第8話 渦巻く雲の下へ
守られる側だった少女が、今度は誰かのために動き出す。
体はまだ本調子ではない。それでも、動悸を抱えながら一歩を踏み出す美奈子の姿を、どうか見届けてください。
銀玲が示す先には、渦を巻く黒い雲。
その下で、何が起きているのか——。
喉の奥が、小さく鳴った。
脇出美奈子は電柱の陰でそっと立ち止まり、胸に手を当てて呼吸を整えた。退院してから、まだそれほど日は経っていない。数歩進むだけで息が浅くなる。
立ち止まりたくはなかった。これくらいで休むのは嫌だった。
それでも、胸の奥をきしませる違和感だけは、どうやっても消えなかった。
曇天が、福江市の上に重くのしかかっていた。灰色の雲は分厚く、今にも崩れ落ちてきそうな密度で街を覆っている。風はほとんどないのに、空気だけが妙に張り詰めていた。
清王学園の正門を出た生徒たちは、いつもより早い下校時刻に戸惑いながら、三人、四人と身を寄せ合うように歩いていく。
「小型恐竜って、結局なんなんだよ」
「野犬じゃねえの。動画も加工っぽいしさ」
そんな声が、緊張を薄めるためだけに交わされている。誰も本気で信じてはいない。
それでも普段より足取りは速く、商店の何軒かはすでにシャッターを半分下ろしていた。遠くで救急車のサイレンが二つ、三つと重なり、すぐに雨雲の中へ吸い込まれるように消えていく。
◇
美奈子は、その流れから一人だけ遅れて歩いていた。
人通りが完全に絶えた道で、ふいに空気が水面のように揺らいだ。
淡い銀色の光が集まり、細長い龍の輪郭を静かに結んでいく。銀玲だった。
だが、いつもの銀玲とは様子が違う。
長い尾が落ち着きなく左右へ揺れ、鈴の音が澄んだ音色で途切れることなく鳴り続けている。銀玲は美奈子へ顔を寄せることなく、ある一点――福江東中学校の方角を、じっと見据えていた。
一度、空へ昇りかけては、美奈子がついてきていないことに気づいたように、地面すれすれまで降りてくる。
その動作を、苛立ちにも似た切迫感で何度も繰り返す。
自分の感情ではない。喉の奥に苦いものが上がってくるのを感じながら、美奈子は指先を強く握り込んだ。銀玲自身が、何かに応えようとしている。
耳の奥で、あるはずのない音が重なり始めた。
遠く澄んだ鈴の音。地を揺らすような猛牛の咆哮。大きな翼が空気を打つ音。無数の獣が争う叫び。そこに混じる、人間の悲鳴とも泣き声ともつかない気配。
言葉にはならない。誰が戦っているのかも、誰が傷ついているのかも分からない。
ただ、福江東中学校の周辺に――「恐怖」と「憎悪」と「助けを求める感情」が、一か所へ渦を巻くように集まっているのだけは、はっきりと伝わってきた。
胸が締めつけられ、身体がわずかにふらつく。
銀玲が一瞬だけ美奈子の方へ首を寄せ、気遣うように鼻先を近づける。だがすぐに、また学校の方角へ視線を戻した。
その一瞬の逡巡すら惜しむような仕草に、見過ごせない理由が銀玲の中にもあるのだと、美奈子はようやく思い至った。
◇
このまま一人で走っていくべきか。
美奈子は数秒だけ迷い、結局その考えを退けた。今の自分の体力では、たどり着く前に倒れる。現場で何が起きているかも分からないまま飛び込めば、誰かの足を引っ張るだけになる。
震える指でスマートフォンを取り出し、奈緒先生の番号を呼び出す。
コール音は一度鳴っただけだった。
「奈緒先生。銀玲が、どうしてもあちらへ行こうとしているんです」
電話の向こうは慌ただしかった。紙をめくる音、誰かへ短く指示を飛ばす声。それでも奈緒の声は、美奈子の言葉を聞いた瞬間に鋭さを増した。
「その場を動かないで」
「絶対に一人で行かないこと」
「私が迎えに行く」
短く、迷いのない指示だった。
「私も行きます」
美奈子がそう答えると、奈緒は一拍だけ黙った。頭ごなしに否定はしなかった。
「話は車の中で聞く」
通話が切れる。
十分もしないうちに、黒い車が道の脇へ滑り込むように停まった。
降りてきた奈緒は、まず美奈子の顔色と呼吸を確かめ、それから銀玲の姿に軽く目を見張った。それでも、取り乱すことはなかった。
「乗って」
助手席に美奈子を座らせ、シートベルトを確認してから、奈緒は車を発進させる。
ハンドルを握る指には、いつもより力がこもっていた。唇は固く結ばれ、呼吸もわずかに速い。教師としての冷静さの裏側に、生徒たちを案じる焦りが透けて見えた。
◇
「銀玲が覚醒してから、身体にどれくらい負担がかかってる」
奈緒は前を見たまま尋ねる。
「大丈夫です」
美奈子がそう答えかけた瞬間、それより早く言葉を止められた。
「その『大丈夫』、信用できない」
美奈子は膝の上で両手を組み、言葉を探した。
「でも、私だけ安全なところにいることはできません」
奈緒は返事をしない。指先の冷たさを感じながら、美奈子はそのまま続けた。
友紀たちがこれまで何度も自分を守ってくれた。慎悟たちが今も、危険な場所へ向かっている。
喉の奥が詰まる。それでも、声を止めなかった。
自分だけが家へ帰り、無事を祈るだけでいることに、耐えられない。銀玲が自分を選んだ意味を、まだ何一つ分かっていない。
指を組む力が強くなる。爪が皮膚に食い込む感覚だけが、やけにはっきりしていた。
それでも、自分にも助けられる誰かがいるかもしれない。病気だから何もできないと、自分で自分を決めつけたくない。
声は大きくない。それでも、途切れることなく続いた。
奈緒はしばらく黙って聞いていたが、やがて静かに言った。
「覚悟と無茶は違う」
「自分を壊すことは、誰かを守ることにはならない」
「危険になったら、必ず私の指示に従うこと」
厳しい言葉だったが、突き放す響きはなかった。
「あなたにできることがあるなら、私がそれをさせる。だから、条件を守りなさい」
美奈子はハンドルを握る奈緒の手を見た。かすかに震え、それでも力を緩めない手だった。
大人だから怖くないわけではない。怖くても、責任を投げ出さずにいる。その手の震えが、自分の覚悟とどこかで重なった。
美奈子は小さく頷いた。
◇
車の上空を、銀玲が滑るように飛んでいく。交差点に差しかかるたび、銀色の身体が進むべき方角へ翻る。
信号、濡れたアスファルト、シャッターの下りた商店街。日常が少しずつ後方へ流れていく中、福江東中学校の方角だけ、黒い雲が異様に厚く垂れ込めていた。
鈴の音が、先ほどよりも切迫して届く。猛牛の咆哮も、翼の羽ばたきも、まだ遠く、輪郭を持たない。
それでも、銀玲は単に道を示しているのではない。指先が冷たいまま、美奈子はそう感じていた。どこかで助けを求める声に、応えようとしているのだ。
美奈子は心の中で銀玲へ呼びかけた。
――待っていて。今、行くから。
銀玲が、一度だけ振り返った。
これまで自分は、多くの人に守られてきた。家族も、教師も、友人も、美奈子が傷つかないようにと気を配ってくれた。それはありがたかった。
同時に、自分だけが何も返せず、誰かの重荷になっている苦しさもあった。
守られてきたからこそ、今ここにいる。だから今度は、受け取ったものを別の誰かへ渡したい。
胸の奥が、また鈍く軋んだ。身体が最後までもつかも分からない。現場で何を目にするかも分からない。
それでも、その軋みが治まるのを待って進むのではない。軋みを抱えたまま、それでも進む。
「私にも、できることがある」
声は小さかった。けれど、自分自身へだけでなく、銀玲へ、そして隣で前を見つめる奈緒へ向けた言葉でもあった。
奈緒は何も言わず、ただ小さく頷いた。
銀玲が雲間で低く鳴く。やがて視界の先に、福江東中学校の校舎が見えてきた。
校舎の真上だけ、黒い雲が渦を巻くように集まっている。かすかに、非常ベルらしき音が風に乗って届いた。
奈緒は一瞬だけ唇を引き結び、アクセルを強く踏み込む。
窓の向こうで渦を巻く雲を見上げながら、美奈子は自分に問い続けていた。あの雲の下で、今、誰が傷ついているのだろう。自分は間に合うのだろうか。
第8話をお読みいただき、ありがとうございました。
「大丈夫」と言いかけて止められる場面、美奈子と奈緒先生のやり取りを書きながら、守る側と守られる側、どちらの覚悟も本物なんだと改めて感じました。
「覚悟と無茶は違う」という奈緒先生の言葉は、この章全体を貫くテーマの一つでもあります。
次話「元同級生たち」では、いよいよ福江東中学校で慎悟たち十人が智徳と聖矢に合流し、悪路漢との決着へ向けて動き出します。
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※本作の執筆・編集にはClaude(Anthropic)を補助的に使用しています。世界観・キャラクター設定・最終的な構成判断は作者が行っています。




