第一章 「予算がないので、帰ります」
「予算がないので、帰ります」
「大野くん、これ明日までね」
金曜の午後八時。課長は鞄を持って立ち上がりながら、俺の机に発注書を置いた。
「予算? なんとかしてよ。いつもみたいに」
いつもみたいに。
その一言を、俺は十二年間聞き続けてきた。
大野誠、三十五歳。中堅メーカーの購買部で、ひたすら発注書を書く仕事をしている。予算のない案件に単価を合わせ、無茶な納期を業者に頭を下げて縮めてもらい、責任の所在が曖昧な稟議に判を押してきた。
課長の背中が消えたあと、俺は発注書を見た。
見積もりは取られていない。相手先の与信も確認されていない。予算枠は、去年の残りをかき集めてもまだ足りない。責任者の欄は空欄だった。
俺はそれを、いつもみたいに通した。
終電のロングシートで、俺は自分の手を見ていた。
指先が震えている。寒いわけじゃない。
もう何ヶ月も、こうなっていた。
(明日、行けるかな)
そう思った瞬間、自分でも驚くほどはっきりした答えが返ってきた。
——行けない。
「あー、酒ぇ……」
隣から、しみじみとした声がした。
見ると、ヨレヨレの芋ジャージを着た女が座っていた。足元は健康サンダル。手には缶ビール。終電で堂々と飲むな。
女は俺のほうをチラリと見て、ものすごく嫌そうな顔をした。
「うわ。あんた、顔ひどいわね」
「……放っといてください」
「働きすぎよ。目が死んでるもん。あー、やだやだ。私も残業みたいなもんだけどさぁ」
女は缶を傾け、大きなため息をついた。
「ねえ。人生やり直してみる?」
俺は答えなかった。
こういう時、車内でヤバい人に絡まれたら反応しないのが正解だと、社会人十二年目の経験が告げていた。
「無視すんなー! こっちだって予算獲得のために必死なんだから! 上が視聴率視聴率うるさくてさぁ!」
「予算」
その単語にだけ、俺の口が勝手に反応した。
女がニヤリと笑った。
「食いついたわね」
「……あなた、どこの部署ですか」
「創造神」
俺の目の前に、白い紙が一枚浮かんだ。
見覚えのある書式だった。あまりにも見覚えがあった。
社内で使っている、発注書のフォーマットだった。
「はい、ユニークスキル【発注】。書いたものが地球から届くわよ。じゃ、いってらっしゃい」
「待——」
視界が、真っ白になった。
土の匂いで目が覚めた。
木。木。木。空が高い。アスファルトが、どこにもない。
俺は鞄を抱えたまま、森の中に座り込んでいた。
「……はぁ」
不思議と、驚かなかった。
疲れすぎている人間は、驚くという行為にもエネルギーを使えない。
とりあえず現状把握だ。俺は鞄を開けた。ノートパソコン。充電器。ペットボトルの緑茶が半分。折り畳み傘。財布。
そして、白い紙が一枚、勝手にふわりと浮かび上がった。
例の発注書だった。右上に一行、事務的な表示がある。
発注可能残高:8,432円
「……は?」
八千四百三十二円。
俺は財布を開いた。八千円札……はないので、五千円札が一枚、千円札が三枚、小銭が四百三十二円。
ぴったり同じだった。
つまり、これは俺の金だ。
異世界に飛ばされて、神から授かった力の予算枠が、今日の俺の財布の中身。
「予算組んでから寄越せよ……」
グルルル、と背後で音がした。
振り返ると、緑色の小柄な何かが、鉈を持って涎を垂らしていた。
ゲームでしか見たことがない造形だったが、こちらを見る目の温度で、話し合いの余地がないことは分かった。
俺は震える手で、発注書に書いた。
『聖剣』
残高不足。発注できません。
「そうですよね」
『防弾チョッキ』
残高不足。発注できません。
「ですよね!」
ゴブリンが、じり、と足を踏み出した。
心臓が、喉のあたりで鳴っている。
(落ち着け)
十二年、俺は何をしてきた。
予算がない。納期がない。責任者がいない。その状態で、それでも回るものを探して、通してきた。
(予算内で。今できる範囲で。最善を)
俺は書いた。
『軍手 一双』
ポン、と手のひらに落ちてきた。滑り止めのイボがついた、どこのホームセンターにもある百十円の軍手。
続けて書いた。
『防犯ブザー 一個』
『ヘッドライト 一個』
『虫よけスプレー 一本』
合計、三千二百円ほど。
俺は軍手をはめ、右手に落ちていた太い枝を握った。素手だと、たぶん皮がめくれる。
ゴブリンが跳んだ。
俺は防犯ブザーのピンを、思い切り引き抜いた。
ピイイイイイイイイイイイイイッ!!!
森が、悲鳴を上げたような音だった。
ゴブリンが空中で身をよじり、耳を押さえて地面を転げ回る。
その顔面に、俺は虫よけスプレーを全力で噴射した。
「ギャアアア!」
目を押さえてのたうつ相手の膝の裏を、枝で思い切り払う。倒れた。
止めは刺さなかった。
ブザーを鳴らしたまま、その辺に放り投げて、俺は逆方向に走った。
音源から一番遠い場所へ。ヘッドライトを点けて、視界を確保しながら。
倒す必要はない。発注しているのは、勝利じゃなくて撤退の時間だ。
どれくらい走ったか分からない。
木の根元にへたり込んで、俺は膝に手をついて息をした。緑茶を飲んだ。ぬるかった。
残高を見る。
発注可能残高:5,192円
生き延びるのに、三千二百四十円かかった。
俺は笑った。声を出して笑った。多分、少し壊れていた。
でも、指の震えは止まっていた。
十二年ぶりだった。
「……ああ」
見上げると、木々の隙間から、見たこともない大きな月が出ていた。
そこで俺は、はっきりと決めた。
「もう、無理はしない」
誰も聞いていない森の中で、俺は声に出した。
「予算のない仕事は、受けない。責任者のいない案件は、通さない。金の裏付けがない計画は、止める」
十二年かけて、俺を壊したもの全部の逆をやる。
「それでも死ぬなら、その時は死ぬ」
立ち上がって、発注書を鞄にしまった。
腹が減っていた。とりあえず人のいる場所を探そう。
軍手はまだ、はめたままだった。
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