第三章「兄ちゃんの家」
朝のいちばん早い光が、まだ屋根の高いところにしか当たっていない時刻に、俺は土間で目を覚ました。
板の間ではなく土間の隅に藁を敷いた寝床だった。奥の一間は母が使っている。その隣の小さな板の間が妹と弟の二人の部屋だった。俺は家でいちばん広いところに寝ているとも言えるし、いちばん寒いところに寝ているとも言える。藁の匂いと昨日の竈の灰の匂いがした。冬が近づくと、土間の寝床は冷える。けれど今はまだそこまでではなかった。
革袋に手が伸びた。
寝起きで頭がまだ半分眠っているのに、その手だけが先に動いた。袋の口は締めたままだった。中で二つの魔石がこつ、と当たる音がした。昨日、初めて潜って初めて手に入れた二つの魔石だ。換金はまだしていない。今日、市の魔石屋へ持っていくつもりだった。それまではこうして枕元に置いて、寝るときも握って眠った。子供みたいだと自分でも思う。けれど、放せなかった。
ことり、と袋を振ってみる。
二つぶんのほんの少しの重さ。昨日まで、この袋は空っぽだった。空っぽの軽さと、今のほんの少しの重みとはぜんぜん違う。たった二つだ。たった二つなのに、この袋はもう空っぽじゃない。
俺はその重みをもう一度確かめてから起き上がった。
◇◇◇
竈に火を起こした。
火種を使えば、すぐだ。指先に小さな火を灯して薪のあいだに近づける。子供のころ、初めてこれを灯せた日のことを俺はよく覚えている。母がまだ起きていられたころだった。母は手を叩いて喜んで、それからミラのところにも見せに行きなさい、と言った。俺は得意になって二軒隣のミラの家まで走った。あのころは家の中がもっと明るかった。
竈の前にしゃがんで湯を沸かす。
その湯でまず母の薬を煎じる。煎じ方は覚えていた。父が遠征に出る前に何度か教わった。それからミラの父さんにも教わった。ミラの父さんは薬師の見習いで、母の薬のことをいつも気にかけてくれる。薬草を分けてくれることもあった。けれど、ただで分けてもらってばかりはいられない。だから薬代は稼がなきゃならない。
苦い青くさい匂いが湯気と一緒に立った。
この匂いを俺はもう何年も嗅いでいる。母が寝込んでからずっとだ。最初のころは嫌いだった。母の病の匂いだと思うと、嗅ぐたびに胸の奥が重くなった。けれど今は何とも思わない。慣れた。慣れる、というのはたぶんいいことだ。いちいち重くなっていたら、毎朝立っていられない。
奥の一間から咳が聞こえた。
「母さん、起きてる?」
俺は声をかけた。煎じた薬を椀に移して奥の一間へ運ぶ。母は薄い掛布の中で半分だけ身を起こしていた。痩せた肩が寝間着の合わせから骨ばって見えた。母の顔は俺が物心ついたころよりずっと小さくなった。病が母を少しずつ削っているみたいだった。
「ああ……ラウィス。早いね」
「薬、煎じた。飲める?」
母は頷いた。俺は椀を母の口元へ運んだ。母の手はもう椀をしっかり持てない。震えて、こぼしてしまう。だから、俺が持つ。母は少しずつ苦い薬を飲んだ。飲むあいだ、母の喉がこくり、こくりと小さく鳴った。
俺は母の前ではいつも明るくしている。
これは決めていることだった。いつからかは覚えていない。たぶん自然にそうなった。母が俺の顔を見て心配そうな顔をするのがいやだった。母は自分が寝込んでいることを家のみんなにすまないと思っている。それが母の顔に出る。だから俺はわざと声を大きくする。何でもないことのように笑ってみせる。大丈夫だよ、と。心配いらないよ、と。──そう言うのがいちばん母のためになる。俺はそう思っていた。
「ラウィス。あんた、昨日……」
母が椀から口を離して言った。
「迷宮、行ったんだろう。怪我は……」
「怪我なんてしてないって。浅いとこだけだから。ちょっと狼が出ただけ」
「狼……」
「平気平気。ミラもいたし。俺、ちゃんと倒したよ。──ほら、これ」
俺は腰の革袋の口を開いて見せた。中の二つの魔石を母に見えるように傾けた。にごった赤茶けた石が、二つ、袋の底で、ことり、と鳴った。きれいなものじゃない。それでも、これが稼ぎになる。
「魔石。二つ採れた。これ売れば、母さんの薬、買えるんだ。少しは」
母はその二つの石を見ていた。
何か言いかけて、母はけれど、咳をした。一度、二度。乾いた軽い咳だった。咳のあいだに、母の唇が何か動いたような気がした。けれど、咳のほうが大きくてよく聞こえなかった。咳が止まると、母はまた薄く笑った。
「……そう。立派だね。ラウィスは」
俺は空になった椀を受け取った。
母がもう一度、口元を動かした。今度は、声になりかけて、でもすぐまた咳に紛れた。行か、というふうにも聞こえた。けれど、それは咳だったのかもしれない。咳のあいだに息がそういう形に漏れただけ、なのかもしれなかった。俺はそれを咳だと思うことにした。母は咳をしているだけだ。俺は椀を持って、立ち上がった。
「無理しないで、寝てて。俺、出るから。妹と弟、起きたら、飯やっとくよ」
母はゆっくり瞬きをした。
俺は奥の一間を出た。出るとき、後ろでまた軽い咳が聞こえた。
◇◇◇
板の間で妹が起きていた。
「お兄ちゃん、おはよ」
妹は八つだ。しっかりした子だった。俺が竈の世話をしている間に、もう自分で寝床を畳んでいた。隣で弟がまだ眠っている。弟は五つだ。妹とはまるで違う。朝、起こさないといつまでも寝ている。
「おはよ。顔、洗ってきな」
「うん。──お兄ちゃん、お母さんの薬、もうやった?」
「やったよ。ちゃんと飲んだ」
「そう」
妹は頷いた。八つの子が母の薬のことを気にする。そういう家だった。妹は家のことを半分くらい分かっている。父が遠征に出ていて、母が寝込んでいて、だからお兄ちゃんが稼がなきゃならない。それを妹は口には出さないけれど分かっている。子供らしくないとは思わない。ただもう少し子供らしくいさせてやりたいな、とは思う。
竈のそばの棚に昨日のパンの残りがあった。
それを俺は三つに割った。妹に一つ、自分に一つ、弟に一つ。弟のぶんはいちばん大きいのを取り分けた。育ち盛りだ。腹を減らして、ぐずられても困る。
「あいつ、起こしてくる」
俺は板の間へ上がった。弟は掛布を蹴飛ばして大の字で眠っていた。寝相が悪い。俺はその肩を軽く揺すった。
「おい、起きろ。朝だぞ」
弟はうう、と唸って寝返りを打った。それから薄目を開けて俺を見上げた。
「……兄ちゃん」
「おはよ。飯食え。お前のぶん、いちばんでかいの取っといたぞ」
弟はぼんやりした顔のまま起き上がった。それからふと思い出したように自分の枕元を探った。何かを握ってこっちに差し出してくる。
「兄ちゃん、これ」
弟の手のひらに小さな石が載っていた。
川の丸い石だった。つるりとした灰色がかった白い石。どこにでもあるただの石だ。けれど、俺はその石を知っていた。昨日、迷宮で俺が握っていた石だ。胸のポケットに入れて持っていた石。
「これ、お前がくれたやつだろ」
「うん。──兄ちゃんの、お守り」
弟が言った。
「ひろったの。川で。まるくて、きれいだから。兄ちゃんに、あげるって、きめたの。あぶないとこ、いくんでしょ。だから、お守り」
俺はその石を受け取った。
そういえば、いつだったか弟がこれを俺の手に握らせたのだった。兄ちゃんはこれから危ないところへ行くんだ、と誰かが弟に言ったのだろう。たぶん妹だ。それを聞いた弟が川で拾った石をお守りだと言って、俺に渡した。俺はそれをポケットに入れて迷宮へ持っていった。昨日、戦いが終わったあと、それを取り出して握った。なぜ握ったのか、自分でもよく分からなかった。手の中の石はまだ少し温かかった。
「ありがとな」
俺は弟の頭をくしゃっと撫でた。
「ちゃんと、持ってくよ。お守り」
弟は嬉しそうに笑った。それから思い出したように割り当てられたパンにかじりついた。育ち盛りのいい食いっぷりだった。
俺はその石をまた胸のポケットにしまった。きれいなものじゃない。魔石みたいに売れもしない。ただの川の石だ。それでも、俺はこれを捨てる気にはならなかった。
◇◇◇
家を出る前に、俺は奥の一間の壁際を見た。
そこに父の場所があった。
正確には、父が遠征に出る前にいつも装備を立てかけていた壁の一角だ。今は、何もない。父が自分の剣も、革鎧も、ぜんぶ持って出ていったからだ。けれど、壁のその一角だけほかよりわずかに色が違っていた。長いあいだそこに何かが立てかけられていた跡だった。何もないのにそこには確かに父がいた跡がある。
俺の装備は、その隣に立てかけてある。
父からもらった古い片手剣。父の若いころの革鎧。中古の小盾。──父のものと俺のものとが隣り合って並んでいた。並べてみると、いやでも分かる。父の場所は、空いている。俺の場所には、父のお下がりが立っている。
剣を手に取った。
刃こぼれを研いだばかりだった。手入れはちゃんとしている。父が遠征に出る前に、研ぎ方を何度も教わった。砥石の角度。力の入れ方。父は剣の手入れにかけてはうるさかった。剣を粗末にする冒険者は、長く生きられない、と。父はそういうことをよく言った。
柄を握ってみる。
握って、すぐ分かる。合わない。父の剣の柄は俺の手にはまだ太い。半寸ほど太いのだと母が言っていた。父の手に合わせて作ったから、と。父の手は俺より大きい。だから、この柄は父の手の幅に合わせて太く作られている。俺の指では握りきっても隙間が残る。指と指のあいだに、握りきれないぶんのわずかな隙間。
その隙間に俺はいつも少し悔しくなる。
早く、手が大きくなればいい。そうすれば、この柄もちょうどよくなる。父の手の幅に追いつく。俺はまだ、伸びる。背だって、まだ伸びる。手だって、まだ大きくなる。──そう思って俺は柄を握り直した。握り直すと、指の隙間で革がかすかに鳴った。こすれるような小さな音だ。
ああ、これ、と思った。
俺は緊張すると、これをやる。剣の柄を握る。昨日も、迷宮で狼が出たとき、無意識に握っていた。ミラが横から見ていた。柄、握ってる、と言われた。たまたまだ、と俺は誤魔化したけれど、本当はたまたまじゃない。俺は緊張すると、いつも柄を握る。
それで、思い出した。
父もそうだった。
父が遠征に出る前、依頼の貼り紙の前で難しい顔をして立っていたことがあった。あれはいつだったか。たぶん何年か前だ。父は貼り紙を見ながら、腰の剣の柄を握っていた。ぎゅっと握って、それから離した。俺はそれを横で見ていた。あのとき、父も緊張していたのだ。今になって分かる。
俺の癖は、父譲りだ。
そう思うと、なんだかおかしかった。剣の柄を握る癖まで、父からもらったのか。柄も、革鎧も、剣を研ぐやり方も、それから緊張したときに柄を握る癖まで。俺は父からいろんなものをもらっている。父の手の幅に合わせた柄を握りきれないまま。
父は遠征に出る前、俺に言った。
無理な依頼は受けるな、と。冒険者は連携が命だ、と。俺はそれを、覚えている。父の声で、覚えている。父はそれを俺の目を見て言った。それからもう一つ、言いかけた。無理だと、思ったら……と。けれど、父はその先を言わなかった。少し黙って、それから、いや、と言って首を振った。気をつけてな、とだけ言った。無理だと、思ったら、どうしろ、と言いたかったのか。俺には、分からなかった。父は最後まで、それを言わなかった。
俺は剣を鞘に納めた。
革鎧を身につける。父の若いころのもので、俺には少し大きい。肩のあたりが余る。革紐で一周きつく締める。締めれば、なんとかいける。留め金が一つ緩んでいた。中古だからしかたない。指で留め金を押し込んだ。
「お兄ちゃん、行くの?」
妹が土間までついてきた。
「ああ。市で、魔石、売ってくる。それからちょっと、潜るかも」
「気をつけてね」
「分かってる。母さんのこと、頼むな」
妹は頷いた。八つの子に母さんのことを頼む。それもこの家では当たり前のことだった。
俺は家を出た。
◇◇◇
市の魔石屋は、迷宮の口の近くにある。
通りを下っていくと、いつもの賑わいが押し寄せてきた。油の匂い。何かを焼く煙。荷を担いだ男が肩で人波を分けていく。武具屋の前で金槌の音が絶え間なく鳴っていた。俺はその通りを歩いた。腰の革袋の中で二つの魔石が歩くたびに、ことり、ことり、と鳴った。
魔石屋は、間口の狭い、薄暗い店だった。
俺は初めて入った。中に年寄りの店主がいて、机に向かって何か小さな天秤をいじっていた。俺が革袋を出すと、店主はちらと俺を見た。それから二つの魔石を机の上に転がした。
「一層の、血喰狼か」
「はい。昨日、採りました」
店主は二つの石を指でつまんで、灯りに透かした。それから天秤に載せた。重さを量っているらしかった。俺はその手元をじっと見ていた。いくらになるんだろう。少しでも高く売れればいい。
「これと、これで……」
店主は銅貨を何枚か机に置いた。
薄い銅貨が机の木に当たって、ちん、ちん、と軽い音を立てた。革袋で魔石が鳴る、ことり、という重みのある音とは、ぜんぜん違う。指で弾けば飛んでいきそうな、頼りない音だった。
俺はその枚数を数えた。
──少なかった。
思っていたよりずっと少なかった。二つの魔石がこれだけにしかならないとは。母の薬が何日ぶんになるか、頭の中で数えてみる。三日。四日。それくらいだ。たった、それくらい。昨日、初めて潜って命がけで二頭の狼を倒して手に入れた二つの魔石が。三日か四日ぶんの薬。
「一層の浅いとこの魔石は、こんなもんだ」
店主が言った。俺の顔を見て、何か察したらしかった。
「もっと深く潜れば、もっといい魔石が出る。けど、深いとこは、危ない。──まあ、駆け出しは、こんなもんから始めるんだ」
「……はい」
俺は銅貨を受け取った。財布にしまう。財布の中の銅貨はぜんぶ合わせても、心もとなかった。母の薬代と、家のみんなの食い扶持と、それからいつか、ちゃんとした装備を揃える金。──ぜんぶ、足りていなかった。
店を出ると、外の光がまぶしかった。
俺はしばらく迷宮の口のほうを見ていた。深く潜れば、いい魔石が出る、と店主は言った。けれど、深いところは、危ない。父も言っていた。無理な依頼は受けるな、と。連携が命だ、と。俺はそれを覚えている。だから、今は浅いところだけだ。少しずつ、稼ぐ。少しずつ。
ことり、と、空になった革袋が鳴った。
魔石を売ったから、袋はまた空っぽだった。空っぽの軽さが腰に戻ってきた。昨日、二つの魔石でほんの少し重くなった袋。それがもう、空だ。明日、また、潜って、また、ことり、と入れる。そうやって、少しずつ。──大丈夫だ、と俺は自分に言い聞かせた。少しずつ、やればいい。
◇◇◇
その日、俺はもう一度だけ浅いところに潜った。
二頭、出た。今度は洞穿蛇のほうだった。天井の岩の隙間から、細いのがするりと落ちてくる。狼みたいに正面から飛びかかってはこない。けれど、浅いところでしかも二匹だけなら、上から来るぶん、来る場所は分かる。狼の頭を二度叩いて潰すのに比べれば、こっちのほうがまだ扱いやすかった。ミラとは市で待ち合わせて、一緒に潜った。連携はまだぎこちなかった。俺が前に出すぎると、ミラが間に合わない。俺が下がりすぎると、今度は俺の振りが届かない。ちょうどいい間合いがまだつかめない。それでも、二頭を倒して、魔石をまた二つ手に入れた。ことり、ことり、と袋に入った。
その魔石は、明日、売る。今日は、売らない。今日は、もういい。
ミラと別れて、家に帰ったのは、日が傾きかけたころだった。
家に入ると、いつもと、様子が、違った。
妹が奥の一間から、出てきた。妹の顔が、いつもより、こわばっていた。
「お兄ちゃん……」
「?どうした」
「熱。さっきから、熱くて。ずっと、寝てる」
俺は急いで奥の一間に入った。
弟が母の隣に寝かされていた。母は心配そうに弟のほうを見ていた。弟の額に手をやると、熱かった。子供はよく熱を出す。育つあいだに何度でも出す。それは知っていた。けれど、こうして自分の手でその熱を確かめると、胸の奥がざわついた。
「いつから」
「昼すぎから。──さっき、薬師さんのとこ、行ってみたの。ミラちゃんのお父さんのとこ。でも、留守で」
妹が言った。
「子供の熱の薬は、置いてないって、隣のおばさんが。本職のお医者か、神官さんに、診てもらうのがいいって」
神官さん、と俺は思った。
本職の神官に診てもらえば、熱なんてすぐ下がるだろう。けれど、本職の神官は金がかかる。さっき、魔石を売った銅貨も、明日売るぶんの魔石も、ぜんぶ合わせても、足りるかどうか。──いや。足りない。たぶん足りない。母の薬代もあるのに。それをぜんぶまとめて払えるわけがなかった。
「お医者は、いいよ」
俺は言った。
「子供の熱なんて、よくあることだ。明日には、下がる。──水で、冷やしてやれば、いい。布、濡らしてくれるか」
妹が頷いて、水を汲みに行った。
俺は弟の額の汗を手の甲で拭った。弟は熱に浮かされて、薄く目を開けていた。ぼんやりと俺を見上げた。
「兄ちゃん……」
「ここにいるよ。大丈夫だ。すぐよくなる」
俺は言った。大丈夫だ、と。──これは母に言うときと同じだった。俺はいつもこう言う。大丈夫だ、と。心配いらない、と。本当に大丈夫かどうか分からないときでも、こう言う。言わなきゃならない。俺が言わなきゃ、誰が言うんだ。
妹が濡らした布を持ってきた。俺はそれを弟の額に載せた。
弟の熱はその晩、なかなか下がらなかった。
◇◇◇
俺はその晩、ミラのところへ行った。
二軒隣だ。すぐだった。ミラの父さんに子供の熱のことを聞きたかった。薬師の見習いなら、何か家でできることを知っているかもしれない。
ミラの家の戸を叩くと、ミラが出てきた。
「ラウィス? どうしたの、こんな時間に」
「弟が熱出して。ミラの父さん、いる?」
「父さん、まだ帰ってない。──熱?」
ミラの顔が、変わった。
「ちょっと待ってて」
ミラはいったん奥に引っ込んだ。それから布の小袋を持って、出てきた。
「これ、熱を下げる薬草。父さんが、いつも置いてるやつ。煎じ方、教えるから。──あと、私、行く。診せて」
「いいよ、そんな」
「いいから」
ミラは聞かなかった。俺はミラの強引なところを子供のころから知っている。こういうとき、ミラは絶対に引かない。普段おとなしいくせに、こういうところだけ頑固だった。俺はしかたなくミラを家まで連れて帰った。
ミラは弟の額に手をやって、それから胸元に手をかざした。
口の中で小さく何か唱えた。聖句だ。手のひらが弟の胸の上でふわりと温かい色を帯びたような気がした。しばらくして、ミラは手を下ろした。
「熱を、少し下げた。見習いだから、これくらいしか、できないけど。──あとは、この薬草を煎じて、飲ませて。汗をかいたら、こまめに拭いてあげて。子供の熱だから、たぶん二、三日で、下がると思う」
「ありがとな。──助かった」
俺は言った。本当に、助かった。本職の神官に頼んだら、いくら取られたか分からない。ミラの治癒は、見習いの初級の奇跡だ。重い傷は治せない。それでも、こういうときミラがいてくれるのは心強かった。
弟がミラの顔をぼんやり見上げた。熱で、まだ頭がはっきりしていないらしかった。
「ミラ姉ちゃん……」
「うん。ミラだよ。よくなるからね」
弟が薄い声で言った。
「兄ちゃんと、ミラ姉ちゃん……けっこんするの?」
俺は固まった。
弟が何を言い出すのかと思えば。熱に浮かされて、寝ぼけているのだ。けれど、その一言で奥の一間の空気が妙に止まった。ミラが弟の顔を見たまま、動かなくなった。横顔が見えた。ミラの耳のあたりがほんのり赤くなっているような気がした。けれど、暗かったから、よく分からなかった。
「ばか。何言ってんだ、お前」
俺は急いで言った。
声が少し上ずった。自分でも分かった。耳が熱くなった。
「熱で、おかしくなってんだろ。──ミラは近所の幼馴染だ。それだけだって」
「だって、おばちゃんが……」
「おばちゃんが、何だよ」
「ミラ姉ちゃんと、けっこんするなら、はやく、って」
俺はそれ以上、何も言えなかった。
近所のおばさんあたりが、冗談でそんなことを言ったのだろう。昔から、言われていた。十くらいのころから、ラウィスとミラは結婚するんだろう、と。冗談だ。みんな、冗談で言う。俺だって、冗談だと思っている。──思っている、はずだった。
「もう寝ろ。熱、上がるぞ」
俺は弟の額の布を取り替えた。
ミラは何も言わなかった。立ち上がって、薬草の煎じ方をもう一度妹に教えていた。静かな声だった。俺のほうは見なかった。俺もミラのほうを見なかった。なんとなく見られなかった。
ミラが帰り際に土間で言った。
「明日も、来るから。様子見に」
「いいって。お前だって、家のこと、あるだろ」
「ちょうど、いいの。明日、市に用があるから。ついでだから」
ミラが言った。
俺はその言葉を聞いて、少し笑いそうになった。ついで、と言った。ちょうどいい、と。──それ、俺の言い方だ、と思った。俺はいつも、そういう言い方をする。本当は、わざわざ来てくれるのに、ついでだ、ちょうどいい、と言う。ミラもいま、そう言った。同じ言い方で。
「……ありがとな」
俺は言った。
「気をつけて帰れよ。暗いから」
「うん。──おやすみ」
ミラは戸を開けて出ていった。二軒隣の自分の家へ。俺は戸口でその背中を少しのあいだ見ていた。それから戸を閉めた。
◇◇◇
その晩、俺はなかなか眠れなかった。
土間の藁の寝床で、何度も寝返りを打った。奥の一間からは、弟の少し荒い寝息と、ときどき母の咳が聞こえた。弟の熱はミラのおかげで少し下がった。けれど、まだすっかり下がったわけではない。明日、ミラの言うとおり薬草を煎じて飲ませよう。汗を拭いてやろう。二、三日で、下がる、とミラは言った。たぶん下がる。子供の熱だ。よくあることだ。──大丈夫だ。
そう思っても、胸の奥の、ざわつきは、消えなかった。
足りないんだ、と思った。
足りない。何もかも。母の薬代。弟の熱。家のみんなの食い扶持。それからまだ、見たこともない、いろいろな出費。子供は、これから、何度でも、熱を出す。母の病は、よくならない。父の遠征が、いつ終わるのかも、分からない。父が稼いで帰ってくるまで、家を支えなきゃならない。父のように、稼いで。
けれど、俺の稼ぎは、二つの魔石で、三日か四日ぶんの薬にしかならない。父は一人前の冒険者だ。深いところまで、潜れる。いい魔石を、たくさん採ってくる。俺はまだ、浅いところしか潜れない。
無理な依頼は受けるな、と、父は言った。
連携が命だ、と。俺はそれを覚えている。だから、無理は、しない。浅いところで、少しずつ、稼ぐ。少しずつ。──それで、足りるのか。
足りないんじゃないか、と、心の隅で、声がした。
俺は目を閉じて、その声を押しのけた。まだ、始めたばかりだ。これから、上手くなる。連携も深く潜れるようになるのも、ぜんぶこれからだ。父も最初はこうだったはずだ。誰だって、最初は浅いところから。──そうだ。そうに、決まってる。
胸のポケットに手をやった。
弟がくれた川の石が入っていた。指でそれをつまみ出して、握ってみた。つるりとした丸い石。ただの石だ。けれど、握ると少し落ち着いた。弟の、熱い額。ミラの、静かな治癒の手。妹の、こわばった顔。母の、咳。──家のことが、ぜんぶこの石の中に詰まっているような気がした。兄ちゃんのお守り、と弟は言った。あぶないとこ、いくんでしょ、と。
俺はその石をしばらく握っていた。
それからまた胸のポケットにしまった。明日、市へ行くとき、持っていこう。お守りだから。弟がくれたんだから。──そう思うと、胸の奥のざわつきが少しだけ静かになった。
奥の一間で、母がまた咳をした。
弟の寝息がそれに応えるように、少し乱れてまた落ち着いた。俺は目を閉じた。明日も、潜る。魔石を採る。母の薬を、買う。弟の熱を、見る。妹に、母さんのことを、頼む。それから少しずつ、上手くなる。──少しずつ。
藁の匂いの中で俺はようやく眠りに落ちた。
革袋には明日売る二つの魔石が入っていた。それも明日、市で銅貨に換えれば、また空になる。満ちては、減る。満ちては、減る。──けれど、胸のポケットの石は空っぽにはならなかった。それだけが、この夜、確かなことだった。
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