第六話 学年トップの電話
鍵は、一晩かかったまま。
トイレに行くときだけ、母が来て開けた。用が済むと、また外から回す音がする。
夕飯は、ドアの前の床にお盆で置かれていた。冷めた焼き魚と、ラップのかかったご飯。
夜中に2回、お姉ちゃんの部屋のドアが開いて閉まる音がした。そのたびに、居間で父が立ち上がる気配がする。
見張り役を閉じこめて、見張り役の分まで親が起きている。計算の合わない家だ。
翌朝7時半。制服に着替えて、ベッドの端に座る。
スマホは、まだ私の手の中にある。前の人生では真っ先に取り上げられたのに、今回は誰も気にしていない。
かける先は、ひとつしか思いつかなかった。用件も、ひとつだけ。
9月28日。共通テストまで、あと107日。
学校の代表番号にかけて、浜田先生を呼んでもらった。
保留の音楽が、2小節で切れた。
「はい、浜田です」
「先生。2組の白石です」
「白石さん。どうしました」
「部屋の外から鍵をかけられました。学校に行けません」
受話器の向こうで、紙をめくる音が止まった。
「……鍵。あなたは今、自分の部屋の中にいるんですね」
「はい」
「怪我はありますか」
「ありません」
「それなら、ご両親に電話します。そこにいてください」
私はほかに何も言わなかった。お姉ちゃんのことも、鷹野のことも。
5分後、居間で母のスマホが鳴った。
「はい、白石でございます。……はい、浜田先生。……え?」
「お父さん、ちょっと。先生から。スピーカーにするから聞いて」
ドア越しに、浜田先生の声が少し割れて届く。
「お母様。花乃さんを部屋に閉じ込めていると、本人から連絡がありました」
「閉じ込めるだなんて、そんな……。あの子には家で、お姉ちゃんを見ててもらってるだけで」
「外から鍵をかけて、ですか」
母が黙る。
「お母様、お父様。花乃さんの成績を、ご存じですか」
「成績は……まあ、あの子なりに」
「学年トップ、東央大学を狙える子ですよ。これ以上閉じ込めるなら警察を呼びます」
居間の音が、全部止まった。
冷蔵庫の唸りだけが、ドアの下の隙間から入ってくる。
「花乃が? 普通の大学に入れれば、それで……」
「先生、何かの間違いじゃ」
「間違いかどうかは、成績表を見ればわかります。まず、鍵を開けてください。この電話をつないだままで」
廊下を、父のスリッパが近づいてくる。鍵穴に鍵が入って、回る。
ドアが開いた。父は私の顔を見ないまま、居間へ戻っていく。
鍵の外の廊下は、フローリングが足の裏にひやりと冷たかった。
鞄を持って居間を通る。テーブルの上に、エアコンのリモコンが裏返しに置いてあった。
電池のふたが、透明なテープで留めてある。
母はスマホを両手で持ったまま、私の顔と画面を見比べていた。知らない子の写真でも見るような目で。
「……開けました」
「ありがとうございます。花乃さん、聞こえていますか。今日は遅刻で構いませんから、来てください」
「はい。行きます」
スピーカーを切りかけた母の指が止まって、送話口に顔を寄せる。
「先生、あの……花乃のこと、何かのお間違いじゃ。うちの子、そんなふうに言われたこと一度も」
「成績表は、毎学期お渡ししています」
母は、そこで口をつぐんだ。一度も見ていない紙のことを、それ以上は言えないらしい。
*
靴を履いていると、居間から母の声が追いかけてきた。
「先生、それより、雪乃は……。雪乃は、どうにかなりませんか」
「謹慎が明けたら、ちゃんと戻れるんでしょうか。あの子、ずっと成績もよくて、難関国立だって言われてて」
「あの子はこの家の希望なの」
母の声は、途中から湿っていた。
「雪乃さんについては、10月3日に改めてお話しします」
浜田先生の声は、さっきと同じ速さだ。
「鷹野さんとのことで、早退や欠席を続けるのをやめること。そこで縁を切るなら、戻る道はあります」
廊下の奥で、ドアが乱暴に開いた。
パジャマのままのお姉ちゃんが、居間に飛びこんで、母の手からスマホをひったくる。
「切る? 無理です。私が死なない限り」
赤いボタンを押す指が、2度すべった。3度目で、通話が切れる。
放り出されたスマホが、ソファのクッションで跳ねて床に落ちた。
*
お姉ちゃんが、玄関の私に向き直る。
パジャマの襟もとから、首が赤くなっていく。
「ガリ勉。あんたがチクったんでしょ」
「鍵のことしか、言ってないよ」
「同じでしょ。わざと先生にかけて、私のこと全部聞かせたんでしょ」
母が、スマホを拾って胸に抱えている。父は、テーブルの横に立ったまま動かない。
「勉強して何になるの? いい大学行って、大企業に入って、毎日同じ電車に乗って。それで一生終わりじゃない」
「20歳で死んでる人、いるよね。あんたのこと」
「嫉妬してるんでしょ。昔から、ずっと私に嫉妬してたもんね」
お姉ちゃんの頬は、職員室で打たれた跡がまだ少し黄色かった。
前の人生でも、似たようなことは言われている。あのときの私は、ちゃんと傷ついた顔をしてみせた。
今は、ローファーのかかとに指を入れている。三和土には、私の靴と、お姉ちゃんのサンダルが並んでいる。
恋は、私にとって消耗品だ。時間と夜を食べて、ついでに成績まで食べる。
その実例が、目の前でパジャマの裾を握りしめている。
母が、ようやく口を開いた。
「ゆっちゃん、やめなさい。花乃、遅刻するでしょう」
それは、私のための言葉ではなかった。お姉ちゃんを玄関から引き離すための言葉だった。
「18にもなって彼氏もいないの、可哀想」




