EP 2
「肉まん一個、税込180円」
森を抜けたのは、明け方だった。
轍のある道に出た瞬間、俺は本気で泣きそうになった。人が通っている。道がある。文明がある。
腹が減っていた。
発注書を出す。
発注可能残高:5,192円
『肉まん』と書きかけて、手が止まった。
(待て。次に人と会うのが今日とは限らない。飲料水の確保も未定。食料の発注は、拠点が見えてからだ)
十二年染みついた癖が、俺の指を止めていた。
紙をしまう。腹の虫が鳴った。
そのとき、悲鳴が聞こえた。
道の先を覗くと、女が走っていた。
青みがかった長い髪。露出した肩や腕が、朝日に当たって魚の鱗みたいにチラチラ光っている。裸足だ。左の脛から血が流れている。
追っているのは男が三人。革の鎧。鉈と、剣。
俺は木の陰にしゃがみ込んだ。
(無理だ)
三十五歳。運動歴なし。武器なし。残高五千百九十二円。
相手は三人。武装。土地勘あり。
冷静な現状把握の結果は一つだった。今すぐ来た道を戻れ。あの女には悪いが、俺には彼女を助ける予算も装備も筋力もない。
俺は膝に手をついて、立ち上がろうとした。
その瞬間、女が転んだ。
派手に。顔から。
普通ならそこで終わりだ。諦めて、丸まって、目を閉じる。
でも彼女は、砂まみれの顔を上げて、両手で地面を掻いて、また前に進み始めた。
匍匐前進みたいな、無様な這い方だった。
(……ああ、くそ)
俺は自分の膝を叩いた。
(納期は? 三十秒。予算は? 五千百九十二円。責任者は? ……俺だ)
久しぶりだった。責任者の欄が埋まっているのは。
道の一箇所が、木に挟まれて細くなっている。追っ手は必ずそこを通る。
俺は発注書に書いた。
『トラロープ 二十メートル』
ポン、と黄と黒の縞模様のビニール紐が落ちてきた。三百八十円。
震える手で、木と木の間、地面から三十センチほどの高さに、二本張った。腰を落として、目立たないよう草の中に隠す。
『自動車用 発煙筒 二本』
千三百二十円。オレンジ色の筒。
『呼子笛 一個』
三百三十円。金属の、警備員がぶら下げているやつ。
『催涙スプレー 一本』
千七百八十円。これが一番高い。
発注可能残高:1,382円
残り千三百八十二円。
俺は木の裏に潜んで、発煙筒のキャップを外した。
女が細道に飛び込んできた。俺は手を伸ばして、彼女の腕を掴んで引き倒した。
「ひっ——」
「静かに」
口を塞ぐ。彼女の目が、間近でこちらを見た。
きれいな目だった。海の底みたいな色をしていた。
追っ手の足音が近づく。
俺は発煙筒を擦って、道の中央へ放った。
ボッ。
真っ赤な煙が、噴き上がった。
朝の風に乗って、細道が一瞬で赤く塗り潰される。
「なんだ!?」
「火か!?」
先頭の男が突っ込んで、トラロープに引っかかった。派手に転ぶ。後ろの二人が煙の中で見えずに、そいつに乗り上げて折り重なる。
俺は笛を、思い切り吹いた。
ピイッ! ピピイッ! ピイイイイイッ!!
短く二回、長く一回。意味なんてない。でも、規則的な音は、それだけで「合図」に聞こえる。
「合図だ!」
「討伐隊か!?」
「誰か呼んでやがったのか!」
俺は木の裏で、もう一本の発煙筒を、今度は道の奥に向かって投げた。挟まれたように見えるはずだ。
一人が煙の中からこちらへ手を伸ばしてきた。
俺は無言で、その顔面に催涙スプレーを噴射した。
「ぐぁあああッ!」
「囲まれてる! 引け! 引けッ!」
足音が遠ざかっていった。
煙が薄れるまで、俺たちは草の中で息を殺していた。
倒す必要はない。追う必要もない。
発注したのは勝利じゃない。あいつらが「勝てない」と勘違いする状況だ。
安いもんだ。三千八百十円。
「……あの」
女が、恐る恐る俺を見上げていた。
「い、今の魔法……ですか? すごい爆炎と、それに三方向からの部隊の合図……あなた、もしかしてすごく偉い方?」
「事務です」
俺は発注書に書いた。
『消毒液・滅菌ガーゼ・包帯セット』
九百八十円。
「脚、見せてください。石で切ってますね。深くはないけど、汚れが入ってる」
「え、あ、ちょっ」
「動かないで」
洗って、消毒して、ガーゼを当てて、巻く。会社の防災訓練で毎年やらされたやつだ。あの研修、初めて役に立った。
女がぽかんとしていた。
俺は最後に、もう一行書いた。
『肉まん 一個』
湯気の立つ白いそれを、押しつける。
「食ってください。走れないでしょ、腹が減ってると」
発注可能残高:222円
女は肉まんを両手で受け取って、しばらく見つめて、齧りついた。
そして、ぼろぼろ泣き始めた。
「あっつい……美味しい……ひさしぶりに、あったかいの、食べた……」
俺は何も言わずに、残高の表示を見ていた。二百二十二円。
明日の飯がない。
「あの……お名前は」
「大野誠です」
女はガバッと顔を上げた。涙で濡れた目が、なぜかキラキラと、金貨みたいな輝き方をした。
「マコト様ぁ……! スポンサー様ぁ♡」
「投資じゃないです。経費です」
「リーザです! リーザ・シェルフィーヌ! 私、この先のポポロ村ってところに顔が利くんです! 助けてもらったお礼に、口利きします! ……たぶん!」
「たぶん」
「たぶん!」
自信満々に胸を張られた。
俺は空を見上げた。
残高、二百二十二円。
「……とりあえず、行きます。飯代を稼がないと死ぬので」
読んでいただきありがとうございます。
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