Ⅰ 《魔術師》 魔女カフェ
「消えちゃったね……五十年」
少年は、何もない場所を見ていた。
傍らの女もそちらへ目を向けたが、雨に濡れた石畳が続いているばかりだった。少年が何を惜しんでいるのか、彼女にはわからなかった。
「さあ、今度は何がしたい? ルファ」
名を呼ばれ、女は少し考えた。
「……ステンドグラスのカフェ、かな」
「そっか」
少年は笑った。
遠くで列車が軋み、少し遅れて風が来た。どこからか舞い込んだ桜の花びらが、二人の間を通り抜けていった。
*
父親の声を、ライトは知らなかった。
名前はジン。どこかで生きている。母から聞けたのは、それくらいだ。背が高いのか、怒ると怖いのか、どんなときに笑うのか。知りたいことを一つ尋ねるたび、母は答える前に、困ったように目を伏せた。その顔を見るのが嫌で、いつからか聞かなくなった。
ただ、一度だけ、母が口にした言葉がある。
――魔女のせいなの。
誰のことなのか、何をされたのか。その先は教えてもらえなかった。
だから学校で魔女の噂を耳にしたとき、ライトは、笑って話していた同級生たちの輪から離れられなくなった。
願いを叶える店があるらしい。
店にいるのは、歳を取らない女らしい。
入った人間は魂を抜かれるのだと、一人が言った。別の一人は、死んだ人にも会えるのだと言った。そこまで聞いて、ライトはつい、どこにあるんだ、と口を挟んだ。
知っている者はいなかった。
「窓がさ、すごく綺麗なんだって。色のついた硝子でできてるんだよ」
それが、一番マシな手掛かりだった。
学校の帰りには一本違う道を歩き、買い物のついでには店の窓を覗いた。見つかるのは酒屋の緑の瓶や、菓子屋の飴細工ばかりだった。窓へ顔を近づけすぎて追い払われたこともある。
やがて同級生たちが別の遊びに夢中になっても、ライトだけは、まだ窓を見ていた。
*
その猫を見つけたのは、雨が上がったばかりの午後だった。
学校帰りの道で靴紐を結び直していると、水たまりに白い影が映った。顔を上げると、煉瓦塀の上に猫が座っていた。濡れた塀のどこを歩いてきたのか、銀色がかった毛並みには泥ひとつついていない。
猫が首を傾けた拍子に、その胸元から青い光がこぼれた。
細い革紐に、硝子の飾りが下がっていた。
青の隣に緑があり、細い金色の線がその境を縫っている。小指の先ほどの小さなものなのに、奥にはまだ別の色がありそうだった。ライトが立ち上がって覗こうとすると、飾りは白い毛に埋もれてしまった。
「ちょっと、見せてくれよ」
猫は翡翠色の目でこちらを見た。
それから悠々と立ち上がり、塀の向こうへ降りてしまった。
「あ、おい」
ライトは塀の切れ目へ回った。猫は細い路地を歩いている。追いつこうと早足になると、向こうも少し速くなった。こちらが止まると、振り向く。
「何も持ってないぞ」
しゃがんで掌を見せても、猫は目を細めるばかりだった。馬鹿にされた気がして、ライトは手を伸ばした。
伸ばした手が白い背中に届きかけたところで、猫は身を翻した。鞄を抱え直し、ライトも走りだす。雨樋の下を抜け、家々の間の石段を駆け下りると、急に道が開けた。
足元を、錆びた線路が横切っていた。
枕木の間から草が伸びている。線路は左右の建物の隙間へ続いていたが、その先は蔦や木立に隠れ、どこへ通じているのか分からなかった。少なくとも、ここを列車が走ってくるようには見えない。
猫はレールをまたいだところで、後ろ脚を折っていた。
今なら届く。
ライトは鞄を肩の後ろへ回し、両手を伸ばした。
腕の中に、柔らかな重みが収まった。猫は驚くほどおとなしく、暴れるどころか、彼の袖へ前脚を載せてきた。
「……最初から、そうしてろよ」
息を切らしながら抱き直すと、猫の額が掌に触れた。少し温かい。生き物を抱えていることに今さら気づき、ライトは指の力を緩めた。
「飾りを見たいだけだから」
革紐の先を、指でそっと持ち上げる。
硝子の裏を夕陽が透かした。青と緑の小さな光が掌に落ちる。傾けると光も動いたが、金の線に囲まれた中央だけは、どの角度から見ても奥まって見えた。
もっと近くで見ようとした、そのときだった。
猫の向こうで、何かが光った。
ライトは顔を上げた。
線路を越えた路地の奥に、一軒の店があった。
煉瓦造りの壁には蔦が這い、木の扉の上に、小さな看板が吊られている。屋根の端から落ちた雫が、戸口の石を黒く濡らしていた。窓枠の塗装は剥げ、軒先には古い鳥の巣の跡まである。
けれど、その窓だけが、暮れかけた通りでまだ昼の光を抱えていた。
青い硝子の隣に、赤い硝子がはめ込まれていた。細い縁に隔てられたそれぞれの色が、夕陽を受け、窓の下で重なっている。雨に洗われた石畳には紫が滲み、目地に残った水の中には、小さな金色が揺れていた。
ライトは一歩近づいた。
自分の靴の先が青くなった。さらに進むと、擦りむいた膝に赤い光がかかった。
あの噂を思い出すまでに、少し時間がかかった。
「……魔女の店」
声にすると、胸の内側がきゅっと縮んだ。
ライトは軒先を見上げた。
虹色Café。
風に揺れる看板には、そう書かれていた。
*
腕の中で、猫が身じろぎした。
下ろしてやると、白い脚は音もなく石畳へ着地した。一度こちらを見上げ、店の脇へ歩いていく。ライトは追わなかった。ようやく見つけた窓から、目を離せなかった。
隅の一枚が、少しだけ開いていた。
焼いた菓子の匂いが流れてくる。甘いものに混じって、知らない花に似た匂いもした。近づくと、カップを置く小さな音が聞こえた。
誰かがいる。
ライトは鞄の肩紐を握り直し、背伸びをした。
店の中には丸いテーブルがいくつか並び、その一つに湯気の立つカップが置かれていた。金色の縁を持つ、琥珀色の器だった。奥の棚には硝子の小さな人形が座り、隣には刃まで色硝子でできた短剣が飾られている。
綺麗だが、あれでは何も切れそうにない。
ライトが首を傾げると、棚の人形も同じ方へ顔を向けた。
思わず窓の下へしゃがみ込んだ。
心臓が速くなった。動いた。確かに、動いたはずだ。
しばらく息を殺していたが、店の中から声がかかることはなかった。そっと立ち上がり、もう一度覗く。
人形は小さな脚を垂らして座っていた。首も、腕も動かない。その横で振り子時計が時を刻んでいた。
影だったのかもしれない。
そう思おうとしたが、硝子の刃にまで目があるように感じられ、ライトは一歩離れた。
店に入れば、父のことを聞ける。
扉へ向かいかけたとき、ひとつの答えが浮かんだ。父は生きている。ただ、自分に会いたくないのだと、この店で教えられたら。
母は、父に会えないと言った。死んだとは言わなかった。生きているのなら、道の向こうから歩いてきたっていいはずだった。授業が終わったあと、校門で待っていたっていい。
同級生の一人は、運動会に父親が来るのが嫌だと言っていた。大声で名前を呼ぶから、恥ずかしいのだと。
ライトはそのとき、一緒に笑った。
どんな声でもいいのに、と思ったことは、誰にも言わなかった。
風が通り、首筋に冷えた汗が触れた。
ライトは扉の前へ進んだ。真鍮の取っ手には、幾人もの手が触れて磨かれた、淡い光沢があった。
ここまで来たのだ。聞くだけなら、できる。
手を上げたところで、中から笑い声がした。
若い女の声だった。何がおかしいのか、笑いを抑えようとして、また小さく吹き出している。奥から低い声が何か言い、それに答えて笑っているらしい。
あまりに普通の、楽しそうな声だった。
ライトは取っ手に触れないまま、手を下ろした。
こちらでは、父のことを考えて息も苦しいのに。
扉一枚の向こうでは、誰かが笑っている。その輪の中へ、どうやって入ればいいのか分からなかった。
取っ手から手を引き、窓へ回った。楽しそうな声の主を、せめて見ておきたかった。
黒い髪が顎のあたりで揃えられ、丸い眼鏡に窓の色が映っている。女はカップを持ち上げながら、まだ少し笑っていた。
怖い顔ではなかった。
けれど、母の口からこぼれた「魔女」という言葉を思い出すと、ライトには、その笑顔も信じていいものかわからなかった。
女が顔を上げた。
翡翠色の瞳と、目が合った。
ライトは動けなくなった。
女は驚いたように一度瞬きをした。それからカップを置き、こちらへ身体を向けた。窓越しの少年が何か言おうとしていると気づいたのか、唇に残っていた笑みを収めた。
女は、こちらが何か言うのを待っていた。
ライトは口を開いた。父さん、と言うつもりだった。あんなに何度も胸の中で繰り返したのに、喉が詰まって、息だけが出た。
女の手が窓へ伸びた。
ライトは身を翻した。
鞄が腰にぶつかった。振り返らずに路地を走り、線路をまたごうとして足を引っ掛けた。転びかけた身体をどうにか支え、そのまま石段まで駆け戻った。
上りきったところで壁に手をつく。息が切れていた。猫を追っていたときより、ずっと苦しかった。
何も聞けなかった。
握っていた鞄の紐を離すと、掌に赤い跡がついていた。もう、硝子の色はどこにもない。
ライトは石段の下を見た。ここからでは店は見えず、低い屋根の向こうに、夕焼けの名残りがあるだけだった。
あの人は、知っているのだろうか。
ライトは路地の角にある青い雨樽と、欠けた石段を見直した。明日は、ここまでは迷わずに来よう。聞く言葉も、ひとつだけ決めておこう。
*
虹色Caféの窓が、内側から静かに閉じられた。
夕陽は屋根の向こうへ沈み、石畳に落ちていた色も薄れていた。代わりに店内の灯りがともり、窓の青い硝子の奥へ、小さな星のような光が浮かんだ。
白い猫が、店の脇の塀へ跳び上がった。
首飾りを一度だけ揺らし、少年の去った路地を見ている。
窓の向こうで、女がまだ外を眺めていた。
けれど猫は、その視線には応えなかった。
前脚を持ち上げ、少年に抱かれた胸元をゆっくりと舐めた。




