第四話 青春は一度だけ
その夜、23時を回ったころ、ドアが2回鳴った。
返事をする前に、お姉ちゃんが入ってくる。パジャマの上にカーディガンを羽織って、左の頬には湿布。
「花乃、起きてた?」
「起きてる。どうしたの」
お姉ちゃんは私のベッドの端に腰を下ろした。その横で、枕カバーの縫い目が外を向いている。
「ねえ。……鷹野くんってさ、私のこと好きだと思う?」
カーディガンの裾が、お姉ちゃんの人差し指に二重、三重と巻きついていく。
あの男が高校を出たあと、何になって、何をするのか。私は知っている。
前の私は、ここで全部しゃべった。顔だけの男だよ、やめときなよ、と。
お姉ちゃんは笑って、花乃は私が羨ましいんだね、と言った。
今回は、うなずく。
「好きでしょ。どう見ても」
「……そう思う?」
「噂だって、お姉ちゃんと鷹野くんの組み合わせばっかりじゃん。ほかの子の名前、一回も出てこないでしょ」
「それは、そうだけど」
「今日だって、背中で受けたんだよ。あれ、本気で痛いやつ。命懸けじゃん」
「命懸けって。大げさ」
お姉ちゃんの耳が、湿布の白さの横で赤くなった。巻きつけていた裾が、指からほどける。
「でも、助けてくれたのは、ほんとだよね」
「うん。ほんと」
「あのリリって子、鷹野くんの知り合いなのかな。名前、呼んでたし」
「さあ。学校違うし」
「……ま、いっか。庇ってくれたんだし」
お姉ちゃんは湿布の端を指でなぞった。
「私ね、ちょっと思ってたんだ。ああいう、誰にも媚びない感じの人がさ、私にだけは優しいの。そういうの、いいなって」
「へえ」
「花乃には、わかんないか」
わかる。前の人生で、その「私にだけ」の行き着く先まで見たから。
口には出さない。今夜の私の仕事は、相槌だけだ。
私は机のスタンドを消した。カーテンの隙間から、外灯の光が細く差しこんでくる。
お姉ちゃんは、まだベッドの端に座っていた。
「お姉ちゃん。青春って、一回しかないよ」
「……」
「したいこと、すればいいと思う」
しばらく、返事がない。冷蔵庫のモーターが、壁の向こうで低く鳴っている。
「そうだね」
「でもさ、青春って、顔がいい人にしかないんだよ。花乃にあるのは、思春期だけ」
衣ずれの音がして、お姉ちゃんが立ち上がった。
「ねえ。嫉妬してるでしょ、私に」
「うん、羨ましい」
小さく笑う声がして、ドアが閉まる。
*
一週間の休養が明けた9月12日、お姉ちゃんは学校に戻ってきた。
噂のほうは、もう別の話に押し出されかけている。
昼休みに3組の前を通ると、お姉ちゃんの机のまわりに人の輪ができていた。
「雪乃、おかえりー」
「ほっぺ、もう大丈夫なの?」
「うん、もう平気。心配かけてごめんね」
お姉ちゃんは、両手を胸の前で小さく振っていた。休養前と、同じ角度で。
その日、私は閉室の19時まで自習室にいた。昇降口に下りると、靴箱の前でお姉ちゃんが待っていた。
「一緒に帰ろ。お父さんが、そうしろって」
「うん」
「今日ね、みんなすごく優しかったの。……あと、鷹野くんと、廊下で目が合った」
「へえ。それで?」
「それだけ。それだけだよ」
それだけの話を、お姉ちゃんは校門を出てからも3回した。
商店街の裏を抜ける細い路地は、駅への近道だ。前の人生で、私が角材をつかんだ場所でもある。
自習室帰りの生徒が、ばらばらと同じ道を歩いている。
後ろで、アスファルトをこする靴底の音が増えた。
*
前に、二人。後ろに、一人。
お姉ちゃんが、私の背中に回りこんだ。
「あの……何か用ですか」
金髪が、街灯の輪の中に出てくる。手の甲で私の肩を押しのけて、お姉ちゃんの顔をのぞきこんだ。
「あんたが雪乃? 大した顔じゃねえな」
「なのにさあ、ずっと気ぃ持たせてんだろ。朔也に」
「わ、私、そんなつもりじゃ……」
「朔也、待たせすぎじゃね?」
路地の両側はシャッターの下りた店の裏口で、室外機が一台だけ回っている。生ぬるい風が、足首にまとわりついた。
金髪が振り返った先の暗がりから、鷹野が出てきた。
右手の中で、銀色のライターがくるくる回っている。火は、つけない。
「雪乃、初めてのキス、俺にくれたんだろ」
「学校じゅうでそう言われてて、一回も否定しなかったよな。雪乃」
お姉ちゃんの喉が、こくりと動く。
「それって、そういうことだろ。じゃ、付き合おう。大事にするって」
私のブラウスの背中をつかんでいた指が、少しずつほどけていく。
前の人生のこの路地で、彼の手はお姉ちゃんのスカートに伸びた。今夜、その手はライターを回している。
お姉ちゃんは、うつむいたまま小さくうなずいた。
口笛が鳴った。金髪が手を叩いて、もう一人が「マジかよ」と笑う。
「朔也、おめでとー」
「うわ、ほんとに落としたよ」
路地の入り口では、自習室帰りの生徒たちが足を止めていた。何人かのスマホが、明るい画面をこっちへ向けている。
鷹野がライターをポケットに落として、お姉ちゃんを腕の中に引き寄せた。
「大事にする。な」
「……うん」
お姉ちゃんの頬が、彼の制服の胸に押しつけられて、湿布の端がよれた。
二人とも、私がそこにいることを忘れたらしい。
*
取り巻きが散って、鷹野が「また明日な」と手を上げてから、もう10分歩いた。
お姉ちゃんは何度もスマホを見ては、画面を胸に伏せる。
「今日のこと、お父さんにもお母さんにも言わないで」
「言わないよ」
「ほんとに? 花乃、昔から告げ口するじゃない。ボールのときも、財布のときも」
私は返事の代わりに、マンションの手前の最後の角で腕時計を見た。
9月12日、19時52分。共通テストまで、あと123日。
お姉ちゃんが、そこで足を止めた。
「花乃」
街灯の下の顔から、さっきまでの赤みが抜けている。
「親に言ったら、殺すから」




