終章「明日の朝」
朝の早い時間に、妹が起きてきた。
私が竈の前で湯を沸かしていると、寝間着のままの妹が土間の隅までとことこと歩いてきた。
この三月で足音が少し変わった。前はぺたぺたと危うい音をさせていた。今は踵がちゃんと地について鳴る。背丈も、私の腰の少し上まで来るようになった。半分しか開いていない目で私を見上げて、妹は言った。
「お姉ちゃん、おはよう」
「おはよう」
私はそう言った。妹はおはようが言えるようになった。前は起きてきても何も言わずにただ私の足にしがみついていた。今はちゃんとおはようと言う。私はそれを聞くのが好きだった。
竈の湯が小さく鳴り始めた。私は妹に白湯を欠けた木の碗で飲ませた。妹は両手で碗を持ってふうふうと吹いてから少しずつ飲んだ。前は両手で持っても、半分こぼした。今はこぼさない。妹はこぼさずに飲める子になった。
「お姉ちゃん、おしごと?」
「うん。今日もね」
妹はこくりと頷いた。おしごと、という言葉を妹はもう知っている。お姉ちゃんはおしごとに行く。夕方になると帰ってくる。妹はそれが分かるようになった。
外で小鳥が鳴いていた。
妹が戸口のほうへぱたぱた走っていった。戸の隙間から外を覗く。それから何かを見つけてしゃがみ込んだ。
戻ってきたとき、片手に、黄色い花を握っていた。道端の、名前も知らない小さな花。庭の隅の隙間から毎年この時季に咲くやつだった。
「これ」
妹はそれを私の手のひらに押しつけた。茎が温かかった。きっと外に出てからずっと握っていたのだ。妹はそういう子だった。何か渡したいものがあると、渡すまで放さない。それは変わらなかった。
「ありがとう」
私はそう言った。花を一本髪の編み目に挿してみせると、妹は満足したように笑った。それも変わらなかった。妹は私が花を髪に挿すのを見ると笑う。その笑い方だけは三月前と同じだった。
奥の部屋から父が出てきた。
父は夜のうちから薬草を煎じることが多い。薬師の見習いをしていた。その朝も両手の指先に青い薬草の染みが残っていた。何度洗っても取れない染み。
家じゅうにその煎じものの苦い匂いがいつもどおり薄く立っていた。父は私が出かける支度をしているのを見てそれからふと妹のほうを見た。
「行ってくるね」
私は言った。
「お父さん。妹のこと、よろしく」
「ああ」
父は短く答えた。それから、いつものように付け足した。
「無理は、しないように」
「うん」
私は頷いた。
父はいつもそれだけだった。私が冒険者になると言ったときも止めなかった。最初の朝、止血の薬草を持たせて無理はしないようにと言った。
それから私が朝に出ていくたびに同じことを言った。無理はしないように。止める代わりにその一言を父はくれた。父にできるのはそれだけだった。私はそれを知っていた。
私は妹の前に、しゃがんだ。
妹の寝間着の裾から、片方のサンダルの紐が解けて垂れていた。私はそれを両手で結んでやった。結び目を二度確かめる。きつすぎないように、けれど走っても解けないように。
この子の紐を結ぶのはもう数えきれないほどしてきたことだった。指がひとりでに動いた。
今は妹も自分で結ぼうとする。けれどまだいびつだった。だから私が結び直してやる。
ひと月ほど前の朝、妹が私の靴の紐を結んでくれたことがあった。市で迷子になった、あの日の朝のことだった。
妹がいびつな結び目を一生懸命に作って、私の足元にしがみついていた。私はそれを直さずに家を出た。いつもは私が結ぶ側だった。あのときだけ、逆になった。
でも、それは、ひと月前のことだった。
今朝はいつもどおりだった。私が結ぶ。妹は結んでもらうのを待っている。妹の足の小さなサンダル。私はそれをいつものように結んだ。逆になることはもうなかった。それがいつもの、私たちだった。
「行ってくるね」
私は立ち上がった。
「お父さんの言うこと、ちゃんと聞くんだよ」
妹はこくりと頷いた。それから、ぱっと、笑った。
「お姉ちゃん、いってらっしゃい」
妹はいってらっしゃいが言えるようになった。三月前は言えなかった。泣くばかりで。今はちゃんといってらっしゃいと言って、手を振る。その小さな手の振り方を、私はしばらく、見ていた。
胸の奥が少し温かくなった。
この子の、お姉ちゃんで、よかった、と思った。妹は私を、お姉ちゃん、と呼ぶ。ときどき、間違えて、お母さん、と呼ぶこともある。
けれど今朝は、お姉ちゃん、と言った。いってらっしゃい、と。私はその子のお姉ちゃんだった。母の代わりにこの子を育てている。それを笑って送り出される朝になるまで、長い時間がかかった。
「いってきます」
私は戸を開けた。
竈の火を落として、家を出た。髪の編み目に、妹のくれた花が一本挿さったままだった。私はそれを抜くのを忘れていた。挿したことももう頭から離れていた。黄色い小さな花が私の編んだ髪のあいだで揺れていた。
◇◇◇
ラウィスは二軒隣の家の前で待っていた。
朝の光はもう三月前ほど低くなかった。季節が少し進んだのだ。道の片側だけが明るかったのも、今は両側に光が回っていた。
ラウィスはその道の真ん中に立って剣を腰に佩いていた。父親の古い片手剣。革鎧も父親のもの。少し大きい。盾は中古をギルドで買ったもの。装備の一つひとつがラウィスのものでありながら、ラウィスのものでないように見えた。それは変わらなかった。
ただ、腰の革袋だけはもう新しくなかった。
魔石を入れるための袋だった。買ったばかりの頃は硬くて空っぽできゅっと小さく鳴った。
今は革が少し柔らかくなっていた。何度も魔石を詰めては出した。浅いところでこつこつと拾った魔石。それをこの袋に入れて、ギルドで換えた。袋の口の締め紐がすり切れかけていた。その革袋だけはもうラウィスの体に馴染んでいた。
「ミラ、おはよ」
ラウィスが手を上げた。
「行こうぜ。今日こそ、神官、見つけるんだ」
声が少し弾んでいた。ラウィスはいつも、何かが始まる朝に、こういう声を出す。早口で、語尾が跳ねる。私はそれを聞くのが嫌いではなかった。
「うん」
私は頷いてから、答えた。頷きが先に出るのは私の癖だった。教会でも言われたし、ラウィスにはミラはいつも頷いてから喋るなと何度も笑われた。それでも直らなかった。言葉より先に頷きが出る。
道は迷宮の口のほうへゆるく下っていた。
私たちの住む街はすり鉢のような窪地の底にあって、その中心に、地面が大きく口を開けている。トワ迷宮の口だった。最初の頃は近づくたびに、やっぱり大きいと思った。今はそう思わなくなった。毎朝見ている。毎朝この口の、いちばん浅いところへ、降りていく。大きいことには慣れた。
口の縁を石の柵と見張り台がぐるりと囲んでいて、内側へ階段が幾重にも降りていた。その階段のいちばん上のあたりまでは、私ももう目をつむっても歩ける。
「神官さ」
ラウィスが歩きながら言った。
「今日は、いると思うんだよな。ギルドに。──昨日、ティルダさんに、また来るって言っといたし」
「うん」
「探せば、いるはずなんだ。一人くらい。駆け出しでも、組んでくれる人」
私は頷いた。
私たちはずいぶん歩いた。最初は浅いところでこつこつと魔石を拾った。それからもっと稼ぎたくなって中級の依頼に目を向けた。けれど、中級には、本職の神官が要った。怪我をその場で治せる神官が。──私では足りなかった。
私は見習いで、止血と痛みを和らげるのと熱を下げるくらいしかできない。だから本職を探した。何日も探した。けれど見つからなかった。本職の神官は駆け出しと、組んでくれなかった。
それでも、ラウィスは諦めなかった。
今日こそ、と言う。明日こそ、と言う。一人くらいいるはずだ、と。ラウィスはいつもそうだった。手が届かなくてもまた伸ばす。
私はその隣でラウィスを見ている。ラウィスが前で、手を伸ばす。私が後ろで、見ている。それがいつもの、私たちだった。
通りの先に迷宮の口の縁が見えてきた。石の柵と、見張り台。その脇に、石造りの大きな建物が建っていた。
冒険者ギルドだった。
◇◇◇
ギルドの扉をくぐると、朝の冷えがまだ床の石に残っていた。
初めて、この扉をくぐった朝のことを、私はふと思い出した。あのときも床の石に朝の冷えが残っていた。
天井が高くて声がよく響いた。掲示板の前に大人の冒険者たちが立っていて私とラウィスはその中で自分たちが子供だと急に分かった。
あの朝から、三月。床の冷えは同じだった。けれど私たちはもうあのときの子供ではなかった。少しだけ冒険者になった。少しずつ。
掲示板の前にはもう何人かの冒険者が立っていた。
ラウィスがその人波の中を奥のほうへ首を伸ばして見回した。神官の印を着けた人がいないか探していた。
毎日こうして探してきた。胸元に本職の印を着けた人を。けれどいても断られた。いなければまた明日。私も、ラウィスの横で、人波を見た。
それから私とラウィスは受付の窓口の前に立った。
机の側にティルダさんがいた。私たちが登録した日と同じように机に向かって書きものをしていた。私たちが近づくと顔を上げた。それから私とラウィスを見た。
ティルダさんは私たちが受付の前に立つと、いつもほんの少しだけ声の前で何かを飲み込む。今朝も、そうだった。
「ラウィス、また背伸びをするんじゃないわよ」
ティルダさんの声は低めの中音で、抑揚を抑えていた。
ラウィスのことだ、と私は思った。
何度聞いても、そう思う言葉だった。
「装備の確認は、したの」
「したよ。剣は研いだし、ポーション一本、入れた。──腰に、魔石袋」
ラウィスが語尾を、少しだけ強くして言った。
魔石袋、と言うとき、ラウィスは語尾を強くする。あの袋はラウィスが自分で買ったものだった。
父親の譲りものでも、ギルドの貸しものでもない。初めて自分で選んだ道具。だから、ラウィスは魔石袋と言うとき、少し得意そうになる。袋はもう馴染んでいた。
「あなたのお父さんが、いつも言うのを覚えてる。冒険者は連携が命だって」
「うん」
連携が命。それも、ティルダさんが、よく言う言葉だった。ラウィスの父親の言葉だという。冒険者は連携が命。前で受ける者と、後ろから射る者と、それから、神官。みんなで、息を合わせる。それが命だと。私たちはその連携の、神官のところが、まだ、足りなかった。本職の。だから、探していた。
「神官の当ては」
「それが、今探してるとこ。──」
そこで、ラウィスが、口を止めた。
ラウィスの視線の先で、ティルダさんの目が自分の肩の向こうのほうへ少しだけ逸れたのだった。ラウィスはそれに気づいたらしかった。ラウィスが振り向いた。
私も、ラウィスの振り向いた先を、見た。
掲示板の少し手前に、一人、立っている人がいた。胸元に、聖印を着けていた。私のものより、ずっと立派な、本職の印だった。白い布ではなく、銀の縁取りのある、しっかりしたもの。落ち着いた様子で、こちらを見ていた。
「あ、神官さんだ」
ラウィスの声が明るく、少し裏返った。
ラウィスは嬉しいとき、声が裏返る。何かが見つかったとき。何かが始まるとき。気負って声を張ろうとして上ずる。
本人はたぶん気づいていない。神官さんだ、と。ラウィスは本職の神官を見つけたのだ。今朝こそ、と言ったのが本当にいたのだった。
「ラウィス」
ティルダさんが、その明るさを引き留めるように声を出した。それから、いつもの一拍を置いてその人のほうへ目を移した。
「セレナ・ヴェスペル殿」
ティルダさんは、その呼び方をいつもの抑揚で口にした。一拍、置いて。その人の名前を、ティルダさんは知っているようだった。たぶんもう会っていたのだ。私たちより、先に。
「もし、お差し支えなければ。──この子たちが、神官を探しています。地元の子です」
地元の子。
ティルダさんは、そう言った。その言葉のあとで、ティルダさんの息が、短く、区切れた。地元の子、というところに、ティルダさんは少しだけ力を込めたように、私には聞こえた。
ティルダさんは、私たちを案じ続けていた。背伸びをするんじゃないわよ、と。気をつけて、と。止められないまま、ずっと、案じていた。
地元の子。それは、ただの紹介ではなくて、ティルダさんがその人に託す言葉のように聞こえた。この子たちを、お願いします、と。
「私で、お役に立てるなら」
その人が言った。
声が落ち着いていた。年は私より少し上に見えた。けれどラウィスよりは上ではないかもしれない。よく見ると年下にも見える、不思議な人だった。それなのに声に揺れがなかった。私で、お役に立てるなら、と。その言葉に迷いがなかった。
ラウィスが急に背筋を伸ばした。
「ほんと?俺、ラウィス。こっちが、ミラ」
私はラウィスの傍らで、軽く頭を下げた。
その人は近くで見ると、私とそれほど変わらない背丈だった。私は少し小さい。だから、その人も小柄なのだった。なのに、その小柄な体から揺れない確かなものが感じられた。法衣を着ていた。本職の、神官の法衣。その法衣の袖と裾のあたりに、よく見ると小さな繕いの跡があった。
繕いの跡だ、と私は思った。
私の法衣にも、繕いの跡がある。袖と裾が長すぎるのを自分で手縫いで短く詰めた。手縫いだから、よく見ると跡が並んでいる。三月前この同じギルドで、その跡を誰かに見られている気がして、私は袖をそっと引いた。
──この人の法衣にも、その跡があった。この人も、自分で繕う人なのだ、と思った。本職の神官なのに。立派な印を着けているのに。法衣は自分で繕っている。私と、同じように。
「セレナ様。──よろしくお願いします」
私はそう言って、もう一度、頭を下げた。
セレナ様、と私は呼んだ。本職の神官だった。私の足りないところを埋めてくれる人だった。
三月探して、見つからなかった人。それが今、目の前にいた。よろしくお願いします、と。私は頭を下げた。やっと見つかった、と思った。これで潜れる、と。私が治せない傷を、この人なら治せる。私にはそれが何より有難かった。
「あと、二人いるんだ」とラウィスが言った。「向こうの、掲示板のとこ」
ラウィスが顎で、掲示板のほうを示した。
掲示板の前に、二人、屈み込んでいた。一人が顔を上げて軽く手を振った。アレクだった。弓を背に負っている。
その隣に、ファビウスがいた。革鎧の上に、丈の長いローブを羽織っている。妙な取り合わせの、まだ少年に近い顔。ファビウスは今朝もいちばん早く来ていたのだ。アレクが手を振り、ファビウスがその横でこちらを見て、少しおどおどしていた。
「アレクと、ファビウス」
ラウィスが言った。
私はその二人を横目で見た。三月のあいだに加わった仲間だった。アレクは後ろから射る人。ファビウスは火を出せる人。それでも前で受けるラウィスと私の四人になっても、神官だけは足りなかった。本職の。
──それが今朝、五人目として加わろうとしていた。セレナ様。私には治せない傷を、治せる人。
「お連れの方は、お一人で」
私はセレナ様の背後のほうへ目を向けて控えめに尋ねた。
セレナ様の少し後ろに、一人立っている人がいた。剣を佩いていた。背が高くて、口をひと言も開かなかった。私たちがこうして話しているあいだも、ただ立っていた。無口な人だった。強そうな、剣の人。連れなのか、別の人なのか、私には分からなかった。だから、尋ねた。
「いえ、連れがおります」とセレナ様は答えた。「剣を扱う者です」
「あ、剣の方も」
「ええ」
ラウィスがそりゃ助かる、と笑った。
笑いながら、ラウィスの指が剣の柄を一度強く握って、それから離れた。
緊張するときに出る、ラウィスの癖だった。
ラウィスは、緊張すると、柄を握る。本人は、気づいていない。子供の頃から、そうだった。木登りでも、川遊びでも、いちばん高いところへ行く前に、ラウィスは、何か、握りしめた。
冒険者になってからは、それが剣の柄になった。父親の柄。少し太くて、握りきれない。指の隙間で、革が、かすかに鳴る。──いま、嬉しさと、これから組む緊張とで、ラウィスは、柄を握った。
私だけが知っている、その癖を。何度も横で見てきた。私だけがラウィスのその癖を知っていた。
頷きが、先に出た。
私はラウィスを見ていなかった。セレナ様の繕いの跡のあたりを見ていた。それなのに私の頭がラウィスのほうへ小さく頷いていた。見ていない側で。柄を握る音が聞こえたわけでもなかった。ラウィスの手を目に入れたわけでもなかった。ただ、私の身体が、先に、頷いた。
なぜ頷いたのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、頷いていた。
意識が一拍遅れて追いついた。ああ、ラウィスが柄を握ったな、と。それから私は自分が頷いていたことに気づいた。見ていないのに。
セレナ様を、私は見た。
──私もこんなふうに、なれたら、と思った。私もこんなふうにラウィスを守れたら。私の手で、ラウィスを。いちばん近くで。
そう思いかけて、私はその思いをそっと棚の上に戻した。
……違う。私は、見守る側だ。姉が、弟を、見るような。本職の神官が見つかった。私の足りないところはこの人が埋めてくれる。
私は、私のできることをする。止血と、痛みを和らげるのと、熱を下げるのと。それからラウィスを見ている。隣で。それが、私だった。私もこんなふうに、という思いには、姉のような、という名前をつけてしまった。つけるのはもう慣れていた。何度もしてきた。
私の手は、いつもの側へ、戻った。
その手が、さっきの頷きと、同じところから出ていることに、私は気づかなかった。直す手。妹の靴紐を結ぶ手。ラウィスの緩んだ革紐を締める手。──その同じ手が、見守る側へ戻った。それは、私が、いつも、しまう側の手だった。
「ラウィス」
ティルダさんが机の上で登録簿を閉じながら、また一拍を置いた。
「装備の、革鎧の留め金。出る前に、もう一度」
「うん、見る」
革鎧の留め金。ラウィスの革鎧は父親のもので、少し大きい。肩の革紐がよく緩む。ラウィスはそれを自分で締め直す。けれど、いつも、どこか雑だった。ぎゅっと力任せに締めて、いける、と言う。
ティルダさんはそれを心配して、出る前にもう一度、と言った。私も後で見てやろう、と思った。ラウィスの留め金は私がいつも最後に確かめる。
「──行かれるのですね」
ティルダさんが言った。
その一言はラウィスに向けたものでも、セレナ様のほうにも、届く声音だった。行かれるのですね。ティルダさんは止められなかった。ずっと、案じてきた。背伸びをするんじゃない、と。気をつけて、と。
けれど私たちは登録した冒険者で、どこに潜るかは私たちが決める。ティルダさんに止める権限はなかった。ティルダさんにできるのは、行かれるのですね、と確かめることだけだった。
受付の机の縁で、ティルダさんの右手の指が動いた。
机の隅にインク壺が二つ並んでいた。一つは、黒いインク。もう一つは、赤いインクだった。ティルダさんの指がその二つの壺のあいだで一度だけ揺れた。どちらのインクも取らなかった。指は宙で少し迷って、それからまた机の縁へ戻った。
私は、その指を、見ていた。
なぜティルダさんがそんなふうに指を迷わせたのか、私には分からなかった。黒いインクと、赤いインク。台帳に何か書くつもりだったのが、やめたのか。それとも、ただ手持ち無沙汰に動いただけなのか。
登録した日にもティルダさんは同じように指を迷わせた。あのときも、分からなかった。指は今朝も同じところで止まった。ティルダさんは何も言わなかった。ただ私たちを見ていた。
◇◇◇
ギルドを出る頃には登録の追加と、装備の見立てが、おおむね済んでいた。
外の光は入ったときより高くなっていた。迷宮の口から冷たい空気が絶えず流れ上がってきていた。地下の深いところの空気。街の朝の風とは違う匂いがした。鼻の奥にうっすらと錆びたような匂いが残った。毎朝嗅いできた匂いだった。
ラウィスはセレナ様やアレクやファビウスと、何か話していた。
明日のことを相談しているようだった。どこに潜るか。どう連携するか。ラウィスの声が弾んでいた。やっと神官が見つかったのだ。これで中級に潜れる。ラウィスの頭の中ではもう討伐祭まで続いているのかもしれなかった。
前で、ラウィス。後ろで、アレク。火を、ファビウス。傷を治す、セレナ様。それから、私。──ぜんぶ、揃った。足りなかったものが今朝、揃った。
私は少し離れて、迷宮の口のほうを、見た。
降りていく冒険者の灯は途中までは見えて、ある深さから先は闇に吸い込まれるように消えていった。底は、今朝も、見えなかった。
明日、私たちはあそこへ降りる。
いつもの、いちばん浅いところではなかった。中級の依頼。二層から下。これまでとは違う。明日からはその先へ降りる。だから、少し、緊張する。
そう思ったとき足の指が縮こまった。
縮こまった、というよりほどけなかった、というほうが近かった。いつもなら縮こまってもすぐほどける。初めて降りた朝も、その前の日、初めて口を覗き込んだ朝も、足の指は縮こまった。けれどすぐほどけた。今朝は、ほどけなかった。縮こまったまま、足の指が靴の中で固まっていた。
私は少し足の指を動かしてみた。
ほどけなかった。
明日は深いところに降りるから。それで足の指がほどけにくいのだ、と私は思った。私はもう一度足の指を動かそうとして、それからやめた。靴の中の固まった足の指のことを、私はそれ以上考えなかった。
私は迷宮の口に向かって頭を下げた。
明日、よろしくお願いします、というような気持ちだった。毎朝降りてきた。これからも降りる。明日は、いつもより深いところへ。だから頭を下げた。それは、誰に向けた、というものでもなかった。ただ口の暗い底に向かって、私は軽く頭を下げた。
それから私は懐の合わせのところに手をやった。
布越しに硬さがあった。母の祈祷書だった。父にも言わない、私の護符。毎朝こうして家を出る前に、布の上から確かめてきた。指がそこに触れて軽く押さえる。お母さんが守ってくれている、と思うと、胸の奥が少しだけ静かになる。──いま、私の指は、その硬さに触れた。
触れて、握りかけた。
布の上から、その硬い表紙を握ろうとして、私の指が合わせの布を軽くつまんだ。明日、深いところへ降りる。これまでとは、違う。お母さん、と、私は、思いかけた。お母さん。それから先を、私は、言わなかった。
握りかけた指を、私は、握らなかった。
布越しの硬さに、指を触れたまま、私は、握る手前で、止めた。お母さん。そこまでで、私は止めた。それから先に、何か言いたいことが、あったような気がした。お母さん、と呼んで、それから何かを頼みたかったような。けれど、それが、何だったのか、私は、言わなかった。言えなかったのか、言わなかったのか、自分でもよく分からなかった。ただ、私は、それを、言わずに、おいた。
指は、布の上に、軽く触れているだけだった。
握らなかった。三月前の、いちばん最初の朝、私はこの祈祷書を布の上から一度だけ押さえた。市で妹を見失った夜には、革が軋むくらいに強く握った。今朝は、握らなかった。布越しに触れているだけ。ただ、布の上に、触れているだけだった。お母さん。そこまでだった。
私は指を合わせから離した。
それから振り向いた。ラウィスがまだみんなと話していた。明日のことを。弾んだ声で。私はその輪のほうへ歩いていった。明日、私たちは降りる。いつもより深いところへ。それでももうセレナ様がいる。本職の神官が。私には治せない傷を治せる人が。だから大丈夫だ、と私は思った。
みんなで、降りる。前で、ラウィス。後ろで、アレク。火を、ファビウス。傷を治す、セレナ様。それから、私。
私はラウィスの隣に、戻った。
ラウィスが私を見て笑った。それからまた明日のことを話し始めた。私はその隣で聞いていた。髪の編み目に妹のくれた花が一本挿さったままだった。私はまだそれに気づいていなかった。黄色い小さな花がギルドの前の朝の光の中で私の髪のあいだで揺れていた。
明日、私たちは、降りる。




