第一話 箸は置かない
七味唐辛子の瓶が、トレーの右端にある。
赤いキャップの穴のまわりに、粉が少しこびりついていた。
稲瀬高校の食堂は、2学期の初日でも窓際から埋まる。うどんの湯気の向こうで、誰かがスプーンで皿の底を引っかいている。
背中のほうから、女子の声が降ってきた。
「ねえ、3組の白石雪乃って知ってる? 清楚ぶってるけどさ」
「5組の鷹野と、校舎裏の林でずっと一緒なんだって」
「堕ろしたって話もあるよ。しかも一回じゃないとか」
「でも雪乃って、成績いいじゃん」
「だから余計にさあ。えー、やばー」
箸の先から、うどんが一本すべり落ちた。つゆが跳ねて、ブラウスの袖口に茶色い点がつく。
この声を、私は知っている。言い回しも、笑うタイミングも、最後の「やばー」の伸ばし方まで。
手の甲をつねると、ちゃんと痛い。トレーの縁は冷たくて、うどんは熱い。
壁の時計は12時40分。今日は9月1日、始業式の日だ。
共通テストまで、あと134日。前の私は、その日を受けていない。
食堂の入り口に、黒いスーツの浜田先生が立っていた。トレーを両手で持ったまま、声のするテーブルへ一度だけ目を向ける。
白髪を一本の乱れもなくまとめた額の下で、眉と眉のあいだが寄った。
「しっ。浜田いる」
後ろの声が、そこで途切れる。先生はそのまま、定食の列に並んだ。
*
前の私は、ここで箸を置いた。
後ろのテーブルに回りこんで、3人の前に立つ。
「今の、誰から聞いたの」
3人は目を泳がせて、5組から回ってきた、と。
5組なら、鷹野朔也だ。
顔ひとつで学年の視線を半分持っていく男で、噂の相手役。振られた腹いせに流したんだと、私は決めつけた。
ICレコーダーをポケットに入れて、放課後の渡り廊下で彼をつかまえた。
「お前の姉ちゃんさ、ああいう顔してるやつほど、中身はわかんねえよ」
「お前ら姉妹、二人ともぶってんだよ」
赤い録音ランプが点いたままの、平手。
データは生徒指導部に渡した。関係した男子から話を聞いた学校は、鷹野たちを停学処分にした。
お姉ちゃんは、少しも喜ばない。
「ただの男の子の冗談でしょ。花乃、極端すぎるよ」
「叩いてから言わせたんでしょ? それ、拷問と同じじゃない」
両親は菓子折りを提げて、鷹野の家へ頭を下げに行った。
「向こうのお母さん、泣いてたのよ。息子の進路に響くって」
「花乃、お前は根に持ちすぎなんだ。少しは雪乃を見習え」
「でも、あっちが先に」
「先も後もあるか。人の顔を叩いて、録音を取って。普通の子はそんなことはしない」
父がそう言うあいだ、お姉ちゃんは私の隣で眉を下げていた。困った妹を持った姉の顔で。
*
10日後、商店街の脇の路地で、鷹野たちに囲まれた。
金髪が一人と、ほかに二人。お姉ちゃんは私の袖を引いて、小声で言った。
「ほら、だから言ったでしょ。あんたのせいだよ。この人たち、あんた目当てなんだから」
鷹野は私を肩で突き飛ばして、お姉ちゃんの前に立った。
「雪乃さあ。妹けしかけて俺をハメて、それで気引いてるつもり?」
お姉ちゃんの背中が、ブロック塀に当たる。その制服のスカートに、彼の手が伸びた。
私は立てかけてあった角材をつかんで、お姉ちゃんの背中を押した。
「先に行って。早く」
空いた手で110を押す。
翌朝には、路地で男子ともみ合う私の写真が、学校裏サイトに貼られていた。
私が複数の男と、という書き込みに、汚い、が何十も連なった。
【なんであいつだけ狙われんの 隙あるからでしょ】
あの路地にいたのは、お姉ちゃんだ。見たままを話してほしいと、私は頭を下げた。
「身の潔白って、自分で証明されるものでしょ。何もしてないなら、堂々としてればいいじゃない」
書き込みは増える一方で、止まらない。
11月の終わりに、私は校舎の屋上から落ちた。
*
そこから先は、切れ切れにしか残っていない。
テレビのマイクを向けられたお姉ちゃんが、目を伏せていた。
「もう亡くなった人のことなので。何が本当だったかなんて、今さら大事じゃないと思います」
別の日、知らない部屋で、彼女は鷹野の肩に頭をのせていた。
「花乃は昔から極端だったから。自業自得、なのかな」
死んだあとで知ったことがある。お姉ちゃんは、最初から鷹野が好きだった。
あの噂は、彼なりの合図。噛みついた私は、二人のゲームにちょうどいい駒だった。
*
うどんは、まだ湯気を立てている。
私は箸を持ち直して、麺をすすった。
後ろのテーブルでは、浜田先生が遠ざかったのを確かめてから、話が次の段に進んでいる。
「林ってさ、夜も行ってんのかな」
「行ってるでしょ。ああいう子ほどさあ」
箸は置かない。誰から聞いたのかも、今回は訊かない。
ICレコーダーは、そもそも今の私の机にはない。前の人生の持ち物は、何ひとつ持ってこられなかった。
「花乃ちゃん、顔色やばいよ」
隣の席の若菜が、カレーのスプーンを止めてこっちをのぞきこんだ。
岡田若菜、同じ2組で、教室でも席が隣。思ったことが3秒で口から出る子だ。
「後ろの、聞こえた? あれ、お姉さんのことでしょ」
「……うん」
「誰が言ってんの。あの3人?」
「たぶん、回ってきた話をしてるだけ」
「回ってきたって、元がいるじゃん。元が」
若菜はスプーンをカレーに突き立てた。
「あたし、言ってくる。こんなの放っとけないって!」
若菜が椅子を引いた。私はとっさに、彼女のブラウスの袖をつかんだ。
「いいよ。お姉ちゃん、何もしてないから。言われても平気だと思う」
「平気なわけないじゃん。あんなの言われて」
「平気だよ。そういう人だから」
「花乃ちゃんがそう言うなら、いいけどさ」
若菜は口をとがらせて、座り直した。スプーンの先で、カレーのじゃがいもを崩す。
「花乃ちゃんのお姉さんって、廊下で会うといつもにこにこしてるじゃん。ああいう人ほど、言い返さないんだよね」
私は麺をすすった。噛まずに、飲みこんだ。
「お姉さん、優しすぎるんだよ」




