第二章「はじめての浅い場所」
朝の光がまだ斜めに長かった。
家を出るとき、私は懐の合わせのところを布の上から一度だけ押さえた。母の祈祷書の固い縫い目の感触が指に返ってきた。それを確かめてから、土間を出た。妹はまだ眠っていた。父は奥の部屋で薬草を煎じていて、行ってくる、と言うと、無理はしないように、とだけ言った。昨日と同じだった。
迷宮の口へ向かう坂を、私はラウィスと並んで下りた。
ラウィスは昨日よりもしっかりと装備を整えていた。父親の革鎧の上から、革紐を一周きつく締めて、その締め目をラウィスは歩きながら何度も指で確かめていた。
「今日から、潜るんだもんな」
ラウィスが言った。声が少し弾んでいた。
「うん」
私は頷いてから、答えた。
「浅いとこから、だよね」
「分かってる。いちばん浅いとこ。最初の広間と、その先の、ちょっとだけ。ティルダさんにも、言われたし」
ラウィスはそう言いながら、迷宮の口のほうを見た。坂の下に、地面の大きな口が朝の影を溜めて、黒く開いていた。
私たちが昨日その縁に立って底を覗き込んだ場所だった。底は見えなかった。今日、私たちが降りるのは、あの底のずっと上のところだ。私はそう自分に言い聞かせた。けれど足の指がまた少し縮こまった。
◇◇◇
口の縁には、見張り台があって、ギルドの人が立っていた。
私たちが章を見せると、その人は私たちの顔と章の番号をちらと見比べた。それから降りる人の名簿のようなものに何か書きつけた。
「初めてかい」
「はい」
ラウィスが胸を張って答えた。
「一層の、浅いとこだけです。俺たち」
見張りの人はそれ以上は何も言わなかった。ただ、行ってこいというふうに顎で口のほうを示した。たくさんの新人を毎朝こうして送り出しているのだろう。その目には私たちが特別なものには映っていないようだった。それが少しだけ心細かった。
階段は口の縁から内側へ向かって幾重にも降りていた。
最初のうちは、縁から差し込む朝の光で足元が見えた。けれど、十段二十段と降りるうちに、その光がだんだん届かなくなった。石の段が上から下りてくるのが分かるくらいの薄暗さになった。
「灯火、点けるな」
ラウィスが言った。
ラウィスが指先を軽く立てた。火の色とも光の色ともつかない白く小さな光がその指先で灯った。市井の灯火だった。子供のころ、初めてそれを灯せた日に家で祝ってもらったのを私は覚えている。ラウィスはそれを得意げに少し前に突き出した。
光は思ったより小さかった。
階段全体が照らせるわけではなかった。すぐ前の段とすぐ後ろの段がぼんやり見える。それだけの明るさだった。その光の輪の外側は上も下もただ暗かった。私たちはその小さな光の輪を足の下に転がすようにして、一段ずつ降りた。
段は降りるほど湿った。
最初は、石の表面が冷たいだけだった。それが二十段三十段と降りると、段の縁に薄く水が張るようになった。誰のものとも知れないぬるい、けれども湿った冷たさだった。私はサンダルの裏にその湿りを感じながら足を運んだ。
「滑るね」
私は言った。
「気をつけて」
「平気だって」
ラウィスはそう言った。それから、自分の足が半歩滑りかけて慌てて壁に手をついた。湿った石の壁に手のひらがべたりと当たる音がした。
「……今のは、段が、急だったから」
「うん」
私は笑った。けれど、その笑いをラウィスに見られないように私は少し俯いた。ここで笑うと、ラウィスはむきになる。子供のころからそうだった。
◇◇◇
階段を降りきった先に広い場所が開けた。
最初の広間だった。灯火の小さな光ではその広さの端まで見えなかった。ただ、天井が思ったより高いことと、奥のほうにもう一つ暗い口のような通路があることがぼんやりと分かった。
そして、匂いがした。
なんと言えばいいのか、私にはすぐには分からなかった。錆びた鉄を舐めたときのような匂い。それが湿った空気に混じって、鼻の奥にうっすらと張りついた。昨日口の縁で嗅いだあの冷たい空気の匂いをもっと濃くしたような。腐ってはいないのに、何か腐りかけたもののすぐ手前の匂いだった。
「これか」
ラウィスが低く言った。
広間の床の、低いところに、細い水路があった。
水とは違っていた。水とは違う色をしたぬるそうな何かがその水路の中をゆっくりと流れていた。灯火を近づけると、その流れの表面が薄く赤みを返した。岩の壁にもところどころに赤茶けた跡が長く垂れていた。古い乾ききらないけれども乾こうとし続けているような跡だった。
「血の、水路」
私は言った。
血の洞窟、と土地の人がこの一層を呼ぶ理由がその水路を見てすぐに分かった。死んだ魔物の血が、ここから流れ続けている、と聞いていた。腐らずに、ずっと。なぜ腐らないのか、それは誰も知らないらしかった。
血には近づかない。父が前に言っていた。冒険者になる前から、薬師の見習いの父は迷宮のことをいくらか知っていた。血の水路の血は飲めば腹の中で悪いものが育つ。返り血を浴びたら、できるだけ早く拭え、と。私はそれを覚えていた。
「ラウィス。水路の縁、歩かないほうが」
「ん、ああ。血、だもんな」
ラウィスも半歩、水路から離れた。私たちは灯火を高くして、広間の奥の通路のほうへ歩き出した。
◇◇◇
通路は細かった。
両側の岩の壁が肩のすぐ横まで迫っていた。灯火の光がその岩肌に当たって、私たちの影をぐにゃりと壁に映した。湿った岩の冷たさがすぐ横から伝わってきた。
ラウィスは先頭を歩いた。
私はその後ろを少し離れてついていった。後ろから、ラウィスの背中とその向こうの灯火の光の輪を見ていた。神官は真ん中より少し後ろ、というのがいいらしかった。誰に聞いたわけでもないけれど、ラウィスが前に出て、私が後ろから傷ついた人に手をかざす。子供のころ、木の剣で遊んだときと同じだった。ラウィスが見えない主に斬りかかって、私は後ろでおまじないをかける役だった。手をかざして、痛いの飛んでいけ、と言う。それだけの遊びだった。
「ミラ、ちゃんと、後ろにいるか」
「いるよ」
「離れるなよ。何かあったら、すぐ、後ろから」
「うん」
私は答えた。けれど、どのくらい離れていればいいのか、どのくらい近ければいいのか私にはよく分からなかった。近すぎれば、ラウィスが剣を振るときに邪魔になる気がした。離れすぎれば、何かあったときに間に合わない気がした。私はそのちょうどいい間合いを探りながら歩いた。たぶん、ラウィスも同じだった。前に出すぎては立ち止まり、私のほうを振り返って、また歩いた。
私たちはそういう歩き方しか、まだ知らなかった。
通路はしばらく行くと二つに分かれた。
最初の分かれ道だった。右と左に暗い口が二つ開いていた。どちらも、同じくらいの暗さだった。
ラウィスが立ち止まった。
「どっちだ」
「どっちって……」
「浅いほうって、どっちだろ」
私たちはしばらくその二つの口を見比べた。けれど、灯火の光ではどちらもすぐ先で暗がりに吸い込まれて、その先が見えなかった。浅いほうも深いほうも見分けがつかなかった。
「右、行ってみるか。少しだけ」
ラウィスが言った。
「危なそうだったら、すぐ戻る。ティルダさんにも、そう言われたし」
「うん」
私たちは右の口へ、足を踏み入れた。
そのとき、ラウィスの右手が腰の剣の柄に伸びた。
指が柄を握る。指の隙間で柄の革がかすかに鳴った。革のこすれるような小さな音だった。
私はそれを、後ろから、聞いた。
不思議だった。私はその小さな音を聞くと、なぜか少しだけ安心した。暗い通路の中で、その音だけが、私の知っているものだった。ラウィスがすぐ前にいる。緊張している。けれど、ここにいる。その音が、そう、教えてくれているような気がした。
◇◇◇
低い唸りが、聞こえた。
灯火の光の届かない奥の暗がりからだった。一つではなかった。二つ重なって聞こえた。
ラウィスの足が止まった。
「ミラ」
ラウィスが小声で言った。声がいつもより低かった。
「奥に、何か、いる」
「うん。聞こえる」
私はラウィスの背中のすぐ後ろで足を止めた。灯火の光をラウィスが少し前に突き出した。光の輪が暗がりの中へ押し込まれる。その光の縁に、何かが、二つ、ぬっと、姿を現した。
毛並みが血の色だった。
二頭の大きな獣だった。狼の形をしていた。けれど、毛の色が乾いた血のような暗い赤だった。口の周りと胸のあたりに黒っぽい赤いものを纏っていた。息を吐くたびに口の端から細い赤い糸が垂れた。垂れた糸は地面に落ちる前に、消えた。
血喰狼、と私は心の中で言った。
ギルドで、聞いていた。傷口が、塞がらない。失血では、死なない。頭を、潰さないと、止まらない。そう教わっていた。教わっていたはずなのに、その二頭の獣が目の前の暗がりから、ゆっくりとこちらへ歩いてくるのを見ると、頭が白くなった。聞いた言葉がぜんぶ、どこか遠くへ行ってしまった。残ったのは、ただ自分の心臓の音と口の中が乾いていく感じだけだった。
私は傷を塞ぐ者だった。見習いだけれど、手をかざして切れた皮膚を寄せて血を止める。それが私の役だった。けれど、目の前の獣は塞がらない傷でできていた。流れ続ける血でできていた。私の手のちょうど裏返しのようなものが、二頭こちらへ歩いてくる。私は思わず自分の手のひらを一度握った。
「ラウィス──」
「下がってろ、ミラ」
ラウィスが剣を抜いた。
抜く動作が少しもたついた。鞘の途中で刃が一度引っかかった。ラウィスはそれを力で引き抜いた。両手で柄を握り直す。その手が柄の太さに合っていないのが後ろから見ていて分かった。指の隙間が、残っていた。ラウィスはその握りきれない柄を握りしめて、構えた。
一頭目が跳んだ。
ラウィスの剣がそれを横から打ち払った。
打ち払った、と思った。けれど、剣は狼の頬のあたりの毛を浅く裂いただけだった。狼は地面に着地してまた低く構え直した。裂かれた頬から血が流れた。流れたけれど、止まらなかった。止まらないまま、狼はまだ立っていた。
ラウィスの振りが大きすぎる。私は後ろから、それを見ていた。
子供のころ、ラウィスが木の剣を振るとき、いつもああやって大きく振りかぶった。見えない主に斬りかかる。腕をいっぱいに伸ばして。あれは相手が止まっていたからだ。木の枝を地面に立てて、それを主に見立てて、斬る。相手は動かない。だから、いくら大きく振っても、当たった。
けれど、この狼は、動いた。
ラウィスの大きな振りが空を薙いでいるあいだに、狼はもう別のところへ跳んでいた。ラウィスの剣は振りかぶって振り下ろすまでのその一拍のあいだに、相手を逃がしていた。子供のころのあの振り方が動く獣には通用しない。私はそれを後ろから見て分かった。けれど、それをどう伝えればいいのか、私には分からなかった。
「頭っ」
私は思わず、声を上げた。
「頭、潰さないと──」
「分かってる!」
ラウィスが叫んだ。声が上ずっていた。
ラウィスはもう一度、剣を振った。今度は狼の頭を狙った。けれど、狼が横に跳んだ。剣は空を切って、岩の壁に当たった。硬い嫌な音がした。剣の刃が岩を打った衝撃がラウィスの腕を痺れさせたらしかった。ラウィスの手が一瞬、止まった。柄を握る指が白くなっていた。
横に跳んだ一頭目は灯火の光の輪の縁のあたりで、また低く構え直していた。すぐには来なかった。
二頭目が、その隙に、ラウィスの横へ回り込んだ。
「ラウィス、横!」
私が叫んだのと、ラウィスが振り向いたのが、同時だった。ラウィスは振り向きざまに盾を二頭目の前に突き出した。二頭目の口がその盾に当たった。鈍いぶつかる音がした。ラウィスの体がその勢いで後ろへよろけた。よろけて、私のすぐ前まで下がってきた。
私の両手が勝手に前に出た。
ラウィスの背中に触れようとして。狼に手をかざそうとして。けれど、その手は宙で行き場を失った。子供のころなら、ここで手をかざせばよかった。傷ついたふりの子に、手をかざして痛いの飛んでいけと言えば、それでよかった。けれど、目の前のものは、動いていた。止まっていない本物の獣だった。私の手はどこへどう出せばいいのか、分からないまま、ラウィスの背中のすぐ手前で震えていた。
その手が、ラウィスの背中に、触れた。
「ミラ、下がってろって!」
「下がってる!」
下がっていなかった。けれど、私はそう言った。
ラウィスが体勢を立て直した。けれど、立て直しながらラウィスは剣の構えを少し変えた。両手の肘をさっきより低く引いた。大きく振りかぶるのをやめたのだ。後ろから見ていて、私にはそれが分かった。あの大ぶりでは当たらない。ラウィスもたぶんそれに気づいたのだ。一頭目がまた跳んできた。ラウィスは今度は避けずに、その正面で剣を短く上から振り下ろした。
剣が一頭目の頭に当たった。
鈍い重い音がした。木の枝を太い幹に思いきり打ちつけたときのような、手応えのある音だった。けれど、狼は崩れなかった。ひと呼吸、動きを止めただけだった。振りを小さくしたぶん、力が足りなかったらしい。狼は頭から血を流しながら、なおも低く唸った。
「もう一回!」
私が言った。
ラウィスが二度目を振り下ろした。
今度は、狼が、崩れた。前のめりに地面に倒れた。倒れたあとも、その口の端から細い赤い糸が垂れ続けていた。
二頭目がその仲間の崩れる音に一瞬ひるんだ。
その一瞬をラウィスは逃さなかった。二頭目の横へ踏み込んで、その頭の側面を剣で薙いだ。一度。二度。さっきと同じだった。一度では、崩れず、二度目で、二頭目も、崩れた。
通路に静けさが戻った。
◇◇◇
ラウィスは肩で息をしていた。
剣を下げて、その切っ先から垂れる血を見ていた。剣の刃には暗い赤がべったりとついていた。ラウィスの革鎧の肩のあたりにも跳ねた血が点々とついていた。その血の生臭さが、さっきの錆びた匂いよりずっと近くで鼻についた。返り血だ、と私は思った。早く拭え、と父が言っていた。
「ラウィス、怪我は」
私はラウィスのすぐ後ろで聞いた。
「ない。たぶん。──ミラは」
「私も──」
言いかけて、私は自分の左の腕の外側がぴりぴりと痛むのに気づいた。見ると、法衣の袖が少し裂けていた。さっき、狼がラウィスの横へ回り込んだとき、私がとっさに身を引いたその拍子に、岩の壁の尖ったところに腕を擦ったらしかった。袖の裂け目の下で、皮膚が浅く切れて、血が薄く滲んでいた。
たいした傷では、なかった。擦り傷だった。
「ミラ、血」
ラウィスがそれに気づいた。顔が、さっと、青くなった。
「腕、噛まれたのか!? 狼に──」
「ううん。違う。壁に、擦っただけ。ほんとに、これだけ」
私は急いで言った。ラウィスが本気で心配しているのが分かったからだ。私は左の袖をまくって、その擦り傷をラウィスに見せた。血はもう滲むのをほとんどやめていた。それでも、私はその傷に右手をかざした。
口の中で小さく聖句を唱えた。
女神よ、ひと滴の苦しみを購いたまえ。小さき傷はふさがり、熱はしずまり、その身に再び安らぎの戻らんことを。痛みはいずこか、和ぎはここに。
私が教会で、いちばん最初に習い覚えた句だった。村の聖堂の若い神官が、最初に教わる句で、私のような見習いでも、扱えた。
手のひらから、傷へ、何かが届く感じがあった。温かいような、くすぐったいような。私自身の息が、少し抜けるような。擦り傷の薄い切れ目がゆっくりと寄っていって、滲んでいた血が止まった。
「……治った」
私は言った。
ラウィスが私の腕を覗き込んだ。さっきまで血が滲んでいたところが、もうただの赤い線になっていた。
「すごいな」
ラウィスが言った。さっきまでの青い顔が、少しずつ、ほどけていった。
「ミラ、本当に、神官、なんだな」
「見習い、だよ」
私は言った。けれど、ラウィスがすごい、と言ってくれたのが、少しだけ、嬉しかった。私は自分の腕をもう一度、見た。赤い線は、もう、痛まなかった。
たいしたことのできる力ではなかった。重い傷は私にはまだ治せない。毒も、駄目だ。本職の神官なら、もっとできることがたくさんあるのだろう。さっき、狼がラウィスに組み付こうとしたとき、私の手は宙で迷っただけで、何もできなかった。私のは、白い布に宝石を一つ留めただけの子供のお守りのような印だ。それでも、ラウィスの青くなった顔が、私の小さな聖句でほどけていくのを見ると、私はここにいていいのだ、という気がした。
◇◇◇
狼の死体のところで、ラウィスが屈み込んだ。
「魔石、入ってるはずだ」
ラウィスが言った。剣の先を潰した狼の頭のあたりに差し入れて、慎重に何かを探っていた。一層の魔物は、体の中に小さな魔石を持っている。それを取り出して、街で換金する。それが駆け出しのいちばんの稼ぎになる。ギルドでそう聞いていた。
「あった」
ラウィスが言った。
ラウィスの指が割れた頭の奥から、小さな、何かをつまみ出した。
つまみ出すとき、ラウィスの指は、狼の、まだ温かい中に、半ばまで沈んだ。ぬめる生温かいものが指にまとわりついた。ラウィスは一瞬顔をしかめた。それでも、手は引かなかった。指を、奥まで入れて、その小さな石を、抜き取った。私は後ろから、それを見ていた。私だったら、たぶん手が止まっていた。
灯火の光に、それをかざす。小さな石だった。にごった赤茶けた色をしていて、表面がぬめぬめと濡れていた。とても綺麗なものとは言えなかった。けれど、ラウィスはそれをまるで宝物のように、灯火に透かして見ていた。
「これが魔石」
ラウィスが言った。声が少し、震えていた。
「これ、売れるんだよな。──これで」
ラウィスが腰の革袋の口を開いた。昨日まで、空っぽだった、あの革袋だった。締めた口を開くと、硬い革が、きゅっと、鳴った。ラウィスはその、にごった魔石を革袋の中にそっと、入れた。
ことり、と小さな音がした。
空っぽだった袋の底に、初めて何かが落ちた音だった。
「一つ、入った」
ラウィスが言った。革袋の口を締め直す。それから、もう一頭の狼のところへ行って、同じように魔石を取り出した。二つ目の、ことり、という音がした。
ラウィスは二つの魔石の入った革袋を手のひらの上で軽く上下に揺らした。昨日、あの一団の革袋が重そうに膨らんでいたのをラウィスは見ていた。それに比べたら、二つの魔石はほとんど重さなんてなかった。それでも、昨日の空っぽの軽さとは違っていた。ほんの少しだけ、袋に重みが加わっていた。
「これで」
ラウィスが言った。
「これで、母さんの薬、買えるかな。少しは」
ラウィスの母は病で、寝たきりだった。薬代がいつも、足りない。ラウィスが冒険者になったのも、その薬代のことが大きかった。私はそれを知っていた。
「買えるよ」
私は言った。
「少しずつ、ね」
「少しずつ、な」
ラウィスが繰り返した。昨日も、ギルドで私たちは同じことを言った。少しずつ。けれど、ラウィスがその「少しずつ」をどれだけ守れるのか、私にはやっぱり分からなかった。
◇◇◇
魔石をしまったあと、ラウィスはもう一つ別のものを取り出した。
胸のポケットのあたりから、ラウィスは何かをつまみ出した。小さな石だった。けれど、それは魔石とは違っていた。ただの川の丸い石だった。表面がつるりと滑らかで、灰色がかった白い色をしていた。どこにでもあるただの石だった。
ラウィスはその石を手のひらに載せて、しばらく見ていた。
それから、その石をぎゅっと、握った。握って、また、胸のポケットにしまった。
何の石なのか、私は聞かなかった。ラウィスはその石を、いつから持っているのか、私は知らない。ただ、ラウィスがその石を握るときの顔が家の誰かを思い出しているような顔だった。だから、私は聞かなかった。聞かなくても、ラウィスにとって、大事なものなのだ、ということは、分かった。
ラウィスはその石をしまうと立ち上がった。
「戻るか」
ラウィスが言った。
「今日は、これで、じゅうぶんだ。──最初にしては、上出来だろ」
「うん」
私は頷いた。
私たちは来た道を戻った。灯火をまた、前に突き出して。細い通路を抜けて、血の水路のある広間に出た。広間の中を水路の縁を避けて、横切った。階段の下まで来た。
「ミラ」
階段の手前で、ラウィスが立ち止まって、振り返った。
「さっきの、狼。──二頭、出たろ」
「うん」
「俺、最初、一頭だと思ってた。唸り声、一つに聞こえて。二頭目が、横から来たとき、ちょっと、焦った」
ラウィスが言った。それから、少し、笑った。
「でも、二頭で、ちょうど、良かったよな。三頭だったら、たぶん、無理だった」
私はその言葉を、聞いた。
ちょうど、良かった。ラウィスがそう言った。私はラウィスが本当は焦っていたのを、後ろから見ていた。剣がもたついたのも、空を切ったのも、見ていた。一頭目を、二度、振り下ろさないと、潰せなかったのも。子供のころの、あの大きな振り方が、動く獣には、通用しなかったのも。私はぜんぶ、見ていた。
私はそれを、指摘しなかった。
ラウィスが強がるのを私は子供のころから見てきた。木登りで、いちばん高い枝から落ちかけたときも、ラウィスはわざと、だ、と言った。川で、流されかけたときも、泳ぐ練習だ、と言った。ラウィスはいつもそうやって、自分のできなかったことに別の名前をつける。私はそれを、知っている。たぶん私だけが知っている。
だから、私は何も言わずに、頷いた。
「うん。ちょうど、良かったね」
私はそう言った。ラウィスの言葉をそのまま返した。ラウィスは満足そうに笑った。その笑いを私は見守った。姉が弟を見るような。小さいころからずっとそうしてきたように。
階段を、私たちは登り始めた。
降りるときは、あんなに長く感じた階段が登るときは、不思議と短く感じた。一段ずつ上に行くごとに、暗がりが薄れて、上のほうから光が降りてくるのが分かった。やがて、灯火が要らなくなった。ラウィスが指先の光を消した。
口の縁に、出た。
外の光がまぶしかった。さっきまでの暗がりに慣れた目に、朝の明るい光が刺さった。私は思わず目を細めた。風が吹いていた。地下の冷たい錆びた匂いの風ではなくて、街の乾いた温かい風だった。
「終わった」
ラウィスが言った。
ラウィスは口の縁に立って、街のほうを見ていた。その顔は明るかった。何かをやり遂げた人の顔だった。腰の革袋には二つの魔石が入っていた。それはほんの小さな稼ぎだった。けれど、私たちにとって、初めての稼ぎだった。
「ミラ、俺たち、やれたな」
ラウィスが言った。
「初めてで、二頭。やれた、よな」
「うん」
私は頷いた。
本当は、危ない場面がいくつもあった。それでも、私たちは二頭の狼を倒して、魔石を二つ持って、ここまで登ってきた。
「帰ろう。母さんの薬、買って、帰る」
ラウィスが言った。腰の革袋に手をやって、その口を軽く握った。二つの魔石のほんの少しの重みを、確かめるように。
「明日も、また、来ようぜ。少しずつ、稼いで」
「うん」
私は答えた。
私たちは迷宮の口に背を向けて、街のほうへ歩き出した。朝の光はもう斜めではなくなって、まっすぐ上から降りてきていた。二つの影が石畳の上に短く足元に落ちていた。ラウィスの影と、私の影とが、並んで、街のほうへ進んでいった。
ラウィスの腰の革袋の中で、二つの魔石が歩くたびに、ことり、ことり、と小さく鳴っていた。
その音を、私は隣で聞いていた。
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