第一章 知らなかった日々
一 健吾
テレビをつけたまま、眠れない夜がある。
眠れないというより、消す気になれない、と言う方が正確かもしれない。画面の中に麻衣がいるからだ。深夜の再放送ドラマ。三年前に撮ったやつだ。まだ俺たちが結婚する前の、麻衣がちょうど世に出始めた頃の作品で、俺はその現場の美術を担当していた。だから余計に、見ていられない。見ていられないのに、消せない。
画面の中の麻衣は笑っている。
俺の知っている笑い方で、笑っている。
首を少し傾けて、目の端を柔らかく細めて、相手の言葉を受け取るように微笑む。あれは麻衣が人を好きなとき、あるいは人を大切に思うときにする笑い方だ。俺はそれを、付き合い始めてから気づいた。気づいてしまったから、画面の中でその笑い方をするたびに、胸の奥に小さな棘が刺さる。
今夜もその棘が、深く刺さっている。
共演者の男が、麻衣の肩に手を置いた。
ドラマの演出だ。わかっている。三年前の現場で、俺もそのシーンを横で見ていた。監督の指示で、十回以上繰り返した。わかっているのに、リモコンを手に取れなかった。チャンネルを変えることも、電源を落とすことも、できなかった。
見続けることしか、できなかった。
これが愛なのか、愛が腐りかけたものなのか、三年経った今でも、俺にはわからない。ただ、目が離せなかった。
麻衣はまだ帰ってこない。
今夜は撮影が長引いているらしい。「遅くなる」とだけLINEが来た。それが七時間前のことだ。今は深夜の一時を過ぎている。
俺はソファに深く沈み込んで、画面の中の麻衣を見ていた。
うちのマンションは三階建ての角部屋で、窓が二面ある。北側の窓からは、夜になると遠くに川が見える。光を反射して黒く光る川面が、この街で唯一俺が美しいと思う景色だ。
だが今夜は窓を見ていない。
テレビだけを見ていた。
麻衣が画面の中で笑う。笑うたびに棘が刺さる。刺さるたびに、俺は自分のことが少しずつわからなくなる。これほど苦しいのに、消せない。消せないのは愛しているからか。それとも愛していることと、疑っていることが、もう分離できないほど絡まり合っているからか。
人間というのは、自分の感情に名前をつけることが得意ではない。
少なくとも、俺はそうだ。
怒っているのか悲しいのか、嫉妬しているのか単純に疲れているのか、夜中にひとりでテレビの前に座っていると、自分の内側がどんな色をしているのか、もうわからなくなってくる。
玄関の鍵が開く音がした。
時計を確認した。一時二十二分。
「ただいま」
麻衣の声がした。いつもと同じ声だった。疲れた声でも、何かを隠した声でもなく、ただ一日を終えて帰ってきた人間の声だった。
「おかえり」
俺はテレビの方を向いたまま言った。
「起きてたの」
「眠れなくて」
「そっか」
麻衣がコートを脱ぐ気配がした。ハンガーにかける音。バッグを床に置く音。それからリビングのドアが開いて、麻衣が入ってきた。
「撮影、長引いたのか」
「うん。監督がこだわる人でね」
「そうか」
それだけだった。
麻衣はシャワーを浴びに行った。
俺はテレビを消した。
画面が暗くなった。暗い画面に、自分の顔が薄く映った。三十四歳の、疲れた男の顔が。
シャワーの音がした。
その音を聞きながら、俺は考えないようにした。考えてはいけないことが、人間にはある。その領域に踏み込んだら、戻ってこられない気がする。だから俺は今夜も、踏み込まないことを選ぶ。
愛しているから、踏み込まない。
そう自分に言い聞かせる。
愛しているからなのか。怖いからなのか。
どちらが本当かは、今夜も、わからない。
麻衣がシャワーから出てきた。
髪を乾かして、俺の隣に座って、肩に頭をもたせかけた。
「眠い」
「早く寝ろ」
「うん」
シャンプーの香りがした。
ラベンダーの香りがした。うちのシャンプーの、いつもの香りがした。
その香りが俺を安堵させた。安堵しながら、安堵していることが情けなかった。こんなことで安心している自分が、みっともなかった。
でも、安堵した。
麻衣の重みを肩に感じながら、俺は北側の窓を見た。カーテンの隙間から、川の光がわずかに見えた。黒く光る川面。いつもと同じ景色。
これが愛なのか、臆病なのか。
その答えを出さないまま、今夜も俺は眠る。
二 麻衣
ただいま、と言いながらコートを脱いだとき、リビングからテレビの音がした。
健吾が起きている。
今日は遅くなると連絡したのに、待っていた。そういう人だ。起きていることを言わない。ただ、いる。それがこの人の愛し方だと、三年一緒にいてわかった。
わかっているから、苦しい。
リビングに入ると、健吾はテレビの方を向いたまま「おかえり」と言った。こちらを見なかった。テレビに映っているのは私だった。三年前のドラマ。健吾が美術を担当していた現場の作品。
健吾が私の出る作品を、深夜に一人で見ている。
その事実が、胸に刺さった。
刺さるのは、愛されているからではない。
申し訳ないからだ。
シャワーを浴びながら、体を丁寧に洗った。
いつもより丁寧に。
今日の撮影は、本当に長引いた。それは嘘ではない。でも撮影が終わった後、少しだけ寄り道をした。監督との打ち上げという名目で、制作会社の社長と食事をした。断れなかった。断れない理由が、また一つ積み重なった。
シャワーのお湯が、体を流れていく。
洗っても洗っても、洗い流せない何かがある。そう思うようになったのはいつからだろう。業界に入って最初の年からか。それとも健吾と結婚してからか。
わからない。
ただ、シャワーを浴びるたびに、少し長くなっていく。
うちのシャンプーで念入りに髪を洗って、タオルで体を拭いて、パジャマに着替えた。
鏡の前に立った。
化粧を落とした顔が映っていた。
これが私だ、と思う。スクリーンに映る北川麻衣でも、現場でマネージャーの横に立つ北川麻衣でも、健吾に「おかえり」と迎えられる北川麻衣でもない。全部が剥がれ落ちた、これが私だ。
疲れていた。
深く、静かに、疲れていた。
健吾の肩に頭をもたせかけると、いつもの温度がした。
この温度を知っている。この肩の形を知っている。世界中のどんな場所より、ここが一番安全だと、体が知っている。
「眠い」
「早く寝ろ」
「うん」
この人は優しい。
それは本当のことだ。嘘ではない。でも優しくされるたびに、私の中の何かがじわじわと腐っていく気がする。腐敗は音を立てない。においもしない。ただ少しずつ、確実に、内側から崩れていく。
健吾は何も知らない。
本当に?
その問いを、私はすぐに打ち消した。
考えてはいけない領域がある。鍵をかけておかなければならない場所がある。私はもう何年もそうやって生きてきた。
健吾の肩に頭をもたせかけたまま、目を閉じた。
眠ったふりをした。
眠れなかった。
健吾の呼吸が、少しずつ深くなっていった。眠ったのだろうか。眠れたのだろうか。
この人が安らかに眠れていることを、願っている。
願いながら、その安らかな眠りを乱しているのは私だと、知っている。
三 健吾
俺が美大に入ったのは、絵が好きだったからではない。
空間が好きだったからだ。
部屋の中に入ったとき、人間の気持ちが変わる瞬間が好きだった。光の角度が変わるだけで、同じ部屋が別の場所になる。色一つ変えるだけで、人の表情が動く。そういう仕事がしたかった。
だから美大の空間デザイン科に進んで、卒業後は映画とCMの美術スタッフとして働いた。最初の五年間は修行だった。先輩の後ろをついて回って、現場を覚えて、失敗して、また覚えた。三十歳で独立した。
今は「田中美術デザイン事務所」を一人で経営している。アシスタントに後藤という二十五歳の男がいる。美大の後輩で、不器用だが誠実な男だ。
仕事は順調だ。映画の仕事が増えてきた。監督から指名で来る依頼も出てきた。でも経営は常に綱渡りで、次の仕事が決まるまでの空白が、今でも怖い。
独立した男というのは、常に次のことを考えている。
それが、家に帰ることを億劫にさせることがある。
家に帰ると、現場のことを考えなくていい。考えなくていい代わりに、別のことを考えてしまう。それが今の俺には、現場より重い。
麻衣のことを、考えてしまう。
出会ったのは五年前の秋だった。
化粧品のCM撮影。俺は美術スタッフとして入っていた。クライアントのイメージに合わせたセットを組んで、小道具を並べて、監督の気が変わるたびに全部やり直す、いつもと変わらない現場だった。
その日の撮影は、モデルが二人と女優が一人だった。
女優が麻衣だった。
最初に気づいたのは、声だった。
控え室から現場に入ってきたとき、マネージャーに何か話しかけていた声が、妙に耳に残った。低すぎず、高すぎず、どこか水の流れるような声だった。その声を聞いた瞬間、俺は手を止めた。小道具のトレイを持ったまま、廊下に立って、声の方向を見た。
顔を見て、きれいだと思った。
でもそれより先に感じたのは、この人は疲れている、ということだった。
プロだから表情には出ていない。所作も美しい。でも目の奥に、何か重いものを仕舞い込んでいる気配があった。荷物を抱えたまま笑っている人間の目を、俺は知っていた。
母がそういう目をしていたからだ。
父が浮気をしていた頃の、母の目だった。
だから麻衣の目が、妙に気になった。
撮影の合間に、小道具のトレイを運んでいたら、廊下で麻衣と二人になった。
スタッフと女優が廊下で二人きりになる、というのは業界では珍しくない。ただ互いに会釈して通り過ぎるだけの、何でもない時間だ。
でも麻衣は足を止めた。
「それ、重そうですね」
トレイのことを言っていた。
俺は少し驚いて、「慣れてるんで」と答えた。
麻衣は「そうか」と言って、でもすぐには歩き出さなかった。
「この現場、いつも和やかですね」
「そうですか」
「なんか、ほっとする」
そう言って、麻衣は小さく笑った。
首を傾けない笑い方だった。口元だけで、ひっそりと笑う顔だった。あとになって思えば、あれが麻衣の素の笑い方だった。カメラの前でも、誰かの前でもない、ただの麻衣が笑う顔。
俺はその笑顔を、現場が終わってからも、しばらく思い出していた。
三回目に同じ現場になったとき、麻衣の方から声をかけてきた。
「また来た」
「また来ました」
それだけだった。でもその「また来た」の言い方が、どこか嬉しそうで、俺も嬉しかった。
業界の人間は、現場ごとに顔を変える印象があった。カメラの前と後ろで別人になる。でも麻衣は、俺に向ける顔がいつも同じだった。女優の顔ではなく、廊下で足を止めた女の顔。荷物を抱えたままの、疲れた目をした女の顔。
それが好きだった。
派手ではなかった。華やかでもなかった。でも本物だと思った。
この人の本物の部分に、触れたかった。
それが始まりだった。
そして今の苦しさの、始まりでもあった。
四 麻衣
健吾と出会った頃のことを、今でも時々思い出す。
思い出すのは、決まって夜だ。健吾が眠った後の、静かな時間に。
あの頃の私は、ひどく疲れていた。
芸能界に入って三年目。仕事は少しずつ増えてきたが、増えるたびに別の何かが削れていく感覚があった。削れているものが何なのか、名前がつけられなかった。ただ、帰宅するたびに鏡を見るのが辛くなっていた。
河村さんとのことが始まってから、一年が経っていた。
一年経っても、終わっていなかった。
終わらせようとしたことが、何度もある。でもそのたびに何かが引っ張られた。仕事の話が来る。現場で顔を合わせる。あの目を見る。あの目は知っている。私が断れないことを。
断れないことを、私も知っていた。
健吾が気になり始めたのは、二度目の現場だった。
一度目は声をかけなかった。素敵だな、と思っただけで、それ以上ではなかった。でも二度目の現場で、廊下を歩く健吾の後ろ姿を見たとき、なぜかしばらく目が離せなかった。
急いでいなかった。小道具のトレイを持って、ゆっくり歩いていた。
この業界では、誰もが何かを急いでいる。撮影時間、予算、スケジュール。常に時間に追われている。でも健吾だけが、追われていない人間の歩き方をしていた。
それが妙に、引っかかった。
三度目の現場で、「また来た」と声をかけた。
言ってから、少し恥ずかしかった。女優が美術スタッフに馴れ馴れしく話しかけるのは、おかしいかもしれないと思った。でも健吾は「また来ました」と言って、照れたように視線を外した。その照れ方が、この業界では見たことのない照れ方だった。
打算がない照れ方だった。
この人は、私に何かを求めていない。
その事実が、砂漠に雨が降るように、体に沁みた。
告白されたのは、出会って八ヶ月後だった。
撮影現場の帰り道、二人で並んで歩きながら、健吾が「付き合ってほしい」と言った。事前に何も察せなかった。いや、察していたかもしれない。でも察しないふりをしていた。
「私でいいの」
気づいたら、そう言っていた。
でいいの、の「で」を、健吾は聞き流した。謙遜だと思ったのだろう。でも私の「で」は謙遜ではなかった。
私はもう汚れている。
健吾が知っている私は、本当の私ではない。本当の私は、健吾の知らない部屋で、知らない天井を見てきた。その事実を抱えたまま「はい」と言っていいのか、あの瞬間、本気でわからなかった。
でも——
健吾の目が、答えを急かさなかった。
「私でいいの」という問いに、健吾は少し考えて、「お前じゃなきゃいやだ」と言った。
いいの、ではなく、いやだ、と言った。
その言い方が、妙に真剣で、不器用で、俺っぽかった。
私は笑ってしまった。
笑ってから「はい」と言った。
五 健吾
父のことを、あまり人に話したことがない。
後藤にも、話したことがない。麻衣には、話したことがある。でも輪郭だけを話して、中身は話さなかった。中身を話せるほど、俺の中でまだ整理がついていない。
父は建設会社の営業マンだった。
体が大きくて、声が大きくて、酒が好きで、家族にも職場にも友人にも好かれている人間だった。俺が高校に入るまで、そう思っていた。
高校一年の秋、母が泣いているのを見た。
台所で、流しの前で、音を殺して泣いていた。
俺が気づいたことに母は気づかなかった。俺は声をかけられなかった。部屋に戻って、布団に入って、天井を見ていた。
翌朝、母は普通の顔をしていた。
父も普通の顔をしていた。
俺も普通の顔をした。
それから二年間、俺の家族はずっと普通の顔をし続けた。普通の朝食を食べ、普通の会話をし、普通の夕食を食べた。でも俺には見えていた。台所で泣く母の後ろ姿が、普通の顔の下に隠れているのが。
父に女がいることは、いつの間にか知っていた。
どうやって知ったか、覚えていない。気づいたら、知っていた。
俺が高校三年のとき、父が家を出た。
母はその年から、目の奥の荷物がなくなった。
それが俺には、少し不思議だった。父がいなくなって、母は泣かなかった。台所で音を殺して泣くことを、もうしなかった。知らなかった頃より、知ってしまった後より、終わった後の方が、母は穏やかだった。
知っていることの苦しさは、知らないことの苦しさより、重い。
その事実を、俺は高校三年のときに学んだ。
だから俺は、知らないふりを選ぶ。
麻衣についても、そうだ。
知ってしまえば、終わる。知らないふりをすれば、続けられる。続けられる限り、続けたい。それが愛なのか臆病なのかは——もうどちらでもいい気がしている。
結婚を申し込んだのは、付き合って一年半後だった。
特別な場所ではなかった。うちのマンションの、このリビングで。夕食を食べ終えた後、麻衣がコーヒーを飲んでいるときに、俺は「結婚してほしい」と言った。
麻衣はカップを置いて、俺を見た。
「私でいいの」
また、同じことを言った。
今度は笑いながら言った。だから俺は気づかなかった。その言葉の底に沈んでいるものに、気づかなかった。
「お前じゃなきゃだめだ」
そう言って、俺は麻衣の手を取った。
冷たかった。
あのときは、冬だからだと思った。
六 麻衣
結婚を申し込まれた夜、私はトイレで一人になって、鏡を見た。
鏡の中の自分に、問いかけた。
いいのか。
本当に、いいのか。
健吾は何も知らない。河村さんのことも、この業界で積み重ねてきたことも、何も知らない。知らないまま「お前じゃなきゃだめだ」と言っている。その言葉に、私は応えていいのか。
応える資格が、私にはあるのか。
鏡の中の自分は、答えなかった。
俺は鏡から目を逸らして、リビングに戻った。
健吾が待っていた。不安そうな顔をしていた。俺が長すぎたのだと思う。
「返事、聞かせてくれないか」
その声が、少し震えていた。
三十二歳の男が、緊張して声を震わせていた。
その声を聞いた瞬間、私は「はい」と言っていた。
考えたわけではなかった。体が先に答えた。
健吾が笑った。あの、照れたような笑い方で。
私も笑った。
笑いながら、胸の奥で何かが静かに決まった気がした。この人に、いつか話さなければならない、という感覚が。いつかでいい。でも、いつか。
その「いつか」は、三年経っても、まだ来ていない。
結婚してから、全部やめようとした。
本当に、やめようとした。
健吾と一緒にいるなら、あの業界の論理に従い続ける必要はないと思った。健吾は私に何も求めない。女優でいることを求めない。ただそこにいることを、求めてくれる。
ならば私はあの世界を捨てられる。
そう思った。
でもやめる、ということの意味を、私は甘く見ていた。
最初に気づいたのは、事務所の社長と話したときだった。辞めるつもりはないが、仕事の量を減らしたいと伝えた。社長の顔が曇った。それだけで、私にはわかった。仕事の量を減らせば、事務所としての私の価値が下がる。価値が下がれば、いい仕事が来なくなる。いい仕事が来なくなれば、私の存在意義がなくなる。
そういう仕組みになっていた。
次に気づいたのは、河村さんからの連絡だったときだった。
新しいドラマの主演の話があると言われた。
断れなかった。
断れば、河村さんとの関係が変わる。関係が変われば、次の仕事が来なくなる。仕事が来なくなれば、事務所が困る。
一本の糸を切ろうとすると、別の糸が引っ張られる。
業界はそういう仕組みになっていた。
私はそこから出られなかった。
出口の場所を、知らなかった。
七 健吾
麻衣との最初の新婚の朝のことを、俺はよく覚えている。
日曜日だった。
麻衣が俺より先に起きていた。台所に行くと、麻衣がコーヒーを淹れていた。まだ寝起きで、髪が少し乱れていて、パジャマのまま、素足で立っていた。
俺の顔を見て、「おはよう」と言った。
特別な言葉ではなかった。
でも俺はその「おはよう」を、今でも覚えている。
声が、柔らかかった。業界の顔ではない声だった。撮影現場の顔ではない声だった。ただの、朝に目が覚めた人間の声だった。
その声を聞いたとき、俺はこの人と結婚してよかったと思った。
それだけは、今でも本当のことだと思っている。
どんな夜があっても、どんな疑念があっても——あの朝の「おはよう」を聞いた瞬間の気持ちだけは、変わらない。
変わらないから、余計に苦しい。
八 麻衣
新婚最初の朝、健吾が台所に入ってきたとき、私は少しだけ緊張していた。
理由はわからない。
ただ、この人と二人で朝を迎えるということの、重さのようなものを感じていた。
「おはよう」と言った。
健吾が「おはよう」と言った。
それだけだった。それだけで十分だった。
コーヒーを二つ並べて、二人で飲んだ。
健吾は窓の外を見ていた。朝の光の中で、健吾の横顔が少しだけ緩んでいた。機嫌がいいのか、それとも安心しているのか、どちらかはわからなかった。でもその顔が好きだった。
この人の隣で、私も少し緩んだ。
緩んでいいのだ、という気がした。
業界の外側にいる人間の隣では、私は私でいられる。
それがわかった朝だった。
あの頃が一番、幸せだったのかもしれない。
幸せだった頃には、幸せだとわからない。
後になって、あれが幸せだったと気づく。気づいたときには、もう少し遠くなっている。
今の私と健吾の間には、あの朝の距離がない。
同じテーブルに座っても、同じベッドで眠っても——あの朝の近さがない。
透明な壁が、そこにある。
触れても温度がない。叩いても音がしない。ただ確かにそこにあって、二人の間で、少しずつ、厚くなっていく。
いつそれが生まれたのか、私には正確にはわからない。
でも最初の亀裂がどこにあったか、私は知っている。
健吾は知らない。
そしてその「知らない」こそが、壁を作ったのだと——
今の私には、わかっている。
九 健吾
あれは結婚して半年が経った頃だった。
麻衣が深夜に帰ってきた夜のことを、俺はよく覚えている。
一時を過ぎていた。
「ただいま」
「おかえり。遅かったな」
「撮影が」
「そうか」
それだけの会話だった。麻衣はすぐにシャワーを浴びに行った。
俺は本を読んでいた。読んでいるふりをしていた。
シャワーの音がした。
麻衣がベッドに来た。
「眠い」
「寝ろ」
麻衣が目を閉じた。
俺は天井を見ていた。
何かが、おかしい。
そう思った。
何がおかしいのか、その夜はわからなかった。翌朝になっても、わからなかった。
三日後の夜、また麻衣が遅く帰ってきたとき、俺はようやく気づいた。
シャンプーの香りが、違う。
うちのシャンプーはラベンダーだ。麻衣が選んだもので、二人で使っている。その香りを、俺はもう何百回と嗅いでいる。
でもその夜の麻衣の髪から、ラベンダーではない香りがした。
もっと人工的な、どこかで嗅いだことのあるような——
考えるな、と思った。
考えれば考えるほど、鮮明になる。考えるな、と自分に言い聞かせた。
でも眠れない夜に、人間の思考を止める方法など、存在しない。
香りは鼻の奥に残り続けた。
それが最初だった。
翌朝、麻衣は俺の作った卵焼きを食べた。
「甘くておいしい」
いつもと同じ言葉だった。いつもと同じ声だった。いつもと同じ朝だった。
俺は「よかった」と言って、コーヒーを注いだ。
何も聞かなかった。
聞けなかったのではない。聞かなかった。その違いを、俺は今でも引きずっている。あのとき聞いていたら、何かが変わっていたのか。あるいは何かが壊れていたのか。
どちらにしても、俺は聞かないことを選んだ。
自分の意志で、選んだ。
その選択が、透明な壁の、最初の一枚だったのかもしれない。
透明な壁は、ある日突然そこに現れるものではない。一日一枚、積み重なるように生まれる。一枚一枚は薄い。光も通る。でも重ねれば重ねるほど、向こう側が見えにくくなる。見えにくくなっても、向こうに誰かがいることはわかる。わかるから、触れようとする。触れるたびに、壁の存在を確認する。その繰り返しの中で、人は少しずつ、壊れていく。




