈夫じゃ、ないの」
声は震えていた。
「今夜、一人でいたくない」
ルファは静かに席を離れた。
厨房で新しいスープをよそっていると、背後から女の声が聞こえた。今いる店の名前を、少しずつ確かめながら伝えていた。
*
ライトがその路地へ再び来たのは、雨が細くなり始めたころだった。
青い雨樽は、昨日と同じ角にあった。欠けた石段を下り、草の生えた線路を越える。店が見えた途端、歩く速さが落ちた。
傘を少し持ち上げて、窓を窺う。
昨日の女が、見知らぬ客の前へスープを置いていた。
客は泣いているようだった。
ライトは建物の脇へ回った。下ろした傘から、細かい雫が足元へ落ちた。窓は閉まっていて、声がよく聞こえない。色硝子を透かした客の顔が、雨筋で歪んで見えた。魔女に何かをされているのだろうか。
女が白い布を畳んでいた。その下で、金色の何かが一瞬光ったが、何なのか確かめる前に包まれてしまった。
客が深く頭を下げた。
魔女らしい女は首を振り、何かを言った。すると客は、泣いている顔のまま、少しだけ笑った。
ライトは窓に近づけていた顔を引いた。
しばらくして、路地の入口から傘を差した人が来た。店の看板を見上げ、扉を開ける。ほどなく、先ほどの客と並んで出てきた。そして客は、戸口で振り返った。
「また来ても、いいですか。今日、話せなかったことが……」
「ええ。お待ちしています」
あの女の声だった。
客はもう一度頭を下げ、差し出された傘の下へ入った。連れの腕が、濡れた肩を抱く。二人は顔を寄せて何か話しながら、ライトの隠れている壁の前を通り過ぎた。客の目元には、泣いた跡が残っていた。そして、その手は連れの袖を掴み、離そうとしなかった。
ライトは二人の背中を見送った。何を願ったのだろう。何を、叶えてもらったのだろう。
店へ目を戻すと、扉のそばにあの女が立っていた。ライトは壁の陰へ引っ込んだ。しばらく待ってから、そっと覗く。女はまだ同じ場所で、客の去った道を見ていた。
今なら、ほかに客はいない。
握っていた傘を持ち替えた。昨日は聞けなかった。今日は名前を言うだけでもいい。ジンという人を知りませんか。それだけでいい。
ライトは壁から離れた。
戸口の女が、こちらを向いた。
足が止まった。
昨日と同じ瞳だった。女は呼びかけなかった。ただ、扉を閉めずに立っていた。
雨樋から水が落ちた。雨粒がライトの靴の先で弾けた。
母さんは、魔女のせいだと言った。
その言葉と、泣きながら笑っていた客の顔が、どうしても一つにならなかった。
ライトは視線を落とした。傘の柄を握ったまま、何も言えずにいると、やがて、扉の鈴が静かに鳴った。
*
「呼んであげればよかったのに」
窓辺でルクルが言った。ルファは客の使ったカップを盆へ載せていた。
「あの子、昨日も来てたよね」
「ええ」
「お客さんじゃないの?」
ルファは窓を見た。硝子に遮られ、外の少年の姿はわからなかった。
「聞きたいことが、あるのかもしれないわね」
盆を持ち上げかけ、ルファは思い直したように窓へ近づいた。留め金を外し、端の一枚を細く開ける。濡れた煉瓦と土の匂いが入ってきた。雨は、ほとんどやんでいた。
壁の陰にいた少年が、息を止めた気配がした。 ルファはそちらを覗かず、厨房へ戻った。
しばらくして、店の外で靴音がした。
近づくでも、遠ざかるでもなく、一度だけ。
窓の下には、まだ少年がいた。




