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透明な壁 改稿版  作者: はまゆう


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第三章 告知

一 健吾


十月の空は、嘘みたいに青かった。


病院の待合室の窓から見える空が、これ以上ないほど澄んでいた。こんな日に、こんな場所で、こんな話を聞くのかと、どこか他人事のように思った。他人事のように思わなければ、椅子に座り続けられなかったのかもしれない。


乳がん、という言葉を、医師の口から聞いた瞬間、俺の頭の中で何かが白く塗り潰された。


真っ白になった。


音が遠くなった。


医師が話し続けていた。ステージⅡ。腫瘍の大きさ。リンパ節への転移の可能性は現時点では低い。手術が必要。術後は抗がん剤治療も視野に入れる。定期的な検査が重要になる。


俺はメモ帳を取り出した。


書かなければ、と思った。書くことで、冷静でいられた。ペンを走らせながら、頭の別の部分では、まだ白い霧の中にいた。


麻衣は俺の隣に座っていた。


泣かなかった。


それが、むしろ怖かった。泣いてくれた方が、俺も泣けた。でも麻衣は真っ直ぐ前を向いて、医師の言葉を静かに聞いていた。膝の上で手を固く組んでいた。その手の甲だけが、少し白くなっていた。


説明が終わった。


医師が「何かご質問は」と言った。


俺はメモを見ながら、いくつか聞いた。手術の時期について。入院期間について。術後の仕事復帰の目処について。日常生活への影響について。


一つ一つ、医師は丁寧に答えた。


麻衣は一つも聞かなかった。


ただ、俺の隣に座っていた。


俺が全部聞き終えると、医師は「では次回の予約を」と言って、看護師に指示を出した。


病院を出たのは夕方近くだった。


空はまだ青かった。西の端だけが、うっすらとオレンジに染まり始めていた。病院の自動ドアをくぐると、十月の空気が顔に当たった。冷たくはなかった。でも夏とは違う、何かが終わりかけているような空気だった。


俺たちは駅に向かって歩き出した。


何も喋らなかった。


歩きながら、俺は麻衣の手を探した。


コートのポケットに入っていた手を、そっと引き出して、握った。


冷たかった。


麻衣の手は、冷たかった。


結婚を申し込んだあの冬の夜も、麻衣の手は冷たかった。あのときは冬だからだと思った。でも今は十月で、そこまで寒くはない。


この人の手は、いつも冷たいのかもしれない。


そう思ったとき、なぜか泣きそうになった。


知らなかった。三年間一緒にいて、知らなかった。この人の手がいつも冷たいことを、俺は知らなかった。


どれだけ多くのことを、俺はこの人について知らないのだろう。


知らないことが、こんなにもたくさんあるのだろう。


電車に乗った。


席に並んで座った。


麻衣は窓の外を見ていた。夕暮れの街が流れていた。住宅街。踏切。川。工場の煙突。どこにでもある景色が、窓の外を流れていった。


俺も窓の外を見ていた。


でも何が見えているのか、わからなかった。


「怖いか」


気づいたら、声に出ていた。


聞くつもりではなかった。でも口が、勝手に動いた。


麻衣が少し間を置いた。


「うん」


一文字だけ、言った。


その「うん」の小ささが、胸に刺さった。いつも堂々としている麻衣が、一文字だけで答えた。その一文字の中に、麻衣のすべての怖さが詰まっている気がした。


「大丈夫だ」


俺は言った。


根拠はなかった。医師から保証された言葉でもなかった。ただ言わなければならない気がして、言った。


麻衣は何も言わなかった。


俺の手を、少しだけ強く握った。


それだけだった。


それだけで、今日を乗り越えられる気がした。この感覚だけは、嘘ではないと思った。どんな疑念があっても、どんな夜があっても——この人の手が俺の手を握る感覚だけは、本物だと思った。


家に帰って、二人でご飯を食べた。


どちらも、あまり食べられなかった。


麻衣が「少し横になる」と言って、寝室に行った。


俺はテーブルの前に座ったまま、しばらく動けなかった。


食器を片付けなければならない。明日の仕事の準備もある。後藤に連絡を入れておかなければならないことがある。やるべきことはいくつもあった。


でも俺は、椅子に座ったまま、窓の外を見ていた。


夜になっていた。


川が黒く光っていた。


その夜、ベッドに入ってから、俺の頭に浮かんだのは——


河村の顔だった。


最低だと思った。


麻衣ががんだと告げられた夜に、別の男の顔が浮かぶ自分が、最低だと思った。でも浮かんだ。意志とは無関係に、浮かんだ。


河村は知っているのだろうか。麻衣の病気を。


もし知っているなら、今夜どこにいるのだろう。


心配しているのか。それとも、もうそんな関係ではないのか。


どちらを想像しても、胸が痛かった。


心配されていると思うと嫉妬で痛かった。関係ないと思われていると思うと、麻衣が哀れで痛かった。


どこへ行っても、痛い。


俺はどこへ行っても、痛い場所に立っていた。


麻衣の寝息が聞こえた。


疲れ切って、眠れたのだろう。


俺はその寝息を聞きながら、自分の最低さを、静かに確認した。


妻ががんの告知を受けた夜に、嫉妬している男がここにいる。その男は今夜も、何も言わない。何もできない。ただ横に寝ているだけだ。


これが愛なのか、臆病なのか、あるいはもう愛と臆病の区別がつかなくなっているのか——


答えは出なかった。


出ないまま、夜が長く続いた。


二 麻衣


告知の朝、私は早く目が覚めた。


五時前だった。


健吾はまだ眠っていた。


カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。その光の中に、ほこりが舞っているのが見えた。どこにでもある、何でもない朝の光だった。でもその光を見ながら、私は今日が特別な日だと思っていた。


今日、病院に行く。


三ヶ月前から、左胸に違和感があった。


痛みではない。ただ、何かがある、という感触。触れると、確かに硬いものがある気がした。最初は気のせいかと思った。次に気づいたときは、気のせいではないかもしれないと思った。その次に気づいたときは——


病院に行かなかった。


行けなかった、ではない。


行かなかった。


忙しかったからではない。仕事が詰まっていたからではない。怖かったから、というのも正確ではない。


どこかで——どうでもよかった、のだと思う。


自分の体が、どうでもよかった。


その感覚に気づいたとき、私は自分がどれほど疲弊していたかを、初めて理解した。生きることに、そんなに力を入れていなかった。それほど、消耗していた。


健吾には言えなかった。


言えるわけがなかった。自分の体をそれほど粗末に扱っていたことの、理由を話さなければならなくなるから。理由を話せば、何もかもが崩れる。


だから三ヶ月間、黙っていた。


今日、健吾と一緒に病院に行くのは、健吾に頼んだからだ。


頼んだのは——一人では行けなかったからだ。


一人では、結果を受け取る自信がなかった。


どんな結果であれ、健吾がそこにいてくれれば、受け取れる気がした。


そう思えること自体が、この人を愛しているということだと、わかっていた。


病院の待合室で、健吾はメモ帳を取り出した。


医師の話が始まると同時に、ペンを走らせ始めた。


その横顔を、私は盗み見た。


こちらを見なかった。前を向いて、医師の言葉を一言も逃さないように、書き続けた。顔が少し青かった。でも手は動いていた。


この人は、こういう人だ。


感情を表に出さない。でも体は動く。動くことで、感情を封じ込める。


美術の仕事でも、そうだ。


どんなに厳しい現場でも、手を動かし続ける。それがこの人の生き方だ。


私はその横顔を見ながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。


泣かなかった。


泣いたら、何かが溢れる。溢れてはいけないものが、私の中にはたくさんある。だから泣かなかった。


代わりに、膝の上で手を固く組んだ。


固く組んで、今日という日を受け取った。


病院を出て、健吾が手を繋いでくれた。


コートのポケットに入れていた私の手を、そっと引き出して、黙って握った。


冷たいと思っただろう。


私の手はいつも冷たい。子どもの頃から、手足の冷えがひどかった。血の巡りが悪いのだと、母に言われた。健吾は三年間、私の手を何度も握ってきたのに——今日、初めて気づいたような顔をしていた。


なぜだろう、と思った。


今まで気づいていたけれど、言わなかっただけなのか。


それとも本当に、今日初めて気づいたのか。


どちらでもよかった。


あの瞬間、手を握られたことだけが、大事だった。


握られた瞬間に、涙が出そうになった。


泣かなかった。


でも目の奥が熱くなった。三ヶ月間、この手を求めていた気がした。怖かったのに、病院に行けなかったのは、この手を求める気持ちを、自分の中で認めたくなかったからかもしれない。認めれば、この手を必要としている自分が見えてしまう。見えてしまえば、私がどれほど汚いかが、より鮮明になる。


汚い私が、この手を必要としている。


その矛盾が、嫌だった。


でも今日は——嫌でも、受け取った。


電車の中で、健吾が「怖いか」と聞いた。


聞いてもらえたから、答えられた。


「うん」


一文字しか出なかった。それが精一杯だった。


怖い、という感情を言葉にすること自体が、久しぶりだった。怖い、と言っていいのかどうか、わからなかった。怖がることを、自分に許していなかったのかもしれない。


健吾が「大丈夫だ」と言った。


根拠のない言葉だと、わかった。


でも根拠なんて、どうでもよかった。根拠のある言葉より、根拠のない言葉の方が、人を支えることがある。声の温度で支える言葉が。


健吾の「大丈夫だ」は、そういう言葉だった。


私は健吾の手を、少しだけ強く握った。


ありがとう、とは言えなかった。言えば、続きを話したくなる。続きを話せば、終わりが来るかもしれない。だから黙って、手だけを握った。


その夜、眠れなかった。


疲れていたのに、眠れなかった。


健吾の寝息が聞こえた。眠れたのだと思った。安心した。この人が安らかに眠れていることが、あの頃の私には、唯一の慰めだった。


でも——後から思えば、健吾も眠れていなかったのだと思う。


あの呼吸は、眠っている人間の呼吸ではなかった。


二人とも、眠れない夜を、眠っているふりをして過ごした。


またか、と思った。


私たちはいつもこうだ。同じ夜を、別々の場所で過ごしている。同じ部屋にいるのに。同じ布団の中にいるのに。


その孤独が、あの夜は特に鮮明だった。


病気になって、体が弱くなると、鎧が薄くなる。鎧が薄くなると、今まで感じないようにしていたものが、皮膚に届くようになる。


孤独が、届いた。


届いた孤独は、痛かった。


三年間、ずっとそこにあったのに、気づかなかった孤独が——


乳がんという言葉が、一枚だけ鎧を剥いで、届かせた。


三 健吾


手術は十一月の初めに決まった。


それまでの二週間、俺は何をしていたのか、正確には覚えていない。


仕事をしていた。現場に行って、後藤と打ち合わせをして、監督と話をして、セットを作った。手が動いている間は、考えなくてよかった。手が止まると、麻衣のことを考えた。


麻衣は普通にしていた。


普通というのは、いつもと同じ、という意味ではない。普通にしようとしていた、という意味だ。


朝起きると、コーヒーを淹れた。


夕食を作った。


俺の仕事の話を聞いた。


笑うこともあった。


でも——たまに、俺が気づかないと思っているタイミングで、遠くを見る目をした。何かを見ているようで、何も見ていない目。何かを考えているようで、考えることをやめようとしている目。


その目を、俺は見てしまうたびに、視線を外した。


見ていることを、悟られたくなかった。


手術の前日の夜、麻衣が言った。


「明日、よろしくね」


「ああ」


「ちゃんと寝ておいてね。健吾が倒れたら困るから」


「お前が心配しなくていいことだ」


「でも」


「寝ろ。お前が寝なきゃいけない」


麻衣が黙った。


しばらくして、「うん」と言った。


それだけだった。


俺はその夜、眠れなかった。


眠ろうとしたが、眠れなかった。


暗い天井を見ながら、もし、という言葉が何度も浮かんだ。もしうまくいかなかったら。もし転移が見つかったら。もし——


そこから先は、考えられなかった。


麻衣がいない世界を、想像できなかった。


疑っていても、嫉妬していても、知りたいのに知れなくて苦しくても——麻衣がいない世界は、考えられなかった。それだけはわかった。どれだけ透明な壁が厚くなっていても、その向こうに麻衣がいることが、俺には必要だった。


向こうから触れられなくてもいい。


ただ、いてくれればいい。


そんな哀れな願いを、暗い病室の前の待合室で——いや、まだ自分の部屋で——俺はずっと繰り返していた。


朝になった。


麻衣が起きてきた。


「おはよう」


「おはよう」


いつもと同じ言葉だった。


でも今朝は、いつもと違う朝だった。


四 麻衣


手術の前日の夜、私は健吾に「明日、よろしくね」と言った。


言いながら、情けないと思った。


よろしくね、という言葉の軽さが、状況に合っていなかった。でも他に言葉が見つからなかった。ありがとう、と言えば泣きそうだった。お願いします、と言えば怖くなりそうだった。


だから「よろしくね」と言った。


健吾が「ちゃんと寝ておけ」と言った。


その言い方が、いつもの健吾だった。余分なことを言わない。でも必要なことだけは言う。


私は「うん」と言った。


眠れなかった。


怖かった。


怖い、という感情を、ここ数年あまり正面から感じてこなかった。感じないようにしてきた。でも手術の前夜は、怖い、という感情が正直に出てきた。


麻酔で眠っている間に、何かが変わるかもしれない。


目が覚めないかもしれない。


目が覚めたとしても、何かが変わっているかもしれない。


変わること自体は、怖くなかった。


変わった後の健吾の顔が、怖かった。


変わった私を、この人はどんな顔で見るだろう。


同情か。


哀れみか。


それとも、変わらず愛してくれるのか。


変わらず愛してくれる、という確信が持てないことが——持てないのは私に原因があるということが——怖かった。


手術の朝、病院の廊下を歩きながら、私は自分の手を見た。


点滴のための処置で、手の甲に針が刺さっていた。


細い手だった。


いつも冷たい手だった。


健吾が今朝、この手を握ってくれた。病院に着いて、待合室から処置室に向かう前に、廊下で少しだけ二人になった時間があった。健吾が黙って、この手を握った。


冷たいだろう、と思った。


でも健吾は何も言わなかった。ただ、握った。


体温が、移ってきた。


ゆっくりと、健吾の温度が、私の手に移ってきた。


その温度を感じながら、私は思った。


この人の傍に戻ってこなければならない。


どんな結果が出ても、目が覚めたら、この人の傍に戻ってこなければならない。


それだけが、手術台に向かうための理由だった。


手術台は、想像より明るかった。


天井に大きなライトがいくつもあって、部屋全体が白く輝いていた。


また天井だ、と思った。


でもあの天井たちとは違った。あのホテルの天井でも、あのマンションの天井でも、あの病室の天井でもない。もっと清潔で、もっと中立な天井。嘘も本当もない、ただ白い天井。


麻酔医の声が聞こえた。


「少し眠くなりますよ」


眠くなる、という言葉が、妙に優しかった。眠る、という行為が、こんなに怖かったことはなかった。


でも眠ることを、拒む理由もなかった。


意識が遠くなる直前に、健吾の顔が浮かんだ。


今頃、待合室で壁を見ているだろう。手元のメモを見るふりをして、本当は何も見ていないだろう。体が大きくて、無口で、感情を表に出さない男が、椅子に座って、ただ待っている。


目が覚めたら、また手を握ってもらおう。


そう思いながら、意識が消えた。


五 健吾


手術室の前で、麻衣が運ばれていくのを見送った。


手術着に着替えた麻衣は、小さく見えた。


いつもは大きく見える。画面の中でも、部屋の中でも、麻衣はどこにいても存在感がある。でもストレッチャーの上の麻衣は、小さかった。白い天井を見ながら、静かに横たわっていた。


「行ってきます」


麻衣が言った。


どこかに出かけるような言い方だった。


「行ってらっしゃい」


俺も、どこかに送り出すような言い方で、答えた。


扉が閉まった。


金属の扉が、静かに閉まった。


俺は待合室に戻って、椅子に座った。


何もしなかった。


本を持ってきたが、読めなかった。スマートフォンも見られなかった。ただ座っていた。手術室の方向に向いた壁を、ただ見ていた。


壁は白かった。


何もなかった。


その白さの向こうに、今、麻衣がいる。


四時間が、やけに長かった。


時計を見た。また時計を見た。また見た。


針の進みが遅かった。


待合室には他にも何人かいた。みんな、同じ顔をしていた。待つ顔だ。待つしかない人間の、どこか宙に浮いたような顔。


俺は後藤にメッセージを送った。今日の現場の段取りについて、簡単に確認した。後藤は「わかりました、任せてください」と返してきた。信頼できる後輩だと思った。


仕事のことを考えているうちは、別のことを考えなくていい。


でも仕事のことを考えても、頭の半分は常に、扉の向こうにあった。


もし、という言葉が、また浮かんだ。


今度は、もし、の後を考えた。


もし麻衣がいなくなったら。


俺はどうなるのか。


事務所はある。仕事はある。後藤もいる。生活は続けられる。


でも——


台所に誰もいない朝。コーヒーカップが一つだけのテーブル。洗い物が半分になった水切りかご。


そういう朝が続くことを、想像した。


想像した瞬間、目の奥が熱くなった。


待合室で、俺は下を向いた。


泣くまいと思った。


でも涙が出た。声は出なかったが、涙が出た。


みっともないと思った。


でも止まらなかった。


四時間後、執刀医が出てきた。


「手術は成功しました。経過も良好です」


その言葉を聞いた瞬間、俺はもう一度、下を向いた。


頭を下げながら、「ありがとうございます」と言った。


声が、少し震えた。


麻衣が病室に戻ってきたのは、夕方だった。


麻酔がまだ残っていた。半分眠っているような目で、ストレッチャーで運ばれてきた。


俺はベッドの横に立っていた。


麻衣がゆっくりと目を開けた。


焦点が定まるまで、少し時間がかかった。


それから、俺を見た。


何も言わなかった。


ただ、見た。


その目が——告知の日より、ずっと柔らかかった。鎧が、剥がれていた。麻酔の残る目で俺を見る麻衣は、今まで見た中で一番、無防備だった。


一番、本物に見えた。


「痛いか」


「少し」


「よく頑張ったな」


麻衣が、かすかに首を振った。


頑張っていない、という意味なのか。それとも別の何かなのか、わからなかった。


俺はそれ以上聞かなかった。


椅子を引いて、ベッドの横に座った。


麻衣の手を握った。


今日も冷たかった。


でも少しずつ、温かくなった。俺の手の温度が、移っていくように。


それだけでよかった。


今夜は、それだけでよかった。


嫉妬も、疑念も、あの画面の断片も——今夜だけは、どこか遠い場所にあった。


ここには、俺と麻衣だけがいた。


白い病室に、二人だけがいた。


その時間を、俺は大切だと思った。


大切だと思いながら——


それでも頭の片隅に、消えない影があることも、知っていた。


大切だと思う気持ちと、消えない影が、同じ頭の中に同居していた。


それが、今の俺という人間だった。


六 麻衣


目が覚めたとき、最初に見えたのは天井だった。


白い天井。病室の天井。


次に見えたのは、健吾だった。


ベッドの横に立って、俺を見ていた。


目が赤かった。


泣いたのだ、とわかった。


この人は、私のために泣いた。


私のすべてを知らないのに。透明な壁の向こうから、私の本当の姿を見ていないのに。それでも泣いた。


その事実が——


何年もかけて積み重なった罪悪感の地層を、一瞬だけ揺らした。


崩れはしなかった。でも揺れた。


「痛いか」


健吾が言った。


「少し」


「よく頑張ったな」


私は首を振った。


頑張っていない。


手術台に寝ていただけだ。眠っていただけだ。それのどこが頑張りなのか。


頑張ってきたのは健吾の方だと思った。


何も知らないまま、知らないふりをしたまま、それでも傍にいてくれたことが——頑張りというなら、それだ。


手を握られた。


冷たいと思っただろう、また。


でも今日は、すぐに温かくなった。健吾の温度が、移ってきた。


私はその温度を感じながら、目を閉じた。


眠ったわけではない。ただ、目を閉じた。


健吾の手の温度を、全部受け取るために。体の中に、仕舞い込むために。


この温度だけは、どこにも仕舞えない場所に取っておきたかった。


取っておいて——いつか、ちゃんと返したかった。


返せる日が、来るだろうか。


来てほしかった。


来るかどうかわからないまま、私はその温度の中に、静かに沈んでいった。


七 健吾


抗がん剤が始まったのは、手術から一ヶ月後だった。


点滴で投与する。週に一度、病院に行く。それが数ヶ月続く。


主治医の説明を、俺はまたメモした。


副作用について。吐き気、倦怠感、脱毛。免疫力の低下。食欲不振。個人差があるが、ある程度は覚悟してほしいと医師は言った。


麻衣は「わかりました」と言った。


淡々としていた。


その淡々さが、強さなのか、それとも感じないようにしている防御なのか、俺にはわからなかった。


脱毛が始まったのは、抗がん剤の最初の投与から三週間後だった。


麻衣が気づいたのは、シャワーの排水口だった。


黒い髪が、いつもより多く溜まっていた。


麻衣は何も言わなかった。


でも俺はわかった。排水口の掃除をしていて、気づいていた。


枕にも残るようになった。


朝、麻衣が起きた後の枕を見ると、黒い髪がいくつか残っていた。


俺はそれをそっと払った。


麻衣がいないうちに、払った。


見せたくなかった。見せれば、麻衣が気にする。気にすれば、麻衣が苦しくなる。だから俺は、麻衣がいないときに、一人でそれをやった。


泣きそうになるのを、堪えた。


毎回、堪えた。


麻衣の前では泣けなかった。泣いたら、麻衣が気を遣う。だから俺は、麻衣がいない場所でだけ、こっそり息を吐いた。


ある夜、麻衣が鏡の前に立っていた。


廊下から、偶然見てしまった。


ウィッグをはずした姿で、自分の顔を見ていた。


見てはいけない気がしたが、目が離せなかった。


化粧もない。ウィッグもない。薬で少し荒れた肌。薄くなった眉。産毛のような髪が、まばらに残っている。


それが麻衣だった。


スクリーンに映る麻衣でも、業界の中に立つ麻衣でも、俺に笑いかける麻衣でもない。全部が剥がれ落ちた、ただの麻衣が、そこにいた。


美しかった。


醜くなかった。


ただひどく疲れていて、それでも鏡を見ることをやめない、その横顔が——俺には美しかった。


俺は廊下から離れた。


見てしまったことを、悟られたくなかった。


翌朝、麻衣がリビングに来た。


ウィッグを被り直した顔で、俺の顔を見て言った。


「ウィッグ、似合うかな」


笑いながら言った。


「似合う」


俺は答えた。


嘘ではなかった。似合っていた。


でも——さっき廊下から見た顔の方が、俺は好きだった。全部が剥がれ落ちた顔の方が、俺には美しかった。


その言葉は、言わなかった。


言えばよかったのか、言わなくてよかったのか、今でもわからない。


スープを麻衣の前に置いた。


麻衣が一口飲んで「おいしい」と言った。


俺は頷いた。


窓の外に、冬の夜が広がっていた。


二人の間に、静かな時間が流れた。


その時間の中で、俺はひとつだけ確かなことを思った。


この人が死ななくてよかった。


それだけだった。


それだけが、今夜の全てだった。


八 麻衣


抗がん剤の副作用は、想像していたより辛かった。


投与の翌日は、世界が水の底にあるようだった。


音が遠い。光が滲む。天井を見ていると、天井が自分に向かってゆっくり降りてくる気がして、目を閉じた。閉じると今度は、暗闇の中に顔が浮かんだ。


河村さんの顔。山瀬の顔。事務所の社長の顔。あの業界で出会った、名前のある顔たち。


私はそれを、ただ見ていた。


怒りはなかった。憎しみもなかった。ただ、そこにあった。


吐き気が波のように来て、引いて、また来た。


健吾が背中をさすってくれた。


大きな手だった。温かい手だった。その手が背中を動くたびに、私は少しだけ現実に戻ってきた。水の底から、少しだけ浮き上がってきた。


この手がある。


それだけで、今夜は生きていける。


抗がん剤の夜、私はよく考えた。


体が動かないから、考えるしかなかった。


健吾のことを考えた。


この人は毎朝、私のために何かを作ってくれる。スープ。おかゆ。消化のいいもの。副作用で食欲がない日でも、一口だけ食べてみようと思えるものを、考えて作ってくれる。


何も言わない。


文句も言わない。


疲れた顔をしない。麻衣の前では。


でも私は知っている。私がいない場所で、この人がどれほど疲れているかを。廊下を通るとき、台所から聞こえるため息を、私は聞いたことがある。


その音が、胸に刺さった。


ため息をつかせているのは、私だ。


病気のせいだけではない。


病気になる前から、この人をため息をつかせていた。


ある夜、健吾が私の髪を触った。


眠ろうとしていたとき、健吾の指が、私の残り少ない髪に触れた。


そっと、ほんの少しだけ。


何も言わなかった。


触れて、そのまま眠った。


私はその感触を、目を閉じたまま受け取った。


泣かなかった。


でも目の奥が、じわりと熱くなった。


この人は、こういう人だ。


言葉にしない。でも、手が動く。


私のことを、まだ大切にしようとしている。


汚い私を、まだ大切にしようとしている。


その事実が——私が三年間積み重ねてきたものを、一枚だけ、剥いだ。


一枚だけ。


でも、確かに一枚。


回復に向かいながら、私は考えるようになった。


仕事のことを。


芸能界を続けることの意味を。


ここ数年、仕事の意味を考えることをやめていた。意味を考えれば、やめたくなる。やめたくなれば、でもやめられない、という事実に直面する。その繰り返しが辛かったから、考えることをやめた。


でも病気になって——


体が弱ると、余分なものが剥がれる。


剥がれた後に残るものが、本当に必要なものだ。


剥がれた後に残ったのは——


健吾だった。


健吾のそばにいたい、という気持ちだった。


健吾に全部話して、それでも隣にいてほしい、という気持ちだった。


その気持ちを、どうすれば届けられるのか。


方法が、わからなかった。


でも一つだけ、わかっていた。


健吾が聞いてきたとき——逃げない。


それだけが、私の決意だった。


九 健吾


経過は良好です、と主治医が言ったのは、最後の抗がん剤投与から三週間後だった。


俺と麻衣は並んで、その言葉を聞いた。


良好。


その言葉が、俺の体の中で、何かを解きほぐした。


三ヶ月間、張り続けていた何かが、ゆっくりと緩んだ。


緩んだ場所から——


ずっと押し込めていたものが、滲み出てきた。


帰り道、駅のホームで、俺は電車を一本見送った。


特に理由はなかった。


ただ、乗れなかった。


ベンチに座って、線路を見ていた。


電車が来て、行って、また来た。


良好、という言葉が、頭の中で繰り返された。


良好。よかった。麻衣は生きている。回復している。


その事実を、俺はゆっくりと受け取った。


受け取りながら——


三年分の、見ないふりが、戻ってきた。


河村の名前が、久しぶりに頭に浮かんだ。


山瀬の顔が、浮かんだ。


あのスマートフォンの画面の、冒頭の数文字が、浮かんだ。


病気の間は、奥に引っ込んでいた。引っ込んでいたのではなく、俺が必死に押し込んでいた。麻衣が死ぬかもしれないという恐怖が、他のすべてを塗り潰していた。


でも恐怖が薄れると——


その下にあったものが、顔を出した。


電車を、また一本見送った。


家に帰ると、麻衣がソファに座っていた。


本を読んでいた。


「遅かったね」


「ちょっと寄り道した」


「どこに」


「どこにも。ホームで座ってた」


麻衣が少し眉を寄せた。


心配したのだと思う。でも何も聞かなかった。


この人はいつも、踏み込む場所を心得ている。踏み込まないことで、俺を守ろうとしているのか。それとも踏み込めば、自分も傷つくと知っているのか。


どちらにしても——


今夜の俺には、その優しい距離感が、少し遠かった。


夕食を食べながら、俺は麻衣を見ていた。


見ながら、数えていた。


この人と過ごした時間を。出会ってから五年。結婚して三年。その三年の間に、何度深夜に帰ってきたか。何度シャンプーの香りが違ったか。何度俺は眠ったふりをしたか。


数えられるものではなかった。


でも体は覚えていた。


一晩ごとに、一粒ずつ、砂が積み重なってきた。その重さを、体は正直に覚えていた。


「どうしたの、ぼーっとして」


麻衣が言った。


「なんでもない」


俺は箸を動かした。


なんでもない、という言葉が、これほど嘘くさく聞こえたことはなかった。


峠を越えた、と思った。麻衣が生きている。回復している。透明な壁の向こうに、まだ麻衣がいる。その事実だけで、三ヶ月間を生きてきた。でも峠を越えた先に、俺は気づいた。峠の手前からずっと、待っていたものがあることを。押し込めていたものが、緩んだ場所から、少しずつ、戻ってきていることを。麻衣が回復するにつれて、俺の中で何かが、限界に近づいていた。


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