第一章「登録の日」
朝の早い時間に妹が起きてきた。
私が竈の前で湯を沸かしていると、寝間着のままの妹が土間の隅の私のところまで、ぺたぺたと小さな足音を立ててやってきた。まだ目が半分しか開いていない。片方の手に何かを握っている。
「これ」
妹はそれを私の手のひらに押しつけた。道端の野花だった。黄色い名前も知らない小さな花が二本。茎が温かかった。きっと、昨日の夕方に摘んで、寝るまで握っていたのだ。妹はそういう子だった。何か渡したいものがあると、渡すまで放さない。
「ありがとう」
私はそう言った。花を一本、髪の編み目に挿してみせると、妹は満足したように笑った。
「お姉ちゃん、おしごと?」
「うん。今日からね」
妹の前にしゃがんだ。寝間着の裾から片方のサンダルの紐が解けて垂れていた。私はそれを両手で結んでやった。結び目を二度確かめる。きつすぎないように、けれど走っても解けないように。この子の紐を結ぶのは、もう数えきれないほどしてきたことで、指がひとりでに動いた。
「行ってくるね。お父さんの言うこと、ちゃんと聞くんだよ」
妹はこくりと頷いた。
奥の部屋から、父が出てきた。
薬師の見習いをしている父は夜のうちから薬草を煎じることが多くて、朝はいつも薬の匂いをさせていた。その日も苦い青い匂いがした。父は手に小さな布の袋を持っていた。
「ミラ」
父がその袋を私に渡した。
「包帯と、止血の薬草。少しだけど、入れておいた。傷の手当てに使いなさい」
「うん。ありがとう」
私はその袋を受け取って、治癒の道具の入った腰の小袋に一緒にしまった。父の手は薬を扱う手で、爪のあたりにいつも薬草の緑が薄く染みついていた。稼ぎは多くない。薬師の見習いのままで、もう長い。それでも父は私のために薬草を分けてくれた。
「無理はしないように」
父が言った。それだけだった。
父は止める代わりに、薬草を持たせた。
「うん」
私は頷いた。
私は花のもう一本を、懐の合わせのところにそっと挟んだ。胸元に、布越しの硬さがあった。母の祈祷書だった。指がそこに触れて、布の上から軽く押さえる。それから、一度だけ、指先を表紙の縫い目に沿って這わせた。革の固い縫い目の感触が指に残った。中は開かない。開けたことは、ほとんどない。ただそこにあることをこうして確かめるだけだった。お母さんが守ってくれている、と思うと、胸の奥が少しだけ静かになる。それでよかった。
父は私が母の祈祷書を持っていることを、知らない。
母が亡くなったとき、私はまだ三歳で、母のことはほとんど覚えていない。顔は、もう思い出せない。ただ、この祈祷書だけが、母と私を繋ぐものだった。それを懐に入れていることは、父にも言っていなかった。なぜ言わないのか、自分でもよく分からない。ただこれは私と母だけのものにしておきたかった。
竈の火を落として、私は家を出た。
◇◇◇
ラウィスは二軒隣の家の前で待っていた。
朝の光がまだ低くて、道の片側だけが明るかった。ラウィスはその明るいほうに立って、剣を腰に佩いていた。父親の古い片手剣だった。革鎧も父親のものだという。少し大きくて、肩のあたりに余りがある。盾は中古をギルドで買ったのだと、前に聞いた。装備の一つひとつがラウィスのものでありながら、ラウィスのものでないように見えた。
ただ腰に下げた小さな革袋だけは新しかった。
魔石を入れるための袋だと、ラウィスは嬉しそうに言っていた。これは自分で買ったんだ、と。父親の譲りものでも、ギルドの貸しものでもない。初めて自分で選んで持った道具だった。だからその革袋だけが、ほかの装備と違って、ラウィスの体に馴染んでいるように見えた。
「ミラ、おはよ」
ラウィスが手を上げた。
「行こうぜ。今日は、登録の日だ」
声が少し弾んでいた。ラウィスはいつも何かが始まる朝にこういう声を出す。早口で語尾が跳ねる。私はそれを聞くのが嫌いではなかった。
「うん」
私は頷いてから、答えた。頷きが先に出るのは私の癖らしい。教会で見習いをしているときに、誰かに言われたことがある。返事をする前に、いつも一度頷くね、と。
「緊張、してる?」
ラウィスが歩きながら聞いた。
「少し」
「俺は全然」
そう言いながら、ラウィスの右手が腰の剣の柄に伸びた。指が柄を握る。私はそれを横から見ていた。ラウィスは緊張すると、剣の柄を握る。本人は気づいていない。握ると、指の隙間で、柄の革がかすかに鳴る。革のこすれるような、小さな音だった。
その柄はラウィスの手には少し太い。半寸ほど、と前に本人が言っていた。父親の手に合わせて作られたから、ラウィスの指では握りきれない。指と指のあいだに、隙間が残る。私はそれを横から見て、いつも思う。あと少し背が伸びて、手が大きくなれば、ちょうどよくなるのにと。
「全然って」
私は小さく言った。
「柄、握ってる」
「えっ」
ラウィスが自分の右手を見た。慌てて手を離す。耳のあたりがほんのり赤くなっていた。
「……今のは、たまたま」
「うん」
私は笑った。ラウィスのこういうところを私は子供の頃から知っている。たぶん私だけが知っている。それが少し嬉しかった。
道は迷宮の口のほうへゆるく下っていた。
私たちの住む街は、すり鉢のような窪地の底にあって、その中心に、地面が大きく口を開けている。トワ迷宮の口だった。街三つ分もある、と言われている。子供の頃から見ているはずなのに、近づくたびに、やっぱり大きいと思う。口の縁を石の柵と見張り台がぐるりと囲んでいて、内側へ階段が幾重にも降りていた。
その口のほうへ、朝の人たちが歩いていく。剣を背負った人。革鎧の人。腰に魔石の帯を巻いた人。みんな迷宮で身を立てる人たちだった。
今日から私たちもその仲間になる。
そう思うと、足の裏が少しふわふわした。
◇◇◇
坂を下りきると、市の通りに出た。
朝でも通りはもう賑やかだった。露店が両側に並んで、香ばしい油の匂いと、何かを焼く煙がいっぺんに押し寄せてきた。荷を担いだ男が「通るよ」と声を上げながら、肩で人波を分けていく。武具を直す店の前で、誰かが金槌を打つ音がしていた。その音が通りの賑わいの底で、絶え間なく鳴っていた。
私たちの街は、迷宮で食べている。父が前にそう言っていた。諸国から冒険者がやってくる。迷宮へ降りて、何かを持って上がれば、それが金になる。だから、その人たちを当て込んだ店が、迷宮の口のまわりに集まる。武具の修繕、干し肉や油、宿。通りに立っているだけで、人の流れが迷宮の口のほうへ、ゆるく傾いているのが分かった。
ラウィスはその通りをきょろきょろ見回しながら歩いた。
「なあ、ミラ。あの店、新しい盾売ってるぞ」
「うん」
「いつかちゃんとしたやつ買うんだ。中古じゃなくて」
ラウィスは武具屋の店先をしばらく見ていた。けれど足は止めなかった。今は見るだけだった。
パン屋の前を通りかかると、店先にいた女が私たちに気づいて、手を止めた。近所の人だった。子供の頃から、知っている。
「あら、ラウィスとミラじゃないの。二人で、どこ行くんだい」
「ギルド」
ラウィスが胸を張った。
「登録しに行くんだ。今日から、俺たち、冒険者」
「冒険者!」
女が目を丸くした。それから、ぱっと顔をほころばせた。
「そうかい、あんたたち、もう冒険者かい。──おめでとう。立派なもんだ」
女は屈託なく笑った。私たちが泥だらけで駆け回っていたのも、つい昨日のことのはずなのに、女はそんなことは口にしなかった。ただ嬉しそうに私とラウィスを見ていた。
「ミラ。あんたがついてるなら、心強いね」
「……はい」
私は頷いた。
女は焼きたてのパンを一つ、紙に包んでラウィスに持たせてくれた。
「持っていきな。お祝いだよ」
「いいの? ありがと、おばさん」
ラウィスが嬉しそうに受け取った。私たちはパン屋の前を離れた。ラウィスはその温かいパンを大事そうに両手で持っていた。
露店の一つは、子供向けの玩具を売っていた。木を削って彩色した小さな剣や、布で作った獣の人形が、籠に山と積まれている。その前で五つくらいの女の子が木剣を二本、両手に一本ずつ握ってぶんぶん振り回していた。
「とうばつさい、やるの!」
女の子が、店番の老人に向かって言った。
「あたしが、いちばんつよいきしなの」
「ほう、騎士様か」と老人が笑った。「そりゃ頼もしい。主様も、これで安心だな」
女の子は得意げにもう一度、二本の木剣を振り回した。母親らしい女がその後ろで釣り銭を数えながら、止めもせず、ただ笑っていた。
私はその光景をしばらく見ていた。三十年に一度の、主の討伐。私とラウィスにとっては、夢のいちばん遠くて、大きなものだった。子供の頃から、二人でそればかり思い描いてきた。その同じものを、この通りの子は、両手に二本も握って振り回している。母親は止めもしない。ここでは討伐祭は遠い夢ではなくて、そのへんの籠に積まれた玩具の一つなのだった。同じ言葉を私たちはこんなに眩しく見上げているのに、この街では、それがずいぶん呑気な顔をしている。
ラウィスもその親子を見ていた。
「俺も、あのくらいのとき、あんなふうに遊んでたよな」
ラウィスが言った。
「木の剣で。ミラも、いただろ。後ろで、神官のふりして」
「……してた」
私は小さく頷いた。覚えていた。ラウィスが近所の子たちを率いて、見えない主に斬りかかる。私はその後ろで、傷ついたふりをした子に、おまじないをかける役だった。手をかざして、痛いの飛んでいけ、と言う。それだけのことだったのに、私はその役が好きだった。
「あれが、本物になるんだもんな。今日から」
ラウィスが嬉しそうに言った。
通りの先に、迷宮の口の縁が見えてきた。石の柵と、見張り台。その脇に、石造りの大きな建物が建っていた。
◇◇◇
冒険者ギルドは迷宮の口のすぐ脇に建っていた。
石造りの大きな建物で、両開きの扉から、ひっきりなしに人が出入りしていた。中に入ると、天井が高くて、声がよく響いた。壁の一面が掲示板になっていて、依頼の紙が隙間なく貼られている。その前に、何人もの冒険者が立っていた。
朝の冷えがまだ床の石に残っていた。
「うわ、広い」
ラウィスが天井を見上げた。
「ミラ、見ろよ、あの掲示板。あんなにいっぱい依頼が」
「すごいね」
私は掲示板の前の冒険者たちを見ていた。みんな大人だった。背が高くて、装備が体に馴染んでいて、声に張りがあった。私とラウィスはその中で、自分たちがいかにも子供だと、急に分かった。法衣の袖を私はそっと引いた。袖と裾は自分で短く仕立て直してある。手縫いだから、よく見ると、繕った跡が並んでいる。それを誰かに見られている気がした。
扉のほうから、一団が入ってきた。
迷宮から上がってきたばかりらしかった。四人でみんな土と汗にまみれていた。一人は肩を仲間に支えられて、足を引きずっていた。けれど、その顔は疲れていながら、どこか満ちていた。腰の革袋が重そうに膨らんでいた。魔石が入っているのだろう。一団は受付とは別の窓口のほうへ、まっすぐ歩いていった。採ってきたものを換金する窓口らしかった。
ラウィスはその一団を、目で追っていた。
「見たか、ミラ。あの革袋」
ラウィスが小声で言った。
「あれ、ぜんぶ魔石だぞ。きっと。──いいな」
そう言いながら、ラウィスの手が自分の腰の革袋に触れた。締めた口を指でつまんで、軽く持ち上げる。中身が何もないぶん、硬い革がきゅっと小さく鳴った。まだ空っぽだった。その軽さがあの一団の革袋の重そうな膨らみと、ちょうど反対だった。ラウィスはその軽い袋を一度、握り直した。早く、ここに魔石を詰めたいのだ、という顔をしていた。
「私たちも、なれるよ」
私は言った。
「少しずつね」
「少しずつ、な」
ラウィスが繰り返した。けれど、その「少しずつ」をラウィスがどれだけ守れるのか、私には分からなかった。ラウィスはいつもいちばん高いところに手を伸ばす人だった。
「あっちが受付だ」
ラウィスが奥のほうを指した。
受付の窓口には、女の人が一人いた。机に向かって、何か書きものをしている。私たちが近づくと、その人が顔を上げた。
知った顔だった。
ティルダさんだった。地元の人で、子供の頃から知っている。元は冒険者だったと聞いた。右の脚を悪くして、今はギルドの受付をしている。私たちが小さい頃、道で会うと、いつも軽く笑って、声をかけてくれた。
「あら」
ティルダさんが私たちを見た。
「ラウィスと、ミラじゃない」
その声は、いつものティルダさんだった。くだけた、笑いを含んだ声。けれど、私たちが受付の前まで来て、それが世間話ではなく登録のためだと分かると、ティルダさんの顔がほんの少しだけ変わった。笑いが薄くなった。
「登録?」
「うん」
ラウィスが机に手をついた。
「俺たち、今日から冒険者になるんだ」
ティルダさんはすぐには答えなかった。羽根ペンを置いて、私とラウィスを順番に見た。何か言おうとして、けれどその言葉の前にひと呼吸の間があった。ティルダさんは何かを言う前に必ず少し間を置く人だった。
「……ラウィス」
ティルダさんが言った。声が、さっきより低くなっていた。
「また背伸びをするんじゃないわよ」
ラウィスのことだ、と私は思った。
ラウィスは昔から背伸びをする。自分より大きいものに、すぐ手を伸ばす。木登りでも、川遊びでも、いつもいちばん高いところ、いちばん深いところへ行きたがった。ティルダさんはそれを知っている。だから、釘を刺したのだ。
「背伸びなんかしないって」
ラウィスが口を尖らせた。
「子供扱いだな、ティルダさんは」
「子供でしょ、まだ」
ティルダさんが少しだけ笑った。けれど、その笑いは、目のところまで届いていなかった。口元だけが笑って、奥のほうに何か笑いきれないものが残っていた。
ティルダさんは机の上の台帳をこちらへ開いた。
◇◇◇
「装備の確認を、するわね」
ティルダさんが言った。
ラウィスが腰の剣を、机の上に置いた。
「父さんの剣。刃こぼれはあるけど、研いだ。手入れは、ちゃんとしてる」
ティルダさんは剣を手に取って、刃を眺めた。元冒険者の目だった。刃の状態を、すぐに見抜いているようだった。
「いい剣ね。古いけど、よく使い込まれてる」
「だろ」
ラウィスが得意そうに言った。
「柄が、少し大きいわね」
ティルダさんが柄を握ってみせた。ティルダさんの手はラウィスより大きい。それでも少し余るようだった。
「父さんの手に合わせて作ったやつだから。俺の手には、まだ大きいんだ」
ラウィスは何でもないことのように言った。けれど、私は知っている。ラウィスは、その柄を握りきれない。指の隙間が残る。緊張すると、そこで革が鳴る。今も机に置かれた剣を見ながら、ラウィスは無意識に手を握ったり開いたりしていた。
「革鎧も、父さんのだろ?」
「うん。ちょっと大きい。けど、革紐で締めれば、いける」
「盾は?」
「これは、自分で買った。中古だけど」
ラウィスは背中の小さな盾を外して、机に置いた。それから、腰の革袋に手をやった。
「あと、これ。魔石を入れる袋。──これも、自分で買ったんだ」
ラウィスがその革袋をほんの少し持ち上げて見せた。新しい革の、まだ硬い口がきゅっと締まっていた。ラウィスはそれをいちばん見せたかったのだと、私には分かった。父親の譲りものでも、ギルドの貸しものでもない。初めて自分の稼ぎを入れるために、自分で選んだ道具だった。
「ちゃんと、考えて揃えたのね」
ティルダさんが言った。少し声がやわらかくなった。
「神官さんは」
ティルダさんが私のほうを見た。
「印を、見せて」
私は胸元の聖印をティルダさんに見せた。白い布に、小さな赤い宝石が縫い留めてある。見習い用の、簡素なものだった。本職の神官の聖印は、もっと立派だと聞く。私のは、白布に宝石を一つ留めただけの、子供のお守りのようなものだった。
「見習いの印ね」
「はい。初級の奇跡だけ……止血と、痛みを和らげるのと、熱を下げるくらいです。重い傷は、まだ」
「それでも、神官がいるのといないのとじゃ、大違いよ」
ティルダさんが言った。
「あなたがいれば、ラウィスも無茶しないでしょ」
「させません」
私ははっきりと言った。自分でも少し驚くくらい、はっきりと。ティルダさんがふっと笑った。今度の笑いは、底に沈んだものがない、ただの笑いだった。
「頼もしいわ」
◇◇◇
「じゃあ、登録の手続きね」
ティルダさんが羽根ペンを取った。台帳の、新しい頁を開く。
「登録料は、銀貨一枚。一人ずつ」
ラウィスが革袋とは別の、小さな布の財布を出した。中から銀貨を二枚、机に置く。
「二人分。俺が」
「ラウィス」
私は言った。私の分は、自分で出すつもりだった。
「いいって。今日は、俺が出す」
ラウィスはそれ以上言わせなかった。私は銀貨を引っ込めた。ありがとう、と言いかけて、やめた。ラウィスはお礼を言われるのを照れる。だから何も言わずに頷いた。
ティルダさんが銀貨を受け取って、台帳に何か書き込んだ。それから、ペンを持ち直した。
「お名前は。台帳に、何て書く?」
「ラウィス」
ラウィスが言った。
ティルダさんの羽根ペンが紙の上を走った。さらさらと、音がした。ラウィス、と、黒いインクで、名前が書かれていく。
私はその台帳を、横から見ていた。
頁には、いくつもの名前が並んでいた。私たちより前に登録した、たくさんの人たちの名前だった。黒いインクで、びっしりと書かれている。
その中にいくつか赤い線が引かれていた。
名前の上に横一文字に、赤い線。古いものは、インクが褪せて、薄い茶色のようになっていた。新しいものは、まだ赤い。何の印なのか、私には分からなかった。ただ、その赤が、黒い名前の並びの中で、ぽつり、ぽつりと目についた。
ティルダさんの手が、止まった。
ペンを持つ手を一度宙で止めて、それから、また動かした。私はティルダさんがその赤い線のあたりを、ほんの一瞬、見たような気がした。けれど、それも、すぐだった。ティルダさんは何も言わなかった。
「ミラは?」
ティルダさんが私のほうを見た。
「ミラです」
私は答えた。
ティルダさんの羽根ペンが、また走った。ミラ、と、私の名前が台帳に書かれていく。ラウィスの名前の、すぐ隣だった。
二つの名前が、並んだ。
ラウィスと、ミラ。黒いインクで、隣り合って。
それを見ていたら、ふいに胸の奥が温かくなった。これから、ずっと、この人の隣にいられたら、と思った。冒険者として、同じパーティで、同じ依頼を受けて。ずっと、隣に。
そう思ってから、私はその思いを、そっと押しのけた。
……違う。これは、そういうことじゃない。私はラウィスを見守る側だ。姉が、弟を見るような。小さい頃から、ずっとそうだった。ラウィスが無茶をしないように、傍にいる。それだけのことだ。隣にいたいというのは、そういう、姉のような気持ちなのだ。
胸の奥の温かさに、私はそういう名前をつけた。つけて棚の上にしまった。
「はい、これで登録完了」
ティルダさんが小さな木の札を、二枚、机に置いた。焼き印で、番号と紋章が入っている。
「ギルド章。なくさないようにね」
「おお」
ラウィスが札を一枚、手に取った。焼き印を、まじまじと見る。
「これが、ギルド章……俺たち、本当に冒険者になったんだ」
ラウィスの声がまた弾んだ。私ももう一枚の札を受け取った。木の札は思ったより軽くて、けれど手のひらの中で、確かな重さがあった。
ティルダさんは私たちが札を握るのを、見ていた。
何か言いたそうな顔だった。けれどティルダさんはすぐには言わなかった。いつものように、ひと呼吸、間を置いた。その間に、ティルダさんは台帳を静かに閉じた。
「……二人とも」
ティルダさんが言った。声が、低かった。
「迷宮はね。思ってるよりずっと深いの。浅いところでも、なめてかかると、痛い目を見る。だから」
ティルダさんはそこで、また少し間を置いた。
「無理は、しないこと。降りて、危ないと思ったら、すぐ上がってくる。──いい?」
「分かってるって」
ラウィスが軽く言った。
「俺たち、浅いとこしか行かないし」
「そう」
ティルダさんはそれ以上は言わなかった。ただ私のほうを一度だけ見た。その目が何かを、私に託したように見えた。あなたが見ていてあげてと。言葉にはしなかったけれど、私には、そう聞こえた。
私は小さく頷いた。
ティルダさんが私たちの前で、これほど静かな声を出すのを私は初めて聞いた。道で会うときのティルダさんはいつも軽く笑って、明るかった。けれど、この受付の机の前のティルダさんは別の人のようだった。なぜなのか、私には分からなかった。ただティルダさんが本気で、私たちのことを案じているのは伝わった。
◇◇◇
ギルドを出ると、外の光がさっきより高くなっていた。
迷宮の口から、冷たい空気が絶えず流れ上がってきていた。地下の、深いところの空気だった。街の朝の風とは、違う匂いがした。鼻の奥に、うっすらと、錆びたような匂いが残った。
ラウィスはギルド章を、何度も見ていた。
「ミラ、見ろよ。番号、隣同士だ。俺が二十六で、ミラが二十七」
「ほんとだ」
「連番だな。なんか、いいよな」
ラウィスが嬉しそうに笑った。私も自分の札を見た。二十七。ラウィスのすぐ次の番号だった。
「これで」
ラウィスが口を開いた。それから、迷宮の口のほうを、ちらと見た。
「これで、冒険者だ」
ラウィスが言った。
その声が最後のところで少し裏返った。本人は、たぶん気づいていない。ラウィスはいつもそうだった。何かが嬉しいとき、何かが始まるとき、声が裏返る。
私は小さく笑った。
「なに笑ってんだよ」
「ううん」
「変なとこ、あったか」
「ない」
私は、首を振った。札を、胸元にしまった。しまうとき、指が、懐の合わせに触れた。布越しに、母の祈祷書の、硬さがあった。私はそれに布の上から一度だけ指を触れた。押さえはしなかった。ただ、そこにあることだけを、指の先で確かめた。
「明日からは、潜るんだよな」
ラウィスが言った。声がもう普通に戻っていた。
「一層の、浅いとこから。少しずつ」
「うん」
ラウィスが迷宮の口の縁のほうへ歩いていった。私もついていった。
縁には、石の柵があった。その向こうに、地面の口が大きく開いていた。覗き込むと、階段が幾重にも降りて、底のほうは暗くて見えなかった。降りていく冒険者の灯が、途中までは見えて、ある深さから先は闇に吸い込まれるように消えていった。口の内側からは絶えず冷たい空気が流れ上がってきていた。
「深いな」
ラウィスが覗き込みながら言った。
「あの底まで、行く人もいるんだろ」
「行くんだって。本職の人たちは」
「すげえな」
ラウィスはしばらく、その底を見ていた。私は隣で、同じものを見た。底は、見えなかった。私たちが明日から降りるのは、いちばん浅いところだ。あの底の、ずっと上の。それでも初めて自分があの口の中へ降りていくのだと思うと、足の指が少し縮こまった。
「俺たちもいつかあの底まで行けるかな」
ラウィスが言った。
「行けるよ」
私は答えた。本当にそう思っていたわけではなかった。けれど、ラウィスが言うと、行ける気がした。ラウィスはそういう人だった。無茶なことでも、ラウィスが言うと、できそうな気がしてしまう。
「だよな」
ラウィスが笑った。それから、迷宮の口から少し離れた。
「魔石、いっぱい採って。母さんの薬代も、稼いで。それで……」
ラウィスがもう一度迷宮の口を見つめた。
「いつか、討伐祭で、名を上げるんだ。俺たち」
討伐祭。三十年に一度の、主を討つ祭り。私たちが子供の頃から二人で夢みてきたものだった。ラウィスが、活躍する冒険者になる。その隣で、私が治癒をする。ずっとそういう日を思い描いてきた。
「うん」
私は頷いた。
「きっと」
迷宮の口から、また冷たい風が上がってきた。風は、ラウィスの栗色の髪を、少し揺らした。ラウィスはその風の中で、迷宮の口を見ていた。明るい顔をしていた。これから、何かが始まる人の顔だった。
私はその横顔を、見ていた。
胸元の祈祷書に、もう一度、指が触れた。お母さん、と、私は、心の中で言った。それから先は、言わなかった。ただ布の上から一度だけ押さえた。
「行こう」
ラウィスが歩き出した。
私はその隣に並んだ。
二つの影が、朝の石畳の上に、細く伸びていた。ラウィスの影と私の影とが並んで、迷宮の口とは反対の街のほうへ伸びていた。
今日から私たちは冒険者だった。
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