第五章 翌朝、そしてその後
一 健吾
眠れなかった。
眠ろうとしなかった、と言う方が正確かもしれない。
麻衣が話し終えたのは夜の十一時を過ぎた頃だった。それから二人で洗い物をして、歯を磨いて、ベッドに入った。いつもと同じ手順だった。でも何もかもが、いつもとは違った。同じ動作が、別の重さを持っていた。
麻衣の手を握ったまま、俺は天井を見ていた。
麻衣の呼吸が、少しずつ深くなっていった。
眠れたのだと思う。
疲れ切っていたのだろう。あれだけのことを話した後だ。体も、魂も、絞り尽くされていたのだと思う。
俺は眠れなかった。
麻衣の手を握ったまま、天井を見ていた。
頭の中で、麻衣の言葉が繰り返された。
河村の名前。山瀬の名前。それ以外の名前も。
繰り返されるたびに、胃が収縮した。怒りなのか、悲しみなのか、区別がつかない痛みが、波のように来ては引いた。
波が来るたびに、俺は麻衣の手を少し強く握った。
気づかれないように、少しだけ。
麻衣は眠っていた。気づかなかったと思う。
波が引くと、また緩めた。
その繰り返しを、何度かした。
繰り返すうちに、気づいたことがあった。
麻衣の声の震えが、耳から離れなかった。
名前を言うたびに、麻衣の声は揺れた。淡々と話そうとしていた。でも揺れた。その揺れの中に——羞恥があった。後悔があった。そして、怖れがあった。
話しながら、麻衣は怖れていた。
俺がどんな顔をするかを、怖れていた。
それがわかったとき、怒りの輪郭が、少しだけ柔らかくなった。
柔らかくなったことが、また悔しかった。
怒り続けていた方が、楽だった。
でも人間の感情は、そんなに単純にはできていない。怒りながら、悲しみながら、それでも愛しながら——全部が同時に、俺の中に存在していた。
夜明け前の五時に、俺はベッドを出た。
そっと、麻衣を起こさないように。
麻衣の手から、ゆっくりと手を離した。
冷たくなっていた。
眠っている間に、また冷えていたのだろう。
俺は毛布を、麻衣の肩まで引き上げた。
それだけして、キッチンに向かった。
キッチンに立って、米を研いだ。
水が濁った。流して、また入れて、また研いだ。
三回繰り返した。
水が透明になった。
その透明さを見ながら、俺は今日という日のことを考えた。
今日、俺たちはどうなるのか。昨夜話した後、二人はどこへ向かうのか。
答えは出なかった。
でも——米を炊いていた。
二人分の米を、炊いていた。
それだけのことが、今朝の俺の答えだった。
俺にはまだ、答えを出す力がない。
でも米は炊ける。
米を炊ける間は、ここにいる。
炊飯器のスイッチを入れて、コーヒーを淹れた。
二人分。
窓の外が、少しずつ明るくなってきた。秋の夜明けは遅い。でも確実に、光は来る。どんな夜の後にも、朝は来る。世界は律儀に、何があっても朝を連れてくる。
コーヒーの香りが、キッチンに広がった。
スープも作ろうと思った。
麻衣の体はまだ回復途中だ。朝は温かいものがいい。冷蔵庫を開けて、玉ねぎと人参を取り出した。
包丁を手に取った。
玉ねぎを切り始めた。
涙が出た。
玉ねぎのせいだと思った。
玉ねぎのせいだけではないとも、思った。
どちらでもよかった。涙が出るなら、出ればいい。キッチンで一人のときくらい、出せばいい。
包丁を動かし続けた。
玉ねぎをフライパンに入れた。
弱火で、じっくりと炒めた。
急がなかった。今朝は時間があった。麻衣が起きてくるまで、時間があった。その時間を、俺は玉ねぎに使った。
飴色になるまで、炒めた。
玉ねぎが透明になって、少しずつ色づいていく。その過程を、俺はじっと見ていた。
二 麻衣
コーヒーの香りで、目が覚めた。
健吾がいる。
その事実が、まず最初に来た。
目を開ける前に確認した。隣の布団の重みが、ない。でもキッチンから音がする。包丁の音。何かを炒める音。
逃げていない。
朝になっても、いた。
その事実の重さを、目を閉じたまましばらく受け取った。
昨夜あれだけのことを話して、朝になったら健吾がいなくなっているかもしれないと、眠りながらも恐れていた。夢の中でも、健吾を探していた。広い場所で、健吾を探す夢だった。見つからなかった。
目が覚めてよかった、と思った。
コーヒーの香りがする。
健吾がいる。
ベッドの中で、昨夜話したことを、もう一度確認した。
全部話した。
その事実が、体の中にあった。重くはなかった。信じられないくらい、軽かった。何年もかけて積み上げてきたものを、昨夜一晩で全部降ろした。降ろした場所が痛いのかと思ったら、痛くなかった。ただ、空っぽだった。
空っぽは、怖くなかった。
空っぽになって初めて、本当のことだけが残った気がした。
本当のことは、一つだけだった。
健吾のそばにいたい。
それだけだった。それだけが残った。長い間、いろんなものに覆われて見えなかったが、全部降ろしたら、それだけがあった。
リビングに行くと、健吾が窓の外を見ていた。
コーヒーカップを両手で持って。
私の分らしいカップが、テーブルに置いてあった。湯気が立っていた。私が起きるのを待っていてくれたのだと、わかった。
「おはよう」
健吾が振り返った。
目が赤かった。眠れなかったのだろう。私のせいで。
「おはよう」と私も言った。
椅子に座って、コーヒーを飲んだ。温かかった。
スープの鍋が、コンロの上にあった。
「作ってくれたの」
「玉ねぎを長めに炒めた」
「ありがとう」
他愛ない言葉が、二つ、三つ交わされた。
その言葉の軽さが、今朝は苦しくなかった。昨夜の重さを越えてきた後の、この軽さが——愛おしかった。
「健吾」
私から呼んだ。
「ん」
「どうするの、私たち」
聞いてから、また怖くなった。
でも聞かずにはいられなかった。
昨夜のことで全部が終わるなら、今日終わった方がいい。宙吊りのまま生きていくのは、もう、お互いにしてはいけないと思った。
健吾が窓から視線を外して、私を見た。
「わからん」
正直な顔だった。取り繕っていない顔だった。
「怒ってる」
「うん」
「悲しい」
「うん」
「でも——」
健吾が一度、口を閉じた。
スープを一口飲んだ。
それから、また口を開いた。
「お前がいなくなる方が、もっと嫌だ」
その言葉が——
三年間、透明な壁の向こうから届かなかった言葉が——
今朝は、ちゃんと届いた。
壁を通してではなく、壁がなくなった場所から、直接届いた。
私の目が、熱くなった。
今度は堪えなかった。堪えなくていいと、思った。泣いた。声を立てずに、ただ涙だけが出た。
健吾が立ってきて、私の隣に座った。
何も言わずに、肩を引き寄せた。
許された、とは思わなかった。
許されるのは、ずっと先のことかもしれない。あるいは永遠に来ないかもしれない。でも——隣にいてもらえた。それだけが、今朝の答えだった。
三 健吾
麻衣の肩を抱きながら、俺は続きを考えていた。
これからのことを。
簡単ではない。
そんなことは、わかっている。
昨夜聞いたことが、時間とともに薄れるとは思えない。ふとした瞬間に戻ってくると思う。名前が頭を過ぎる夜が来ると思う。眠れない朝が来ると思う。
テーブルの向こうで、誰かと笑う麻衣を見て、胸が痛む瞬間が来ると思う。
でも——
麻衣が話してくれた。
それだけが、今の俺の足場だった。
隠し続けることもできたのに、体を病んで、心も消耗しきっていたのに、それでも話してくれた。逃げなかった。
その事実だけは、本物だと思った。
本物が一つあれば——今日は生きていける。
麻衣の肩から手を離して、俺は立ち上がった。
「ご飯、食べよう」
「うん」
茶碗を出した。
スープを椀に注いだ。
二人分の朝ごはんを、テーブルに並べた。
何でもない朝ごはんだった。
でも麻衣は一口食べて、「おいしい」と言った。
その言葉が、昨日までとは違う声だった。何かを抱えたまま言う「おいしい」ではなく——ただ、おいしいから、おいしいと言う声だった。
俺はそれを聞きながら、自分の茶碗に箸をつけた。
食べられると思った。
今朝は、食べられる気がした。
食べ終えて、二人でテーブルを片付けた。
いつもと同じ役割だった。
俺が食器を運んで、麻衣が洗う。
水の音がした。
俺は布巾を手に取った。
麻衣が洗った皿を、俺が拭いた。
それだけのことを、二人でやっていた。
麻衣がぽつりと言った。
「仕事、考え直そうと思う」
「やめるのか」
「やめるかどうかはわからない。でも——変えたい。いろんなことを」
俺は答えなかった。
答えは俺が出すものではないから。
ただ「そうか」とだけ言って、布巾を動かした。
続けていける、と思った。
そう思った瞬間だった。
胃の底から、何かが上がってきた。
突然だった。前触れがなかった。
俺はシンクに向かって、嘔吐した。
朝食べたばかりのものが、全部出た。止まらなかった。波のように来て、引いて、また来た。背中が痙攣した。目に涙が滲んだ。
麻衣が「健吾」と声を上げて、背中に手を置いた。
その手を——
俺は、払いのけた。
意図したわけではなかった。体が勝手にそうした。麻衣の手が触れた瞬間、皮膚が、拒絶した。
しばらく、シンクに額をつけていた。
水を出して、口を濯いだ。
顔を上げると、窓ガラスに自分の顔が薄く映っていた。
青白かった。目が赤かった。
これが俺だ、と思った。
昨夜を越えてきて、今朝ご飯を食べて、続けていけると思って——それでも体が拒絶した、これが俺だ。
頭が「続けていける」と言っても、体は別の答えを知っていた。
体の方が、早く、正直に、答えを出した。
麻衣が少し離れたところに立っていた。
俺が払いのけた手を、胸の前で握って。
「ごめん」
声が出た。
謝罪なのか、独り言なのか、自分でもわからなかった。
「ごめん」
もう一度言った。
麻衣は黙っていた。
俺は窓の外を見た。
さっきまであんなに穏やかだと思っていた朝日が、今は目に痛かった。
口の中に、まだ苦い味がした。
胃の中身を全部出しても、苦さだけは残った。
「好きだ」
言葉が、順番通りに出てこなかった。
「好きだ。一緒にいたい」
それは本当のことだった。嘘ではなかった。さっき続けていけると思ったことも、本当のことだった。
「でも——」
喉が、詰まった。
詰まったまま、それでも続けた。
「もう、だめだ」
その言葉が出た瞬間、俺は自分でも驚いた。
だめだ、という言葉が——泣き声でも、怒鳴り声でもなく、ただの静かな声で出た。
嵐の後の海みたいな声だった。
もう波を立てる力も残っていない海の、凪いだ水面みたいな声だった。
麻衣は何も言わなかった。
俺も、それ以上何も言えなかった。
二人とも、台所に立ち尽くしていた。
洗い終えた茶碗が、水切りかごの中で静かに乾いていた。
炊飯器の保温ランプが、赤く点っていた。
窓の外で、どこかの子どもが笑い声を立てて走っていった。
世界は何も知らない顔をして、続いていた。
四 麻衣
健吾が嘔吐したとき、私は背中に手を置いた。
払いのけられた。
その感触が——手のひらに残った。
拒絶、という言葉が頭に浮かんだ。
でもそれは怒りからではないと、わかった。
健吾の体が、限界を超えていた。頭が続けていけると判断しても、体は正直だった。体の方が、早く答えを知っていた。
私は胸の前で手を握った。
払いのけられた手を、自分で抱えた。
「好きだ。一緒にいたい。でも——もう、だめだ」
来た。
来ることは、わかっていた。
わかっていたのに——受け取った瞬間、体の中心に、ぽっかりと穴が開いた。
予期していた痛みほど、痛くなかった。
痛くなかったことが、かえって怖かった。
もう痛みを感じる場所が、なくなってしまったのかもしれなかった。
健吾は台所に立ち尽くしていた。
私も立ち尽くしていた。
二人とも、動けなかった。
健吾の横顔を見た。
青白かった。疲れていた。目が赤かった。
この人が私のために泣いた回数を、私は知らない。見ていない場所で、何度泣いたのか。眠れない夜を、何夜過ごしたのか。シャンプーの香りを確認した夜が、何夜あったのか。
全部、私がさせた。
「健吾」
私は呼んだ。
健吾が振り向かなかった。窓の外を見たまま、動かなかった。
「ごめんなさい」
三文字を、もう一度言った。
昨夜も言った。今朝も言う。この言葉を何回言っても、取り返せないことがある。わかっている。でも言わずにはいられなかった。言葉しか、今の私には何もなかった。
健吾がゆっくりと、こちらを向いた。
目が合った。
健吾の目は——怒っていなかった。
悲しかった。深く、静かに、悲しかった。その悲しさの中に、私への憎しみはなかった。少なくとも、私にはそう見えた。
見えたことが、私の最後の救いだった。
健吾が、視線を外した。
玄関の方を、見た。
私は何も言わなかった。言えなかった。引き止める言葉を、私は持っていなかった。
引き止める資格が、私にはなかった。
この人が出て行こうとするなら、それは私がそうさせたのだから。
健吾が、寝室に向かった。
物音がした。クローゼットを開ける音。引き出しを開ける音。
私はキッチンに立ったまま、動けなかった。
水切りかごの中の茶碗が、乾いていた。
炊飯器のランプが、赤く点っていた。
五 健吾
バッグに着替えをいくつか入れた。
財布。鍵。
それだけを持って、廊下に出た。
麻衣が、リビングの入り口に立っていた。
いつからそこにいたのか、わからなかった。
止めるのかと思った。
止めてほしかったのかもしれない。
でも麻衣は何も言わなかった。ただそこに立って、俺を見ていた。
あの目で。
俺が最初に好きになった、あの目で。
荷物を抱えたまま疲れていて、でも俺のことをちゃんと見ている、あの目で。
「麻衣」
名前を呼んだ。
呼んでから、続く言葉がなかった。
さよならは言えなかった。言ったら本当になる気がした。
でも言わなければ終われない気もした。
どちらでもなかった。
だから——
何も言わずに、玄関のドアを開けた。
外の空気が、冷たかった。
秋の朝の空気だった。
俺はドアの前に、しばらく立っていた。
背中の向こうに、麻衣がいる。
台所に、洗い終えた茶碗がある。保温中のご飯がある。二人分のコーヒーカップがある。玉ねぎを長く炒めたスープがある。
それらすべてが、ドア一枚の向こうにある。
俺は歩き出した。
どこへ行くかは、まだわからなかった。
ただ、足が動いた。
秋の朝日の中を、バッグを提げて、口の中にまだ苦みを残したまま、俺は歩いた。
一歩、一歩。
アスファルトを踏みながら、俺は思った。
好きだった。
本当に、好きだった。
それだけは——嘘じゃなかった。
六 麻衣
閉まったドアを、しばらく見ていた。
泣かなかった。
泣き尽くしていたのかもしれない。あるいは、泣くことさえできないほど、空っぽになっていたのかもしれない。
ゆっくりとリビングに戻って、椅子に座った。
テーブルの上に、健吾のコーヒーカップがあった。
飲みかけのまま、残っていた。
私はそれを、両手で包んだ。
いつも両手で包む。冷たい手を温めるように。
でも今朝は——カップの方が、温かかった。
健吾の体温が、まだそこにあった。
その温度が冷めるまで、私はそのままじっとしていた。
冷めていく温度を、手のひらで感じながら——
それでも手を離さなかった。
窓の外で、秋の朝が続いていた。
街は動いていた。人が歩いていた。車が走っていた。
世界は何も知らない顔をして、何事もなかったように、次の時間へ進んでいた。
部屋の中だけが、止まっていた。
テーブルの上のカップが、少しずつ冷めていった。
私の手の中で、健吾の温度が、少しずつ、確実に、遠くなっていった。
それでも手を離さなかった。
冷たくなっても、離さなかった。
それが今の私にできる、最後のことだったから。
どのくらいそうしていたのか、わからない。
十分だったかもしれない。一時間だったかもしれない。
カップが完全に冷えた頃、私はようやく手を離した。
立ち上がって、窓の外を見た。
健吾はもう見えなかった。
どこへ行ったのか、わからなかった。
わからなかったけれど——
帰ってくるかどうかも、わからなかったけれど——
私は台所に戻って、カップを洗った。
健吾のカップと、私のカップを、並べて洗った。
水の音がした。
その音だけが、今の私には、続きの気配だった。
七 健吾 ― 一人の一日
どこへ行くかわからないまま、俺は駅まで歩いた。
改札を通った。
ホームに降りた。
電車が来た。
行き先を確認してから乗った。
どこ行きでもよかった。ただ、確認した。確認することで、少しだけ正気でいられた。
電車に乗って、窓の外を見た。
秋の街が流れた。通勤途中のサラリーマン。小学生の集団登校。犬を連れて歩く老人。世界は何も知らない顔をして、次の時間へ進んでいた。
俺だけが、止まっていた。
口の中に、まだ苦みが残っていた。
胃の中身を全部出したのに、苦みだけは残った。それがこの三年間の味だと思った。全部吐き出しても、消えないものがある。体はそれを知っていた。頭より先に、体が知っていた。
終点まで乗った。
どこかの郊外の駅だった。見覚えのない駅名だった。
改札を出ると、小さなロータリーがあって、タクシーが一台止まっていた。コンビニが一軒。あとは住宅街が続いていた。
ベンチに座った。
バッグを膝の上に置いて、空を見た。
秋の空だった。高くて、青くて、雲が一つもなかった。
こんな日に家を出た、と思った。
こんな空の下で、俺は麻衣に「もうだめだ」と言った。
だめだ、という言葉が——今も耳の奥にある。
自分の声なのに、他人の声みたいだった。
スマートフォンが震えた。
麻衣かと思った。
見ると、後藤からだった。
今日の現場について確認の連絡だった。
俺はそれを見て、初めて気づいた。
今日、仕事があった。
朝から撮影の現場が入っていた。すっかり忘れていた。昨夜のことで、頭から全部飛んでいた。
時計を見た。集合時間まで、あと二時間あった。
俺は立ち上がった。
どこへ行くかわからなくても、行かなければならない場所があった。それが、今朝の俺には少しだけ救いだった。
現場は都内のスタジオだった。
いつもと同じ場所だった。いつもと同じスタッフたちがいた。いつもと同じ段取りで、小道具を並べて、セットを組んだ。
誰も気づかなかった。
俺が昨夜何を聞いて、今朝何を言って、どこの郊外の駅のベンチに座っていたか、誰も知らなかった。
当たり前だ。
でもその当たり前が、少し不思議だった。
人間は、こんなに簡単に、ひどい朝を隠せる。
昼休み、後藤が弁当を持って隣に座ってきた。
「田中さん、今日なんか顔色悪くないですか」
「寝不足だ」
「ああ、そっすか」
それだけだった。
後藤は特に追及しなかった。弁当を食べながら、昨日の試合の話をした。俺は相槌を打ちながら、弁当を半分だけ食べた。残りは食べられなかった。
胃がまだ、おかしかった。
でも食べようとした。食べようとする行為が、今日を続けることだった。
午後の撮影が始まった。
今日の仕事は化粧品のCMだった。
女優が一人、現場に入ってきた。三十代くらいの、きれいな人だった。
俺は小道具のトレイを持ちながら、その人を見た。
女優、という存在を、今日は少し違う目で見た。
カメラの前で笑うこの人も、カメラの後ろでは別の顔を持っているのかもしれない。誰も知らない時間を持っているのかもしれない。それは責めているのではなかった。ただ——そういうものか、と思った。
人間は全部を見せて生きているわけではない。
麻衣だけが特別だったわけではない。
そう思ったとき、怒りが少しだけ、形を変えた気がした。
怒りが消えたわけではない。でも輪郭が、柔らかくなった。
撮影が終わったのは、夜の八時過ぎだった。
スタジオを出ると、冷たい空気が顔に当たった。
どこへ帰ればいいのか、わからなかった。
家には麻衣がいる。いるはずだった。でも俺は今朝、バッグを持って出た。帰るとは、言わなかった。
スマートフォンを取り出した。
麻衣からの連絡は、一件もなかった。
それが——
不思議と、麻衣らしかった。
追いかけてこない。引き止めない。俺が出て行くことを、黙って受け取った。
それがこの人の流儀だ。昨夜、全部話した後でも、それは変わらなかった。
追いかけてこないことが、寂しかった。
追いかけてこないことが、麻衣だと思った。
駅の近くの、小さな居酒屋に入った。
カウンター席に座って、燗酒を頼んだ。
つまみは何も頼まなかった。酒だけ飲んだ。
隣に会社帰りらしいサラリーマンが座っていた。スマートフォンで誰かと話しながら、笑っていた。楽しそうだった。
俺は燗酒を一口飲んだ。
温かかった。
朝から何も、温かいものを口にしていなかった。スープを作ったのに、食べた直後に全部出した。その後は何も入れていなかった。
温かさが、食道を通って、胃に落ちていった。
二杯目を頼みながら、俺は麻衣のことを考えた。
今、何をしているだろう。
コーヒーカップを、まだ持っているだろうか。
あのカップの温度は、とっくに冷めているはずだ。でも麻衣は手を離さなかったかもしれない。冷たくなっても、離さなかったかもしれない。
なぜそう思うのか、わからない。
でも、そんな気がした。
根拠のない確信だった。でも確信だった。
麻衣はあの部屋で、冷めていくカップを、両手で持ち続けているかもしれない。
冷たくなっても、離さないかもしれない。
それがこの人の——不器用な、愛し方だから。
三杯飲んで、店を出た。
酔ってはいなかった。
駅に向かいながら、俺は考えた。
今夜、どこに泊まるか。
ビジネスホテルを探せばいい。一人で泊まれる場所なら、どこでもいい。明日も仕事がある。明日の現場に行けるなら、どこでもいい。
スマートフォンでホテルを検索した。
駅近くに一軒、空きがあった。
予約ボタンを押そうとして——
止まった。
麻衣の体のことが、頭に浮かんだ。
抗がん剤の副作用で、まだ完全には回復していない。吐き気が出る夜がある。貧血で立ちくらみがする朝がある。
一人で大丈夫か。
大丈夫ではないかもしれない。
でも、だからといって——
俺はしばらく、画面を見つめたまま、立っていた。
駅の人の流れが、俺の横を通り過ぎていった。みんな、どこかへ帰っていく。家があって、帰る場所があって、待っている人がいる。
俺にも、家がある。
帰る場所がある。
待っているかどうかは——わからない。
結局、ホテルに泊まった。
予約ボタンを押した。
自分でも驚いた。帰ろうとしていたのに、押した。
押してから、なぜ押したのかを考えた。
麻衣のことが心配だったのは本当だ。でも心配だけなら、電話一本すればいい。帰らなくても、声だけ確認することはできる。
それでも帰らなかったのは——
もう一日、必要だったのだと思う。
「もうだめだ」と言った翌日に、何事もなかったように帰ることが、俺にはできなかった。言葉を発した責任があった。あの言葉は、本物だった。本物だったから、一日くらいは、その重さを一人で持っていなければならない気がした。
一人で持つことが、あの言葉への、俺なりの誠実さだった。
ホテルの部屋は、狭かった。
シングルベッドと、小さなデスクと、テレビ。それだけだった。
シャワーを浴びた。
ホテルのシャンプーで髪を洗った。
その香りが——あの夜を思い出させた。
麻衣が帰ってきた夜。うちのシャンプーと違う香りがした夜。あれが、最初だった。あれが、見張る自分が生まれた最初の夜だった。
あれから何年経ったのか。
遠かった。
遠いようで、昨日のことのようだった。
ベッドに横になった。
眠れなかった。
見慣れない天井だった。知らない部屋の、知らない天井。
麻衣はずっと、こういう場所にいたのだと思った。
知らないホテルの天井を見る夜を、過ごしてきたのだと思った。
その孤独がどれほどのものだったか——俺には想像しかできない。想像したくなかった。でも少しだけ、想像した。
知らない部屋で、知らない天井を見ている麻衣を。
そうしながら、うちのことを考えていたのか。俺のことを、考えていたのか。
わからない。
でも——昨夜、麻衣は言った。
「健吾のそばが一番安全な場所だった」
あの声は、震えていた。
震えていたから、本物だと思った。
八 麻衣 ― 一人の夜
健吾がいなくなってから、部屋は静かだった。
いつもの静けさとは、違った。
健吾がいるときの静けさは、誰かがいる静けさだ。物音がしなくても、気配がある。息をしている人間がそこにいる、という密度がある。
でも今夜の静けさは、密度がなかった。
薄かった。
冬の前の、乾いた空気のような静けさだった。
夕方になっても、健吾から連絡はなかった。
私からも、しなかった。
できなかった、ではない。
しなかった。
健吾が決めることを、待っていた。
追いかけない。引き止めない。健吾が自分で答えを出すまで、待つ。
それが今の私にできる、唯一の誠実さだと思った。
夜中に、お腹が空いた。
冷蔵庫を開けた。
昨日の残り物があった。健吾が作ったおかずが、いくつか入っていた。
健吾の作ったものだ。
今夜、この部屋に健吾はいない。
でも健吾が作ったものが、まだここにある。
私はそれを温めて、一人でテーブルに座って、食べた。
おいしかった。
おいしかった、ということが、少し悲しかった。
食べ終えて、茶碗を洗った。
水の音が、部屋に響いた。
健吾がいれば、隣で布巾を持っている。今夜は、隣に誰もいなかった。
洗い終えた茶碗を、自分で拭いた。
水切りかごに置いた。
その動作が、今夜は二倍の時間がかかった気がした。
ベッドに入った。
健吾がいない側が、広かった。
広い、ということが、こんなに寒いとは知らなかった。
目を閉じた。
眠れなかった。
健吾の寝息が聞こえなかった。
その不在の音を、私はしばらく聞いていた。
聞いていながら、思った。
この不在の音を、健吾は三年間聞いていたのかもしれない。
俺が深夜に帰ってくる夜、隣に寝ながら、何かが欠けている感覚を、ずっと聞いていたのかもしれない。
その孤独が、今夜初めて、私に届いた。
夜明け前に、決めた。
仕事を辞める。
芸能界を、辞める。
今まで何度も決めようとして、決めきれなかった。糸が絡まっていた。業界の論理があった。切れなかった。
でも今夜——
健吾がいない部屋で、健吾の作ったおかずを一人で食べながら、私は初めて、切る理由を、糸を切れない理由より大きく感じた。
業界の糸より、健吾の方が大事だった。
それは最初からわかっていた。
わかっていながら、糸を切れなかった。
でも今夜は——
健吾の不在の音が、背中を押した。
朝になったら、事務所に連絡する。
それだけ決めて、目を閉じた。
今度は、少しだけ眠れた。
九 健吾 ― 翌朝
朝、目が覚めた。
六時だった。
カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。
昨日と同じ光だった。世界は律儀に、朝を連れてくる。
俺はベッドの上に座って、スマートフォンを見た。
麻衣からの連絡は、やはりなかった。
一件も、なかった。
しばらく、その画面を見ていた。
連絡がないことが——今度は、少し違う意味を持った。
昨夜は「麻衣らしい」と思った。
でも今朝は——連絡しないことが、麻衣なりの誠実さなのかもしれないと思った。
追いかけない。引き止めない。
健吾が決めることを、待っている。
それが、あの人の——不器用な、愛し方なのかもしれない。
ホテルをチェックアウトした。
コンビニで缶コーヒーを買った。
温かい缶を両手で持った。
麻衣がいつもカップを両手で包む仕草を、思い出した。冷たい手を温めるように。あの手はいつも冷たかった。いつも、怖れていたから。
俺の手は今、温かかった。
缶の温度が移ってきた。
駅に向かって歩きながら、俺は一つだけ、確かなことを思った。
答えは、まだ出ていない。
許せたわけではない。終わったわけでもない。どうすればいいか、まだわからない。
でも——
麻衣のことを考えるのをやめることは、できなかった。
それだけが、今朝の俺の全部だった。
改札の前まで来て、俺は立ち止まった。
いつも乗る路線のホームへ降りれば、家に帰れる。
帰るかどうか、まだ決めていなかった。
でも——
駅の手前に、パン屋があった。
麻衣が好きだと言っていた店だ。クロワッサンが美味しいと、何度か言っていた。一緒に前を通るたびに、「寄っていく?」と言う麻衣に、「今日は時間がない」と言い続けていた。
今日は——
時間があった。
どこへ向かうかも決まっていない今朝は、時間だけがあった。
俺はパン屋に入った。
クロワッサンを二つ買った。
袋を提げて、改札に向かった。
いつもの路線のホームに降りた。
行き先を確認してから、電車に乗った。
十 帰宅
マンションが見えてきた。
三階建ての角部屋。俺たちが選んだ部屋。
エレベーターに乗った。
三階のボタンを押した。
廊下を歩いた。
ドアの前に立った。
鍵を、ポケットの中で探した。
あった。
昨日、持って出た鍵が、ちゃんとあった。
ドアを開けると、静かだった。
カーテンが閉まっていた。
麻衣はまだ眠っているのかと思った。
でも——
リビングに、麻衣がいた。
ソファに座って、膝を抱えていた。
眠っていなかった。ずっと起きていたのかもしれなかった。目の下が、少し暗かった。
テーブルの上に、昨日のコーヒーカップがまだあった。
飲みかけのカップが、まだそこにあった。
麻衣が俺を見た。
驚いた顔をしなかった。
待っていた顔をしていた。
いつ来るかわからないものを、でも来ると信じて、静かに待っていた顔だった。
「おかえり」
麻衣が言った。
たった四文字だった。
でもその四文字の中に——一晩分の時間が、全部入っていた。
俺は袋を差し出した。
「クロワッサン、買ってきた」
麻衣が袋を見た。
それから俺を見た。
目が、少し赤かった。
「ありがとう」
十一 麻衣
健吾が「クロワッサン、買ってきた」と言った瞬間、私は笑いそうになった。
笑うつもりではなかった。
でも——クロワッサン。
あのパン屋の。
ずっと「今日は時間がない」と言って、一度も寄ってくれなかったパン屋の。
健吾が、クロワッサンを買ってきた。
その事実が——昨日の「もうだめだ」と、同じ人間から来たとは、信じられなかった。
でも、来た。
同じ人間から、来た。
「ありがとう」
と言いながら、私は涙が出そうになった。
泣かなかった。
泣くのは、もういい。昨日だけで十分泣いた。今朝は——受け取るだけでいい。
健吾がコートを脱いで、椅子に座った。
私もソファから立ち上がって、テーブルに向かった。
袋を開けた。
クロワッサンが二つ入っていた。
まだ少し温かかった。
「コーヒー、淹れてくる」
「ありがとう」
台所に向かった。
コーヒーメーカーに豆を入れながら、私はひっそりと息を吐いた。
帰ってきた。
この人は、帰ってきた。
「もうだめだ」と言った人が、翌朝クロワッサンを持って帰ってきた。
その矛盾が、この人らしかった。
言葉と、行動が、いつもかみ合わない。「お前じゃなきゃだめだ」と言いながら、長い間疑い続けた。「もうだめだ」と言いながら、翌朝帰ってきた。
でもその矛盾の中にこそ、健吾という人間の、本当の部分がある気がした。
言葉より行動が正直な人間が、ここにいる。
十二 健吾
麻衣がコーヒーを淹れてくれた。
二人でテーブルに座って、クロワッサンを食べた。
温かかった。焼きたてではなかったが、バターの香りがして、外側がさくさくしていた。
「おいしい」
麻衣が言った。
「そうか」
「このパン屋、ずっと来たかったんだよ」
「知ってる」
「なんで今まで連れてきてくれなかったの」
「時間がなかった」
麻衣が少し笑った。
笑い声ではなかった。口元が、かすかに動いただけだった。でも確かに、笑った。
俺も、笑いそうになった。
笑うつもりではなかった。でも——
こんな朝に、こんな会話をしている。
「もうだめだ」と言った翌朝に、クロワッサンを食べながら、こんな会話をしている。
人間というのは、こういうものか、と思った。
壊れそうで、壊れない。
続かないようで、続く。
それが惨めなのか、それとも人間の強さなのか、俺にはまだわからない。
でも今朝は——続いていた。
食べ終えて、コーヒーを飲んだ。
麻衣がカップを両手で包んでいた。
いつもの仕草だった。
「麻衣」
「ん」
「手、冷たいか」
麻衣が少し驚いた顔をした。
「うん、いつも」
「そうか。三年間、知らなかった」
「言わなかったから」
「そうだな」
短い言葉が、行き来した。
責めてもいなかった。謝ってもいなかった。
ただ——今まで言わなかったことを、今日初めて言った。それだけだった。
でもそれだけのことが、今朝の俺たちには、大きかった。
「仕事のこと」
麻衣が言った。
「辞めることにした」
「決めたのか」
「昨夜。一人で考えて」
「そうか」
俺は答えなかった。
答えは俺が出すものではなかった。
「怖い」
麻衣が言った。
「辞めたら、何もなくなる気がして。でも——辞めなかったら、もっと大事なものがなくなる気がして」
「そうか」
「健吾は、どう思う」
俺は少し考えた。
「お前が決めることだ」
「そうだね」
「でも——辞めたいなら、辞めればいい。辞めた後のことは、そのとき考える」
麻衣が頷いた。
小さく、確かに、頷いた。
食器を片付けた。
いつもと同じ動作だった。
俺が運んで、麻衣が洗う。
水の音がした。
俺は布巾を手に取った。
麻衣が洗った茶碗を、俺が拭いた。
今日は——
最後まで、拭けた。
嘔吐しなかった。体が拒絶しなかった。
それだけのことが、昨日とは違った。
洗い物が終わって、二人でリビングに戻った。
ソファに並んで座った。
少し間があって、麻衣が俺の肩に頭をもたせかけた。
昨日だったなら——その重みが、苦しかったかもしれない。
でも今朝は、ただ重かった。
重くて、温かかった。
俺は何も言わなかった。
払いのけなかった。
ただ、その重みを受け取った。
「健吾」
しばらくして、麻衣が言った。
「ん」
「出会ってくれて、ありがとう」
俺は答えなかった。
すぐには、答えられなかった。
「あの撮影現場で、声をかけてくれなかったら、私はもっと長い間、誰にも本当のことを言えないまま生きていたと思う」
「俺は何もしていない」
「してる。ただそこにいてくれた。それだけで、十分だった」
ただそこにいてくれた。
その言葉が、胸の奥に落ちた。
音もなく、静かに、落ちた。
俺がこの三年間、疑いながらも傍にいたことを——麻衣は、知っていた。知っていて、ずっと感じていた。透明な壁の向こうから、ちゃんと感じていた。
壁は確かにあった。
でも壁があっても——温度は、伝わっていた。
「俺も」
俺は言った。
「出会えてよかった」
嘘ではなかった。
怒りがあっても、悲しみがあっても、それでも——出会えてよかった、という気持ちだけは、本物だった。
出会わなければよかったとは、思えなかった。
どんな夜があっても、思えなかった。
麻衣がまた、俺の肩に頭を戻した。
俺はそのまま、動かなかった。
部屋の中に、静かな時間が流れた。
洗い終えた食器が、水切りかごの中で乾いていた。テーブルの上に、空になったコーヒーカップが二つ並んでいた。昨日のカップと、今朝のカップが。
二つとも、空だった。
二つとも、ここにあった。
これからのことは、まだわからない。
許せる日が来るのかどうか。
二人でいられるのかどうか。
麻衣が本当に変われるのかどうか。
俺が本当に受け入れられるのかどうか。
何一つ、決まっていない。
でも今朝だけは——
麻衣の頭の重みを肩に感じながら、俺は、それでいいと思った。
決まっていなくていい。
答えが出なくていい。
クロワッサンを買って帰れた。
麻衣は「おかえり」と言った。
それだけが、今日の事実だった。
大きな事実ではない。許しでも、再出発でも、何でもない。ただの、小さな朝の事実だ。
でも人間は——小さな事実を積み重ねて、生きていくしかない。
一粒ずつ積み重なった砂が、俺を壊したように。
一粒ずつ積み重なった朝が——いつか、何かを作るかもしれない。
作らないかもしれない。
それでも、今日は、ここにいる。
麻衣の頭の重みを肩に感じながら、俺はそれだけを、確かなこととして持っていた。
窓の外で、秋が深まっていた。木の葉が一枚、風に乗って窓ガラスに触れて、また飛んでいった。二人は気づかなかった。気づかないまま、ソファに並んで座っていた。答えのない時間の中で。でもその時間は、昨日までとは確かに違った。透明な壁は、まだそこにある。でも光が、壁を通るようになっていた。壁越しに届く光は、弱い。でも確かに、温かかった。
『透明な壁』 完




