第三話 証人にはならない
お姉ちゃんの腕の中で、段ボール箱がかさりと鳴った。
「え……誰、ですか」
「知らない? じゃあ、なんで何も言わねえんだよ」
「学校中で言われてんの、知ってんだろ。朔也と林で、ってやつ」
「私、何もしてない」
お姉ちゃんは下唇を噛んで、一歩下がった。
「してないなら、なんで学校休んでんの。その箱、なに。逃げる準備?」
「これは、教材で……」
「黙ってんのは、認めてんのと一緒だろ。ぶってんじゃねえよ。あたしには通じねえから」
リリが踏み出す。スニーカーの底が側溝の格子に乗って、かん、と金属の音を立てた。
お姉ちゃんがもう一歩下がって、私の肩にぶつかる。
振り向いたその顔に、助かった、と書いてあった。
お姉ちゃんは段ボール箱ごと、私の背中に回りこんだ。両手が、私の肩甲骨をぐっと押す。
「妹が証人です。噂みたいなこと、私は何もしてないって。この子が全部知ってます」
前の私なら、ここで胸を張って一歩出た。
今の私は、腕を組む。
「証人って言われても。私、姉の一日をずっと見てるわけじゃないので」
「は?」
「でも、姉がしてないって言うなら、してないんだと思います。そういう人なので」
「殴り殺しても、姉は認めませんよ」
リリの眉が跳ね上がった。
肩甲骨を押していた指が、すっと離れる。
「なにそれ。ケンカ売ってんの、あんたら」
「売ってません。姉の性格の話です」
「あんたも大変だねえ。こんなのが身内で」
下校途中の生徒が、門の内側で足をゆるめはじめていた。誰かのスマホが、横向きに持ち上がる。
拳が、私の横をかすめた。
鈍い音。お姉ちゃんが頬を押さえて、段ボール箱を落とす。
プリントの束が、アスファルトに扇の形に散らばった。
お姉ちゃんが誰かに殴られるのは、たぶん生まれて初めてだ。
頬を押さえた手の下で、唇が震えている。目のふちに溜まった水が、こぼれる手前で止まっていた。
「ほら、言えよ。やってないって」
「……やって、ない」
リリが2発目を振りかぶった。
*
「やめろよ」
横から、影が割りこんだ。
鷹野朔也が、お姉ちゃんを胸に抱えこむ。リリの2発目は、彼の背中に落ちた。
制服の背中が、ばすん、と鳴る。
校門のまわりにいた生徒たちが、足を止めた。自転車を押していた男子が、スタンドを立てるのも忘れて口を開けている。
「え、鷹野じゃん」
「今の、背中で受けた? やば」
鷹野が、肩越しにリリを振り返った。
「リリ、女殴って楽しいか。帰れよ」
リリは舌打ちをして、ピンクの毛先を指に巻いた。
「……朔也に言われたら、しょうがないか」
彼女は振り返らずに歩いていった。ガムを噛む顎の動きは、来たときと同じ速さのままだ。
お姉ちゃんが、彼の胸から顔を上げる。殴られた頬より、反対側の頬のほうが赤い。
「大丈夫か、雪乃」
「……うん。ありがとう。でも、鷹野くん、背中……」
「平気。こんなの、なんでもねえよ」
彼は笑って、肩を回してみせた。リリの拳がどれくらいの重さで落ちてくるか、最初から知っている人の笑い方だった。
周りの全員が固まっているなかで、私の指先だけが冷えている。
この拳がどこに落ちるか、私は先に知っている。
*
前の人生の9月、私は校舎裏の林で、この二人を見た。
煙草の煙の向こうで、鷹野がリリに笑っていた。
「ちゃんと殴れよ。俺が助けたって、わかるくらい」
「聖女さまを引きずり下ろすのに、手間かけるねえ」
「悪い女は飽きたんだよ。たまには真面目なのがいい」
私は木の陰からスマホを向けて、二人を撮った。
その夜、写真をお姉ちゃんに見せた。画面を見終わったお姉ちゃんの手が、私の頬を張る。
「花乃、嬉しいんでしょ。私が殴られて、すっとしたんでしょ」
翌朝、お姉ちゃんは私のスマホを持って、両親の前に立った。
「花乃が、男の子をつけ回して隠し撮りしてるの。……この子、ほんとに極端なんだよ」
「男の子を隠し撮りなんて。お母さん、恥ずかしくて外を歩けない」
「花乃。お前はどこまで雪乃の足を引っぱれば気がすむんだ」
一晩じゅう正座。スマホは取り上げられて、戻ってこなかった。
*
散らばったプリントを、鷹野がしゃがんで拾い集めている。
お姉ちゃんはその背中を見下ろして、殴られた頬に指をあてていた。もう痛そうではない。
「家まで送る。荷物、俺が持つから」
「でも、花乃が……」
「いいだろ、別に。子どもじゃねえんだし」
お姉ちゃんは私をちらりと見て、すぐに彼の横顔へ目を戻した。それきり、二人とも私のほうを見ない。
「雪乃、荷物、これで全部か」
「うん。……ありがとう、ほんとに」
今回は、通りすがりの一人でいい。
父には一緒に帰れと言われている。私は鞄を肩にかけ直して、二人の横を抜けた。
側溝の格子を、今度は踏まずにまたぐ。
私には、これからがある。少なくとも、今日の分の過去問がある。
9月5日。共通テストまで、あと130日。
校舎に引き返して、3階の自習室のドアを開けた。
「閉めるの19時だからね。それまでに出てよ」
当番の先生が、名簿から顔を上げずに言う。時計の針は、まだ17時の少し手前だ。
鉛筆の音と、誰かのペットボトルのへこむ音。窓際の空いた席に座る。
前の9月の私は、この時間を全部、お姉ちゃんの噂に使った。誰が言ったか、誰が見たか、ノートに書き出して線でつないで。
今日のノートの最初のページには、漸化式が並んでいる。
数学の問題集を開いて、昨日の続きの大問3から、解きはじめた。




