第三話 雨に残る声
雨に濡れた記憶は、誰かの声を運んでくる。
見舞いのはずが、少女が拾ったのは"すでに起きた事件"の残響でした。
濡れた警帽、赤く染まる刃、そして―― 一つの名前。
第三話、どうぞご覧ください。
「本当に大丈夫? 無理して笑わなくてもいいんだよ」
友紀が持ってきた果物と飲み物の袋を机に置きながら、美奈子の顔を覗き込んだ。
美奈子の表情が、一瞬だけ止まった。
ほんの数秒。瞬きふたつ分ほどの間。
けれどその静止を、友紀は見逃さなかった。
脇出家の窓を、雨が静かに叩いていた。
指で弾くようなリズムではない。もっと重く、粘っこい梅雨特有の雨音だった。
美奈子は薄手のカーディガンをきちんと羽織り、崩れかけた前髪を指先で直していた。三人を迎える準備を、きちんと整えていた。
「みんなが来てくれたから、今日は本当に元気だよ」
笑顔の奥に、嘘と本音が同居している。
伊織は何も言わず、椅子をそっとベッドのそばへ寄せた。
「疲れたら、すぐ横になってください。話さなくても、一緒にいられますから」
その静かな気遣いに、美奈子の肩からわずかに力が抜ける。
綾実は窓際の椅子に腰を下ろし、湯飲みを持つ美奈子の指先を見ていた。
わずかに、震えている。
呼吸も、笑ったあとにわずかに乱れる。
その乱れは、風邪や寝不足では説明できない種類のものだと、綾実は直感していた。
「体調だけじゃなさそうね」
綾実の声に、美奈子はためらいながら胸へ手を当てた。
「最近、銀玲の声が前より近く聞こえるの」
言葉ではない。
鈴の音。
遠くで水面が揺れる気配。
大きな何かが、水の底で身じろぎする感覚。
雨音の奥に、自分の名前を呼ぶ気配が混じる。
「前は、もっと遠かった。今は……すぐそこにいるみたいに感じる」
友紀の口元がわずかに緩みかけ、すぐに引き結ばれた。
「それって、いいことなんだよね?」
綾実はすぐには頷かなかった。
沈黙が数秒続く。
窓の外では、雨脚がわずかに強まっていた。
「聞こえる時、身体に変化は?」
「少し、頭の奥が重くなる。今日はまだ平気」
伊織は窓の外へ目をやる。
灰色の空が、いつもより低く垂れ込めているように見えた。
そして、その瞬間が来た。
雨粒が窓ガラスを強く叩いた、その刹那。
美奈子の呼吸が、止まった。
湯飲みが、指先から滑り落ちかける。
「美奈子!」
伊織がとっさに支える。
美奈子の瞳は、もう誰も映していなかった。
濡れた警帽。
泥水へ沈みかける、手。
握られたままの、日本刀。
刃の先から滴る、赤。
雨に洗われても消えない、鉄の臭い。
悲鳴。
若い女の悲鳴。
誰かを呼ぶ、声。
倒れる。
雨の上へ、倒れる。
靴音。
複数の。
笑い声。
少年たちの、黒い笑い声。
――北潟。
その名前だけが、雨音より鮮明に響いた。
息が、苦しい。
冷たさが皮膚に貼りつく。
逃げたいのに、足が動かない。
自分の感情ではないはずの恐怖が、胸を満たしていく。
「やめて……っ」
美奈子の喉から、掠れた声が漏れる。
友紀が肩を抱き、伊織が冷えた手を握った。
「美奈子、私の声を聞いて。ここにいるから」
「ゆっくり、息を」
二人の声が、雨の向こうから少女を引き戻す。
荒い呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
それでも耳の奥には、まだ雨音と笑い声が重なって残っていた。
「私……未来を見たの……?」
震える声。
「これから誰かが、殺されるの……?」
伊織が、静かに綾実へ視線を向けた。
「未来が見えたのですか」
短い沈黙。
綾実は、美奈子が口にした断片を頭の中で並べ直していた。
血はすでに雨で薄まっていた。
警帽は、地面に落ちていた。
悲鳴は、事件の始まりではなく、途中から聞こえた。
視点は一人ではない。複数の感情と恐怖が、混ざっていた。
「違う。これは未来ではない。すでに起きた出来事の残響」
綾実の声は、揺るがなかった。
「おそらく、銀玲が雨に残された霊気――誰かの恐怖や、最後の記憶を拾ったのだと思う。だとすれば、これは予知より、もっと重い」
未来ではない。
それでも、安心はできなかった。
すでに、誰かが傷つけられたあとだから。
友紀の指先が、スマートフォンの角を強く押した。
「……北潟」
声にならないまま、名前だけが喉の奥で形になった。
その名前だけが、頭の中で繰り返される。
兄が、狙われている。
迷いはなかった。
友紀はスマートフォンを掴み、画面を叩いた。
呼び出し音が鳴る間、雨が窓を打ち続ける。
◇
公園の東屋。
慎悟と南海は、雨を避けて並んで座っていた。
口づけの余韻は、まだ二人の間にわずかに残っている。
その柔らかな空気を、スマートフォンの振動が断ち切った。
「友紀?」
慎悟が応答すると、妹の声は短く、強かった。
「兄ちゃん、今すぐ南海と一緒にそこを離れて。敵が動いてるかもしれない」
美奈子が見たという、警帽。日本刀。そして「北潟」という名前。
慎悟の表情が、音もなく変わる。
南海は、慎悟の目の動きが一瞬止まったのを見た。ただの友人からの電話ではない。
「行こう、慎悟くん」
慎悟は頷き、東屋を出る。
雨が二人を包む。
その雨は、何も洗い流してはいなかった。
ただ静かに、まだ語り終えていない声を、運び続けていた。
――誰が、狙われているのか。
そして、誰が、すでに斬られたのか。
雨はまだ、答えを教えてくれない。
第三話をお読みいただきありがとうございました。
美奈子が見たものは未来ではなく、雨に刻まれた過去の残響でした。
銀玲という存在が、単なる守護獣ではないことが少しずつ見えてきたと思います。
そして友紀が握りしめたスマートフォンの向こうで、兄・慎悟に危険が迫っていることが告げられます。
次話「届いた名前」では、美奈子が見た断片と、現実に起きた事件がついに重なります。
引き続きお付き合いいただけますと嬉しいです。




