第十七章 つながる海
記事が完成したのは、四月の中頃だった。
最終稿を送信した夜、小春はしばらくパソコンの画面を見ていた。送信ボタンを押した後の、何もなくなった感覚があった。あれだけあったものが、送った瞬間に手を離れる。その感覚は、何度経験しても慣れない。
でも今回は、送り終えた後に来るものが、いつもと少し違った。
空になった感じではなく、置いてきた感じだった。
原稿を置いてきた。自分が感じたことを、ちゃんと置いてきた。それが誰かのもとへ届くのを、今は待つだけだ。
お茶を入れて、窓際に座った。
置き時計が、十時四十一分を指していた。父の店の時計が、今夜も明石で動いている。
雑誌社の編集担当から返信が来たのは、三日後だった。
メールは長かった。
全体についての評価が先に来て、それから具体的な修正の提案が続いた。
評価の部分に、こう書いてあった。
観光記事として依頼したが、それを超えたものが届いた。双海と明石を旅したくなるだけでなく、読者が自分の持っている場所を思い出す記事になっている。こういう記事を作りたかった、という言葉が使えない場合もあるが、今回はそれが正直な感想だ。
修正の提案は、主に構成についてだった。
三部構成のうち、人の章をもう少し前に出してほしいという要望と、末尾にもう少し余韻を持たせてほしいという要望だった。内容の変更ではなく、順番と余白の問題だった。
小春は美緒にメールを転送した。
「読んでほしい」とだけ書いた。
美緒からすぐに返信が来た。
「読みました。やったじゃないですか」
「修正がある」
「修正は直せます。評価の部分が大事」
「そうだね」
「これ、いい記事になりましたよ。本当に」
修正作業は、一週間かけてやった。
人の章を前に出すことで、構成が変わった。変わったことで、逆にうまくいった部分もあった。颯太の話が早い段階で来ることで、その後の夕日の場面の意味が変わった。美緒が最初に指摘していたことと、同じ方向の修正だった。
末尾の余韻については、一度書いてみて、書きすぎた。削って、また書いて、やっと落ち着いた。
最終稿を再送したのは、四月の終わりだった。
編集担当から「これで進めます」と返信が来た。
その夜、小春は蒼に電話した。
「記事、できた」
「そうか。いつ出るの?」
「来月の半ば。ウェブが先で、紙は再来月」
「送ってくれる? ウェブの方」
「送る」
「颯太くんの話、入ってるんやろ?」
「入ってる。写真も使ってもらえることになって」
「颯太くんの写真?」
「颯太くんが撮った写真。田島さんのカメラマン写真と、颯太くんのフィルム写真を混ぜて使う形になった」
「それは面白い。颯太くん、喜ぶやろ」
「もう伝えた。本人はあまり表情を変えなかったけど、少しだけ嬉しそうだった」
「あの子はそういう子やけんね」
「蒼の話も入ってる。名前は出ないけど」
「それでいい。名前は要らん」
「読んでみたら、何か言って」
「言う。楽しみにしとる」
あれからしばらくして、颯太は何度か写真の学校の資料を取り寄せたらしかった。
蒼からも、最近あの子、よく大阪の話をしてるよと聞いていた。
記事が公開されたのは、五月の半ばだった。
ウェブに記事が上がった朝、小春は出勤前に一度だけ画面を開いた。
自分が書いた文章が、完成した形で誰かに読まれている。写真と文章が組み合わさって、一つの記事になっている。それを確かめて、画面を閉じた。
何度も読み返すつもりはなかった。送り出したものは、もう自分の手を離れている。
その日の仕事は、別の案件が入っていて、記事のことを考える時間はあまりなかった。美緒と午前中に打ち合わせがあって、午後は別のクライアントの広報物の校正があった。
打ち合わせのあと、美緒がコーヒーを片手に言った。
「私は今でも、最初の企画が間違ってたとは思ってないです。でも、それだけじゃ足りなかったのは分かりました」
そう言う声に、無理に合わせた感じはなかった。公開された記事に、美緒も確かな手応えを感じているようだった。
夕方、スマートフォンに通知がいくつか来ていた。
SNSで記事が共有されていた。知らない人が、知らない人に向けて、この記事を送っていた。感想が短いコメントとして添えてある。
いくつか読んだ。
故郷のことを思い出した、という人がいた。親に電話した、という人がいた。久しぶりに帰省しようと思った、という人がいた。下灘に行ったことがあって、この記事を読んで、行ったときとは違う景色が見えた気がした、という人がいた。
小春はそれを読んで、田中が言っていた言葉を思い出した。
読んだ後で、電話したくなる記事は、いい記事だと思います。
親に電話した、と書いた人がいた。
それで十分だと思った。大きな反響でなくていい。誰か一人が、記事を読んで誰かに電話したなら。
その夜、母から電話が来た。
「読んだ」
「どうだった?」
「泣いた」
「どこで?」
「お父さんが翌朝、厨房に向かいかけたところ」
「お父さんには伝えてから書いた」
「知っとる。お父さんも読んだよ」
「お父さんが?」
「そう。私が読んで聞かせた。スマートフォン、お父さんはあんまり使えんけんね」
小春は少し笑った。
「どんな顔して聞いてた?」
「無表情。ほなけど最後まで聞いとった。途中でどこかに行くかと思ったけど、最後まで座っとった。最後に一言だけ言いよった」
「何て?」
母が少し間を置いた。
「ちゃんと書いてくれた、って」
小春は電話を持ったまま、しばらく何も言えなかった。
ちゃんと書いてくれた。
父が言う「ちゃんと」の重さを、小春は知っていた。父は言葉を選ぶ人だ。余分なことを言わない人が、「ちゃんと」と言ったのは、ちゃんと伝わったということだ。
「ありがとう」
小春は母に言ったのか、父に言ったのか、自分でも分からなかった。
「小春」
「うん」
「また帰ってきてね」
「帰る」
「約束やけんね」
「約束」
数日後、颯太からメッセージが来た。
短かった。
『記事、読みました。フィルムの写真が使われてるのを見て、少しだけ実感が来ました。ありがとうございました』
小春は返信した。
「こちらこそ、ありがとう。あの朝、ホームに来てくれなかったら、この記事は変わってた」
しばらくして返信が来た。
『来年、写真の学校に行くことにしました。大阪の専門学校です』
小春はそれを読んで、少しの間画面を見ていた。
大阪。ここではないどこか。颯太がそこへ行く。
「よかった」と返信した。
「出る前に、もう一度下灘の朝を撮りに行きます。フィルムで」
「うまく撮れるといいね」
「撮れると思います。なんか、感覚的に」
小春はその言葉を読んで笑った。撮った瞬間に、これだと思うときがある、と言っていた颯太の声が聞こえた気がした。
田中に記事の感想を聞いたのは、週末に天文科学館を訪ねたときだった。
企画展の広報協力の打ち合わせが名目だったが、草稿を読んでもらったお礼も言いたかった。
展示室の小さなテーブルに向かい合って座った。
「読みました。草稿の段階より、完成稿の方がよかった」
「どこが変わった?」
「流れが、よりなめらかになっていた。草稿のとき、人の章が最後にあって、少し唐突な印象があった。前に出てきたことで、全体がつながった」
「編集担当の指摘と、あなたが指摘していたことが、同じ方向だった」
「そうですか」
田中は少し頷いた。
「一番印象に残ったのは、やはり体が覚えていた時間の話でした。あれは、時間についての正確な詩だと思います」
「正確な詩、という言い方が面白いですね」
「科学的に正確で、かつ詩的な文章というのは、稀だと思っています。渡部さんはそれを書ける人だと、この記事で分かりました」
「買いかぶりです」
「そうは思いません。次は何を書くつもりですか」
小春は少し驚いた。
「次のことは、まだ」
「この企画展の広報文章を、書いてもらえますか」
「それは仕事として」
「仕事として、はい。でもお願いしたいのは、正確な詩を書ける人として。天文科学館の展示の説明文も、情報として正確なことは書けますが、詩として正確に書ける人は、そう多くないので」
小春はしばらく考えた。
「やってみます」
「ありがとうございます」
打ち合わせが終わって、席を立つ前に、田中が言った。
「記事、よかったです。何度も読みました」
「何度も?」
「三回読みました。読むたびに、別の場面が届いてきた」
「どんな場面が?」
「一回目は、お父さんの話。二回目は、颯太くんの話。三回目は」
田中は少し間を置いた。
「渡部さん自身の話が、届いてきました」
小春はそれを聞いて、何も言わなかった。
「書いている人の話が、三回目に来る記事は、いい記事だと思います。一回目は場所の話として読めて、二回目は人の話として読めて、三回目に初めて、書いた人のことが見える。それは、書きすぎていない証拠でもある」
「書きすぎていない」
「最初から書いた人が前に出てくる文章は、読者が入れない。でも、何度か読んでいると見えてくる書き方は、読者が自分の話として読んだ後に、書いた人の話として受け取れる。その順番が、この記事はうまくいっていた」
小春はそれを聞きながら、今度は美緒に田中の言葉を伝えようと思った。美緒が言っていた、個人的なことが普遍的なことになっていた、という感想と、同じことを別の角度から言っているからだ。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
帰り道、小春は海沿いを少し遠回りして歩いた。
五月の夕方の明石の海は、光が金色だった。春より少し強い光が、水面を照らしていた。
歩きながら、颯太のことを考えた。
来年、大阪へ行く。出る前に、もう一度下灘の朝を撮りに行く。フィルムで、ちゃんと撮れると思っている。
出ていっても、持ち続ければいい。あの子はそれを、言葉より先に体で知っていた。
蒼のことを考えた。
残った側の現実の中で、諦めたら誰がやるんという問いを持ちながら、続けている。その続けることの中に、残した人の時間がある。
父のことを考えた。
店がなくなった翌朝、いつもの時間に厨房に向かいかけた体が、三十年の時間を持っていた。
田中のことを考えた。
奈良の父の大きな荒れた手を、帰るたびに確かめる人が、明石の時間を毎日刻んでいる。
美緒のことを考えた。
伝わる見せ方を先に考えていた人が、中身から考えることに変わった。その変化を、正直に言える人だった。
みんなが、それぞれの場所にいる。
同じ時刻に、それぞれの光の中に。
小春は歩きながら、空を見た。
西の方に、雲が橙に染まっていた。今夜の夕日が、どこかで終わっていく。明石より少し遅く、下灘でも終わっていく。
颯太が今日も、あのホームにいるかもしれない。あるいは、もう帰路についているかもしれない。でも今日も、下灘の夕日は終わっていく。
同じ時刻に、あなたの光がある。
記事の核にした言葉が、今夜の空の下で、また正確になった。
小春は歩き続けた。
アパートへの道を、海を見ながら歩いた。
明石の夕方の光の中を、歩いていた。




