終話 妹と呼ばれた日
1月13日、共通テスト当日。
試験会場の大学の教室は、暖房が効きすぎていた。マークシートの楕円を、ひとつずつ塗りつぶしていく。
前の私が受けられなかった試験は、思っていたより静かで、鉛筆の音ばかりがする。
2日目の最後の科目が終わる。解答用紙が後ろから集められていくあいだ、私は鉛筆を置いた手を、机の上に広げたままにしていた。
建物を出ると、外はもう暗い。マフラーの中で吐いた息が、白く広がって消える。
その夜、台所のテーブルで自己採点をした。881点。
2月の終わりに東央大学の2次試験を受けて、3月に合格の通知が来た。
厚い封筒には、もう一枚入っていた。高3の模試で県内1位を取った成績が、大学独自の給付型奨学金の審査にも通っていて、給付額の欄には「全額」と刷ってある。
居間のテーブルに2枚を並べる。父と母が手を止めてのぞきこむうちに、私はそれをそろえて、封筒に戻した。
封筒は、机の引き出しのいちばん奥にしまった。
「花乃ちゃん、合格おめでとう!」
若菜のメッセージには、泣いている顔のスタンプが7つ。
3月の終わり、大学の近くに借りた部屋へ移る日。引き出しの封筒と、単語帳を一冊、鞄に入れた。
部屋を出て、外からドアを閉める。
腰の高さに、ねじ4本で留まった補助錠が残っている。私はスーツケースの取っ手を伸ばして、玄関へ歩いた。車輪が、廊下の継ぎ目で一度跳ねる。
同じ3月、鷹野の卒業式の翌日に、姉は家を出た。
*
大学1年の秋、両親はマンションを売って、市の郊外の2階建ての一戸建てへ移った。LPガスの、新しい家だ。
大学2年の春も奨学金は全額のまま更新が通って、夏休みには海外本社のインターンに参加。3年の春、卒業を条件にした採用通知がメールで届いた。
その少し前に、母から電話があった。姉が、女の子を産んだという。
4月、私は初めて郊外の家の玄関を開けた。
廊下に、紙おむつの袋が口を開けたまま転がっている。流しには、洗っていない哺乳瓶。
奥の部屋から、乾ききらない洗濯物と、すえた牛乳の匂いが流れてくる。
姉は、窓のカーテンを閉めきった部屋で、布団に横になっていた。
頬がこけて、顔色は黄ばんでいる。隣のベビーベッドで、赤ん坊が細い声で泣いていた。
「……花乃?」
「お母さんに聞いたから。顔、見に来た」
「東央、行ったんだってね。外資にも決まったって、お母さんが近所じゅうに言ってた」
「そう」
「昔は、花乃の話なんて一回もしなかったのにね」
姉は肘をついて、上半身を起こした。その動きだけで、息が上がっている。
「あの人ね、この子が生まれて1ヶ月で、いなくなったの」
「二人で何年も働いて貯めたお金、全部持って。通帳ごと」
カーテンの隙間の光が、姉の手の甲を細く横切っている。
「もう、髪なんてほとんどないの。お腹だけ出て。パチンコと競馬で、負けると私を殴るの」
「なのにね、ずっとライター回してるの。カチカチ、カチカチって。テレビ見ながらも、ご飯のときも」
姉は、自分の指でその動きを真似しかけて、やめた。
赤ん坊が、ベビーベッドの中で手足をばたつかせる。姉は、そっちを見なかった。
「あの人の話をすると、吐き気がする」
「殺したい。本気で、そう思う」
「後悔してる?」
「してる。全部、あの人のせい」
「あの人さえいなかったら、私、ちゃんと勉強して、大学行って。あんたみたいに……」
そこで言葉が切れた。姉は布団の端を握りしめて、私の顔を見上げた。
「前のあなたなら、止めてくれたのに」
赤ん坊の泣き声が、一段高くなる。
私は鞄を肩にかけ直して、背を向けた。
袖を、つかまれた。
「……花乃」
私は答えなかった。
「こんなこと頼めるの、妹のあなたしかいないの」
「なに」
*
振り返ると、姉は私の袖をつかんだまま、目をそらしていた。
「1,000万、貸して。一年で返すから」
「何に使うの」
答える前に、隣の部屋の襖が開いた。
父と母が、並んで立っていた。二人とも、最初からそこで待っていた顔をしている。
「花乃。貸してやれ」
「初年度から年収1,000万なんだろう、前借りすれば」
「お給料、先にもらえない? お姉ちゃん、困ってるの」
「花乃はもう、一人で大丈夫なんだから。助けてあげられるのは、あんたしかいないのよ」
3人分の目が、私の顔に集まっている。
私は母の腕を引いて、台所へ連れていった。流しの哺乳瓶の横で、声を落とす。
「何に使うの。本当のところ」
母は目を泳がせてから、エプロンのポケットに手を入れた。
「投資、なんですって。預けておくと、運用してくれる人がいて……一年で3倍になるって」
「それ、詐欺だよ」
「でも、説明会にも行ったのよ。もう増えてる人もいるって」
部屋に戻ると、姉は布団の上に座り直していた。
「聞いたんでしょ。本当なんだって。一年たったら、ちゃんと返すから」
「3倍になる話なんて、ないよ」
「あんたは知らないだけ。私だって、このままで終わる気はないの」
「あの人のせいで、全部だめになったんだもん。今度こそ、取り返すの」
私は、布団の横に立ったまま言った。
「間違ってたのは、あの人じゃない。あなた」
姉の口が、半開きのまま止まった。
「あの人がしたことは、あの人が背負えばいい。でも、あの人を選んで、学校を捨てたのは、あなただよ」
「貸さない。入社の前でも、あとでも、同じ答え」
姉の手が、袖から離れた。
「……白石花乃。調子に乗らないで」
声の高さが、昔の姉に戻っていた。
「あんたなんか、生まれたときから私より下じゃない。東央だって外資だって、運がよかっただけでしょ」
「私は、ちょっと運が悪かっただけ。来年には、私の番が来るの。そのとき、あんたはただの会社員よ」
「嫉妬してるんでしょ。私が、昔きれいだったこと」
仏様でも、無理な人はいる。
私は、襖の前に立っている両親のほうを向いた。
「財布と家は、自分たちで守って。通帳と印鑑は、誰にも渡さないで」
父は口を開きかけて、閉じた。母は、エプロンの裾を握っている。
玄関で靴を履いていると、奥から赤ん坊の泣き声が追いかけてくる。
2年後、私は大学を出て、海外の本社に赴任した。日本の電話番号は、そのとき解約した。
*
あの4月から7年後、母の古い友人が、人づてに私の連絡先を探し当ててきた。
実家と車と貯金を全部つぎこんだ「一年で3倍」が破綻し、売って借りて住み続けていたあの家に姉が金を出させようと鷹野を呼び出し、殴られた夜のことだ。
ガスに火をつけたのは姉で、2階の言い争いを聞いた両親が、下から階段を上がっていったところだったという。LPガスの爆発で、姉と両親と鷹野の4人が死んだ。
警察と医師の検案のあと、引き取り手の見つからなかった4人の遺骨は市が火葬して預かっていて、隣の家で宿題をしていた芽衣だけが、その夜あの家にいなかった。
*
知らせから14日目、私は県内の児童養護施設の面会室にいた。
長机がひとつと、椅子が4脚。
窓際の棚にティッシュの箱があって、取り出し口の紙が一枚、内側に折れこんでいた。
「児童相談所で一時保護されてから、こちらに来ています。学校には、ここから通っています」
「申立てのほうは、明日ご提出の予定でしたね」
「はい。その予定です」
私は鞄から、家庭裁判所に出す未成年後見人選任の申立書の封筒を出して、長机の端に置く。
職員の女性はうなずいて、部屋の隅の椅子に座った。
ドアが開いて、女の子が入ってきた。
芽衣。7歳、小学2年。
灰色にくすんだウサギのぬいぐるみを、両腕で抱えている。片方の耳が、縫い目からほつれていた。
前髪の下の目は、私を見ているのに、どこにも焦点が合っていない。
私は床に膝をついて、目の高さを合わせた。
「芽衣。叔母さんだよ」
「……」
芽衣は返事をしない。ぬいぐるみの、ほつれた耳の糸を、指先でずっと引っぱっている。
「ママのこと、おじいちゃんとおばあちゃんのこと、聞いたよね」
芽衣の指が、ウサギの耳を強く握った。
「叔母さんね、芽衣と一緒に暮らせたらって思って、来たの。一緒に来る?」
私は、手を差し出した。
ぬいぐるみが、床に落ちる。
芽衣は私の手首を両手でつかんで、親指のつけ根に歯を立てた。職員の女性が立ち上がる。
噛む力が、少しずつ強くなる。離れたあと、「一緒に来る?」と差し出した手に、赤い歯の跡が並んで、血がにじんでいた。
私は、その手を引っこめた。
立ち上がって、長机の端の封筒を鞄に入れ、留め金をかける。
「明日の提出は、取りやめます」
「……承知しました」
職員の女性は立ったまま、ほかには何も聞かなかった。
芽衣の目の中に、姉がいた。
「ママが言ってた。全部あなたのせいだって。大きくなったら、殺す」
「わかった」




