第十六章 言葉にする責任
四月になった。
明石の桜が咲いて、小春は今年初めて、立ち止まってそれを見た。去年も、一昨年も、桜が咲いていたことは知っていた。でも立ち止まって見たかどうかは、覚えていない。今年は覚えることになる、と思いながら見た。
記事の草稿が、ほぼできていた。
全体で二万五千字を超えていた。一年かけて集めたものを入れ込めば、それくらいにはなった。
明石の章、双海の章、人の章の三部構成で、それぞれが独立して読めるが、読み通すと一つの話になるように組んだ。
美緒に草稿を送ったのは、月曜日の朝だった。
「時間があるときに読んでほしい。急がなくていいから」と一言添えた。
美緒から返信が来たのは、その日の夜だった。
「読みました。話せますか、明日」
翌日の昼休み、二人でオフィスの近くの公園へ出た。
ベンチに並んで座った。弁当を持ってきていたが、食べる前に美緒が話し始めた。
「読んで、最初に思ったのは、これは私が作りたかったものと、少し違う、ということで。正直に言うと、これだと読者に届く入口が弱いと思いました。いい文章です。でも企画としては、少し抽象的すぎるかもしれない」
小春は美緒を見た。
「否定じゃないです。私が最初に考えていた企画と、違う方向に進んでいる、という意味で。でも違う方が、いいと思った」
「どう違う?」
「私が考えていたのは、下灘とふたみシーサイド公園の夕日の写真があって、標準時の話があって、観光名所案内やグルメ情報も満載で瀬戸内を旅したくなる記事だった。それはそれで正しい記事なんですよ。でも小春さんが書いたのは、旅したくなる記事じゃなかった」
「旅したくならない?」
「なるかもしれないけど、それが目的じゃない記事だった。読んでいると、旅したくなるより先に、自分のことを考えてしまった。自分が持っている場所のことを」
小春は黙って聞いていた。
「それが、さっき言った『違う』の意味で。私が作りたかったものより、もっと広いものになってた」
「広い、というのは?」
「読者が、自分の話として読める記事になってる。双海を知らない人でも、明石に行ったことがない人でも、自分の帰る場所のことを考えながら読める。そういう記事だと思った」
小春は少しの間、公園の木を見ていた。
「それは、意図していたことで。双海の夕日を伝えたかったんじゃなくて、その場所を持っている人の話を書きたかったから」
「分かった」
美緒は頷いた。
「読んで、分かった。でも一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「お父さんの店のこと、かなり書いてるけど、それは意図的なんですか」
「意図的」
「個人的な話が、かなり入ってる。取材記事として、どこまで書くかを迷わなかったですか」
小春はそれを聞いて、少し考えた。迷わなかったかどうか。
「迷った」と正直に言った。
「でも、入れないと嘘になる気がして」
「嘘になる?」
「この記事のテーマが、その場所を持っている人の話なら、書いている私自身もその場所を持っている人間で。それを隠して書くと、どこか遠い話になる気がした。私が当事者であることを、隠さない方が正直だと思って」
美緒はそれを聞いて、少しの間黙っていた。
「分かった。その判断は正しいと思う」
「そう思う?」
「書いている人がどこに立っているかが、読者に伝わる記事は強い。ライターが透明になりすぎると、どこか薄くなる。小春さんの記事は、ちゃんと小春さんがいる」
「でも、個人的すぎるという判断もできる」
「できます。私も最初、そう思った。でも読み終えたら、個人的なことが、普遍的なことになってた。自分の父親の話が、誰かの父親の話になってた。それは、書き方がそうさせてると思う」
「……」
小春はベンチから立ち上がって、少し歩いた。それからまた戻って、座った。
「一つ、変えてほしいところがあって」
「どこ?」
「明石の章の最初のところ。標準時の説明が、少し説明的すぎる気がして。読者が一番最初に受け取る部分だから、もう少しやわらかく入れないかと思って」
「どんなふうに?」
「説明より、場面から入った方がいい。今は標準時とは何かという説明が先に来て、場面が後になってる。それを逆にした方が読みやすいと思う」
「確かに。書いているときも、そこが迷ってた」
「あとは」
美緒はメモを見た。
「双海の章の、颯太くんが下灘駅で列車に乗るシーン。あそこが一番好きだった」
「あそこは、書いていてはっきりした場面だった」
「あそこを読んで、この記事の方向が決まった気がした。朝の下灘を、地元の高校生が毎日使っているということが、一行で分かる。それが全部変えてた」
「あの場面があって、その後の夕日の話が変わってくる」
「そう。夕日だけの場所じゃないことが、最初に分かってから夕日を見るから、夕日の意味が変わる。構成の勝ちだと思う」
「構成は、書きながら変えた。最初は時系列で書こうとしてたんだけど、うまくいかなくて」
「今の構成の方がいい。時系列じゃなくて、テーマで動いている」
小春は画面の中の原稿を見た。
最初に書こうとしていた記事は、明石の標準時から始まり、海を越えて双海の夕日にたどり着く構成だった。きれいではあったと思う。写真も映えるし、説明もしやすい。
けれど、それでは夕日はただの終点になってしまう。
小春が書きたかったのは、そこへ向かうための観光ルートではなかった。朝、列車に乗る颯太がいて、昼に店を開ける父がいて、夕方に海を見に来る人がいる。その一日の中に、夕日がある。
明石の標準時が、全国の時刻をひとつに揃えるものなら、双海の夕日は、その場所で暮らす人の一日が終わっていく時間だった。
だから、夕日を最後に置いた。
観光地として見せるためではなく、そこまで続いてきた時間を見せるために。
その日の午後、宮田さんに草稿を見せた。
宮田さんは読むのが速かった。十五分ほどで読み終えた。
「いい記事だ」と言った。
それだけだった。宮田さんの「いい記事だ」は、多くを語らないが、軽くもない。
「一点だけ」
宮田さんは続けた。
「個人的な内容が多いが、それを出した理由は何だ」
小春は美緒に言ったことと同じことを言った。隠すと嘘になる、当事者であることを隠さない方が正直、という話。
宮田さんは少し考えた。
「雑誌社には確認が必要だ。個人的な内容をここまで入れることについて、編集方針と合うかどうかを確かめる」
「分かりました」
「ただ、私はいいと思う。記事に人がいる。最近、それがない記事が多い。情報はあるが、人がいない。この記事は、人がいる」
宮田さんは、草稿の一ページ目に目を落とした。
「夕日を最後に置いたのがいい。そこまでに人の時間を読ませている」
「ありがとうございます」
小春は、あの会議で言われたことを思い出した。
なら、それを記事で証明してくれ。
答えになっているのかどうかは、まだ分からない。けれど少なくとも、逃げずに書いたつもりだった。
「田中さんへの事実確認は済んでいるか」
「今週末に確認してもらう予定です」
「進めろ」
それで終わった。
週末、小春は天文科学館を訪ねた。
田中は展示室の小さな机に草稿を広げて、丁寧に読んでいた。
小春は隣に座って、田中が読む間を待った。
展示室の中は静かだった。平日より来館者が多かったが、この場所の静けさは変わらない。
田中は二十分ほどかけて読んだ。
読み終えて、少し間を置いた。それから、草稿の一部分を指した。
「ここの、標準時が制定された経緯の部分、一か所だけ年号が違います」
「どこですか」
「明治十九年ではなく、明治二十一年が正確です」
「確認不足でした。直します」
「それ以外は、事実として正確です。一点だけ補足させてください。本文の中で、標準時は時刻を揃えたが光は揃えられなかった、と書いてありますが、これは私が以前話したことと同じ方向ですが、少し角度が違って面白いと思いました」
「角度が違う?」
「私が話したのは、地方固有の時間が失われたという方向でした。でも渡部さんは、揃えられなかったものが残っているという方向で書いている」
小春は少し考えた。
「同じことを、逆から見た、ということですか?」
「そうだと思います。私の言い方は、失われたものへの視点。渡部さんの書き方は、残っているものへの視点。どちらが正しいというわけではなく、この記事には、残っているものへの視点が合っていると思います」
「なぜですか」
「読んでいて、記事全体が、残っているものの話だから。お父さんの店がなくなっても、記憶は残る。場所を離れても、光は残る。そういう話が通底していて、だから光が揃えられなかった、という言い方の方が、この記事の文脈に合っている」
小春はそれを聞いて、自分が書いた記事の骨格を、改めて外から見た気がした。
「ありがとうございます」
「読んでいて、一番印象に残った一文がありました」
「どこですか」
「お父さんが、翌朝、いつもの時間に起きて、厨房に向かいかけて、また戻ったという場面の後に書いてあった一文です」
田中は草稿の該当箇所を指した。
小春が書いた一文だった。
体が先に覚えていた時間は、店がなくなった後も、その人の中にある。
「この一文が、記事全体の主題だと思いました。場所はなくなっても、時間は残る。それが、この記事が言いたいことだと」
小春はその指摘を受け取った。
場所はなくなっても、時間は残る。
自分で書いた言葉なのに、他者の口から返ってくると、初めてちゃんと分かる気がした。
「田中さん」
小春は呼びかけた。
「はい」
「この記事を読んで、どう思いましたか。感想を聞いてもいいですか?」
田中は少し間を置いた。
「個人的な感想でいいですか」
「はい」
「読んで、奈良に電話したくなりました」
「お父さんに?」
「はい」
小春は少し笑った。
「かけましたか?」
「かけました。昨夜」
「何を話したんですか」
「大したことは話していないです」
田中は付け加えた。
「仕事のことと、天気のことと。でも、声を聞きたかった」
「それで十分だと思います」
「そうですね。読んだ後で、電話したくなる記事は、いい記事だと思います」
小春は草稿を受け取った。
年号の修正と、明石の章の冒頭の直しを、今夜やる。美緒の指摘した場面の入れ替えも、もう一度試してみる。
完成まで、あと少しだと思った。
帰り道、小春は天文科学館の前に少し立ち止まった。
時計塔の文字盤が、夕方の光を受けていた。四時五十三分だった。
この建物の前を、明石に来てから何度通ったか。取材で来るまで、入ったことは一度しかなかった。入ったことがあったのに、その先を見ようとしていなかった。
見ようとすると、見えてくるものがある。
田中が言っていた。見る側の状態が違えば、見えるものが変わる、と。
今の自分の状態は、明石に来た八年前と違う。愛媛と明石を、対立させずに持てるようになった。仕事として書くことと、個人として感じることを、分けずに書けるようになった。
だから、見えるものが変わった。
海が見えた。町が見えた。父の背中が見えた。颯太の横顔が見えた。蒼が残した言葉が聞こえた。
小春は歩き始めた。
駅への道を歩きながら、頭の中で記事の冒頭を作っていた。美緒の指摘通り、説明より場面から入る。どんな場面か。
明石の朝の海。
信号待ちで見える海。毎朝通り過ぎていた海。今年初めて、立ち止まって見た海。そこから始めよう。
場所の説明より先に、その場所に立っている人間の話をしよう。時刻より先に、光の話をしよう。
標準時の説明は、その後でいい。
人丸前駅の改札を通りながら、小春はメモ帳に一行書いた。
明石の朝は、海から始まる。
それが冒頭の一文になるかどうかは、書いてみるまで分からない。でも今夜、試してみる。
ホームで電車を待ちながら、小春は向こうのホームを見た。
誰かが電車を待っていた。知らない人が、知らない場所へ向かうために、今ここにいる。
同じホームで、同じ電車を待ちながら、それぞれの場所へ帰っていく。
それが、時間の話の一つだと思った。
標準時が揃えた時刻の中で、それぞれの場所へ向かっている。同じ時刻に、あなたの光がある。
電車が来た。
小春は乗り込んで、窓際の席に座った。
今夜、書く。
書き直す部分と、付け足す部分と、削る部分がある。でも方向は見えている。向かう先が分かっているから、書ける。
電車が動き始めた。
明石の夕方の街が、窓の外を流れていく。
この街が、今の自分の場所だ。八年間、ここにいた。これからも、ここにいる。
そしてそれは、愛媛を手放すことではない。
両方持ちながら、今日も帰る。
電車の窓から、海が見えた。
夕方の海は、光を横から受けて、金色に近い色をしていた。
明石の夕方の光が、水面に散っていた。




