EP 5
「発注できません(残高不足)」
朝、事務所の扉を開けた瞬間にリーザが立っていた。
「マコト様! 投げ銭箱を発注してくださいませ!」
「なんですかそれ」
「私が歌う横に置いておく箱です! 木彫りで、蓋が開いていて、金貨が入れやすい構造の!」
「経費で私物は無理です」
「私物じゃありませんわ! 村の観光資源への設備投資です!」
言い方だけは一丁前だった。前職にもこういう人間がいた。だいたい稟議を三回突き返した。
「却下です」
「うぅ……」
「あと、その理屈で通そうとするのはやめてください。うまくなると危険なので」
その日は、そこまでは、普通の朝だった。
昼過ぎに、悲鳴が聞こえた。
事務所を飛び出すと、村の広場に人が集まっていた。
自警団の若い団員が、二人がかりで担ぎ込まれてくる。まだ十七か十八だ。名前はたしか、トトという。
脇腹が、抉れていた。
革の胸当てごと持っていかれている。血が地面に落ちて、土に吸われていく。
「見回り中に、森の縁で……牙猪が」
「担架を!」
「布持ってこい!」
俺は人をかき分けて、前に出た。
そして、驚くほど落ち着いていた。
(これは分かる)
外傷だ。深いが、内臓までは行っていないように見える。感染が怖い。洗浄と、消毒と、抗生剤。
俺の領分だ。金さえあれば。
発注書を出した。
『抗生物質 内服・広域スペクトラム』
『生理食塩水 500ml ×5』
『消毒液・滅菌ガーゼ・縫合セット』
残高不足。発注できません。
「……は」
俺は書き直した。
『滅菌ガーゼ 一箱』
残高不足。発注できません。
『消毒液 一本』
残高不足。発注できません。
残高、二百二十二円。
うまい棒二十本。
俺の手が、勝手に同じ行を三回書いた。字が乱れていた。
「……なんで」
十二年、俺はこれをやってきた。予算がない案件を、なんとかして通す。それが仕事だった。それだけが、俺にできることだった。
今、それができない。
紙は、事務的だった。
残高不足。発注できません。
「どいてください」
背後から、静かな声がした。
キャルルだった。
手に、青い葉を一束持っている。人だかりが割れる。誰も止めない。
彼女はトトの横に膝をついて、葉を両手で包んだ。
兎耳が、ふわりと持ち上がる。
月も出ていない昼間の広場で、彼女の手の中だけが、白く光った。
葉が溶けて、液体になる。
それを傷口に垂らすと、抉れた肉が、内側から盛り上がるようにして閉じていった。
トトの呼吸が整う。顔に色が戻る。
「……村長」
「よかった」
「ありがとうございます、村長」
キャルルは笑って、立ち上がった。
そして、口元を押さえた。
指の隙間から、赤いものが垂れた。
俺は息を呑んだ。
だが、誰も驚かなかった。
一人が水の入った桶を持ってきた。一人が布を差し出した。おばちゃんが「村長、座ってな」と言った。
全員が、慣れていた。
キャルルは布で口を拭いて、少し赤くなった顔で笑った。
「大丈夫です。すぐ止まりますから」
俺だけが、立ち尽くしていた。
夕方。事務所に、猫が来た。
ニャングルは無言で椅子に座り、煙管をくわえて、火を点けなかった。
「兄さん」
「はい」
「錠前、四十五個。八万一千円やったな」
「……はい」
「あれな、キャルルはんが月光薬を四回作らんで済む金額や」
煙が、出ていない煙管を、猫は指で弾いた。
「良えことしたと思うたやろ。ワテもそう思た。せやけどな、この村では、金が減った分だけあの子の寿命が減るんや。表に出る数字やないから、帳簿に載らん。載らんから、誰も気づかん」
俺は何も言えなかった。
ニャングルは懐から、別の帳簿を出した。表紙のない、薄いやつだった。
投げてよこされたそれをめくって、俺は手が止まった。
数字が、赤い。
去年の分だ。そして、その赤字を埋めている出金元の名前が、全部同じだった。
ニャングル。
「……ニャングルさん」
「言うな」
「これ、あなたの——」
「言うなて言うとるやろ」
猫は、初めて声を荒げた。
「ワテはな、金の亡者や。銅貨一枚でも他人からむしり取る男や。それが信条や。せやけどな——」
歯を食いしばった。
「帳簿に載せられん赤字ばっかりなんや、この村は。あの子が血ぃ吐く分も、団員が自腹で装備買う分も、どこにも載らん。ワテが載せたところで、誰も払えん」
事務所が、静かになった。
俺は、薄い帳簿を閉じた。
そして、言った。
「その帳簿、貸してください」
日が落ちてから、ランプの下で、俺は数字を並べた。
謝らなかった。慰めもしなかった。
やったのは、十二年やってきたことだ。
仕入れ単価を全部書き出す。相場を聞く。支払いのタイミングを確認する。誰が、いつ、誰に、いくら払っているかを、一本の線にする。
魔法じゃない。購買部の仕事だ。
三時間かけて、見つけたのは二行だった。
「ニャングルさん。この、樽の単価」
「四月からのやつやろ。それはもう兄さんが」
「違います。その下。運搬費が、別に立ってます」
猫が身を乗り出した。
「……なんや、これ」
「紹介料込みの単価に上乗せして、運び賃を別で取られてます。二重取りです」
「あのクソ商会……!」
「あと、支払いが即金です。これを翌月末に伸ばせば、手元の現金が一ヶ月分厚くなります。同じ収入でも、動かせる金が変わる」
俺は、合計を書いた。
「年間で、金貨四十枚。加えて運搬費の分で、十二枚」
ニャングルの煙管が、床に落ちた。
「五十二枚……」
猫は、両手で顔を覆った。
「五十二枚あったら……あの子ぉに、何回薬作らせんで済んだ思とんねん……」
しばらくして、ニャングルが顔を上げた。
目が赤かったが、商人の目に戻っていた。
「兄さん。参考までに聞くけどな」
「はい」
「あんたのその【発注】、金さえあったら、なんぼでも出るんか」
俺は少し考えた。
そして、紙に書いてみた。地球で、俺が知っているもの。
医薬品。抗生物質。輸血パック。手術道具。
浄水器。発電機。無線機。
防弾装備。暗視装置。
そして——
書き終えて、俺はその紙を見た。
上限がなかった。
「……金さえあれば、たぶん、出ます」
ニャングルが、その紙を覗き込んだ。
そして、値段の欄を見て、青ざめた。
「兄さん。これ、村が二年黒字続けたら買えてまう額やんけ」
「……ええ」
俺は、自分の書いた数字を見つめた。
「買えますね」
窓の外で、月が出ていた。
キャルルが、あの光で誰かを治すたびに血を吐く、その月だ。
俺は椅子を引いて、立ち上がった。
「ニャングルさん」
「なんや」
「来月から、この村を黒字にします」
猫が、ゆっくりと煙管を拾った。
そして、初めて火を点けた。
「——乗った」
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