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透明な壁 改稿版  作者: はまゆう


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第二章 シャンプーの香り

一 健吾


見張る自分、というものが、俺の中に生まれたのはいつのことだったか。


正確な日付は覚えていない。


ただ、気づいたときにはもういた。俺の中に、もう一人の俺が。そいつは愛している俺とは別の場所に座って、静かに、しかし絶え間なく、麻衣のことを監視していた。


監視、という言葉は正確ではないかもしれない。


確認、と言う方が近い。


麻衣が帰ってきたとき、さりげなく香りを確認する。ラベンダーなら安堵する。違う香りなら——何も言わず、眠ったふりをする。


その習慣が、いつの間にか身についていた。


情けなかった。


自分でも情けないと思っていた。でもやめられなかった。やめるためには、問い質すか、完全に信じるかのどちらかが必要だ。問い質す勇気はなかった。完全に信じることも、もうできなかった。だから俺は中途半端な場所に立ち続けた。


疑いながら愛する。愛しながら疑う。


その二つが、俺の中で静かに共存していた。


結婚して一年が経った頃、麻衣の仕事が増えた。


連続ドラマの主演が決まったのだ。


俺は喜んだ。本当に喜んだ。麻衣が努力してきたことを、俺は知っていた。現場での麻衣の仕事ぶりを、俺は何度も見てきた。あれだけの準備をして、あれだけの集中力で臨んでいれば、当然の結果だと思った。


でも——


仕事が増えるということは、帰りが遅くなるということでもあった。


共演者と顔を合わせる機会が増えるということでもあった。


プロデューサーや監督と食事をする機会が増えるということでもあった。


俺はそれを、頭ではわかっていた。業界の仕組みを、十年以上この世界にいる俺は知っていた。でも知っていることと、受け入れることは、別の話だった。


知っているのに、受け入れられない。


それが、見張る自分を育てた。


ドラマの撮影が始まって三週間目の夜だった。


麻衣が深夜に帰ってきた。


「ただいま」


「おかえり」


「遅くなってごめん」


「撮影か」


「うん、長引いて」


それだけの会話だった。麻衣はシャワーを浴びに行った。


俺はソファで本を読んでいた。


シャワーの音がした。


麻衣が出てきた。髪を乾かして、俺の隣に座った。


俺はさりげなく、香りを確認した。


ラベンダーだった。


安堵した。


その安堵の大きさに、俺は少しだけ驚いた。こんなにも、ほっとするのか。こんなにも、俺は怯えていたのか。


「疲れたか」


「うん、少し」


「寝ろ」


「うん」


麻衣が目を閉じた。


俺は天井を見た。


ラベンダーの香りがした。


今夜は、大丈夫だった。


今夜は、大丈夫だったのだ——そう思うたびに、大丈夫ではなかった夜のことを、俺は考えないようにした。考えないようにしながら、やはり考えた。


眠れない夜が、また続いた。


二 麻衣


ドラマの撮影が始まって、私は久しぶりに仕事の充実を感じていた。


役が面白かった。


脚本が良かった。監督の演出が細かくて、毎日発見があった。共演者たちとの化学反応があった。こういう仕事のために私は女優をやっているのだ、と思えた。


でも充実した仕事の隙間に、あの人たちは必ず現れた。


河村さんからの連絡。食事の誘い。


私は今回のドラマのことを盾にした。撮影が続いていて、体力的に難しいと伝えた。河村さんは「そうか」と言って、引いた。あの人は引き際を知っている。だから余計に、断りきれない。


でも今回は断れた。


それが小さな勝利のような気がした。


健吾に言いたかった。「断れた」と。でも言えなかった。断れた、という報告は、それまで断れなかったことを認めることになる。


言えないことが、また一つ積み重なった。


山瀬遼介のことは、最初は何も思わなかった。


共演者の一人。それだけだった。


二十八歳。私より三つ下。整った顔をしていて、芝居が上手い。現場では誰にでも愛想よく、気持ちのいい男だった。


気になり始めたのは、ある夜の撮影の帰り道だった。


共演者たちと何人かで居酒屋に行った。撮影の打ち上げのような気分で、みんな少し羽を伸ばしていた。私も珍しく飲んだ。


帰り際、山瀬が「少し歩きませんか」と言った。


他意があるとは思わなかった。ただの同僚の誘いだと思った。


二人で夜道を歩いた。


山瀬は私に仕事の話を聞かなかった。役の話もしなかった。ただ他愛ない話をした。好きなラーメン屋の話。子どもの頃に飼っていた犬の話。


あの業界では、珍しい会話だった。


誰もが仕事の話をする。誰もが互いの価値を測りながら話す。でも山瀬は違った。


「疲れてますよね、北川さん」


不意に、山瀬が言った。


「え」


「なんか、すごく頑張ってる感じがして」


頑張ってる、という言葉が、予想外のところから来た矢のように刺さった。


「そんなことない」


「そうですか」


山瀬はそれ以上追及しなかった。


ただ並んで歩いた。


その並び方が、何も求めない並び方だった。


私はその夜、健吾の顔を思い浮かべた。健吾も何も求めない人だ。ただそこにいる人だ。


でも健吾と山瀬は、全然違う。


健吾は深い。山瀬は軽い。


その軽さが、あのとき私には——必要だった。


重いものを抱えすぎていたから。


軽さが、逃げ場になった。


三 健吾


事務所の忘年会に、配偶者も招待された年のことを、俺は一生忘れない。


十二月の第二土曜日だった。


麻衣に「一緒に来てほしい」と言われた。珍しかった。業界のパーティーに俺を連れていくことを、麻衣はあまりしなかった。俺もあまり行きたくなかった。自分の居場所ではない空間に、数時間いることの消耗を、俺は知っていた。


でも麻衣が言うなら、と思って行くことにした。


スーツを着た。


鏡を見た。


三十四歳の男が、スーツを着て立っていた。業界の場所に行くための、よそ行きの顔をした男が。


会場は六本木の高層階にある店だった。


エレベーターのドアが開いた瞬間、別の世界に入り込んだ気がした。


華やかだった。音楽が流れていた。よく手入れされた人たちが、よく手入れされた笑顔で、よく手入れされた言葉を交わしていた。


俺は場違いだと思った。


麻衣はその空間に自然に溶け込んでいた。業界の人間として、あの場所にいることが当たり前の顔をしていた。それが麻衣の世界なのだと、改めて思った。


テーブルに案内された。俺と麻衣は別々のテーブルに座ることになった。業界の慣習として自然なことだった。麻衣のテーブルには、ドラマの関係者や事務所の人間が集まった。俺のテーブルには、他の配偶者たちが集まった。


隣に座った制作会社の男と、当たり障りのない話をした。


何を話したか、今では覚えていない。


俺の視線は、ずっと麻衣のテーブルにあった。


河村が近づいてきたのは、パーティーが始まって一時間ほど経った頃だった。


五十代。腹が出ていた。頭が薄かった。でも立ち姿に妙な自信があった。場の空気を支配することに慣れた人間の、特有の自信が。


あとで調べて、河村正樹という名前だとわかった。大手広告代理店の局長。業界では知らない人間がいないほどの実力者だと、業界の友人が教えてくれた。


でもその夜の俺には、名前も立場もわからなかった。


ただ、麻衣に近づいた男、としか見えなかった。


河村は麻衣の隣に立った。


何かを言った。耳元で、低く、短く。


麻衣が笑った。


首を少し傾けて、目の端を柔らかく細めて——


俺だけに向ける笑い方で、笑った。


胃の底に、重いものが落ちた。音がしそうなほど、重いものが。


グラスを持ったまま、立ち上がれなかった。立ち上がって何をするつもりだったのかも、わからない。ただ体が固まった。


グラスのワインを、一口飲んだ。


味がしなかった。


パーティーが終わって、帰りのタクシーの中で、麻衣は俺の肩に頭をもたせかけた。


「疲れた」


「そうか」


「健吾の隣、ほっとする」


その言葉が、俺をさらに苦しくした。


ほっとする。


本当のことだと思う。麻衣が嘘をついているとは思えなかった。でも——ほっとする、という言葉は、他の場所では緊張しているということでもある。他の場所で何をしているのか。誰といるのか。


あの笑い方を、誰に向けているのか。


タクシーの窓に、夜の街が流れた。


麻衣の重みを肩に感じながら、俺は窓の外を見続けた。


何も見えていなかった。


四 麻衣


河村さんが近づいてきたとき、私は少し緊張した。


健吾がどこかにいる。


見られているかもしれない。


河村さんは耳元で「今夜は早く帰れそう?」と言った。


私は笑いながら首を振った。「主人がいますので」と、目で伝えた。


河村さんは「そうか、残念だ」と言って、また別の人間のところへ行った。


それだけだった。


ただそれだけのやり取りだった。でも——


健吾が見ていた。


感じていた。健吾の視線を、はっきりと感じていた。


あの人は見るとき、存在が重くなる。空気が変わる。私はそれを、三年間の生活で学んでいた。


健吾は見ていた。


そして私は、健吾の元に行かなかった。


すぐに健吾の元に戻って、腕を組んで、「私はあなたのものです」と体で示すことが、私にはできた。でもしなかった。


なぜしなかったのか。


今でも、正確にはわからない。


できなかった、ではなく、しなかった。その違いが重要だと思う。


素直な行動を取れる人間に、私はもうなれない気がしていた。素直に動けば、素直さが嘘になる。私の素直さには、すでに裏側があるから。


だから何もしなかった。


タクシーで健吾の肩に頭をもたせかけながら、「健吾の隣、ほっとする」と言った。


本当のことだった。


本当のことを言いながら、本当ではないことを抱えていた。


その矛盾の中に、私は生きていた。


山瀬との最初の夜は、忘年会から二週間後だった。


正直に書けば、私から誘った。


誘ったわけではない。でも、断らなかった。断れたのに、断らなかった。その事実を、私は今でも正直に持っている。


健吾との間に、あの夜から薄い膜を感じ始めていた。


膜は目に見えない。触れても感触がない。でも確かにそこにある。会話をするたびに、膜越しに話している感じがした。健吾の言葉が届くまでに、一瞬の遅れがある。私の言葉が届くまでにも、一瞬の遅れがある。


壁ではなく、膜。


壁より薄くて、壁よりずるい。


山瀬のホテルの部屋で、私は天井を見ていた。


また天井だ、と思った。


私はいつも天井を見ている。部屋が変わっても、相手が変わっても、状況が変わっても、私はいつも天井を見ている。上には何もないから。下を向けば自分の体が見える。横を向けば相手の顔が見える。だから上を向く。上には、何もない。


何もない天井を見ながら、私は健吾のことを考えていた。


今頃、何をしているだろう。


今夜も帰りを待っているだろうか。ソファに座って、テレビをつけたまま、眠れないでいるだろうか。


そう思ったとき、胸が痛んだ。


本当に、痛んだ。


胸が痛む、ということは、健吾のことを愛しているということだ。愛しているから、痛む。


愛しているのに、ここにいる。


その矛盾を、私は正面から見ることができなかった。だから天井を見た。上には何もない。何もないから、考えなくて済む。


シャワーを浴びた。


いつもより念入りに洗った。


うちのシャンプーとは違う香りが、泡の中に混じった。


タクシーを呼んだ。健吾に「今から帰る」とLINEを送った。


既読がついた。返信はなかった。


五 健吾


山瀬遼介という名前を、俺が初めて意識したのは、忘年会から一週間後だった。


麻衣が何気なく言った一言がきっかけだった。


「山瀬くんとは仕事上の付き合いだから、変な意味じゃないんだけど」


聞いてもいなかった。


俺は何も聞いていなかった。麻衣の話を聞きながら、コーヒーを飲んでいただけだ。


なのに麻衣は、俺が聞いてもいないことを、説明した。


聞いてもいないのに出てきた言葉、というのは、その人間の中で何かが引っかかっているということだ。


俺はコーヒーを飲み続けた。


「そうか」


それだけ答えた。


それ以上は言わなかった。言えなかった。言えば、続きを引き出してしまう。続きを聞いてしまえば、もう知らないふりができなくなる。


だから「そうか」だけ言った。


その「そうか」の薄さを、麻衣はどう受け取ったのだろう。


今でも、わからない。


確信に近いものを感じたのは、それから半年後のことだった。


砂が一粒ずつ積み重なるように、証拠が積み重なっていった。


シャンプーの香りが違う夜。消されていたLINEの履歴の痕跡。麻衣が出張と言っていた日に、地方ロケがないことを仕事の関係者から偶然聞いた午後。


一粒一粒は、確信とは呼べない。


でも積み重なれば——


その重さが、俺を押しつぶしそうになった。


押しつぶされながら、でも俺は何も言わなかった。


何も言わないことで、続けられると思っていた。


スマートフォンの画面を見てしまったのは、ある夜のことだった。


意図していなかった。


麻衣が眠っていた。充電器を探して、テーブルの上に置いてあった麻衣のスマートフォンに触れた。その瞬間、画面が光った。


通知だった。


差出人の名前と、メッセージの冒頭が、画面に浮かんだ。


五秒も見ていなかったと思う。


でも五秒で十分だった。


人間の脳は残酷だ。見たくないものほど、鮮明に焼きつく。


俺はスマートフォンを伏せた。充電器を差し込んだ。ベッドに戻った。


麻衣は眠っていた。


穏やかな顔をしていた。


この顔が、俺の知らない時間を持っている人間の顔だ。俺の知らない部屋にいたことのある人間の顔だ。俺の知らない声を出したことのある人間の顔だ。


それが——


この、俺の隣で眠っている人間と、同じ人間だ。


不思議なことに、泣けなかった。


怒鳴りたいとも思わなかった。


ただ、静かだった。


嵐の前の静けさではなく——嵐が来ないとわかっている静けさだった。


俺はこの夜も、何もしない。何も言わない。それだけはわかっていた。


なぜなら——


この人がいなくなることの方が、俺には耐えられないから。


その一点だけが、俺をここに縫い留めていた。釘のように。抜けば痛い、でも刺さったままでも痛い、そういう釘が、俺の胸の奥深くに刺さっていた。


麻衣が眠る横顔を見ながら、俺は父のことを考えた。


父が浮気をしていた頃、母はどんな夜を過ごしていたのだろう。


知っていたのか、知らなかったのか。


台所で泣いていた夜、母は何を知っていて、何を知らないふりをしていたのか。


俺は今、その答えに近い場所にいる。


知っている。でも知らないふりをしている。


知らないふりをすることで、家族を守ろうとしていた母と、俺は同じことをしているのかもしれない。


でも——


母が守ろうとしていたのは家族だった。


俺が守ろうとしているのは、何だろう。


麻衣か。


俺自身か。


それとも、壊れることへの恐怖か。


答えは出なかった。


暗い天井を見ながら、麻衣の寝息を聞きながら、俺は夜明けまで、その問いの中にいた。


六 麻衣


健吾がスマートフォンに触れた夜のことを、私は覚えている。


眠っていなかった。


薬を飲んでいたわけでもないのに、あの頃は眠れない夜が続いていた。でも健吾に知られたくなかったから、目を閉じていた。


健吾が起きた気配がした。


部屋の中を動く音がした。


テーブルの上のスマートフォンに、触れた気配がした。


画面が光ったのも、わかった。


息を止めた。


どうか、見ないでほしい。


どうか、見てしまったとしても、何も言わないでほしい。


矛盾した祈りを、暗い部屋の中で、胸の内側だけに向けた。


健吾がベッドに戻ってきた。


横になった。


眠らなかった。健吾が眠れていないことが、気配でわかった。呼吸が浅すぎた。眠っている人間の呼吸ではなかった。


ごめんなさい、と思った。


声には出せなかった。


出したら、すべてが始まる。始まれば、終わりが来る。終わりが来ることが、怖かった。


健吾を失うことが、怖かった。


失いたくないから、黙っている。黙り続けることで、失わずにいられると思っていた。


でも——その黙り続けることが、健吾をどれほど傷つけているか。


傷つけていることは、わかっていた。


わかっていて、黙っていた。


人間は自分を守るとき、一番醜くなる。私はあの夜、自分の醜さを、暗い天井に向けて、静かに晒していた。


二人で、眠れない夜を、眠っているふりをして過ごした。


同じ布団の中で。同じ夜を。


でも全然、違う場所にいた。


七 健吾


あの夜から、俺は変わった。


変わった、というより——見え方が変わった。


同じ部屋にいる麻衣が、同じに見えなくなった。笑顔が同じでも、声が同じでも、その後ろに何かがある気がした。後ろを見ようとすれば、麻衣は笑顔でそちらを塞ぐ。塞がれるたびに、俺は余計に見たくなる。


見たくて、でも見てはいけない気がして。


その繰り返しの中で、一年が過ぎた。


アシスタントの後藤が、珍しく俺に踏み込んだことを言ったのは、その頃だった。


現場の帰り道、二人で駅まで歩いていたときだった。


「田中さん、最近なんか遠くないですか」


「遠い?」


「なんか、ここにいない感じがするときがあって」


俺は少し考えた。


「仕事のことを考えてただけだ」


「そうですか」


後藤は納得したような、していないような顔をした。この男は賢いから、俺の嘘を見抜いていたかもしれない。でも追及しなかった。それが後藤の誠実さだった。


「田中さん、美術の仕事、好きですよね」


「そうだな」


「好きなのに、最近楽しそうじゃないから」


俺はその言葉を、黙って受け取った。


好きなのに、楽しそうじゃない。


好きなのに、楽しくない。


仕事の話ではなかった。後藤はそんなことを言っていなかった。でも俺にはそう聞こえた。


愛しているのに、幸せそうじゃない。


愛しているのに、幸せでない。


その夜、俺は現場帰りに一人で飲んだ。


駅前の小さな居酒屋に入って、燗酒を頼んだ。


一人で飲む習慣は、独立してから少しずつついていた。考えたいことがあるとき、一人で飲む。誰かと飲むと、考えていることを話さなければならない気がするから。話せないことがあるときは、一人で飲む。


今夜は、話せないことがあった。


燗酒を一口飲んだ。


温かかった。


体の中に、温かさが落ちていった。


麻衣のことを考えた。


今夜の麻衣は、共演者との打ち上げに行っていた。山瀬も参加しているはずだった。それを知った上で、俺は「楽しんでこい」と言った。


言えた自分が、不思議だった。


言えた自分が、悔しかった。


言えたのは、問い質さないと決めているからだ。問い質さないと決めているから、楽しんでこいと言える。言えることが、本当は苦しさの証明なのに——俺はそれを「大人の対応」と呼んでいた。


大人の対応と、臆病の区別が、俺にはもうつかなかった。


二杯目の燗酒を頼みながら、俺は父のことを、また考えた。


父が家を出た後、俺は父に会いに行かなかった。


母が「会わなくていい」と言ったわけではない。ただ、俺が会いたくなかった。父の顔を見れば、何かを言ってしまいそうだった。言ってしまえば、取り返しのつかないことになる気がした。


黙っていれば、壊れない。


それが高校三年の俺が学んだことだった。


でも壊れないことと、健全であることは、違う。


黙っていれば壊れない。でも黙ったまま、何かが腐っていく。腐るのは関係ではなく、自分だ。自分の中の何かが、少しずつ、音もなく腐っていく。


今の俺がそうだ。


麻衣との関係は、表面上は壊れていない。でも俺の中の何かが、三年かけて腐りかけている。その腐臭を、俺は一人で抱えている。


燗酒を飲み干した。


もう一杯頼もうとして、やめた。


帰らなければならない。


麻衣が帰ってくる前に、家にいなければならない。


なぜかはわからない。でも、家にいなければならないと思った。


それが愛なのか、執着なのか、今夜もわからないまま、俺は居酒屋を出た。


八 麻衣


打ち上げの帰り道、山瀬と二人になった。


またか、と思った。


またか、と思いながら、断らなかった。


山瀬と一緒にいると、楽だった。


楽、という言葉は正確ではないかもしれない。正確に言えば、軽かった。山瀬といると、何も持たなくていい気がした。業界の重さも、健吾への罪悪感も、自分自身への嫌悪も、全部どこかに置いてこられる気がした。


「北川さんって、いつも考えすぎてる感じがするんですよね」


山瀬が言った。


「そう?」


「うん。なんか、常に何かを持ってる感じがして」


正確だと思った。


常に何かを持っている。それが私だ。何十年も前から、何かを持ち続けている。降ろし方を、知らない。


「降ろせたらいいんですけどね」


「降ろしたらいいじゃないですか、たまには」


山瀬はそう言って笑った。


軽い笑いだった。


それだけだった。それだけなのに、私はその夜、山瀬のそばにいることを選んだ。


選んだ、という言葉を、私は正確に使っている。


誰かに強いられたわけではなかった。状況に流されたわけでもなかった。私が、選んだ。


その事実を、私は誤魔化さないようにしている。


誤魔化せば、もっと醜くなる。


ホテルの部屋の天井を見ながら、私は考えた。


降ろす、ということ。


山瀬はさっき「降ろしたらいい」と言った。でも私が持っているものは、降ろせるものではない。降ろせば、健吾に届く。健吾に届けば、終わる。


終わりたくないから、持ち続けている。


持ち続けながら、別の重さを増やしている。


矛盾している。


わかっている。


でも人間というのは、矛盾したまま生きていける。矛盾を矛盾のまま抱えて、それでも朝になれば起き上がって、顔を洗って、「おはよう」と言える。


その「おはよう」が嘘かどうかは——


言った本人にも、わからない。


帰宅すると、健吾がいた。


ソファに座って、本を読んでいた。


「おかえり」


「ただいま。まだ起きてたの」


「眠れなくて」


いつもと同じ言葉だった。いつもと同じ会話だった。


俺はシャワーを浴びに行った。


うちのシャンプーで念入りに髪を洗った。


出てきて、健吾の隣に座った。


健吾がさりげなく、私の方に顔を向けた。


一瞬だけ。


その一瞬に、何かを確認していた。


私にはわかった。健吾が何を確認していたか。


ラベンダーの香りがしただろうか。


した、はずだ。念入りに洗ったから。


健吾の肩が、ほんのわずかに緩んだ。


その緩みを見た瞬間、私の胸が痛んだ。


こんな小さなことで安堵している。この人は、こんな小さなことで、毎夜確認している。そのことに、私はずっと気づいていた。気づいていて、何もしなかった。


何もしない自分を、どんな言葉で呼べばいいのか、私には名前がない。


九 健吾


現場で、麻衣の出ているドラマの美術を担当することになった。


偶然だった。


監督から指名が来て、俺は仕事として引き受けた。麻衣の出演作の美術を手がけるのは、出会いのCM以来だった。


その現場で、俺は初めて山瀬遼介という人間を見た。


整った顔をしていた。


芝居が上手かった。


現場では誰にでも笑顔を向けた。スタッフにも、エキストラにも、俺にも。気持ちのいい男だった。


悪い人間には見えなかった。


それが——余計に、苦しかった。


悪い人間なら、憎めた。怒れた。でも山瀬は悪い人間ではなかった。ただの、若くて、明るくて、仕事ができる俳優だった。


麻衣との絡みのシーンを、俺は横で見た。


美術監督として、そのシーンのセットを作ったのは俺だった。どんな照明が欲しいか、どんな距離感が必要か、監督と相談しながら空間を作った。


その空間の中で、麻衣と山瀬が演じた。


麻衣が笑った。


俺の知っている笑い方で。


首を少し傾けて、目の端を柔らかく細めて——


俺は視線を外した。


記録を確認するふりをして、手元のメモを見た。


プロだと思った。


俺自身のことを、プロだと思った。


仕事として、この空間を作れている。感情を持ち込まずに、仕事をしている。


それが今の俺にできる、精一杯のことだった。


現場が終わって、後藤と二人で機材を片付けていたとき、後藤が言った。


「北川さん、きれいですね」


「そうだな」


「田中さんの奥さんなんですよね、本当に」


「ああ」


「すごいですね」


後藤は悪気なく言った。本当に感心していた。


俺は「ありがとう」と言った。


ありがとう、という言葉が、こんなに複雑な意味を持ったことはなかった。


麻衣は美しかった。今日の現場でも、美しかった。


それは変わらない。


何があっても、麻衣の美しさは変わらない。


その美しさを、俺だけが持っているわけではないと知りながら、俺はまだ愛している。


これを愛と呼ぶのか、執着と呼ぶのか——


その問いの答えを、俺はまだ持っていない。


十 麻衣


あの現場で、健吾と久しぶりに同じ空間にいた。


夫が作った空間の中で、私は演じた。


奇妙な感覚だった。


健吾が作ったセットは、いつも温かみがある。物の置き方に、人間への敬意がある。この場所に立つ人間のことを考えながら作られたことが、伝わってくる。


私は健吾の作った空間の中に立ちながら、健吾はどこにいるのだろうと思った。


監督の隣か。機材の横か。


探さなかった。


探せば、目が合うかもしれない。目が合えば、何かが伝わってしまうかもしれない。何が伝わるのか、自分でもわからなかった。でも怖かった。


だから探さなかった。


山瀬との絡みのシーンで、私は笑った。


役として笑った。


でもその笑い方が、健吾に向ける笑い方と同じだと、自分でわかった。


首を傾けて、目の端を細める笑い方が、いつの間にか私の癖になっていた。


大切な人に向ける笑い方が、いつの間にか演技の中に入り込んでいた。


あるいは——


大切な人に向ける笑い方と、演技の笑い方の区別が、私の中でなくなってきているのかもしれない。


それが怖かった。


演じることと、生きることの境界が、少しずつ溶けていく。


溶けた部分が、何年かかけて、私という人間を変えていく。


変わった後の自分が、どんな人間になっているのか——


その現場の帰り道、私は初めて、本気でやめることを考えた。


芸能界を、やめることを。


でもその夜、河村さんから連絡が来た。次のドラマの主演のオファーだった。


私は翌朝、受けると返事をした。


透明な壁は、誰かが意図して作るものではない。二人がそれぞれ、別の理由で、別の場所に積み上げたものが、いつの間にか間に立っている。健吾は知らないふりをすることで、一枚積んだ。麻衣は話さないことを選ぶことで、一枚積んだ。愛しているから積んだ。傷つけたくないから積んだ。失いたくないから積んだ。その一枚一枚が、今では光を遮るほどの厚みになっている。触れても温度がない。叩いても音がしない。ただ確かにそこにあって、二人の間で、今夜も一枚、積み重なっていく。


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