第五話 姉を見ていなさい
動画は、その夜のうちにクラスのLINEグループに流れてきた。
誰かが貼った裏サイトのリンク。タイトルは一行だけだ。
【清楚系女子、不良と付き合ってた】
再生すると、街灯の下で二人が抱き合っている。画面の端に、私の肩が半分だけ映りこんでいた。
翌朝の食卓で、母がスマホを父の前に滑らせた。
「ゆっちゃん。これ、どういうこと」
お姉ちゃんは味噌汁の椀を両手で包んだまま、画面を見もしなかった。
「どういうことって、見たとおりだよ」
「鷹野って、あの……髪を染めて、バイクを乗り回してるっていう」
「それ、ただの噂でしょ。朔也は、そんな人じゃない」
「お母さん、あんな子とだけはやめてって、何度も」
「何度もって、一回も言われてないよ。私が誰と付き合うかなんて」
父は新聞を畳んで、黙ってネクタイを締め直した。お姉ちゃんの目が、テーブルの向こうから一度だけ私をなぞる。
私は卵焼きを口に入れた。言ってないし、言う必要もない。
隠すのをやめた二人は、次の日から廊下で手をつないで歩くようになった。
*
お姉ちゃんの成績は、坂を転がるより速かった。
9月半ばの実力テストで、数学の答案の余白にハートが3つ。無断の早退が、2週間で4回。
9月19日の放課後、私は進路調査票を出しに職員室へ行った。
入り口の来客用スリッパが、一足だけ、片方の口を上に向けて裏返っていた。
奥の面談スペースの衝立の向こうに、見慣れた背中が二つと、お姉ちゃんの後ろ頭が見える。
浜田先生は学年の進路担当も兼ねていて、3組の担任と並んで座っていた。
「雪乃さん。無断の早退が、今月だけで4回です」
「……はい」
「夏までのあなたは、こういう子ではありませんでした。何があったんですか」
「先生には、わからないと思います」
お姉ちゃんの声は、教室で聞くより澄んでいた。
「青春って、一度しかないじゃないですか。私、あとで後悔したくないんです」
「後悔しないためにも、出欠の約束は守ってください。守れないなら、学校としても判断をします」
「判断って何ですか。朔也がいない未来なら、私、死んだほうがましです」
父の椅子が鳴った。
立ち上がった父の手が、お姉ちゃんの頬を打つ。乾いた音が、職員室の天井に跳ねた。
「目が腐ってるのか、お前は」
「お父様」
浜田先生が、すっと立ち上がって父とお姉ちゃんのあいだに入った。声は大きくない。
お姉ちゃんは頬を押さえたまま、顎を上げた。
「お父さんたち、命懸けで好かれたことなんて、ないでしょ」
母が振り返って、衝立の端に立っていた私を見つけた。
「花乃。ちょうどよかった。あんたからも何か言ってあげて」
浜田先生の机の、未決のトレーに調査票を置く。
一礼して、職員室を出る。
廊下に出ても、父の怒鳴り声がもう一度だけ追いかけてくる。
学校は本人と両親から話を聞いて、9月22日から10月3日までの自宅謹慎を決めた。
*
9月23日の夜、マンションの前で原チャリのエンジンが止まった。
ギターの音。ベランダから見下ろすと、エントランス脇の植えこみに鷹野が腰かけて、弦をかき鳴らしている。
どこかで聞いたことのあるラブソングの、サビだけ。何度も。
「雪乃ー。聞こえてんだろー」
窓が、あちこちで開く。
「うるさいぞ、何時だと思ってる」
「すみませーん。あと一曲だけっす」
鷹野は顔も上げずに答えて、また同じコードを押さえた。
取り巻きの金髪が、上の階に向かって両手を広げた。
「通報したらゴミ撒くぞ。どこの部屋か、すぐわかるからな」
それでも誰かが110番したらしい。15分後にパトカーが来た。
「君たち、ここ住宅地だから。どこの学校?」
「帰りまーす」
彼らは原チャリで散っていった。
翌日の夜も、同じ時間に、同じサビ。
父は会社に有給を出して、母はパートのシフトを夜から外した。二人で交代しながら、玄関の前とお姉ちゃんの部屋の前を行き来する。
「雪乃、開けなさい。顔を見せるだけでいいから」
「ほっといて。見張られてると息が詰まるの」
お姉ちゃんは、自分の部屋の窓辺から下を見ていた。机には、開いたままのノートが一冊。
通りがかりに見えた一行は、丁寧な字で書かれていた。
周りは全員寝てる。起きてるのは私だけ。
そのページを破って、彼女は折り鶴を折る。羽には、朔也、朔也、とペンの字が並んでいた。
ベランダから放られた鶴が、中庭の植えこみに白く散らばっていく。
4日目の夕方、管理人さんがうちのインターホンを鳴らした。
「白石さん、夜の騒音の件と、中庭の紙の件なんですけどね。ほかの住人さんからも苦情が……」
母が頭を下げる横から、お姉ちゃんが顔を出した。
「すみません。若い子のロマンなんです。大人の人には、わからないと思いますけど」
管理人さんは、帽子のつばに手をやったまま、しばらく黙った。
*
9月27日の朝、出かけようとした私の前で、父が玄関に立った。
「花乃。お前は学校に行かなくていい。雪乃を見てろ」
「なんで」
「俺の有給が、もうない。母さんも、これ以上は休めん」
台所から、母がエプロンで手を拭きながら出てくる。
「花乃は成績があれなんだから、受験なんてどっちでもいいでしょう。お姉ちゃんは難関国立に行ける子なのよ」
「私、受験するよ」
「するのは自由よ。でも今は、お姉ちゃんが大事な時なの」
二人とも、私の成績を知らない。知らないまま、決めている。
前の人生の6月、私は学年5位の成績表を、居間のテーブルに置いた。
母はそれを持ち上げて、裏返して、また表にした。
「花乃。カンニングだけは、だめよ」
前の晩、お姉ちゃんが両親の寝室で話していたのを、私はあとで知った。
「花乃、負けず嫌いだから。魔が差しちゃったんだと思う。わざとじゃないよ、きっと」
自分で解いた、と何度言っても、誰も聞いていなかった。それから先の成績表は、一枚も見せていない。
*
「私は学校に行く」
もう一度言うと、父は靴を履いて、黙って出ていった。
昼前に戻ってきた父は、ホームセンターの袋を提げていた。
中から出てきたのは、補助錠の箱だ。
「あなた、それ……」
母の声が、廊下の途中で止まった。止めには来なかった。
9月27日。共通テストまで、あと108日。
父は電動ドリルを持って、私の部屋のドアの前にしゃがんだ。
外側の枠に、ねじを4本打ちこんだ。最後に、小さな銀色の鍵を袋から出した。
「お父さん、何してるの」
「お前が言うことを聞かないからだ」
「学校に行くって言っただけだよ」
「雪乃のことが落ち着くまでだ。中で勉強でも何でもしてろ」
ドアが、外から閉められる。
外側の鍵穴に、鍵の先が差しこまれる音がした。




