第六章「神官を探して」
朝の務めを早めに切り上げて、私はラウィスと迷宮の口の近くで待ち合わせた。
神官を探す日だった。本職の、まともな神官を。中級の依頼に潜るには、それがいちばん要るのだと、ラウィスは言った。前で受けるやつと、後ろから射るやつと、それから本職の神官。怪我をその場で治せる神官がいなければ、話にならないのだと。
──私では、足りない。それは私も分かっていた。
私は見習いだった。
止血と痛みを和らげるのと、熱を下げるくらい。重い傷は治せない。毒も駄目だ。中級の魔物がどんな怪我を負わせるのか、私はよく知らない。
けれど浅いところの狼でさえ、塞がらない傷でできていた。その下のもっと深いところにいるものは、もっとひどい傷を負わせるのだろう。それを治すには見習いの初級では届かない。
だから、本職を探す。私のできないところを、埋めてくれる人を。
「神官って、どこにいるんだろうな」
ラウィスが歩きながら言った。
「教会、行けば、いるのか?」
「教会の神官さんは……たぶん、迷宮には、降りないと思う」
私は言った。教会の神官は街の人の病や怪我を診る。
冒険者として迷宮に潜る神官は、それとは別だった。教会の務めとは別に依頼を受けて、パーティに加わる。そういう神官が、どこかにいる。けれど、どこにいるのか。私にもよく分からなかった。
「ギルドで、聞いてみるか」
ラウィスが言った。私は頷いた。
◇◇◇
ギルドの掲示板の前に、一人、立っている人がいた。
胸元に聖印を着けていた。私のものよりずっと立派な、本職の印だった。白い布ではなく、銀の縁取りのある、しっかりしたものだ。年は三十くらい。落ち着いた様子で、依頼の貼り紙を一枚ずつ見ていた。
ラウィスがその人に近づいた。
「あの、すみません。神官さん、ですよね」
その人が振り向いた。私とラウィスを順番に見た。それから、私の胸元の見習いの印に目を留めた。
「俺たち、駆け出しで。中級の依頼に潜ろうと思ってて。でも神官がいなくて。──もし、よかったら」
ラウィスがそこまで言うと、その人は軽く首を振った。
「悪いけど」
その人が言った。
「駆け出しのお守りは、しないんだ。中級だろう? あんたたちの装備で。──やめときな」
声に棘はなかった。ただ当たり前のことを言っているだけ、という声だった。その人はそれだけ言うと、また掲示板のほうへ向き直った。話は終わりというふうだった。
ラウィスは何か言いかけて、けれど言えなかった。
「……はい」
ラウィスはうつむいた。私たちはその人の背に向かって頭を下げて、掲示板の前を離れた。
少し離れたところで、その神官がふと振り返った。
それから私のほうへ歩いてきた。私はまた何か言われるのかと身構えた。けれど、その人は腰の小袋から小さな丸いものを一つ取り出して私の手のひらに載せた。
飴だった。
色のついた丸い飴。子供が屋台で見上げているような、ただの飴だった。
「見習いか」
その神官が言った。
「無理は、するなよ。あんたが無理をすると、その兄ちゃんも無理をする。──そういうもんだ」
その人はそれだけ言うと、もう振り返らずに、ギルドの外へ出ていった。私は手のひらの飴を見ていた。なぜ飴なのか分からなかった。断っておいて、飴を一つくれる。妙な人だった。けれど、その人の言ったことは、なんとなく胸に残った。
「なんだ、あの人。断ったくせに」
ラウィスが口を尖らせた。
「飴なんか、子供じゃないんだから」
私はその飴を、治癒の道具の小袋にそっとしまった。食べる気にはならなかった。なぜか食べずに、取っておきたかった。
私が本職の神官だったら、と思った。
そうしたら、ラウィスはこんなふうに頭を下げて断られなくて済むのに。私がもっと力があれば。重い傷も治せれば。
──そうしたら、誰かを探す必要なんて、なかった。私がラウィスの隣でぜんぶ治せた。けれど、私は見習いだった。私の手では足りない。だから、こうして私たちは頭を下げて回る。
◇◇◇
別の神官は、もっと素っ気なかった。
ギルドの紹介で、宿の一室に本職の神官がいると聞いて訪ねた。扉を叩くと、中から女の神官が出てきた。私よりいくつか年上の、しっかりした人だった。私たちが用件を言うと、その人は私とラウィスを上から下まで見た。
「中級? あんたたちが?」
その人が言った。
「組むのはいいけど。前金は払えるの」
「前金……」
ラウィスが聞き返した。
「依頼の報酬は、潜って帰ってきてからでしょ。でも私が組むなら、先にいくらかもらうの。中級は命がけだもの。死んだら、報酬も何もないんだから。──前金が要るのよ。それが相場」
ラウィスが黙った。
私にはその金額が頭の中ですぐに計算できた。ラウィスの家の母の薬代。弟の靴。家のみんなの毎日の飯。それに、私の家の父と妹のぶんも。──そこに、前金。払えるわけがなかった。
中級の依頼で稼ぐために潜るのに、潜る前に先に、お金を払う。そんなお金は、どこにもなかった。
「……今は、ちょっと」
ラウィスが言った。
「依頼で、稼いだら、必ず、払います。だから、その、後払いで……」
「後払いは、しないの」
その人ははっきり言った。
「あんたたちが帰ってこなかったら、誰が払うの? ──悪いけど。前金がないなら、無理よ」
扉が閉まった。
私たちは宿の薄暗い廊下に、二人で残された。ラウィスはしばらく閉まった扉を見ていた。それから小さく息を吐いた。
「……前金、か」
ラウィスが言った。
「そんなのあったら苦労してないよな」
私は何も言えなかった。前金があれば母の薬も弟の靴もとっくに買えていた。私たちが中級の依頼に潜ろうとしているのは、まさにそのお金がないからだった。お金がないから潜る。けれど潜るにはお金が要る。
お金は入口で、私たちをまた押し返した。
◆◆◆
ギルドの前の、広場に出たときだった。
ラウィスがふと、立ち止まった。広場の、隅のほうを見ていた。
「あれ」
ラウィスが言った。
「あいつ……あの時の」
私はラウィスの見ているほうを見た。
広場の隅に若い人が一人立っていた。革鎧の上に、丈の長いローブを羽織って、腰に細い杖を提げていた。鎧が体に合っていなかった。肩のところが、少し浮いていた。
その人はギルドの掲示板を外から覗き込もうとしては、また引っ込めていた。中に入ろうかどうしようか、迷っているように見えた。
「酒場で会ったやつだ」
ラウィスが小声で言った。
「ほら、前に言った。一人で、酒場に、入れずにいた、あいつ」
ああ、と私は思った。ラウィスから聞いていた。中級の依頼の貼り紙を見に行った酒場で戸口で入りあぐねていた人がいた、と。ラウィスが肩を押して中に入れてやった、と。同じ駆け出しの頼りない感じの人だった、と。
──その話を私は聞いていた。けれど、その人を見るのは初めてだった。話の中の人は酒場の戸口で入りあぐねていた。いまはギルドの前で同じことをしていた。
ラウィスがその人のほうへ歩いていった。
「おい」
ラウィスが声をかけた。
「あの時のだろ。酒場の」
その若い人が振り向いた。それから、ラウィスの顔を見て、ぱっと表情を明るくした。
「あ……ラウィス、さん」
その人が言った。
「この前の。──覚えて、くれてたんですか」
「ああ、まあ。──ええと」
ラウィスが言いかけて止まった。少し考えるような顔をした。
「ファ……ファビウスだっけ」
「はい。ファビウスです」
「そうそう、ファビウス」
ラウィスが言った。私は横でそれを聞いていた。ラウィスはたぶん半分、名前を忘れかけていた。酒場で会ったときも、たぶんちゃんと覚えなかったのだ。
ラウィスはそういうところがあった。頭の中が別のことでいっぱいだと、人の名前なんてすぐ抜けてしまう。あの酒場のとき、ラウィスの頭の中は中級の依頼のことでいっぱいだったのだろう。
それでも顔は覚えていた。あの時の、と。
私はそのファビウスという人を見た。
近くで見ると、ラウィスより年下に見えた。私より下かもしれない。気の弱そうな顔をしていた。ラウィスに名前を呼ばれて嬉しそうにしながら、それでもどこか落ち着かなかった。
手がしきりに腰の杖に伸びる。杖を握って、それから革鎧の合わせのところに手をやって、また離す。何か確かめているような手つきだった。けれど、確かめても確かめても、しっくりこないというふうだった。
ラウィスの剣の柄を握る癖とは違う、と私は思った。
ラウィスの柄は握りきれないけれど、それでもラウィスの手に馴染もうとしていた。──このファビウスという人の確かめる手には、そういう馴染みがなかった。杖も革鎧も、まだこの人の体に馴染んでいなかった。握る場所を探しているような手つきだった。
「ファビウスさん」
私は言った。
ファビウスが私のほうを見た。それから、私の胸元の見習いの印に気づいた。
「あ、神官さん……?」
「見習い、です。ミラ、です。ラウィスとは、幼馴染で」
「ミラ、さん。──よろしく、お願いします」
ファビウスが頭を下げた。律儀な人だった。私も頷いてから、頭を下げた。
「ファビウスはこれからどうすんだ」
ラウィスが聞いた。
「仲間とか、見つかったのか」
「いえ……まだ。一人で。──誰を誘えばいいのか、まだよく分からなくて」
ファビウスが言った。語尾を濁して、自分の足元を見ていた。
ラウィスが私のほうを見た。
私もラウィスを見た。──言わなくても、分かった。中級に潜るには、人が要る。前で受けるやつと、後ろから射るやつと、神官。私たちは人を探していた。このファビウスは、一人で、仲間を探している。だったら。
私とラウィスは、目だけで、そう、確かめ合った。子供のころから、ずっとそうだった。言葉にしなくても、ラウィスが何を考えているのか、私には分かる。私が何を考えているのか、ラウィスにも分かる。
「ファビウス」
ラウィスが口を開いた。
「お前、灯火と、火が、使えるって、言ってたよな。──俺たちと、組まないか。中級、目指してるんだ」
ファビウスが顔を上げた。
その上げた顔がぱっと明るくなった。ラウィスを見て、それから私を見た。
──そのとき、私はファビウスが小さく頷くのを見た。私たちが目で確かめ合ったのを、ファビウスは横で見ていた。
そして、その私とラウィスの言葉にしない頷きに、まるで自分が頷き返すみたいに、ファビウスも頷いた。誘われたのが自分だと分かる前に。私とラウィスの、二人だけの目の合図に、つられたように。
「……いい、んですか」
それからファビウスが言った。
「俺なんかでいいんですか」
「いいに決まってるだろ」
ラウィスが笑った。
「人手は、多いほうがいい。お前、火、使えるんだろ。心強いよ」
ファビウスの目が潤んだように見えた。それから何度も頷いた。ありがとう、ございます、と小さく繰り返した。ずいぶん嬉しそうだった。
一人でいたのだ、と私は思った。一人で酒場の戸口で入りあぐねて、誰を誘えばいいかも分からずに。そこへラウィスが声をかけた。あの時、肩を押してもらったその人が今度は組まないかと言った。ファビウスにとって、それはたぶん大きなことだった。
私はファビウスの、その顔を見ていた。
杖を握る手も革鎧を確かめる手も、まだ収まる場所を見つけていない手だった。
そしていま、その手が少し落ち着いて見えた。ラウィスに声をかけられて。肩を押してくれたラウィスに。──それはなんだか見ていて危なっかしくて、けれど放っておけない感じだった。私がラウィスを放っておけないのと、少し似ていた。
◇◇◇
ファビウスが加わっても、神官探しはうまくいかなかった。
ラウィスと私とファビウス。三人になった。けれど本職の神官は、相変わらず見つからなかった。ラウィスはギルドの窓口に、仲間を募る貼り紙を出してもらっていた。
前で受ける者。後ろから射る者。それから、神官。──その貼り紙を見て、弓を使う若者が一人、声をかけてきた。それで四人になった。それでも神官だけは、いなかった。
四人である本職の神官に声をかけたとき、その人は私たちをぐるりと見回して言った。
「子供ばっかりじゃないか」
その人は笑った。馬鹿にした、笑いではなかった。ただ呆れたような笑いだった。
「前衛が、お下がりの剣の坊や。神官が、見習い。射手と火種持ちが、またおまけみたいなのが二人。──これで中級? 死ににいくようなもんだ。本職の神官が、こんなのに組むわけ、ないだろう」
その人も断った。
私たちはまた頭を下げて引き返した。人数は増えた。けれど増えれば増えるほど、本職の神官が要るのだということがはっきりしてきた。
四人いても、ぜんぶ駆け出しだった。誰も中級の怪我を治せない。前で戦う者がいて、後ろから射る者がいて、火を出せる者がいても、その誰かがひどい怪我をしたときその場で治せる神官がいなければ何もならない。
私では、足りない。
それがまた、突きつけられた。人数が増えても、いちばん要るものが、いちばん見つからなかった。技は買えない。お金で人を雇うこともできない。私が本職になることもできない。足りないものは、足りないまま、私たちの真ん中でずっと空いていた。
◆◆◆
弓を使う若者はアレクといった。
ファビウスとはずいぶん違う感じの人だった。ファビウスより年上で、口数が少なく落ち着いていた。私たちが神官探しのことを話してもふうんと言うだけで、あまり何も言わなかった。
ギルドの隅で、アレクは弓の弦を点検していた。
指で弦を軽く弾く。それから矢筒の矢を一本ずつ確かめる。手慣れた、無駄のない動きだった。ファビウスの落ち着かない手つきとは、まるで違った。アレクの手は、自分の道具をよく知っていた。
「アレクさんも、中級、目指してるんですか」
私は聞いた。
「分かってる」
アレクが言った。
それだけだった。私は頷いて、それ以上は聞かなかった。
「アレクは後ろから、射るやつだ」
ラウィスが嬉しそうに言った。
ラウィスは前から言っていた。中級には、前で受けるやつと、後ろから射るやつが要る、と。ラウィスが前で受ける。アレクが後ろから射る。──それで二つ埋まったというふうに、ラウィスは言った。あと神官さえいれば。
ラウィスの頭の中では、もうパーティの形ができあがりつつあるようだった。前で、ラウィス。後ろで、アレク。火を、ファビウス。──そして、神官。本職の。それだけが、まだ空いていた。
アレクは弓を下ろして、私たちを見た。
「神官は」
アレクが言った。
「いないと、潜れない」
それだけだった。けれど、それがいちばん確かなことだった。私たちはいちばん要るものを、まだ見つけていなかった。
◆◆◆
その日の夕方、ギルドの窓口に寄った。
明日の依頼の相談をするためだった。ラウィスが中級の依頼のことを窓口の人に聞いておきたい、と言った。窓口には、ティルダさんがいた。
ティルダさんは私たちが登録した日と同じように机に向かって、書きものをしていた。私たちが近づくと、顔を上げた。
「あら。ラウィスと、ミラ」
ティルダさんが言った。それから後ろのファビウスとアレクに目を留めた。
「と……お友達?」
「仲間だよ」
ラウィスが胸を張った。
「パーティ、組むんだ。中級、目指して」
ティルダさんの、手が止まった。
羽根ペンを机に置いた。それから私たちを一人ずつ見た。ラウィス。私。ファビウス。アレク。──ティルダさんは何か言おうとして、けれどすぐには言わなかった。
その間が、いつもより長かった。
「中級って」
ティルダさんが言った。声が低かった。窓口の、くだけた声では、なかった。私たちが登録した日の、あの、低い声だった。
「二層から、下でしょう」
「ああ。でも、いちばん浅い、中級だ。それに、人も、集めてる。ほら、四人になった。あとは、神官だけ──」
「ラウィス」
ティルダさんがラウィスの言葉を遮った。
「また、背伸びを、するんじゃないわよ」
私はその言葉を聞いた。
登録した日にも、ティルダさんは同じことを言った。同じ言葉が、あのときより、重く聞こえた。
「背伸びなんか、してないって」
ラウィスが口を尖らせた。
「ちゃんと考えてるよ。人も集めて、準備もして」
「あなたたちの、装備で。あなたたちの、腕で。──二層に潜るのが背伸びじゃないの?」
ティルダさんが言った。
ラウィスは何か言い返そうとした。けれどティルダさんの、その低い声の前で口をつぐんだ。
ティルダさんは元は冒険者だったと聞く。右の脚を悪くして引退した。だからティルダさんは知っているのだ。中級がどれくらい危ないのか。駆け出しが欲を出して潜ってどうなるのか。私たちよりずっとよく、知っている。
ティルダさんは机の上の台帳を開いた。
それから、机の隅に二つ並んでいるインク壺に手を伸ばした。一つは黒いインク。もう一つは赤いインクだった。ティルダさんの指が、その二つの壺のあいだで、一度だけ、揺れた。どちらのインクも取らなかった。指は宙で少し迷って、それからまた机の縁へ戻った。
私はその、ティルダさんの指を見ていた。
なぜティルダさんがそんなふうに指を迷わせたのか、私には分からなかった。黒いインクと、赤いインク。台帳に何かを書くつもりだったのが、やめたのか。それともただ、手持ち無沙汰に動いただけなのか。
ティルダさんは何も言わなかった。ただ私たちを見ていた。その目に、止めたいような色があった。けれど、ティルダさんは止めなかった。止める言葉を持っていなかった。
私たちはもう登録した冒険者だった。どこに潜るかは、私たちが決める。ティルダさんが止める権限は、なかった。ティルダさんにできるのは背伸びをするんじゃない、と言うことだけだった。言葉だけが、宙に残った。
「……気をつけて」
ティルダさんが最後に言った。
「危ないと思ったら、すぐ上がってくる。約束、して」
「分かってるって」
ラウィスが言った。
ティルダさんはそれ以上は言わなかった。ただ私のほうを、一度だけ見た。登録した日と、同じだった。あなたが見ていてあげて、と。言葉にはしなかったけれど、私にはそう聞こえた。私は小さく頷いた。
ラウィスがまた、背伸びを、する。
ティルダさんはそれを心配していた。私も心配だった。けれど私の心の中で、その心配はティルダさんのものとは少し違う形をしていた。
ラウィスがまた、高いところに、手を伸ばす。中級の依頼。私たちにはまだ早いところ。──それは子供のころから私とラウィスが二人で夢みてきた、あの討伐祭によく似ていた。
いちばん高くて、いちばん遠いもの。ラウィスはいつも、そこへ手を伸ばす。そして、私はその隣でラウィスを見ている。
子供のころ、木の剣で遊んだときと、同じように。ラウィスが前で、見えない主に斬りかかる。私が後ろで、傷ついたふりの子に手をかざす。──中級の依頼は、その夢の続きのようだった。私もその隣にいる。同じ夢のすぐ近くにいる気がした。
それが嬉しかった。
ティルダさんが心配しているのに、私はその、ラウィスと同じ夢の近さを、嬉しいと感じていた。私たちはまた、二人で、高いところを、目指している。子供のころと、同じように。
◇◇◇
ファビウスとアレクと別れて、私とラウィスは二人で家への道を歩いた。
ファビウスは明日またギルドで、と言って何度も頭を下げて帰っていった。アレクは軽く手を上げて、別の方向へ行った。残ったのは私とラウィスだけだった。
日が傾いていた。すり鉢状の街の西の縁に、夕日が当たっていた。私たちはその見慣れた道を、二軒隣の家まで並んで歩いた。
「神官、見つからないな」
ラウィスが言った。
「明日も探さなきゃ。──ファビウスとアレクは、いいやつだけど。神官だけは、なあ」
「うん」
私は頷いた。
「やっぱり、本職の人は、駆け出しとは、組んでくれないね」
「だなあ。前金とか、言われたし。──あんなの、あったら、苦労してないっての」
ラウィスが笑った。私も少し、笑った。
しばらく、二人で黙って歩いた。夕日が私たちの影を長く伸ばしていた。前で、ラウィスの影。少し後ろで、私の影。──子供のころから、ずっと同じだった。前で、ラウィス。後ろで、私。
「なあ、ミラ」
ラウィスがふと、口を開いた。
「ん?」
「いや……」
ラウィスが言いかけて、止まった。それから何か言おうとして、けれど言葉を探しているようだった。私は隣で待った。ラウィスが何か言いたいときの顔だった。子供のころから、知っている。何か言いたいのに、うまく言えないとき、ラウィスはこういう顔をする。
「ミラがさ」
ラウィスが言った。
「神官、見習いでも、いてくれて。──その、なんていうか」
ラウィスの声が少し上ずりかけた。それから、ラウィスはふいに、横を、向いた。
「……まあ、その、ちょうど、良いよな。近所だし。幼馴染だし。一緒に、潜れるの」
ラウィスが言った。
ちょうど良い、と。──また、それで覆ったな、と私は思った。
私の手が、動きかけた。
ラウィスの上着の袖がまた少しほつれていた。袖口の糸がほつれて垂れていた。私はそれを見ると、いつも直したくなる。繕ってあげたくなる。──ラウィスのほつれた袖へ、私の手が伸びかけた。
けれど、その手が一度止まった。
伸びかけた手を、私は宙で、止めた。──ラウィスはいま、何か言いかけた。ちょうど良い、という言葉で覆ったけれど、その下に何かあった。私にも何か言いたいことが、あるような気がした。胸の奥が温かくなって、その温かさに何か名前をつけそうになった。いつもとは違う名前を。
私はその手を見た。
宙で、止まっている、自分の手を。ラウィスの袖を、直そうとして、止まった手を。──私はその手を、いつもの側へ、戻した。ラウィスのほつれた袖を、そっと指でつまんで、ほつれた糸を撫でつけた。直す側へ。いつもの、側へ。
「袖、ほつれてる」
私は言った。
「あとで、繕ってあげる」
「あ……ああ。わりい」
ラウィスが言った。少し、ほっとしたような、声だった。
私も少し、ほっとした。手がいつもの側へ戻ると、胸の奥の温かさにも、いつもの名前が戻った。姉が、弟を見るような。そういう気持ちだ。ラウィスのほつれた袖を繕ってあげたいと思うのも、そういう気持ちだ。妹のはだけた肩を直してやるのと、同じ。──私の手は、いつもの側へ戻った。ただ、撫でつけたあと、指の先が、ほんの少し、袖の上に、残った。すぐに、離した。離して、私はまた、いつもの見守る手に戻った。
「……ううん。なんでもない」
私は言った。
「え?」
「ううん。──なんでもない」
私は首を振った。さっき何か言いたくなった、その何かを私は引っ込めた。何を言いたかったのか、自分でもよく分からなかった。ただ、言わずにおいた。言わなくても、よかった。
ラウィスは不思議そうな顔をして、それからまた前を向いて歩いた。私もその隣を歩いた。私たちの影が、夕日の中で長く並んで伸びていた。前で、ラウィス。少し後ろで、私。──いつもの、二人だった。
◇◇◇
二軒隣の、私の家の前まで、来た。
「じゃあ、また、明日」
ラウィスが言った。
「きっと、見つかるって。一人くらい、駆け出しでも、組んでくれる人が、いるはずだ」
「うん」
私は頷いた。
ラウィスはそう言うと、手を軽く上げた。それから二軒隣の自分の家のほうへ歩いていった。私は戸口で、その背中を少しのあいだ見ていた。
ラウィスの背中が、夕日の中を遠ざかっていく。明るい背中だった。明日も、神官を探す。きっと、見つかる、と。ラウィスはそう、信じている。
私は戸を開けて、家の中へ入った。
奥から妹が駆けてきた。お姉ちゃん、おかえり、と言って、私の足元にしゃがみ込んだ。私はその小さな頭を撫でた。それから、ふと自分の手のひらを見た。さっき、ラウィスの袖を直しかけて、一度、止まった手だった。
なんでもない、と私は思った。
手はいつもの側へ、戻った。胸の奥の温かさにも、いつもの名前が、戻った。神官を探す。本職の、まともな神官を。私の、足りないところを、埋めてくれる人を。一人くらい、きっと、いる。ラウィスの言うとおり、きっと、見つかる。
私は治癒の道具の小袋を解いた。
中に、あの神官がくれた飴が一つ入っていた。色のついた丸い飴。断っておいて、飴を一つくれた妙な人の飴だった。無理は、するなよ、とその人は言った。あんたが無理をすると、その兄ちゃんも無理をする、と。
──私はその飴をしばらく見ていた。それからまた小袋にしまった。食べずに取っておいた。
明日、ギルドで。
私はそう思った。ラウィスが別れぎわに言ったわけではない。けれど、私の中でラウィスの声がそう言っていた。明日、ギルドで。神官を探す。妹が私の足にしがみついていた。私はその頭をもう一度撫でた。
◆◆◆




