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透明な壁 改稿版  作者: はまゆう


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第四章 告白前夜

一 健吾


限界というのは、ある日突然やってくるものではない。


じわじわと、砂が積み重なるように来る。一粒一粒は軽い。でも積み重なれば、人間は動けなくなる。俺の場合、その砂が何年分も積み重なって、気づいたときにはもう、立ち上がることすら重かった。


麻衣の最後の抗がん剤投与から、三週間が経っていた。


主治医は「経過は良好です」と言った。


その言葉を聞いた帰り道、俺は駅のホームで、電車を一本見送った。理由はわからなかった。ただ乗れなかった。ホームのベンチに座って、線路を見ていた。


電車が来て、行って、また来た。


俺はまだ座っていた。


良好、という言葉が、何かの許可を与えた気がした。


麻衣が生きている。回復している。峠を越えた。


そう確認できたとき、俺の中で長い間張り続けていた何かが、ゆっくりと緩んだ。緩んだ場所から、ずっと押し込めていたものが、滲み出てきた。


河村の名前が、久しぶりに頭に浮かんだ。


病気の間は、奥に引っ込んでいた。引っ込んでいたのではなく、俺が必死に押し込んでいた。麻衣が死ぬかもしれないという恐怖が、他のすべてを塗り潰していた。でも恐怖が薄れると——その下にあったものが、顔を出した。


三年分の、見ないふりが。


家に帰ると、麻衣がソファにいた。本を読んでいた。最近の麻衣はよく本を読む。病気になってから、何かを読むことで、自分の内側を確認しているような気がした。


「遅かったね」


「ちょっと寄り道した」


「どこに」


「どこにも。ホームで座ってた」


麻衣が少し眉を寄せた。


心配したのだと思う。でも何も聞かなかった。


この人はいつも、踏み込む場所を心得ている。


今夜の俺には、その優しい距離感が、少し遠かった。


夕食を食べながら、俺は麻衣を見ていた。


三年間を、数えていた。


何度深夜に帰ってきたか。何度シャンプーの香りが違ったか。何度俺は眠ったふりをしたか。


数えられるものではなかった。


でも体は覚えていた。


「どうしたの、ぼーっとして」


麻衣が言った。


「なんでもない」


俺は箸を動かした。


なんでもない、という言葉が、これほど嘘くさく聞こえたことはなかった。


二 麻衣


健吾がホームで電車を見送っていた、と聞いたとき、私は本のページを繰る手を止めた。


でも何も聞かなかった。


健吾の顔が、ここ数週間で変わってきていることを、私は知っていた。


病気の間は、あんなに穏やかだった。心配と愛情だけが、顔に出ていた。でも体調が戻るにつれて、健吾の目の奥に、別のものが戻ってきた。


あの目だ。


何かを押し込めている目。何かを聞きたいのに、聞けないでいる目。


私を見る目が、少しずつ遠くなっている。


病気の間、あんなに近かったのに。


回復していくことが——怖かった。


おかしな言い方だと、自分でも思う。病気が治るのは良いことだ。当然だ。でも回復するにつれて、私は何かを失っていく気がした。


病気の間だけは、健吾がすべてを後回しにしてくれた。疑念も、嫉妬も、聞けない問いも、すべてを棚の上に置いて、ただ私の傍にいてくれた。


でも棚の上のものは、消えたわけではない。


私が元気になるにつれて、健吾はまたそれを、手に取り始めている。


当然のことだ。


私がそうさせた。私がそうなるようにしてきた。健吾を傷つけたのは私だ。だから健吾が棚の上のものを手に取っても、私には何も言えない。


言えないまま、夕食を食べた。


健吾の箸の動きが、どこかぎこちなかった。


夜、健吾が先に眠った。


珍しかった。いつもは私の方が先だった。


眠っている健吾の横顔を、私はしばらく見ていた。


疲れた顔だった。


病気の間、ずっと私のために疲れていた。でも今夜の疲れは、種類が違う気がした。介護の疲れではなく——もっと古い、もっと深い場所からくる疲れだった。


この人は、限界に近いのかもしれない。


そう思ったとき、私の胸に、奇妙な感覚が生まれた。


怖い、ではなかった。


話さなければ、と思った。


今まで一度も思わなかったことを、初めて思った。


隠し続けることが、もうこの人には残酷だと思った。知らないふりを続けさせることが、私にできる最大の優しさだと信じてきた。でも——


知らないふりを続けさせることは、この人の時間を奪うことだ。


健吾の人生から、正しく怒る機会を、正しく悲しむ機会を、正しく選択する機会を、奪い続けることだ。


それは優しさではない。


私が楽でいるための、私のための沈黙だ。


眠っている健吾の寝息を聞きながら、私は決めた。


聞かれたら、話す。


もし健吾が聞いてきたら——今度こそ、逃げない。


聞かれなければ、話せないかもしれない。私にはまだそこまでの勇気がない。でも聞かれたら、答える。全部、答える。


そう決めたとたん、不思議なくらい眠くなった。


長い間、眠れない夜を過ごしてきた。でもその夜は、決意が体を緩めたのか、すぐに意識が遠くなった。


眠りに落ちる直前、健吾の寝息が聞こえた。


穏やかな呼吸だった。


この呼吸を、これからも聞いていたい。


それだけを思いながら、私は眠った。


三 健吾


翌朝、俺は早く目が覚めた。


五時前だった。


麻衣はまだ眠っていた。最近は睡眠が深くなってきた。体が回復してきた証拠だと、医師が言っていた。


俺はベッドを出て、キッチンに立った。


何かを作る気にはなれなかった。ただ、立っていたかった。


窓の外はまだ暗かった。


夜明け前の、一番静かな時間。街の音が、完全に止まる時間。


俺はその静けさの中で、ずっと考えていたことを、もう一度取り出した。


聞くか、聞かないか。


それだけだった。


三年間、俺が問い続けてきた問いは、結局それだけだった。複雑なようで、単純だった。二択だった。聞くか、聞かないか。


聞けば、何かが壊れるかもしれない。


聞かなければ、俺が壊れる。


どちらを選んでも、何かが壊れる。ならば——


米を研いだ。


特に意味はなかった。何かしていないと、頭が勝手に動き出すから。手を動かすために、米を研いだ。


水が白く濁った。


流して、また入れて、また研ぐ。


三回繰り返すうちに、水が透明になっていく。


濁りが取れていく様子を見ながら、俺は思った。


透明になるまで、時間がかかる。一度では無理だ。何度も繰り返さなければ、濁りは取れない。


俺たちの間にあるものも——そういうものかもしれない。


一度聞いて、全部が解決するわけではない。一度話して、すべてが透明になるわけではない。でも、始めなければ、永遠に濁ったままだ。


炊飯器のスイッチを入れた。


コーヒーを淹れ始めた。


二人分。


麻衣が起きてきたのは、七時を過ぎた頃だった。


ウィッグを被って、薄く化粧をして、でもまだ眠そうな目をして、リビングに入ってきた。


「おはよう」


「おはよう。コーヒー、淹れてある」


「ありがとう」


麻衣は椅子に座って、コーヒーカップを両手で包んだ。


その仕草が好きだった。


いつも両手で包む。冷たい手を温めるように。俺はずっとそれを見てきた。五年間、この仕草を見てきた。


「今日は何か予定あるか」


「特にない。のんびりしようかと思って」


「そうか」


沈黙があった。


いつもの沈黙だった。でも今朝は——少し質が違った。何かを待っているような沈黙だった。


俺は窓の外を見た。


秋の朝日が、弱く差し込んでいた。


今日だ、と思った。


今日でなければ、また先に延びる。延びれば、また一年が過ぎる。また一年、俺は知らないふりをしながら、眠れない夜を過ごす。


そういう時間を、俺はもう持てなかった。


「麻衣」


声に出た。


自分でも驚いた。


決めていたわけではなかった。でも口が、勝手に動いた。


砂が限界まで積み重なって、崩れるときは静かに崩れる。音もなく、前触れもなく。


麻衣が顔を上げた。


コーヒーカップを持ったまま、俺を見た。


その目が——待っていた。


間違いなく、待っていた。いつ来るかわからないものを、でもいつか来ると知っていたものを、静かに待っていた目だった。


「俺は——」


始めた。


「ずっと、聞けなかったことがある」


麻衣はカップをゆっくりテーブルに置いた。


両手をテーブルの上に出して、重ねた。


その手を、俺はまっすぐ見た。


細い手だった。


病気の前より、確かに細い。点滴の痕が、まだ薄く残っていた。


こんな手に向かって、俺は何を言おうとしているんだ。


一瞬だけ、躊躇した。


でも——


この手を本当の意味で握るために、言わなければならない。


「河村という男のことだ」


名前を出した瞬間、空気が変わった。


部屋の温度が、一度だけ下がった気がした。


麻衣の指先が、かすかに動いた。


逃げようとして、でも逃げなかった。テーブルの上に置いたまま、動かなかった。


「あの忘年会の夜から、俺には——わかっていた。全部じゃない。でも輪郭だけは。それからスマートフォンの画面を、見てしまったこともある。見ようとしたわけじゃない。でも見た。ずっとそれを抱えて、聞けなかった。病気になってからは、なおさら聞けなかった」


声が、少し震えた。


震えながら、続けた。


「でも——知りたい。怒鳴りたいわけじゃない。責めたいわけでも、たぶん、ない。ただ——お前のことを、ちゃんと知りたい。俺が三年間愛してきた麻衣が、本当の麻衣かどうか。それだけが——」


そこで、言葉が尽きた。


情けなかった。


何度も頭の中で練習してきた言葉が、声になると、こんなにも不格好だった。論理でも、冷静でもなかった。ただの、懇願だった。


四 麻衣


健吾が「河村」という名前を言った瞬間、私の体は固まった。


でも逃げなかった。


逃げない、と決めていたから。


健吾の声が震えていた。


三年間、一度も震えを見せなかった声が、震えていた。


それがわかった瞬間、私の目が熱くなった。


泣くまいと思った。


泣いたら、言い訳になる。涙で、言葉を濁してはいけない。


「知っていたのね」


私は言った。


問いではなかった。確認だった。


「ずっと知っていて、ずっと黙っていてくれたのね」


健吾が頷いた。


声が出なかったのだと思う。頷くことしかできないほど、限界だったのだと思う。


その限界を、私はずっと作り続けてきた。


この人をここまで追い詰めたのは、私だ。


「ごめんなさい」


言った。


たった三文字だった。


三年間、一度も言えなかった三文字だった。


「全部、話す」


私は言った。


言いながら、足が震えた。椅子に座っていなければ、立っていられなかった。


「話したい。でも——」


一度、目を伏せた。


テーブルの木目が見えた。細い線が、いくつも並んでいた。それを見ながら、続けた。


「全部話したら、健吾は、どうするの」


怖かった。


この問いを、ずっと怖れていた。


話した後の健吾の顔が、想像できなかった。怒るのか、泣くのか、黙って出て行くのか。どれも怖かった。でも一番怖いのは——話した後に、健吾が変わることだった。あの目が、変わることだった。


健吾が少し考えた。


すぐに答えなかった。その正直さが、今の私には必要だった。軽々しく「大丈夫だ」と言われたら、信じられなかった。


「わからない」


健吾は言った。


「でも、お前のいない答えより、お前のいる問いの方がいい」


その言葉が、私の胸の奥の、一番かたくなっていた場所に、届いた。


鎧が、剥がれた。


病院のベッドで剥がれたときとは、違う剥がれ方だった。あのときは体が剥いだ。今日は、言葉が剥いだ。


涙が出た。


声は出なかった。ただ、涙だけが出た。拭かなかった。拭く必要がない気がした。この涙は、隠さなくていいと思った。


健吾が黙って、私の涙を見ていた。


拭えとも言わなかった。大丈夫かとも言わなかった。


ただ、見ていた。


その見方が——この人らしかった。


私が話し始めたのは、それから少し後のことだった。


コーヒーが冷めて、部屋が静まり返ってから。


最初は声が出なかった。喉の奥が、固くなっていた。でも一度出始めると、止まらなかった。堰を切ったように、ではない。静かに、確実に、流れるように——言葉が出た。


河村さんのことを話した。


最初の夜のことを話した。


十九歳で上京して、何もわからなかった頃のことを話した。事務所に入って二年目、「みんなそうよ、割り切ることよ」と笑いながら言った先輩のことを話した。


怖かったこと。断れなかったこと。断るという選択肢が存在しなかったこと。それがいつの間にか習慣になっていったこと。


習慣になっていったことへの、自己嫌悪を話した。


やめようとしたことを話した。


業界の糸の構造を話した。一本切ると別の糸が引っ張られる仕組みを話した。


山瀬のことを話した。


健吾との間に膜を感じ始めた頃のことを話した。逃げ場を探していたこと。軽さに救われたと思っていたこと。でも救われていたのではなく、ただ逃げていただけだったこと。


結婚してからも続けてしまったことを話した。


やめようとして、やめられなかったことを話した。


糸が絡まっていたことを話した。切り方を知らなかったことを話した。


健吾に話せなかった理由を話した。


話せなかった理由が、健吾を守るためではなく、自分を守るためだったことを話した。


全部話した。


話しながら、私は健吾の顔を見られなかった。


テーブルの木目を見ていた。細い線が、いくつも並んでいた。木目というのは、長い時間をかけて作られるものだ。一年に一本、積み重なっていく。私と健吾の時間も、そうだった。一年に一本、何かが積み重なっていた。


でも積み重なっていたのは、年輪ではなく、壁だった。


五 健吾


麻衣が話している間、俺は黙って聞いた。


何度か、拳を握った。


何度か、目を閉じた。


何度か、立ち上がりたくなった。


でも、席を立たなかった。


立ってはいけないと思った。立ったら、麻衣の声が止まる。一度止まったら、もう二度と聞けない気がした。だから俺は椅子に根を張って、聞いた。全部、聞いた。


河村のこと。


山瀬のこと。


それ以外の名前も、出てきた。


名前が出るたびに、胃が痛かった。想像していた以上のことを、想像していなかった形で聞いた。


でも——


麻衣の声が、震えていた。


その震えが、俺を椅子に縫い留めた。


怒鳴りたかった。


怒鳴れなかった。


怒鳴ることより、聞き続けることの方が、今の俺には必要だった。


河村さんのことを初めて聞いたとき、胃の底に熱いものが落ちた。


でも俺は黙っていた。


麻衣が十九歳で上京した話を聞いたとき、その孤独を、初めて想像した。


何も知らなかった十九歳の女が、この業界に入って、誰にも守られないまま、あの夜を迎えた。


想像した。


想像したくなかった。でも想像した。


その想像が、怒りを少しだけ、別の形に変えた。


怒りが消えたわけではない。


でも輪郭が、少しだけ変わった。


麻衣が話し終えたのは、日が傾きかけた頃だった。


部屋がオレンジ色になっていた。


コーヒーはとっくに冷めていた。


俺たちは向かい合って座ったまま、しばらく黙っていた。


麻衣がようやく顔を上げた。


目が赤かった。


泣いていたのか、泣くまいとしていたのか、その両方か。


俺は麻衣の顔を、まっすぐ見た。


きれいだと思った。


こんな瞬間に、きれいだと思う自分が——もう悲しくなかった。そういう人間なのだと、受け入れた。


「全部聞いた」


俺は言った。


「全部かどうかはわからないが、お前が話してくれたことは、全部聞いた」


麻衣が小さく頷いた。


「怒ってるか」と、麻衣が聞いた。


俺は少し考えた。


「怒ってる」


正直に言った。


「悲しいか」


「悲しい」


「それでも——」


麻衣の声が、少し詰まった。


「それでも、そばにいてくれる?」


俺はすぐには答えなかった。


答えられなかった。


怒っている。悲しい。それは本当だ。この怒りと悲しみが、明日消えるとは思えない。明後日も、来週も、ふとした瞬間に戻ってくると思う。河村の名前が頭に浮かぶ夜が、また来ると思う。眠れない朝が、また来ると思う。


それでも——


「わからない」と俺は言った。「全部うまくいくかどうか、わからない。でも——」


窓の外の、オレンジ色の空を、一度見た。


「お前のいない答えより、お前のいる問いの方がいい。それだけは、変わらない」


同じ言葉を、もう一度言った。


今度は、さっきより確かな声で。


麻衣の目から、涙が一粒落ちた。


拭かなかった。


俺も、何も言わなかった。


ただ、テーブルの上に出ていた麻衣の手に、自分の手を重ねた。


冷たかった。


いつものように、冷たかった。


でも今日は——その冷たさの意味が、わかった気がした。


この人の手がいつも冷たいのは、いつも怖れているからかもしれない。何かを失うことを、誰かに見捨てられることを、ずっと怖れて生きてきたから、血が末端まで回らないのかもしれない。


俺の手の温度が、少しずつ移っていった。


六 麻衣


健吾が私の手に手を重ねたとき、冷たいと思っただろうと思った。


いつも冷たい。


子どもの頃から、手足が冷える。血の巡りが悪い。母に何度も言われた。この体の冷たさが、私という人間の象徴のような気がしてきた。内側もいつも冷えている。温めてくれる人が傍にいても、すぐに冷える。


でも健吾の手は、温かかった。


いつも温かかった。


その温度が、少しずつ移ってきた。


健吾が「怒ってる」と言ったとき、私は少し楽になった。


怒っていない、と言われた方が、辛かったかもしれない。


怒っていない、は嘘だ。怒っていいのに怒っていないふりをされることは、この人が私のために自分を殺しているということだ。それは、私にとっての罰の先延ばしだ。


怒っていると言ってくれた。


正直に言ってくれた。


その正直さが、私には必要だった。


「お前のいない答えより、お前のいる問いの方がいい」


健吾がもう一度、同じ言葉を言った。


最初に聞いたときより、確かな声だった。


震えていなかった。


迷っていなかった。


少なくとも、その言葉だけは——迷っていなかった。


私の目から、涙が落ちた。


声を立てなかった。


ただ涙が出た。


今まで何度も、泣きたい夜があった。でも泣かなかった。泣けば、何かが溢れる。溢れてはいけないものがある。そう思って、ずっと堪えてきた。


今日は——


溢れていいと、思えた。


溢れても、健吾がそこにいる。


その事実が、今日だけは、涙の許可を与えてくれた。


健吾の手の温度が、ゆっくりと私の手に移ってきた。


指先から、手のひらへ。手のひらから、手首へ。


冷たかったものが、少しずつ、温かくなっていった。


温かくなるのに、時間がかかった。


でも——なった。


ちゃんと、温かくなった。


夜になった。


二人はまだテーブルに向かい合って座っていた。


答えは出ていなかった。許しも、別れも、何も決まっていなかった。ただ、テーブルの上に言葉が並んでいた。冷めたコーヒーと一緒に。


健吾が言った。


「腹、減らないか」


「少し」


「何か作る」


「いい、私が——」


「お前は座ってろ」


健吾が立ち上がった。


冷蔵庫を開けた。何か探している音がした。包丁を取り出す音がした。


私はテーブルの前に座ったまま、その音を聞いていた。


台所で健吾が動いている。


その音が、今夜は特別に聞こえた。


いつもの音だった。でも今夜は——全部話した後の、音だった。


今まで隠していたものを全部出した後の、空っぽの体で聞く、健吾の包丁の音だった。


七 健吾


卵を焼いた。


ご飯を温めた。


昨日の残りの味噌汁を温め直した。


それだけだった。大した料理ではなかった。でも今夜、俺に作れるのはそれだけだった。


麻衣の前に置いた。


麻衣が一口食べた。


「おいしい」


その言葉が、今夜は違って聞こえた。


いつもと同じ言葉だった。でも今夜は、何かを抱えたまま言う「おいしい」ではなかった。


空っぽになった体で言う「おいしい」だった。


全部出し切った後の、ただの「おいしい」だった。


俺もご飯を食べた。


食べながら、今日聞いたことを、頭の中でゆっくりと並べ直した。


整理しようとしたわけではなかった。ただ、並べた。事実として。感情を抜いて、ただの事実として。


麻衣は十九歳だった。


何も知らなかった。


断る方法を、知らなかった。


それは——


俺の知らない麻衣だった。


俺が出会う前の、俺の知らない場所にいた麻衣だった。


その麻衣を、俺は今日初めて知った。


五年一緒にいて、今日初めて知った。


食べ終えて、少しの間、二人でテーブルにいた。


麻衣がコーヒーカップを両手で包んだ。


冷めたカップを、温めるように。


その仕草を見ながら、俺は思った。


怒りは、まだある。


悲しみも、まだある。


簡単には消えない。


消えなくていいとも思っている。消えることを急ぐ必要はない。怒りも悲しみも、本物だ。本物は、時間をかけてしか変わらない。


でも——


今夜、麻衣は話してくれた。


三年間隠し続けてきたものを、全部、話してくれた。


その事実だけは、変わらない。


変わらない事実が一つあれば、今夜は眠れるかもしれない。


そう思った。


「今夜は、もう寝よう」


俺は言った。


麻衣が頷いた。


食器を片付けた。


いつもと同じ動作だった。俺が運んで、麻衣が洗う。


でも今夜は——少し違った。


麻衣が洗い物をしながら、俺に背中を向けていた。


その背中が、少し小さく見えた。


全部話した後の、軽くなった背中だった。


俺は布巾を手に取って、麻衣が洗った皿を拭いた。


並んで立って、洗い物をした。


何も言わなかった。


言わなくてよかった。


夜になった。二人はまだテーブルに向かい合って座っていた。答えは出ていない。許しも、別れも、何も決まっていない。ただ、テーブルの上に言葉が並んでいた。冷めたコーヒーと一緒に。それだけで、今夜はよかった。それだけで、今夜は十分だった。


八 麻衣


洗い物が終わって、健吾と並んで寝室に向かった。


電気を消した。


暗くなった。


健吾が先に横になった。俺も横になった。


二人とも、しばらく黙っていた。


暗い天井が見えた。


いつもと同じ天井だった。でも今夜は——昨夜と違って見えた。


昨夜は、何かを抱えたまま見ていた天井だった。


今夜は——空っぽで見ている天井だった。


空っぽは、怖くなかった。


思っていたより、軽かった。


何年もかけて積み上げてきたものを、今日一日で全部降ろした。降ろした場所が痛いのかと思ったら、痛くなかった。ただ、空っぽだった。


空っぽになって初めて、本当のことだけが残った気がした。


本当のことは、一つだけだった。


健吾のそばにいたい。


それだけだった。


「健吾」


暗闇の中で、呼んだ。


「ん」


「眠れそう?」


少し間があった。


「わからん」


正直な答えだった。


「私も」


「そうか」


「でも——今夜は、少し楽な気がする」


「そうか」


また沈黙があった。


健吾の呼吸が聞こえた。


ゆっくりとした、深い呼吸だった。


こちらに向いていた。


「麻衣」


健吾が呼んだ。


「ん」


「手、貸せ」


暗闇の中で、手が伸びてきた。


俺は手を伸ばした。


健吾の手が、俺の手を握った。


冷たい、と思っただろう。


でも健吾は何も言わなかった。


ただ、握った。


その温度が、また移ってきた。


ゆっくりと、確実に。


私は目を閉じた。


眠れるかどうかは、わからなかった。


でも今夜は——健吾の手を握ったまま、朝を待てる気がした。


九 健吾


麻衣の手を握ったまま、俺は天井を見ていた。


怒りは、まだあった。


悲しみも、まだあった。


消えてはいなかった。


でも——


今夜の怒りと悲しみは、昨日までのそれとは、少し種類が違った。


昨日までの怒りは、霧の中にあった。姿が見えない何かへの怒りだった。輪郭のない、だから余計に大きく感じる怒りだった。


今夜の怒りには、形があった。


河村正樹、という名前。山瀬遼介、という名前。業界の論理、という名前。十九歳の麻衣が断れなかった夜、という名前。


名前がつくと、怒りは扱えるようになる。


扱えるということは、変えられるかもしれないということだ。


それだけのことだった。


でも、それだけのことが、今夜の俺には大きかった。


麻衣の手が、少しずつ温かくなってきた。


俺の体温が移っていくように。


その温度の変化を、指先で感じながら、俺は思った。


この人の手は、いつも冷たい。


でも温まる。


時間がかかるが、温まる。


俺たちの間にある透明な壁も、そういうものかもしれない。


すぐには消えない。でも——


光は通るようになるかもしれない。


時間をかけて、少しずつ、光が通るようになるかもしれない。


麻衣の呼吸が、少しずつ深くなってきた。


眠れたのかもしれない。


眠れたなら、よかった。


今日一日、よく話してくれた。


隠し続けてきたものを、全部、話してくれた。


その勇気を、俺は正直に受け取った。


受け取りながら、怒っている。悲しんでいる。


それでも——この手を、離せなかった。


離したくなかった。


それだけが、今夜の答えだった。


答えとも呼べない、小さな事実だったが——


今夜の俺には、それで十分だった。


窓の外で、秋の夜が静かに続いていた。川が黒く光っていた。二人の手が、暗闇の中で重なっていた。答えは出ていない。許しも、再出発も、まだ遠かった。でも今夜だけは、手を離さなかった。冷たい手が温まるまで、離さなかった。透明な壁は、まだそこにある。でもその夜、壁の向こうとこちらで、同じ温度が流れていた。同じ温度だけが、今夜の二人をつないでいた。


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