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第四章「お姉ちゃんの家」

朝の早いうちに妹が目を覚ました。


奥の小さな寝間で、妹が寝返りを打つ気配がした。私は土間でもう竈の前にしゃがんでいた。湯がそろそろ沸くころだった。寝間着のままの妹が寝ぼけ眼でぺたぺたと私のところまで歩いてきた。片方の頬に寝床の皺の跡がついていた。


「おはよう」


私はそう言った。妹は返事をする代わりに、ぴたりとくっついて、額を押しつけた。まだ眠いのだ。朝のこの子は、いつもこうだった。私が竈の前にいると、その背中を温める場所のように使う。


「眠い?」


妹はこくり、と頷いた。背中で頷いたのが分かった。


私は沸いた湯を椀に少し取った。それを冷ましてから、妹に飲ませる。朝のいちばんに白湯を一口。これは母がしていたことだと、父から聞いた。


私は母のことを覚えていないから、父から聞いて、それを真似ているだけだった。けれど続けているうちにいつのまにか、それが私のすることになっていた。


◇◇◇


竈の火を、いったん落として、私は朝の支度を始めた。


奥の部屋から父が出てきた。薬草の苦い青い匂いをさせていた。父は夜のうちから薬を煎じることが多い。朝はいつもその匂いと一緒に起きてくる。父の指の爪には、薬草の緑が薄く染みついていた。洗っても、なかなか落ちない緑だった。


「おはよう、ミラ」


「おはよう。お父さん、煎じもの?」


「ああ。隣の通りの、おばあさんのぶんだ。咳が、ひどくてな」


父は煎じた薬を布で漉していた。その手元を私は横で見ていた。父の手は薬を扱う手だった。器用ではないけれど、丁寧だった。漉した薬を小さな瓶に詰めて、布で口を縛る。それを棚の決まった場所に置く。父のすることはいつも、同じ手順だった。


「今日は、教会?」


「うん。午前だけ。午後は、市に寄って帰る」


「そうか」


父はそれだけ言った。それから思い出したように棚から小さな布の袋を取って、私に渡した。


「これ。止血の薬草と、晒し。少しだけど、持っていきなさい」


「ありがとう」


私はその袋を腰の小袋に入れた。治癒の道具と一緒にしまう。父は私が冒険者として迷宮へ降りる日には、いつも薬草を持たせてくれる。今日は教会の日だから降りない。


それでも、父は持たせた。たぶん習いになっているのだ。父は私を止める代わりに、いつも何かを持たせる人だった。


「無理は、しないように」


父が言った。


「うん」


私は頷いた。父との約束だった。無理だと思ったら、すぐ戻る。迷宮へ降りるようになってから、父とそう決めた。


父はそれ以上のことは言わない。止めもしないし、心配を口にもしない。ただ薬草を持たせて、無理はしないように、とだけ言う。それが父の心配の仕方なのだと、私は思っている。


父は私が懐に母の祈祷書を持っていることを、知らない。


胸元の合わせのところに、布越しの硬さがある。母が遺した小さな祈祷書だった。私はそれを父にも言っていなかった。これは私と母だけのもののような気がして、誰にも言えないまま、ずっと懐に入れていた。


「お父さん」


私は薬を漉す父の背中に、声をかけた。父が振り向いた。


「ううん。なんでもない」


私は首を振った。父は少し不思議そうな顔をして、それからまた手元に戻った。私が何を言いかけたのか、私自身分からなかった。指が懐の合わせに触れていた。私はその手をおろした。


◇◇◇


妹に朝のものを食べさせてから、私は出かける支度をした。


妹が私の足元にしゃがみ込んでいた。私が法衣の裾を直していると、妹は私のサンダルの紐の片方が解けかけているのを見つけた。


「お姉ちゃん、ここ、ほどけてる」


「ほんとだ」


私はしゃがんだ。妹の前にしゃがむのとは、逆だった。いつもは私が妹の紐を結んでやる。妹はまだ自分では上手に結べない。けれど今朝は、妹が私の足元を覗き込んで解けた紐を指さしていた。


「結んであげる」


妹が言った。


「私がお姉ちゃんのを、結ぶ」


妹の小さな指が私のサンダルの紐をつまんだ。結ぼうとして、けれどすぐには結べなかった。指がもつれる。妹は眉を寄せて、もう一度やり直した。私はそれをじっと見ていた。手を出したく、なった。けれど、出さなかった。妹が自分で、やりたがっていた。


「こう?」


「うん。そう。もう少し、きつく」


妹は舌を少し出して、紐を引いた。結び目がいびつにできた。きつすぎたり緩すぎたりしないようにというのを、妹はまだ知らない。けれど、妹は結んだ。私の紐を初めて、自分で結んだ。


「できた!」


「ありがとう。上手だね」


私はそう言った。妹は得意そうに、笑った。


私はそのいびつな結び目を見た。いつも、私が妹の紐を結ぶ。両手で結び目を、二度、確かめる。きつすぎないように、けれど、走っても解けないように。それを、私はもう数えきれないほどしてきた。指がひとりでに、動くくらいに。


それを、今朝は妹が私にしてくれた。逆になった。それがなんだか、くすぐったかった。


「お姉ちゃん、おしごと、いってらっしゃい」


妹が言った。


「うん。お父さんの言うこと、ちゃんと聞くんだよ。すぐ、帰るから」


妹はこくり、と頷いた。私はいびつな結び目のままで、家を出た。直さなかった。妹が結んでくれたものだから。


◇◇◇


教会の午前の務めを終えて、私は市の通りへ向かった。


午後の市は人が多かった。家のために、買うものがいくつかあった。粉と塩と父に頼まれた煎じものに使う布。妹を連れていた。教会の帰りに家に一度寄って、妹を連れ出した。妹は市が好きだった。露店の、いろいろな色のものを見るのが好きなのだ。


「お姉ちゃん、あれ、なに?」


妹が私の手を引いた。布を売る露店の赤い反物を指さしていた。


「布だよ。お洋服に、するの」


「きれい」


妹はその赤をしばらく見ていた。私は妹の手を握っていた。市は人が多い。手を放すと、妹はすぐいろいろなところへ行ってしまう。だから握っていた。妹の手は小さくて温かかった。


粉屋の前で、私は粉を量ってもらった。


ほんの少しのあいだだった。私が財布から銅貨を出して店の人に渡している、そのほんの少しのあいだに、私の手の中の妹の手がふっと軽くなった。


振り向くと、妹がいなかった。


「……あの子」


私は銅貨を店の人に押しつけるように渡して、粉を受け取るのももどかしく辺りを見回した。さっきまで、ここにいた。私の手を、握っていた。それがいない。


喉の奥が、きゅっと詰まった。


声を出そうとした。妹の名前を呼ぼうとした。けれど声がすぐには出なかった。喉が塞がったみたいになった。私は唾を飲み込んだ。


それからもう一度、辺りを見た。人の足ばかりが行き交っていた。妹の背は低い。大人の腰のあたりまでしかない。その低い背は人の波の中に、すぐ紛れてしまう。


「すみません、小さな女の子、見ませんでしたか」


私は近くの店の人に聞いた。声が上ずっていた。自分でも、分かった。


「五つくらいの。これくらいの背の。赤い布のほうに……」


店の人は首を振った。見ていないと言った。私は礼もろくに言わずに、赤い反物の露店のほうへ歩いた。さっき妹がきれいと言ったあの店だ。あそこなら。あの赤を見に行ったのなら。


いなかった。


赤い反物の前にも、妹はいなかった。私の足が速くなった。胸の奥がばくばくと鳴っていた。


人の波をかき分けるようにして、私は進んだ。妹の名前を呼んだ。今度は声が出た。けれど市の賑わいに、その声はすぐ紛れた。荷を担いだ人の「通るよ」という声。何かを焼く油の音。私の妹を呼ぶ声は、その底で頼りなく消えた。


もし迷子のまま見つからなかったら。


そう思った瞬間、私の手が勝手に懐の合わせのところへ伸びた。布の上から母の祈祷書の硬さを確かめようとした。けれど確かめている場合ではなかった。私はその手を引っ込めて、また人の波の中を探した。


お母さん。私は心の中でそう呼びかけそうになった。けれど呼びかける先が誰なのか、自分でも分からなかった。母なのか。あるいは、いま迷子になっているあの子の母代わりの、私自身になのか。


通りの角を曲がったところに、小さな人だかりがあった。


飴を売る屋台だった。色の付いた丸い飴が串に刺さってたくさん並んでいた。その前に、何人かの子供がしゃがんで飴を見上げていた。その中に妹がいた。


「──!」


私は声にならない声を、上げて、駆け寄った。妹は飴の串をじっと見上げていた。私が来たのにも、すぐには、気づかなかった。


「だめでしょう!」


私は妹の腕をつかんだ。つかんでから、自分の声が思ったより強かったことに気づいた。妹がびくりとして私を見上げた。その顔がみるみる歪んだ。妹は泣き出した。




「勝手に行っちゃだめ。お姉ちゃん、どこにいるか分からなくなって……」


私はそこまで言って、言葉を止めた。妹を責めても、しかたなかった。妹はただ、きれいな飴を見に行っただけなのだ。悪いのは、手を放した私だった。ほんの少しの油断だった。


私はしゃがんで妹を抱きしめた。


妹の小さな体が私の腕の中でしゃくり上げていた。その温かさを確かめるように、私は強く抱いた。喉の奥の詰まりがようやくほどけた。妹がここにいる。私の腕の中にいる。それだけで膝が少し震えた。


「ごめんね。お姉ちゃんが悪かった。手を、放しちゃって」


私は妹の背を撫でた。妹は私の肩に顔を埋めて、まだ泣いていた。


「ひとりに、しないで」


妹がしゃくり上げながら言った。


「ひとりに、しないで。お姉ちゃん」


「しないよ。もう、放さない」


私はそう言った。妹の手をもう一度握った。今度は強く。妹の指が私の指を握り返した。私たちはしばらくそうしていた。市の賑わいの中で。私の心臓は、まだ速いままだった。


◇◇◇


家へ帰る道で、妹はもう、泣き止んでいた。


私の手をしっかり握っていた。さっきの飴のことはもう言わなかった。私も言わなかった。代わりに、妹は道端の小さな花を見つけては、それを指さした。妹はそういう子だった。きれいなものを見つけると、すぐ教えたがる。


「お姉ちゃん、あれ」


「うん。黄色いね」


「とって、いい?」


「一本だけね」


妹はその黄色い花を一本摘んだ。それを、私に、差し出した。


「お姉ちゃんに、あげる」


「ありがとう」


私はそれを受け取った。妹はこういう子だった。私が髪の編み目にその花を挿してみせると、妹は満足そうに笑った。さっきまで泣いていたのが嘘のようだった。


子供は、こうやって、生きていくのだ、と思った。


私の手の中で妹の手は温かかった。この子を私が育てている。母の代わりに。私が三歳のとき、母は亡くなった。私は母のことを覚えていない。顔はもう思い出せない。


ただ、最近ふと思うことがある。母の声だけは覚えている気がする、と。白湯を飲ませてもらったときの声。眠るときに何か歌ってくれたような、低い声。


それが本当に母の声なのか、私が勝手にこしらえた声なのか、分からない。けれどその声だけはどこかに残っている気がした。


私は母に何かをしてもらった記憶を、ほとんど持っていない。


だから私は母が私に何をしてくれたのかを知らない。知らないまま、それを妹にしている。


白湯を飲ませる。靴紐を結ぶ。眠るときに傍にいる。それが母のしたことなのか、私がこしらえたものなのか、分からないまま。私は与える側のことしか、知らなかった。


与えられた側の記憶を持たないまま、ただ与えている。それが私の母代わりだった。


妹の手を、握り直した。


◇◇◇


家に帰ると、父はまだ煎じものをしていた。


夕方まで、薬を作る日もある。今日がそうだった。私は妹に手を洗わせて、それから夕餉の支度を始めた。妹は私のそばで摘んできた花を欠けた小皿に水を入れて、挿していた。


夕餉のあと、妹を、寝かしつけた。


奥の小さな寝間で、妹の隣に私も横になった。妹がなかなか寝つかなかった。さっきの市での迷子がまだどこかに残っているのか、私の腕にしがみつくようにして、目をつむっていた。私は妹の背をゆっくり撫でた。眠るまで、撫でていた。


妹の息が深くなった。


寝入った妹の寝間着の肩のあたりが少しはだけていた。私はそのはだけたところを直してやった。掛布を肩まで引き上げる。それから、指で合わせのところを軽く整えた。乱れた布を直すときの、その手の動きを私はふと、見た。


──同じだ、と思った。


何が同じなのか、すぐには分からなかった。けれど、この布を直す手の動きを私は別のところでもしている気がした。少し考えて、思い当たった。ラウィスだった。


ラウィスの革鎧は父親のものだという。少し大きい。肩のあたりが余る。その肩の革紐がよく緩む。ラウィスはそれを自分で締め直す。


けれどいつもどこか雑なのだ。ぎゅっと力任せに締めて、それでいける、と言う。私はそれを横から見て、いつも思う。そこ、もう少しちゃんと結んだほうが。


袖のほつれもそうだった。ラウィスの上着の袖口がほつれかけているのを私は見たことがあった。ラウィスは気づいていない。


私はそれを見て、ああ繕ってあげたい、と思った。思っただけで、言わなかった。言えば、ラウィスはいいよ、平気だと言うに決まっていたから。


ラウィスの、緩んだ革紐を、直してやる手。妹の、はだけた肩を、直してやる手。


それが同じだった。同じ、引き出しから、出てくる手だった。


私は自分の手のひらをしばらく見ていた。妹の寝顔の傍で。この手はいつも、誰かの解けたものを直そうとする。緩んだものを締めようとする。ほつれたものを繕おうとする。それが妹であっても、ラウィスであっても、同じ手だった。


ふと、今朝のことが浮かんだ。妹が私の解けた紐を結んでくれた。いびつな結び目。私はそれを直さずに、家を出た。逆になった、あのとき。指の先がまだくすぐったいような気がした。


けれど、その感じが何だったのかを私はすぐに手放した。私の手はもう、妹の肩のはだけたところへ戻っていた。直す側へ。いつもの側へ。


ラウィスを思うときの、この胸の奥の温かさにも、私はもう、名前をつけてあった。


姉が弟を見るような。そういう気持ちだ、と。小さいころから、私はラウィスのいちばん近くにいた。無茶をしないように。高いところから落ちないように、見守ってきた。だから、これはそういう気持ちなのだ。妹への気持ちと同じ引き出しにしまってある。


私はその引き出しをそっと閉めた。


閉めるのはもう慣れていた。何度もしてきた。胸の奥が温かくなるたびに、私はそれに「姉のような」という名前をつける。つけてしまう。私はそれでよかった。それで、ずっと、よかった。


◇◇◇


妹が寝入ってから、私は起き上がった。


寝間の隅に座って、私は懐の合わせのところに手をやった。母の祈祷書の硬さが布越しにあった。私はそれを布の上から押さえた。それから、合わせの中からそっと取り出した。


暗かった。


灯火を灯すほどでもなかった。外のわずかな明かりが、戸の隙間から入ってくる。その薄い明かりの中で、私は母の祈祷書を両手で握った。革の固い表紙。縫い目の感触。指の先に馴染んだ古い革の手触りだった。


中は開かなかった。開けたことはほとんどない。何が書いてあるのか、私は知らない。ただ、これが母のものだったということだけを知っていた。


握る手に力が入った。


今日のことが、まだ、手のひらに残っていた。市で、妹を見失った、あのほんの少しの時間。喉が塞がって声が出なかった、あの何秒か。妹が見つかるまでの、あの長い、長い、道のり。


もし、見つからなかったら。もし、あのまま、人の波に紛れてしまっていたら。私はどうしただろう。あの子を、失っていたら。私は──。


考えると、また喉が詰まった。


私は祈祷書をもっと強く握った。革が私の指の中で軋むくらいに。お母さん。私は心の中でそう呼びかけた。お母さんが守ってくれている。そう思うと、胸の奥のばくばくした感じが少しだけ静かになった。


妹は見つかった。今、私の隣で眠っている。何もなかった。何も起きなかった。大丈夫。私は自分にそう言い聞かせた。この祈祷書が傍にある。だから大丈夫。


私が母から、もらったものは、これだけだった。


母の声のおぼろげな記憶と、この中も開けない祈祷書。それだけだった。けれど、それだけで私はここまで来た。


母を覚えていないのに。母が私に何をしてくれたのかを知らないのに。この祈祷書がある、というだけで、私は母に守られている気がする。それはただの思い込みかもしれない。中に何が書いてあるのか、私は知らないのだから。




けれど、思い込みでも、よかった。これが傍にあれば、私は夜のこういう不安をやり過ごすことができた。それで、よかった。


握りしめた手を私は少しずつゆるめた。


それから、ふと別のことを思った。さっきの不安とは別のところで、ぽつりと浮かんだことだった。


討伐祭のことだった。


三十年に一度の。主を討つ祭り。子供のころから私とラウィスが二人で夢みてきたもの。ラウィスが活躍する、冒険者になる。


その隣で、私が治癒をする。傷ついたラウィスの味方たちに手をかざして痛みを和らげる。ラウィスが主に斬りかかる。そのすぐうしろで私が見守っている。子供のころ、木の剣で遊んだときと、同じように。ラウィスが前で。私がうしろで。


いつか、そういう日が来たら。


私は暗がりの中で、そう、思った。ラウィスが討伐祭で、名を上げる。大勢の、冒険者の、いちばん前で。その隣に、私がいる。


神官として。本職の立派な神官になって。ラウィスの味方を誰一人、死なせない。ラウィスを誰よりも近くで守る。そういう自分を夢みた。それは私の、いちばん、大きな夢だった。ラウィスと、ずっと、隣にいられる。同じ、夢を、見ながら。


その夢を私はしばらく、味わった。


それは温かい夢だった。母の祈祷書を握っていることとは別の、温かさだった。祈祷書は今の不安を静めてくれる。夢はまだ来ていない先のことだった。


私はそのふたつを同じ夜に別々に抱いていた。手の中に、祈祷書を。胸の奥に、討伐祭の夢を。それは繋がっていなかった。繋げる必要もなかった。ただ、両方とも私を温めた。私は暗がりの中で、目をつむった。


◇◇◇


どれくらいそうしていただろう。


妹が寝返りを打った。それから、寝言を言った。眠ったまま、口の中でもごもごと何か言って、それから、はっきりとひとこと言った。


「……お母さん」


私は動きを止めた。


妹は目をつむったままだった。眠っていた。何か、夢を見ているのだ。その夢の中の、誰かに、呼びかけたのだろう。お母さん、と。


妹には、母がいない。生まれたときには、もう、いなかった。だから、妹の言う「お母さん」が、誰なのか、妹自身も、知らないはずだった。けれど妹はときどきこうやって私をお母さんと呼ぶ。起きているときにも、ふと間違える。寝言でも呼ぶ。


この子が生まれた日のことを、私は少しだけ覚えている。父がまだ赤い、小さなその子を抱いて、私に言った。いいお姉ちゃんに、なるんだよ、と。私は頷いた。


その日から、私はお姉ちゃんになった。父の言ったとおりの、いいお姉ちゃんに。なろうと、してきた。


私は暗がりの中で、母の祈祷書をまだ握っていた。


それを懐にしまった。布の上から、一度、押さえた。それから、私は眠っている妹のほうへ顔を寄せた。妹の寝息が頬にかかった。私はその小さな耳のそばで、ささやくように、言った。


「お姉ちゃんだよ」


小さな、声だった。


「お母さんじゃ、ないよ。お姉ちゃん」


妹は眠ったまま何も答えなかった。聞こえていなかった。当たり前だった。妹は眠っていた。私の訂正を、誰も聞いていなかった。妹も父も。誰も。


私はその、誰も聞いていない言葉を、暗がりの中にひとつ置いた。お姉ちゃんだよ、と。お母さんじゃ、ないよ、と。


妹に、白湯を飲ませ、靴紐を結び、眠るまで傍にいる。それは母のすることだったかもしれない。けれど、私は母では、なかった。母を覚えていない、姉だった。母の真似をしているだけ。──それでも、私が母ではないことを、私だけは知っていたかった。


妹の寝顔を私は見た。


迷子になって泣いて、それから飴を見上げていた、あの顔。私の手の中でしゃくり上げていた、あの体。今は安らかに眠っていた。私の隣で。私を、お母さん、と呼んで。


私はその寝顔をしばらく見ていた。この子を私が守る。母の代わりに。誰にも頼らずに。私のこの、与えることしか知らない手で。


それで、よかったのだ。


妹の、寝息が規則正しく、続いていた。私はその音を聞きながら目をつむった。明日も朝が来る。白湯を沸かす。妹を起こす。教会へ行く。市で買い物をする。同じ日が続く。


私は懐の合わせに手をやった。胸元の祈祷書の硬さが、布越しにあった。指で、押さえれば、そこに、ある。それだけを、私は確かめた。


◆◆◆

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