第5話 まだ名のない二頭
お待たせいたしました、第5話です。
前話の凄惨な事件のあと、福江の街には重い沈黙が降り続けています。慎悟たちはようやく束の間の再会を得ますが、そこにもまた新しい影が忍び寄っていました。
プラネタリウムのチラシに描かれた、まだ名前のない二頭の獣。そして、後輩たちの口から語られる小さな恐竜の目撃談――。
穏やかな日常の隙間に、次の危機が静かに顔をのぞかせる回です。どうぞ最後までお付き合いください。
画面をロックする指が、動かない。
スマートフォンには、さっき確認したニュースサイトが表示されたままだった。
警察官一人、民間人二人、死亡。犯人は複数人とみられ、現在も逃走中。
何度読み直しても、文字の意味だけが黒く残って、実感の方が薄まっていく。まるで自分が読んでいるのが、遠い国の出来事のように思えてしまう。だがその薄まった実感の底に、決して消えない重さがあることを、慎悟は知っていた。
夕方になっても、福江の空は晴れなかった。灰色の雲の底が、街の上でわずかに明るんでいるだけだった。太陽がどこにあるのかさえ、もう誰にも分からない。
昼過ぎまで容赦なく叩きつけていた雨は、今は細かな霧のような雨へと弱まっている。降っているのか、それとも空気そのものが濡れているだけなのか、判別のつかない雨だった。
舗道は黒く濡れて、街灯や店の明かりを鈍く映し込んでいる。傘を畳んで小走りに駅へ向かう会社員。まだ傘を差したまま、スマートフォンを覗き込む学生。誰もが、三十分前に流れた速報のことなど知らない顔で歩いていた。
慎悟は、その群れの中を無言で歩いていた。
「慎悟くん」
南海の声に、慎悟は我に返った。
「怖い顔、してるよ」
「悪い」
無意識に握っていた拳を、慎悟はゆっくり開いた。指の跡が、手のひらに白く残っている。
友紀が横から、少し強い声を挟んできた。
「だからって、一人で探しに行かないでよね。今日は私も南海もいるんだから」
「分かってる」
答える声が、自分でも曖昧なのが分かった。友紀は唇を軽く尖らせたまま、それ以上は何も言わず、視線だけを前へ戻した。
三人は、遊びのために駅前へ来たのではない。不審な人影、鬼の痕跡、目撃談――そういうものを探すために、雨上がりの街を歩いていた。だが今のところ、見つかるのは濡れたアスファルトと、いつもと変わらない人の流れだけだった。
◇
福江駅西口前ビルに入ると、雨の匂いがふっと薄れた。
自動ドアの向こうは、外の湿った空気とは違う、乾いた冷房の匂いがする。一階のフロアには、家族連れや部活帰りらしい生徒たちがちらほらといた。誰もが、この街で今日、三人が死んだことを知らない。
エントランス脇の掲示板に、色鮮やかなチラシが貼られていた。
「あ、見て」
南海が先に気づき、足を止める。
「プラネタリウムだって」
夏休みに開催される特別催事、『星空を駆ける伝説の動物たち』。
夜空を背景に、いくつもの動物のイラストが並んでいた。輪郭は柔らかく、色は淡く、子供向けの絵本のような優しいタッチだ。今日という日にはあまりに不釣り合いな、平和な図柄だった。
友紀が最初に声を上げる。
「これ、一角獣……私の朱迅に似てない?」
「こっちは山猫。あたしの桃麗みたい」
南海がチラシへ顔を近づける。睫毛の先に、まだ濡れた前髪の雫が残っていた。
慎悟の視線は、自然と中央に描かれた獅子へ吸い寄せられた。金色の鬣が、星の粒を纏うように輝いている。
「獅子まで、いるな」
声が、思っていたより静かに出た。
三人はしばらく黙って、チラシを見つめた。
狼、孔雀、兎、鷲、鶴、白鳥、大熊――蓮、翼、歩美、翔一、綾実、伊織、健太。十彩獣団、十人分の霊護獣が、星座の動物として並んでいる。
「偶然にしては、揃いすぎだよね」
友紀がぽつりと言った。
慎悟は答えず、チラシの端から端までもう一度目を走らせた。催事の日程を見る限り、このチラシは十彩獣団が結成されるよりも前から準備されていたものだ。企画の段階で、誰かが自分たちの霊護獣を知っていたはずがない。
つまりこれは、狙われた偶然ではない。もっと別の何かが、最初から重なっていたのだ。
華やかな夏の広告と、たった今読んだニュースの重さが、うまく噛み合わなかった。
あの遊歩道で死んだ三人にも、きっと今日みたいな夏の予定があったはずだ。誰かと交わした約束や、楽しみにしていた催事のチケットが、鞄の中にしまわれたままかもしれない。
慎悟はその考えを振り払うように、視線を動かした。
「待って。まだいるよ」
友紀がチラシの端を指す。
十体の動物より一回り小さく、しかし確かに星空の一部として描かれた二頭がいた。
茶色い猛牛と、象牙色のペガサス。
星座の隅に、まるで遅れて生まれてきたかのように、ひっそりと配置されている。
「牛と、ペガサス……あたしたちの仲間にはいないよね」
南海が首を傾げた。
「十人分の霊護獣と重なるなら、この二体にも契約する人がいるってことかな」
友紀の問いに、慎悟はすぐには答えられなかった。
チラシの紙面は、ただの広告に過ぎない。それは分かっている。だが十彩獣団の色彩が、こうも正確に星座と重なっているのを見てしまうと、単なる偶然だと切り捨てる勇気が持てなかった。
「偶然かもしれない。でも――霊護獣について、俺たちはまだ何も知らなさすぎる」
美奈子と銀玲のように、自分たち十人以外にも契約者がいる可能性はある。あるいは、まだ誰にも選ばれていない霊護獣が、この福江市のどこかで待っているのかもしれない。
結論は出ない。ただ、偶然と片付けるには出来すぎている、という感覚だけが胸の底に残った。
「……慎悟先輩?」
背後から聞こえた声に、慎悟の肩がわずかに動いた。
聞き覚えのある呼び方だった。振り返ると、買い物袋を提げた二人の少年が立っている。
一人は、中学生とは思えないほど体格のいい少年だった。黒髪の刈り上げ、穏やかな垂れ目を驚きに見開いている。福江東中学校三年、牛山智徳。
その隣に立つのは、手足の長い、日に焼けた活発そうな少年。福江東中学校二年、清滝聖矢だ。買い物袋の口から、スポーツドリンクのボトルがのぞいていた。
「牛山……清滝?」
慎悟が名前を呼ぶと、聖矢の表情が一気に緩んだ。
「やっぱり慎悟先輩だ! うわ、久しぶりです!」
勢いよく駆け寄りかけて、床が濡れていることに気づき、聖矢は慌てて足を止める。滑りかけたその肩を、智徳が後ろから支えた。
「おい清滝。再会一秒で転ぶな」
「転んでません。止まったんです」
「腕振り回してた奴が言う台詞かよ」
変わらないやり取りに、慎悟の張り詰めていた表情が、少しだけ緩んだ。
「牛山、また背が伸びたか」
「もう先輩に追いつきましたよ。たぶん、今は俺の方が二センチくらい高いです」
「二人とも、まだテニス部か」
慎悟が聞くと、聖矢が胸を張った。
「もちろんです。今度こそレギュラー狙ってます」
「狙ってる、じゃなくて狙え。口だけなら誰でも言える」
智徳が横から突っ込みを入れる。息の合ったやり取りは、二年前と何も変わっていなかった。
「二センチなら誤差だろ」
「兄ちゃん、そこ気にするんだ」
友紀がからかい、南海も口元を押さえて笑う。
智徳は慎悟と南海の距離が以前より近いことに気づいたようだったが、余計なことは言わず、静かに頭を下げた。
「坪江先輩も、お久しぶりです」
「久しぶり。二人とも、元気そうで良かった」
「元気だけなら誰にも負けません」
聖矢が胸を張ると、智徳がすぐ横から付け加える。
「その元気を、もう少し考えて使ってくれると助かるんですけどね」
短い笑いが挟まる。だが、それも長くは続かなかった。
智徳がふと周囲を見渡し、警察官や一般客がいないことを確かめてから、声を落とした。考え事をするときの癖なのか、首の後ろを軽くかいている。
「慎悟先輩。ちょっと、聞いてほしいことがあるんです」
慎悟はその声音から、部活の話ではないことを察した。フロアの喧騒が、急に遠のいたように感じられる。
「どうした」
智徳は一度、聖矢と目を合わせる。頷き返されて、覚悟を決めたように口を開いた。
「うちの中学、小さな恐竜みたいなのが出るようになったんです」
再会の柔らかさが、その一言で消えた。
「先生たちは野犬か、大きなトカゲの見間違いだって言ってます。でも、絶対に違います」
「智徳くんは、直接見たの?」
南海の問いに、智徳は首を振る。
「俺は遠くからです。校舎裏を、二本の足で走っていく影を見ました。犬の走り方じゃなかった」
「俺は、もっと近くで見ました」
聖矢が一歩前へ出る。優れた記憶力を持つ聖矢が「見た」と言い切る以上、単なる勘違いとは思えなかった。
「体長は一メートルちょっと。後ろ脚が長くて、前脚は短い。尻尾を地面につけず、身体の後ろへまっすぐ伸ばして走ってました。首は細いのに、口には小さな牙が並んでて……目だけ、赤く光ってました」
友紀が小声で呟く。
「恨卑……それとも、疾牙?」
慎悟は即答できなかった。聖矢の説明は、これまで戦ってきた小型の恐竜鬼とあまりに似ている。
「校庭の隅や、体育倉庫の周りにも変な足跡が残ってます。壁には、爪で引っかいたみたいな傷も」
智徳の声が、いつになく低い。
聖矢がスマートフォンを取り出し、画面を差し出した。雨でぬかるんだ地面に残る、三本指の足跡。体育倉庫の金属扉に刻まれた深い傷。慎悟はそれを拡大し、息を止める。
自然の動物が残す痕跡ではない。爪の間隔も、扉に食い込んだ角度も、生物としての規格から外れている。
「誰も、まだ大きな怪我はしてません」
智徳が付け加える。
「でも、飼育小屋の近くで血の跡が見つかりました。中の動物は、先生たちが別の場所へ移したみたいです」
普段は穏やかな智徳の声が、いつもより低く、硬くなっていた。
「もし、あいつらが動物を襲ったんなら――放っておけません」
「誰かが探ってるみたいだった、ってこと?」
慎悟が尋ねると、聖矢が頷く。
「はい。襲ってくるっていうより……誰がいるのか、調べてるみたいに見えたんです」
断定はできない、と聖矢は前置きしながらも、逃げ道を確かめている、人の集まる場所を探っている、そんな違和感が拭えないのだと話した。
慎悟は、母校が標的にされているかもしれないという可能性に、表情を険しくする。だが、それが誰を、何のために探しているのかまでは分からなかった。
「二人とも、教えてくれてありがとう」
聖矢が慎悟の目を見る。
「先輩、あれが何なのか知ってるんですか」
嘘をつけば、二人をここで守れるかもしれない。だが聖矢は、曖昧な答えで納得する性格ではない。何より、すでに二人の学校で異変は起きている。
「断定はできない。でも、野犬じゃない可能性は高い」
「先輩たちは、同じような奴を見たことがあるんですか」
答える前に、南海が慎悟の袖をそっと引いた。すべてを一人で判断しないように、という無言の合図だった。慎悟は南海と友紀を順に見て、小さく頷く。
「詳しいことは、まだ話せない。ただ、危険な相手だ。見つけても絶対に近づくな」
「でも、誰かが襲われたら――」
「その時こそ、先生に知らせて、俺たちへ連絡しろ」
慎悟は先輩として、少しだけ厳しい声で言葉を止めた。
「助けようとして、お前まで倒れたら意味がない。知らせることも、立派に誰かを守る手段だ」
聖矢は唇を結び、それでも最後には頷いた。
「……分かりました。見たことは、全部伝えます」
「学校で何かあったら、時間を気にせず連絡しろ。小さなことでもいい」
友紀も自分の連絡先を二人へ送りながら、軽口を挟む。
「兄ちゃんが出ない時は私に。集中すると、スマホ全然見ないから」
「おい」
「事実でしょ」
短いやり取りに、少しだけ空気が緩んだ。
南海が最後に、二人へ静かに告げる。
「一人で抱え込まないでね。怖いと思ったら、怖いって言っていいんだから」
智徳が一瞬、視線を落とした。
「……正直に言うと、少し怖いです」
聖矢も笑おうとして、その笑みがわずかに引きつる。
「俺もです。でも、見たものを見なかったことにはできません」
「怖いままでいい」
慎悟は静かに言った。
「無理に平気になる必要はない。ただし、勝手に一人で背負うな」
それは二人へ向けた言葉であると同時に、慎悟自身に返ってくる言葉でもあった。数時間前、自分もまた「一人で探しに行くな」と友紀に釘を刺されたばかりだ。
別れ際、智徳が深く頭を下げる。
「慎悟先輩。また、何かあったら連絡します」
「ああ。頼む」
二人が通路の向こうへ消えていくのを、慎悟は無言で見送った。夕方の雨脚が、少しだけ強くなっている。ガラス越しの街並みが、輪郭を失い始めていた。
「あの二人、大丈夫かな」
南海が呟く。友紀は答えず、チラシの端を見つめていた。
茶色い猛牛と、象牙色のペガサス。
まだ誰にも選ばれていないように見えるその二頭は、しかしすでに、自分たちの契約者へ近づき始めているのかもしれない。友紀も南海も、それを言葉にはしなかった。ただ視線だけが、もう一度チラシの隅へ、静かに戻っていった。
チラシの表面を、一筋の雨粒が伝い落ちる。
紙の中には、澄んだ星空が広がっている。
だがビルの外では、いったん弱まったはずの雨雲が、また静かに集まり始めていた。
何かが、まだ名前を持たないまま、この街のどこかへ近づいている。
第5話、お読みいただきありがとうございました。
今回は戦闘のない回でしたが、その分、慎悟たちの「気づき」を丁寧に描いたつもりです。星座のチラシに紛れ込んだ茶色い猛牛と象牙色のペガサス。誰にも選ばれていないはずのその二頭が、物語の先でどう動き出すのか、ぜひ楽しみにしていただければと思います。
また、牛山智徳と清滝聖矢という新しい顔ぶれも登場しました。二人の何気ない掛け合いの裏に見え隠れする不安、そして「怖いままでいい」という慎悟の言葉に、彼自身の変化も重ねてあります。
次話「甘さの消えた店」では、物語はいよいよ悪路漢たちの側へと視点を移します。閉店したケーキ店に潜む五人の元同級生たちが、何を企てているのか――穏やかだった今回とは一転、緊張感のある回になる予定です。
引き続きどうぞよろしくお願いいたします。感想や評価をいただけますと、大きな励みになります。




