第八話 この家の希望
机の窓から、中庭が見える。
植えこみの根もとに、折り鶴が一羽だけ残っていた。羽の字はもう読めない。
消しゴムの紙のケースが、中身より一段短くなっている。角の黒くなったところをケースに押しこんで、私は英語の長文に戻った。
ノックもなしに、ドアが開く。
母だった。生え際の白いものが、急に目立つ。
退学の手続きが済んでから、まだ2週間しかたっていない。
「花乃……お姉ちゃんを助けて」
「どうやって?」
「あの子、退学になってから、部屋で泣いてばっかりで。夜中に電話して、また泣いて」
「このままじゃ、本当にだめになっちゃう。花乃は強い子だから、大丈夫でしょう」
母はドアの枠に手をかけて、目を伏せた。
「あんたが、あの男と付き合えばいいのよ。そしたら雪乃も、目が覚めるでしょう」
シャープペンの芯が、ノートの上で折れた。
「……それ、母親が娘に言う台詞?」
「だって、ほかに方法がないじゃない。あの男が花乃のほうを向けば、雪乃だって」
「じゃあお母さんが付き合えば? そのほうが、よっぽど効くと思うよ」
母の右手が上がった。
私は椅子から半分立って、その手首をつかんだ。思っていたより細い。
「お母さん。私を殴る以外に、何かしたこと、ある?」
母の唇が、開いたまま震えた。
手首を離すと、母はそれを胸に抱えこんで、廊下の壁に背中をつけた。しゃくりあげる声が、閉めたドアの向こうへ遠ざかっていく。
前の人生の私なら、ここで泣いて謝っていた。何を謝るのかも、わからないまま。
私は、折れた芯を指で払った。長文の、さっきの行を探す。
*
11月に入ると、姉の部屋から、また電話の声が聞こえるようになった。
笑う声と、泣く声が交互に来る。鷹野の声は聞こえない。
「うん……会いたい。今から? うん、待ってて」
最初の夜は、両親が寝静まった1時すぎだった。
廊下を忍び足が通って、玄関の鍵が、そっと回る。洗面所に、知らない香水の匂いが残っていた。
姉が帰ってきたのは、空が白くなりかけたころだ。
すれ違った廊下に、煙草と酒と、知らない柔軟剤の匂いがした。
その週のうちに、姉のスカートは膝の上まで短くなった。夜のベランダで、赤い点が明滅する。
両親は、何も言わなかった。言えば姉がまた出ていくと、二人とも思っているらしい。
姉は、朝になると何もなかった顔で台所に立って、母の作った卵焼きをつまんだ。
「お母さん、この味、好き」
母は、それだけで泣きそうな顔をした。
2度目は、11月14日の23時。
玄関の明かりの下で、父が靴も脱がずに待っていた。
「どこへ行く」
「……コンビニ」
「その顔でか。その格好でか」
姉の手から、玄関の鍵が落ちた。
母が私の部屋のドアを開ける。私はまだ、机に向かっていた。
「花乃も来なさい。座りなさい、二人とも」
*
居間のカーペットに、私と姉が並んで正座する。
濃いアイラインの下で、姉の目はまっすぐ父を見ていた。
「説明しろ。何がどうなってる」
「お父さん。私、もう学校とか、どうでもいいの」
「どうでもいいだと」
「自由に生きたいの。一回きりの青春を、お父さんたちの言うとおりに使いたくない」
「自由? お前に、自由の何がわかる」
「お父さんたちには、わからないよ」
姉は膝の上で、こぶしを握った。
「私、朔也と結婚する」
母が、喉の奥で短い声を上げた。
「結婚って……あんた、まだ」
「18だよ。もう、親の許可もいらないんでしょ」
「あの人以外は嫌。この先、ずっと」
「鷹野の家に電話する。親と話をつける」
「したら、私、出ていくから。今すぐ」
「ゆっちゃん、お願い……お願いだから」
父の体が、ぐらりと揺れた。ソファの肘かけに手をついて、そのまま床に腰を落とす。
母は父の肩に手を伸ばして、届かないところで止めた。
私はうつむいて、手で口もとを押さえた。肩が震えるのを、止めなければいけなかったから。
*
前の人生で、私は姉を止めた。あの人は顔だけだよ、やめなよ、と何度も袖をつかんで。
「花乃、私が羨ましいんだね」
数日後、私が書いていた小説のノートが、居間の床に落ちていた。姉が、うっかり落としたことになっている。
開いていたのは、濡れ場のページ。私の字を真似た、姉の字。
その夜は、夜中まで叩かれた。
「産まなきゃよかった」
母がそう言ったとき、姉は私の前に膝をついて、両手を広げていた。
「やめて、叩かないで。花乃には、好きな人がいるだけなの。そういうこと考えちゃうのも、普通だよ」
姉はそれから、スマホで裏サイトの古いスレッドを開いて、両親に見せた。
「私は花乃を信じてるよ。でも、火のない所に煙は立たないって言うでしょ」
「お前なんか、死ねばいい」
父の声は、怒鳴り声ではなかった。
それから半月もしないうちに、私は校舎の屋上から落ちた。
*
今回は、止めない。
母が、膝立ちのまま横に崩れた。カーペットに、頭の当たる鈍い音。
父は床から立ち上がって、姉の前で手を振り上げた。その手は、下りてこない。
震えたまま宙にあった手が、向きを変えて、父自身の頬を打った。
「俺の、育て方が……」
姉は立ち上がって、スカートの裾を払った。
「朔也が卒業したら、二人で東京に出て、起業するの」
「花乃は、東央でもどこでも行けば? どうせ最後は、私たちの下で働くんだから」
どうぞ、お幸せに。
ドアノブに手をかけたところで、姉は振り返った。
「花乃。あんたも何か言えば? 言いたいこと、あるんでしょ」
私は正座のまま、膝の上の手を組みかえた。
姉の部屋のドアが、壁が揺れるほどの音で閉まった。
*
母を寝室に運ぶのを手伝ってから、自分の机に戻る。
寝室のドアの向こうで、父が母の名前を呼んでいる。返事は聞こえない。
開いたままの問題集の、余白に日付を書く。
11月14日。共通テストまで、あと60日。
ドアのところに、父が立っていた。部屋の外側の補助錠に、手が触れている。
頬に、自分で打った赤い跡が残っていた。職員室で姉を打ったときより、ひとまわり小さく見える。
「花乃」
返事をしないでいると、父はもう一度、私の名前を呼んだ。
「お前が、この家の希望だ」
私はシャープペンを持ち直して、さっき読みかけていた行に目を戻した。




