第4話 届いた名前
第4話「届いた名前」をお届けします。
第3話のラストで美奈子が受け取った"残響"――その正体が、この話で少しずつ輪郭を帯びていきます。
雨に濡れた警帽、血の付いた日本刀、そして繰り返される「北潟」という名前。
それは果たして、慎悟個人を狙った脅しなのか。それとも、もっと大きな何かへの――「合図」なのか。
美奈子・綾実・伊織、そして慎悟・南海・友紀。それぞれが抱える恐怖と決意が交差する、静かで重い一話です。
雨音の中でどうぞごゆっくりお読みください。
玄関の引き戸に手をかけた瞬間、指先が止まった。
いつもなら真っ先に届くはずの出汁の匂いが、今日はどこにもない。
代わりにあるのは、湿った空気の底に沈む、何か張り詰めたもの。
「慎悟くん」
南海が傘を畳みながら、小さく声をかけてくる。
慎悟は黙って頷き、靴を脱いだ。
廊下の先、美奈子の部屋の襖は半分開いていた。
中から漏れる明かりは、普段より暗く感じられる。
話し声はない。
ただ、雨が窓を叩く音だけが、家中に響いていた。
部屋に入ると、布団に横たわる美奈子の姿があった。
顔色は青白く、額にはうっすらと汗が浮いている。
枕元には山室綾実が背筋を伸ばして座り、波松伊織がノートにペンを構えていた。
友紀は美奈子の傍らに膝をつき、兄たちの到着を待っていたように顔を上げる。
「兄ちゃん」
その声は、いつもより低かった。
慎悟は布団のそばへ膝をつく。
美奈子はこちらに気づくと、無理に口角を持ち上げた。
「慎悟君、南海ちゃん……ごめんなさい」
「謝ることじゃない」
慎悟はそれだけ言って、それ以上は続けなかった。
言葉よりも先に、美奈子の指先が布団の端をきつく握っているのが目に入っていた。
綾実がノートから顔を上げる。
その動きは普段どおり滑らかだったが、ページを押さえる指の腹に、わずかに白く力が入っていた。
「順番に整理するわ。美奈子の負担にならない範囲で」
伊織が小さく頷き、ペン先を紙の上で止めたまま、次の言葉を待つ。
綾実は静かに一つずつ確認していく。
雨に濡れた警帽。
地面に横たわる男性の姿。
血の付着した日本刀。
複数の少年たちの笑い声。
そして、「北潟」という名前。
「順番も、距離感も、はっきりしないの」
美奈子は布団の中で指先を握りしめながら言った。
「見えたというより、頭の中へ流れ込んできたんです」
その声は、自分の記憶を語っているというより、誰かの痛みをそのまま読み上げているように聞こえた。
「冷たい雨と、鉄みたいな血の臭いと……誰かの怖いって気持ちが、自分のことみたいに……」
言葉が途切れる。
伊織のペン先が、紙の上でほんの一瞬だけ止まった。
すぐに何事もなかったように動き出したが、その一拍の空白に、慎悟は気づいていた。
「声と映像は、同時ではなかったかもしれません」
伊織はそう言って、視線をノートへ戻す。
綾実がそれを受けて、小さく頷く。
「無理に思い出さなくていい。今ある情報だけで十分よ」
美奈子はそれでも何かを思い出そうとするように目を閉じ、また開いた。
慎悟は、自分の中で言葉が組み上がっていくのを感じていた。
警帽。日本刀を持った複数の少年。そして、自分の名字。
鬼が関わっているのは、もはや疑いようがない。
だが、誰の仕業かまでは分からない。
それでも――。
俺を狙っているのなら。
その先の思考は、無意識のうちに友紀や南海の顔を避けて進んでいく。
もし敵が自分を狙っているのなら、二人がそばにいることで巻き込まれるかもしれない。
南海との関係を、敵が知っているとしたら。
友紀という名前すらも、「北潟」の一部として狙われているのかもしれない。
それなら、自分一人で現場を確かめに行く方が安全ではないか。
慎悟の視線が、無意識に玄関の方角へ動いた。
拳が膝の上で固く握られる。
「慎悟くん」
南海の声が、思考を断ち切った。
顔を上げると、南海がまっすぐにこちらを見ていた。
声を荒らげたわけではない。
けれど、いつもの柔らかさとは違う強さが、その一言に滲んでいた。
「今、一人で行けばいいとか考えたでしょ」
すぐには答えられなかった。
南海は慎悟の沈黙を、肯定として受け取ったようだった。
けれど責めるような言い方はしなかった。
「私にも、友紀ちゃんにも、選ぶ権利があるんだよ」
友紀も、兄の表情をじっと見つめている。
何も言わなかったが、その視線は「分かってるよね」と告げていた。
慎悟は喉の奥で言葉を飲み込み、小さく息を吐くことしかできなかった。
その時、綾実のスマートフォンが鋭い通知音を鳴らした。
部屋の空気が一瞬で固まる。
美奈子の肩がびくりと跳ねた。
綾実は画面に視線を落とし、指先だけをわずかに強張らせる。
表情はほとんど動かなかった。
だが、画面をスクロールする指の速さが、いつもよりわずかに遅かった。
「福江市の緊急速報」
短く告げると、画面に表示された文字をそのまま読み上げた。
「福江市内の遊歩道で、警察官一人を含む男女三人が死亡。遺体には刃物や鈍器による激しい襲撃痕。犯人は複数人とみられ、現在も逃走中」
読み終えたあと、綾実の声がふっと止まった。
誰も口を開かなかった。
窓を叩く雨音だけが、急に大きく聞こえる。
時計の音も、部屋の外を歩く誰かの足音も、その雨の音にかき消されていた。
三人が死んだ。
その事実が、それぞれの中へゆっくりと沈んでいく。
数字としてではなく、確かに今朝まで誰かの隣にいたはずの人間として。
やがて、美奈子の呼吸が浅くなった。
「私が……」
布団をつかむ指先が白くなる。
「私がもっと早く分かっていれば……」
声が震えていた。
理屈で考えれば、美奈子が残響を受け取った時点で、事件はすでに起きていた。
それでも、美奈子はその理屈を自分に許せないようだった。
南海がすぐに隣へ座り、美奈子の冷たい手を両手で包んだ。
「美奈子ちゃんのせいじゃないよ」
美奈子は涙の滲んだ目で南海を見る。
「でも、私には見えたのに」
「見えた時には、もう終わってたことなんでしょ」
南海の声は揺らがなかった。
「美奈子ちゃんが見つけてくれたから、私たちは敵が動いてるって知れたんだよ。見つけてくれたから、次を止められるかもしれない」
その言葉は、起きてしまった死を軽く扱うものではなかった。
すでに失われた命を、なかったことにはできない。
それでも、これ以上を失わないために、今ここにいる自分たちに何ができるかを示す言葉だった。
南海自身の声も、わずかに震えていた。
それでも美奈子の前では、その震えを抑え込んでいた。
慎悟はその横顔を見つめながら、また一つ、南海を危険から遠ざけたいという思いが胸の奥で強くなるのを感じた。
同時に、今この瞬間も南海は誰かを支える側に立っている。
守られるだけの存在では、決してない。
綾実が静かに口を開いた。
その声は、先ほどより少しだけゆっくりだった。
「銀玲の力について、少し整理しておきたいの」
慎悟は視線を上げる。
「今回は、刻まれ方が今までよりずっと強かった」
綾実は言葉を選びながら続けた。
伊織が頷き、ノートに視線を落としたまま続きを引き取る。
「美奈子さんの意思とは関係なく、銀玲が拾い上げているのだと思います。前回よりも、届く情報の量が増えている。『読む』力そのものが、育ってきているんだと思います」
慎悟は、降り続ける雨そのものが、記録の媒体になったのかもしれないと考えた。
だが、それを確かめる術はまだない。
「まだ、断定はできない」
綾実も頷く。
「可能性の話よ。でも、無視できる可能性でもない」
美奈子は俯いたまま、小さく呟いた。
「もし、また同じことが起きたら……私、また同じものを受け取るんですよね」
誰も、その問いに簡単な答えを返せなかった。
便利な力などではない。
誰かが殺される瞬間の恐怖と痛みを、自分のことのように受け取ってしまう力だった。
しばらくの沈黙のあと、綾実が顔を上げた。
「もう一つ、気になることがあるの」
その声に、部屋の空気がわずかに張り直される。
「殺すだけなら、『北潟』という名前を何度も口にする必要はない」
慎悟の胸の奥が、冷たく締めつけられた。
「名前を隠す必要すらなかった。むしろ、誰かに聞かせるつもりだったみたいに」
綾実は指先で自分の膝を軽く押さえ、思考を整理するように続けた。
「もし本当に慎悟くんだけを狙っているなら、家族全員の名前を出してもおかしくない。友紀ちゃんの名前も、お母さんの名前も。でも聞こえてきたのは『北潟』の一言だけ」
「それって……」
南海が言葉を挟む。
「狙いは慎悟くん個人じゃなくて、『北潟』っていう――もっと大きな何かってこと?」
綾実は小さく頷いた。
「まだ分からない。でも、名前一つだけを繰り返す言い方は、脅しにしては雑すぎる。むしろ、合図に近い」
「合図」
慎悟が低く呟く。
「痕跡の残し方も、気になっている」
綾実は続けた。
「本気で隠したいなら、遺体も、争った跡も、もっと処理できたはず。なのに、そのまま雨の中に残されていた」
「見せるため……」
伊織が呟く。
綾実は頷いた。
「私たちに届くことを、最初から想定していたのかもしれない。銀玲の力を知っていたかどうかは分からない。でも――」
綾実は言葉を選びながら続けた。
「これは、宣戦布告だったのかもしれない」
部屋の中に、再び沈黙が落ちる。
雨音だけが、その隙間を埋めていった。
慎悟の頭の中に、まだ見ぬ敵の顔が次々と浮かんでは消えた。
次に狙われるのは誰なのか。
今日、この部屋にいる人間の誰かかもしれない。
学校の廊下ですれ違う、まだ名前も知らない誰かかもしれない。
守るべき範囲が、目に見えないまま無限に広がっていく感覚が、腹の底に重く沈んだ。
慎悟は、名前も知らない三人の被害者を思った。
警察官として誰かを守ろうとしていたのかもしれない男性。
何の関わりもなく、ただその場に居合わせただけの男女。
彼らの最後の瞬間に流れ込んだ恐怖を、美奈子は今、自分の身体で受け止めている。
復讐するとは言わなかった。
必ず殺すとも言わなかった。
そんな言葉は、今この部屋にふさわしくない。
慎悟はただ、膝の上の拳をゆっくりと、もう一度握り直した。
「次は止める」
それは誰かに向けた宣言ではなく、自分自身へ言い聞かせる、静かな誓いだった。
だが、止めるべき相手が誰なのか。
次にその手が伸びる先が、どこなのか。
窓を叩く雨音は、その答えを何一つ教えてはくれなかった。
第4話まで読んでいただき、ありがとうございます。
綾実の分析が示す「殺すことが目的ではなく、名前を届けることが目的だったのかもしれない」という違和感。この小さな棘は、これから先の展開に確実に関わってきます。
そして「次は止める」と拳を握った慎悟の誓いは、まだ何も守れていない誓いです。守るべき相手も、止めるべき相手も、姿を見せていません。
次話「まだ名のない二頭」では、これまで断片的に描かれてきた"何か"が、ついに姿を現します。
福江東中学校を舞台に、物語は静かな不安から動へと切り替わっていきます。
引き続きお付き合いいただけたら幸いです。




