第七話 優しい人、だったよね
マンションの前のギターは、4日目の夜を最後に来なくなった。
原チャリの音もしない。中庭の植えこみに散った鶴だけが、雨に打たれて少しずつ灰色になっていく。
10月3日の朝、鞄に弁当を詰めていると、ドアが小さく鳴った。
パジャマのままのお姉ちゃんが、スマホを胸に押しつけて立っている。
「花乃。ちょっといい?」
返事を待たずに、画面をこっちへ向けた。
トーク画面の右側に、緑の吹き出しが縦に並んでいる。
今日も来ないの?
既読だけでもつけて
朔也
声ききたい
吹き出しの横に、「既読」の文字はひとつもない。いちばん上の日付は、9月27日だった。
「学校で、何かあった?」
「何かって?」
「27日から、ずっとなの。電話にも出ないの」
「……朔也、元気?」
お姉ちゃんの指が、スマホの角を何度もなぞっている。
「元気だよ。5組で勉強会の班が決まって、九条さんと同じ班なんだって」
「九条って、生徒会長の?」
「うん。それで今度は、鷹野くんと会長の噂になってる」
「噂って……何」
*
私は自分のスマホを出して、裏サイトのブックマークを開いた。
昨日の夜から、もう誰かが立てているスレッドだ。私が何かを書く必要は、どこにもない。
貼られている写真は一枚だけ。
中庭のベンチに、鷹野と九条さんが並んで座っている。二人の膝のあいだに、開いた問題集が一冊。
その下に、書き込みが続いていた。
【会長のほうがかわいくね】
【雪乃ってずっと清楚ぶってたよな】
【朔也と会長が先で雪乃が略奪したって聞いた】
【相手いるの知ってて行ったなら引くわ】
【来てないの退学になったかららしいぞ】
画面を差し出すと、お姉ちゃんは両手で受け取った。
スクロールする親指が、途中で止まって、また動く。最後の一行で、画面ごと手が震えはじめた。
「退学なんか、なってない……。略奪って、何。私のほうが先なのに」
「うん。知ってる」
「なんで、誰も……」
前の人生で、私はこの画面の、反対側にいた。
噂に浸かるの、気分悪いでしょ。
「お姉ちゃん」
返してもらったスマホの画面を消して、私は言った。
「このままだと、先を越されるよ」
お姉ちゃんの喉が、ひくりと鳴る。
スクショは撮らないし、誰にも送らない。スマホを鞄に入れて、私は靴を履いた。
*
その日の夕方、私が自習室から帰ると、居間でお姉ちゃんが正座していた。
テレビは消えていて、台所の換気扇だけが回っている。
両手を床について、額をカーペットにつけている。
「お父さん、お母さん。ごめんなさい」
「私、勉強に戻る。朔也とは、もう会わない。約束する」
「ゆっちゃん……」
母が、お姉ちゃんの背中に覆いかぶさった。父は腕を組んだまま、天井の照明を見ている。
「本当だな。今度こそ、本当だな」
「本当。だから、学校に電話させて」
「よかった……よかった、ゆっちゃん」
「明日、先生にもちゃんと頭を下げろ」
お姉ちゃんは自分のスマホで学校にかけて、浜田先生を呼んでもらった。スピーカーにしたのは、両親に聞かせるためだろう。
「雪乃さん。縁を切れば戻れます。出欠の約束を守ってください」
「はい。守ります。明日から、ちゃんと行きます」
電話を切ったお姉ちゃんの顔は、もう泣いていなかった。
私は手を洗って、自分の部屋に入った。外側の補助錠は、まだドアの枠にねじで留まったままだ。
*
10月4日の昼休み、3組の前の廊下は、人の輪で通りにくかった。
「雪乃、おかえり。大変だったね」
「鷹野と会長とか、どうせすぐ終わるって」
「雪乃のほうがずっとかわいいのに。見る目ないんだよ、あいつ」
輪の真ん中で、お姉ちゃんは髪を耳にかけた。
「もう、関係ないから。今は、目の前のことを大事にしたいの」
「えらい……」
「あんなこと書かれて、言い返しもしないの?」
「言い返したら、同じになっちゃうから」
「なんか、聖女じゃん」
誰かが言って、笑い声が輪の中に広がる。
私は輪の外側を、壁に肩をこすりながら通り抜けた。
*
10月5日、文化祭の初日。
開会式の体育館は、2階の窓から入る光で白っぽかった。バスケットゴールは天井近くまで巻き上げられて、ボードの裏側だけが見えている。
クラスごとに並んだパイプ椅子の列。2組は真ん中あたりで、3組は一列右、5組はずっと左だ。
壇上に、生徒会長の九条乙葉が上がった。ふだんどおりの制服で、マイクの高さを一度だけ直す。
「生徒会長の九条です。これから開会式を始めます」
「準備に協力してくれた皆さん、ありがとうございました」
「本日と明日の2日間、どうぞよろしくお願いします」
左の列の後ろのほうで、鷹野が顔を上げて壇上を見ていた。周りの男子と、何かしゃべりながら。
右の列で、パイプ椅子が一脚、がたんと鳴った。
お姉ちゃんが立ち上がっていた。
列の端まで歩いて、通路を進む。止める場面だと思った人は、たぶん一人もいない。
壇の横の階段を、上履きで一段ずつ上がっていく。
九条さんが振り向いた。
乾いた音が、マイクに拾われて体育館じゅうに跳ね返った。
「そんな格好で、誰を誘ってるの」
マイクスタンドが傾いて、九条さんの手がそれを支えた。もう片方の手が、頬を押さえる。
一歩下がった上履きが、壇の縁のテープを踏んだ。
「白石さん、やめてください」
「みんなの前で、朔也のこと見て、笑って。わかってやってるんでしょ」
スピーカーが、キィンと長く鳴った。
先生たちが壇の両側から駆け上がる。体育の先生がお姉ちゃんの両腕を後ろから押さえて、階段のほうへ引いていった。
「白石、落ち着け。もういい」
「離して。私、何もしてない。悪いのはあっちでしょ」
1000人近くいる体育館で、誰も声を出さなかった。
パイプ椅子が一脚、どこかで床をこすった。
「……修羅じゃん」
左の列から聞こえたその声に、笑う人はいなかった。
鷹野は椅子の背にもたれて、壇上ではなく、自分の上履きのつま先を見ていた。
*
開会式は30分遅れで、教頭先生の挨拶からやり直し。
教室に戻ると、若菜は自分の席に座ったまま、しばらくペットボトルのキャップを開けたり閉めたりしていた。
「花乃ちゃん」
「うん」
「あたしさ、前に食堂で、言ったじゃん。お姉さんのこと」
「うん」
「廊下でいつもにこにこしてて、言い返さない人だって。ずっと、そう思ってた」
キャップが、かちりと閉まる。若菜は私のほうを見ないで、黒板の上の時計を見ていた。
「……優しい人、だったよね?」
食堂で「言ってくる」と椅子を引いたときと、同じ声の高さだった。違うのは、語尾が上がっていることだけ。
私は答えずに、机の中から単語帳を出した。
単語帳の表紙の裏に、毎朝書きかえている数字がある。
10月5日。共通テストまで、あと100日。
夜、母のスマホに学校から電話が入った。
「はい……はい。退学願を、あの子が、自分で……」
お姉ちゃんはその日の午後、職員室で浜田先生たちと話したあと、自分で退学願を書いたという。
自主退学の形で、校長がその場で受理した。




