↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ステンドグラスの彼方に  作者: 羽月楓


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/22

Ⅱ 《女教皇》 鏡は語らない

挿絵(By みてみん)


 


 扉の向こうで、取っ手が小さく鳴った。


 ルファは読みかけの本から顔を上げた。雨の午後だった。窓の色は薄く、青も赤も、床へ届く前に雨雲の灰色にほどけている。奥の厨房から煮込み鍋の音がするほかは、柱時計の振り子が往復しているだけだった。

 しばらく待っても、扉は開かなかった。


 栞を挟んで立ち上がる。扉を引くと、軒下に女がいた。

 傘は持っていなかった。肩に張りついた髪から、雫が上着の襟へ落ちている。取っ手へ伸ばした手を中途半端に浮かせたまま、女はルファを見た。


「……魔女のいるお店は、ここですか」


 唇に、ほとんど色がなかった。


「ええ。そう聞いて来られる方もいます」


「あなたが?」


 ルファが頷くと、女の手がようやく下がった。


「少し、入っていってもいいでしょうか」


「もちろん。どうぞ」


 扉を大きく開けても、女は敷居の手前に立っていた。視線を辿ると、磨かれた床を見ている。靴の爪先から水が滴り、戸口に黒い染みを作っていた。


「濡らしてしまいます」


「あとで拭けますから」


 女は、なおも動かなかった。

 ルファは扉を押さえたまま、店の奥へ声をかけた。


「ルクル、乾いた布をお願い」


 食器の触れ合う音が止まった。ほどなく、白い髪の小柄な店員が、畳んだタオルを抱えて現れた。赤い服の裾から覗く白いフリルが、歩くたびに揺れている。


「大きいのにしたよ」


「ありがとう」


 差し出されたタオルに、女は両手を伸ばした。受け取った途端、その厚みに驚いたように指を沈める。


「……すみません」


 そう言って、ようやく店へ入った。


     *


 女が選んだのは、窓からいちばん遠い席だった。


 濡れた上着を椅子の背へ掛け、髪を拭く。ルファが温かいスープを置くと、女はすぐに鞄を開けた。財布の金具がうまく外れず、何度か爪を滑らせている。


「冷めないうちに召し上がって。お勘定は、あとで」


 女は手を止めた。向かいに座ったルファの顔を窺い、それからスプーンを取った。

 最初のひと口を、ずいぶん長い時間をかけて飲んだ。喉が動き、肩が少し下がる。二口目は、もう少し早かった。ルファは何も尋ねず、自分の紅茶を飲んだ。


 やがて女が、匙の先を器の縁へ揃えて置いた。


「人の中にあるものを、取り出せますか」


 ルファはカップから指を離した。


「どんなものを?」


「私にも、わからないんです」


 女の手が襟元へ上がった。首を覆うように巻かれた薄い布を押さえている。外すつもりなのかと思ったが、指はそこで止まった。


「眠ると、首を絞められるんです」


 雨粒が窓を叩いた。


「夢だと思っていました。誰かに押さえつけられて、声が出なくて。目が覚めれば終わるんだって、いつも……」


 女は布から手を下ろした。その手を、テーブルの下へ隠した。


「でも、目を開けたとき、まだ苦しかった。自分の手が、ここにかかっていたんです」


 最後の言葉だけが、かすれた。

 ルファは女が示した首元を見て、それから顔へ視線を戻した。


「一度だけですか」


 女は首を振った。


「病院には?」


「行きました。眠っている間のことを調べるそうです。でも、次に眠るのは今夜なんです」


 語尾が強くなったことに気づいたのか、女は唇を結んだ。


「ごめんなさい。先生には、ちゃんと話を聞いていただきました。ただ、家に帰ると……」


 ルファは続きを待った。


「灯りを消せないんです。消さなくても、朝まで起きていられるわけじゃない。椅子に座っているうちに眠ってしまって、目が覚めるたび、手がどこにあるか確かめるんです」


 膝の上で、布が擦れる音がした。


「私、死にたくないんです」


「ええ」


「なのに、この手が」


 女はテーブルの下から、両手を出した。爪は短く切られ、指の節に赤みがあった。自分のものを差し出しているのに、触れることをためらうように、指同士が離れていた。


「私の中に、別の誰かがいるんでしょうか。私の知らないところで、私を嫌っている誰かが」


 ルファは答える前に、女の目を見た。


「そう思うようになったのですね」


「ほかに、どう考えたらいいのかわからなくて」


 女は手を引っ込めた。


「ここなら、その誰かを追い出せるかもしれないと思ったんです」


     *


 ルファが奥の棚から取り出したのは、布に包まれた鏡だった。


 女は顔を上げ、すぐに俯いた。


「自分の顔は、見たくありません」


「顔だけが映る鏡ではないんです」


 布をほどくと、金の細工に縁取られた丸い鏡が現れた。上部には太陽、その左右には翼を広げた鳥が配されている。羽の一枚一枚には薄い色硝子がはめ込まれ、曇り空の下でも、根元に淡い金色を含んでいた。


 ルファは鏡を伏せたまま、テーブルに置いた。


「見たくないと思ったら、そう言ってください。すぐに伏せます」


 女はその金の縁を見つめていた。やがて、一度だけ頷いた。

 ルファは台座を起こし、鏡を彼女へ向けた。


 そこには、店も女の顔も映らなかった。


 黒かった。


 表面が黒いのではなく、硝子の向こうに奥行きがあり、その奥行きのすべてが暗闇で満たされていた。

 女が身を引くと、椅子の脚が床を擦った。ルファの指先が、太陽の飾りへ触れた。


 すると、闇の奥に光が生まれた。


 ひとつ、またひとつ。針で開けた穴のような小さな輝きが散らばり、やがて細かな星の群れとなった。青白い帯が鏡の底を横切っていく。見ていると、自分の座っている椅子まで、ゆっくり傾いていくようだった。


「これは……」


 女はテーブルの縁を掴んだ。

 遠い星々の間から、ひときわ強い光が昇ってきた。白に近い金色が鏡を満たし、濡れた女の髪を照らした。まだ乾ききらない雫が、頬の横で光った。


 太陽だった。


 眩しさに目を細めると、光の中へ人の輪郭が浮かんだ。

 そこには女自身が映っていた。

 よく眠った朝のように顔色がよく、髪も整っている。微笑んでいた。口角の上げ方まで、見覚えのある笑い方だった。


 女の指が、テーブルの縁を強く掴んだ。


 鏡の中の肩越しに、もう一つ、顔があった。


 同じ顔だった。けれど髪は乱れ、眉を寄せ、暗がりからこちらを睨んでいる。笑っている自分がわずかに動くと、その陰の顔は押し隠された。しかし、その顔がまた身を乗り出し、口を開く。

 声は聞こえなかった。


「その人です」


 女が言った。


「その人が、私の中にいるんです」


 女が身を乗り出した拍子に袖が器へ触れた。スプーンが落ち、残っていたスープがテーブルを伝った。女は音に怯えたように肩を跳ねさせた。


「すみません」


 鞄から布を出そうとして、鏡を見た。また、暗い方の顔が動いていた。


「消してください」


 ルファは鏡の縁に手を添えた。


「お願いします。早く」


 鏡が伏せられた。


 黄金の光が消え、灰色の午後が戻った。女は息を切らしながら、伏せられた鏡を見ていた。やがて、恐る恐る尋ねた。


「……いなくなったんですか」


「鏡を伏せただけです」


 ルファはそう答え、膝へ流れ落ちる前に、こぼれたスープを布で受け止めた。女も慌てて手伝おうとした。


「ごめんなさい。私、何を」


「火傷はありませんか」


 女は自分の手元を見て、首を振った。

 ルファは床のスプーンを拾った。厨房から顔を出したルクルへ目で合図をすると、新しいものがすぐに運ばれてきた。


 テーブルが拭かれる間、女は何度も口を開きかけ、そのたびに閉じた。


 やがて、小さな声で尋ねた。


「あれが、私の首を絞めるんですね」


 ルファは布を畳む手を止めた。


「そこまでは、この鏡ではわかりません」


「でも、見えたでしょう。私を睨んでいました」


「ええ。怒っているように見えました」


「だったら」


「何に怒っているのかは、まだ聞いていません」


 女は黙った。


 窓を伝う雨筋が、いくつも重なって太くなった。軒からあふれた水が、戸口の石を叩いている。


「あんな顔、したくありません」


 長い沈黙のあと、女が言った。


「人に腹を立てたり、羨ましがったり。優しくしてくれた人にまで、ひどいことを思うんです。口には出しませんけど」


 親指で、もう片方の爪の縁を擦っている。


「ちゃんと笑えば、そのうち本当に、そういう人になれると思っていました」


 ルファの目が、伏せた鏡へ向いた。あの、明るい方の顔。女が見慣れていると言いたげに、少しだけ口元を動かした顔だった。


「ずっと、笑っていたんですか」


 女は、かすかに笑った。そして、その表情のまま目を伏せた。


「笑っていた方が、早く済みますから」


 ルファは何も言わなかった。時計の振り子が、往き、戻った。


 しばらくして、女が鏡の縁へ手を伸ばした。


「……もう一度、見てもいいですか」


     *


 再び起こされた鏡には、星々と太陽が戻っていた。  その中で、女は笑っていた。背後の顔も、まだそこにあった。


 今度は、すぐに目を逸らさなかった。


 暗い方の自分は、唇を動かしていた。何かを言いかけ、そのたびに光の中の笑顔に隠される。眉間の皺も、強く結ばれる口元も、見ていたくないものばかりだった。

 けれど、目だけは違った。


 女は少し身体を寄せ、鏡を覗いた。


 暗がりの目が、濡れていた。


「……何か、言いたいの?」


 自分でも思いがけないほど小さな声だった。鏡の中の口が止まった。


 女は待った。


 声は、やはり聞こえなかった。太陽の光がその頬をかすめ、一筋だけ、濡れた跡を見せた。


 頬へ触れる。


 女自身の指も、濡れていた。


「嫌なのね」


 それが鏡に向けた言葉なのか、自分の口から出てきた返事なのか、わからなかった。


 女は唇を押さえた。何かを言おうとしたが、喉が詰まった。代わりに、肩が一度、大きく震えた。


 ルファは鏡を動かさず、清潔なハンカチを手の届くところに置いた。

 女はそれを取った。折り目を開こうとした指が止まり、そのまま目元へ押し当てた。


 雨は降り続いていた。


 人の泣く声は、雨音の中では小さかった。ルファは向かいの席に座り、女が顔を上げるまで待っていた。


     *


 女の呼吸が落ち着くと、ルファは太陽の飾りを指でなぞった。星々が遠のき、光が薄れて、鏡には店の壁と女の顔が戻った。

 スープは冷めきっていた。


 女はそこに映った顔を、しばらく見ていた。目が赤く、鼻の頭も赤い。人に見せたくない顔だったが、今度は慌てて隠さなかった。


「何を言おうとしていたのか、まだわかりません」


「ええ」


「でも……嫌だって、言いたかった気がします」


 ルファは頷いた。

 それ以上を尋ねると、ようやく口にできた言葉まで、女は引っ込めてしまいそうだった。


 鏡を片づけようとすると、女の目が、窓の暗さへ移った。


「夜のことは、これで……」


 言い終えず、ルファを見た。

 ルファは首を横に振った。


「治ったとは言えません。起きたことは、病院にももう一度伝えてください。今夜、一緒にいてもらえる人はいませんか」


 女はハンカチを握り直した。


「姉が、近くに住んでいます。でも、急にこんなことを頼んだら」


 その先が途切れた。

 女は、まだテーブルに置かれている鏡を見た。そこには、自分の手が映っていた。


「……頼んでも、いないですね」


 鞄から携帯電話を出す。画面に触れた指が何度か止まったが、やがて、女はそれを耳へ当てた。


 呼び出す音が微かに聞こえた。


「お姉ちゃん」


 声が返ってきた途端、女の顔が崩れた。


「ごめんね。仕事中だった?」


 返事を聞いて、頷いている。目元を拭い、いつもの話し声へ戻そうと息を整えた。ルファは布を持ち上げ、鏡を包もうとした。

 そのとき、女の指が金の縁に触れた。


「……大丈夫じゃ、ないの」


 声は震えていた。


「今夜、一人でいたくない」


 ルファは静かに席を離れた。

 厨房で新しいスープをよそっていると、背後から女の声が聞こえた。今いる店の名前を、少しずつ確かめながら伝えていた。


     *


 ライトがその路地へ再び来たのは、雨が細くなり始めたころだった。


 青い雨樽は、昨日と同じ角にあった。欠けた石段を下り、草の生えた線路を越える。店が見えた途端、歩く速さが落ちた。


 傘を少し持ち上げて、窓を窺う。

 昨日の女が、見知らぬ客の前へスープを置いていた。


 客は泣いているようだった。


 ライトは建物の脇へ回った。下ろした傘から、細かい雫が足元へ落ちた。窓は閉まっていて、声がよく聞こえない。色硝子を透かした客の顔が、雨筋で歪んで見えた。魔女に何かをされているのだろうか。


 女が白い布を畳んでいた。その下で、金色の何かが一瞬光ったが、何なのか確かめる前に包まれてしまった。

 

 客が深く頭を下げた。

 魔女らしい女は首を振り、何かを言った。すると客は、泣いている顔のまま、少しだけ笑った。


 ライトは窓に近づけていた顔を引いた。


 しばらくして、路地の入口から傘を差した人が来た。店の看板を見上げ、扉を開ける。ほどなく、先ほどの客と並んで出てきた。そして客は、戸口で振り返った。


「また来ても、いいですか。今日、話せなかったことが……」


「ええ。お待ちしています」


 あの女の声だった。


 客はもう一度頭を下げ、差し出された傘の下へ入った。連れの腕が、濡れた肩を抱く。二人は顔を寄せて何か話しながら、ライトの隠れている壁の前を通り過ぎた。客の目元には、泣いた跡が残っていた。そして、その手は連れの袖を掴み、離そうとしなかった。


 ライトは二人の背中を見送った。何を願ったのだろう。何を、叶えてもらったのだろう。


 店へ目を戻すと、扉のそばにあの女が立っていた。ライトは壁の陰へ引っ込んだ。しばらく待ってから、そっと覗く。女はまだ同じ場所で、客の去った道を見ていた。


 今なら、ほかに客はいない。


 握っていた傘を持ち替えた。昨日は聞けなかった。今日は名前を言うだけでもいい。ジンという人を知りませんか。それだけでいい。


 ライトは壁から離れた。


 戸口の女が、こちらを向いた。


 足が止まった。

 昨日と同じ瞳だった。女は呼びかけなかった。ただ、扉を閉めずに立っていた。

 雨樋から水が落ちた。雨粒がライトの靴の先で弾けた。


 母さんは、魔女のせいだと言った。


 その言葉と、泣きながら笑っていた客の顔が、どうしても一つにならなかった。


 ライトは視線を落とした。傘の柄を握ったまま、何も言えずにいると、やがて、扉の鈴が静かに鳴った。


     *


「呼んであげればよかったのに」


 窓辺でルクルが言った。ルファは客の使ったカップを盆へ載せていた。


「あの子、昨日も来てたよね」


「ええ」


「お客さんじゃないの?」


 ルファは窓を見た。硝子に遮られ、外の少年の姿はわからなかった。


「聞きたいことが、あるのかもしれないわね」


 盆を持ち上げかけ、ルファは思い直したように窓へ近づいた。留め金を外し、端の一枚を細く開ける。濡れた煉瓦と土の匂いが入ってきた。雨は、ほとんどやんでいた。


 壁の陰にいた少年が、息を止めた気配がした。  ルファはそちらを覗かず、厨房へ戻った。


 しばらくして、店の外で靴音がした。


 近づくでも、遠ざかるでもなく、一度だけ。


 窓の下には、まだ少年がいた。



 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。