第二話 お姉ちゃんの言うとおり
洗面所の鏡に、顔が二つ並ぶ。
右がお姉ちゃんで、左が私。同じ日に、数分違いで生まれた。
異卵双生児なので、顔は似ていない。お姉ちゃんは目尻が下がっていて、私のは上がっている。
誕生日は夏の前だから、9月の今は二人とも18歳だ。
「花乃、ドライヤー先に使っていい?」
「どうぞ」
「ありがと。花乃って、髪乾くの早くていいよね」
台所から母の声が飛んでくる。
「ゆっちゃん、今日お弁当いるのー?」
私の名前は、だいたい最後に呼ばれる。お姉ちゃんは「優しい子」で、私は「すぐカッとなる子」。
顔よりも、そっちのほうがずっと似ていない。
*
小学1年の夏、隣の家の男の子がボールを投げつけてきた。お姉ちゃんの頭で跳ねて、私の額に当たった。
「いいよ、わざとじゃないもん」
男の子はあっかんべーをして、私たちの足もとに唾を吐く。
「へっ、とろいんだよ。双子そろって」
私は飛びかかった。自分の膝をすりむいて、向こうの鼻から血を出させた。
その夜、正座させられたのは私だけ。
「花乃、すぐやり返すんだもん。わざとじゃなかったのに」
お姉ちゃんが泣きながら両親に話すのを、私は廊下の床の冷たさと一緒に聞いていた。
それからあの子は、私だけを狙うようになった。
財布のことは、小学4年の冬だ。
父の財布から、1万円札が一枚消えた。前の日、お姉ちゃんに頼まれて、私は両親の寝室へ彼女のカーディガンを取りに入っていた。
「どっちだ。正直に言え」
お姉ちゃんは父の前に膝をつき、ぽろぽろと涙をこぼす。
「私じゃない。昨日、お父さんたちの部屋には入ってないもん」
「花乃は入ったけど、私のカーディガンを取りに行っただけ。花乃じゃないよ、絶対」
「疑うなら私を叩いて。花乃は許してあげて。私が死んだら、角膜を売ってお金にしていいから」
私は立ち上がって、二人とも取ってない、と言いかけた。言い終わる前に、父の声がかぶさってきた。
「口答えだけは一人前だな」
「お姉ちゃんの爪の垢でも煎じて飲みなさい」
お金がどこへ行ったのかは、結局わからないままだ。
ただ、寝室へ行ってきてと言ったのが誰だったかは、覚えている。
火種はいつも、最後には私の手のひらに載っていた。お姉ちゃんは、その手を握って泣く係。
前の私は、その手の温かさを本気で信じていた。おめでたい頭だった。
*
噂は、3日目には2組の教室にも来ている。
9月3日の昼休み、辞書を返しに3組の前を通ると、お姉ちゃんの机を何人かが囲んでいた。
「雪乃、先生に言いなよ。あんなの放っといたら、どんどんひどくなるって」
「そうだよ。名誉毀損ってやつじゃないの、あれ」
「雪乃が言わないなら、うちらが言ってもいいよ?」
「ありがと。でも、何もしてないのに、説明する必要ある? 受験生なんだし、勉強しよ」
お姉ちゃんは教科書の角をそろえながら、笑っていた。
「雪乃って、ほんと大人だよね」
「えー、そんなことないよ。言い返すのが苦手なだけ」
辞書を返して、私は2組に戻った。誰にも、何も足さずに。
今回は、誰も鷹野の名前を知らない。レコーダーを持って渡り廊下を走る妹が、いないから。
お姉ちゃんが知っているのかどうかは、私にはわからない。知っていて、知らない顔をしているだけかもしれない。
噂は一周するあいだに太って、9月4日の朝には、お姉ちゃんが駅の裏で双子を産んだことになっていた。
双子なら、ここにいる。
その日の5時間目、お姉ちゃんは3組の担任に呼ばれた。戻ってきたとき、目のふちが赤かった。
学校からの提案は、しばらく自宅で、というもの。一週間の休養で、教材は届けるし連絡もつく、と。
両親は、その日のうちに受け入れた。
*
夕飯の席で、母が茶碗を置いた。
「花乃。どうして今回は、お姉ちゃんを庇わないの」
「いつもは、お姉ちゃんのことになるとすぐ飛んでいくくせに」
父は味噌汁をすすって、黙ってうなずいている。
「あなたは妹なんだから。お姉ちゃんを助けるのは当たり前でしょう」
「ゆっちゃんは優しすぎるのよ。だから、ああいうのに目をつけられるの」
母の肩の向こうに、壁のカレンダーが見えた。
9月4日。共通テストまで、あと131日。
「私も、お姉ちゃんはそんな人じゃないと思うよ」
母の口もとが、少しゆるんだ。
「でもね、お姉ちゃんが言ってたの。何もしてないのに説明しても意味ないって」
「噛まれても、噛み返さないんだって。言った人のほうが、そのうち恥をかくからって」
「お姉ちゃんがそう決めたなら、私が横から口を出すのは違うでしょ」
母は口を開けて、閉じた。
父の手が、茶碗の上で止まっている。
「……雪乃が、そう言ったのか」
「うん。お姉ちゃんの言うとおりだと思う」
父は鼻から長く息を吐いて、茶碗を持ち直した。
「花乃。明日は、雪乃と一緒に帰ってこい。一人で歩かせるな」
「うん」
お姉ちゃんは、部屋から出てこなかった。ドアの下から、ドライヤーの音だけが漏れてくる。
*
翌日の放課後、お姉ちゃんは教材を受け取りに学校へ来た。帰りは二人で、と母に言われている。
校門の脇の側溝には鉄の格子がはまっていて、その縁から細い草が伸びていた。
段ボール箱を抱えたお姉ちゃんが昇降口から出てくると、門柱の陰から誰かが一歩出た。
ピンクのメッシュを入れた髪に、うちのじゃない制服。ガムを噛む顎が、のろのろ動いている。
リリ。前の人生で、鷹野のそばにいつもいた子だ。
その目は、私を素通りして、お姉ちゃんの顔で止まった。
「朔也と噂になってんの、あんた?」




