第十五章 標準時の街へ戻る
明石に戻ったのは、夜の八時過ぎだった。
アパートの鍵を開けて、荷物を置いた。鞄の中から、布に包んだ置き時計を取り出して、テーブルの上に置いた。包みを解くと、文字盤が黄ばんだ、父の店の時計が出てきた。
八時十七分を指していた。
正確な時刻だった。長旅をしてきた時計が、それでも正確な時刻を刻んでいた。小春はしばらくその時計を見た。
どこに置こうか、と思った。
テーブルの上では、食事のたびに邪魔になる。棚の上では、見えにくい。窓際はどうか。朝の光が当たって、文字盤が金色に見えるかもしれない。
窓際に置いた。
明石の夜景が、窓の外にあった。置き時計と、夜景が、同じ視界に入った。
これでいい、と思った。
翌朝、目が覚めたとき、最初に時計を確認した。
置き時計が、六時二十二分を指していた。
スマートフォンを見ると、六時二十二分だった。一致していた。父の店で三十年刻んできた時計が、明石の部屋でも正確に動いていた。
当たり前のことだが、少し不思議な感じがした。
同じ時刻を、別の場所で刻んでいる。愛媛でも、明石でも、この時計は同じ速さで動く。時刻は揃っている。でも、この時計が見てきた時間は、この部屋には来ていない。
置き時計を見ながら、小春はしばらく布団の中にいた。
昨日までのことを、順番に思い出していた。父の店の最後の灯り、颯太との朝のホーム、海沿いの道で速度を落とした瞬間、松山から瀬戸大橋を渡った時間。
全部が、昨日のことのように鮮明だった。
でも今日から、また明石の日常が始まる。
その日常が、以前と同じ日常ではないことを、小春は起き上がる前から感じていた。
通勤の道を歩きながら、小春はいつもと違うことに気がついた。
海が、見えた。
毎朝通る道で、海が見える場所がある。いつもはそこを通り過ぎていた。海があることは知っていたが、見ていなかった。今朝は、立ち止まった。
三月の終わりの明石の海は、光が低くて、水面が細かく輝いていた。
昨日の下灘の海と、同じ海だった。海峡を渡って、続いている、同じ瀬戸内海だった。
小春はしばらくそれを見た。
信号が変わった。また歩き始めた。でも今朝は、海を見た事実が通勤の記憶に残った。
いつもは残らなかったものが、残った。
それが、戻ってきた自分の変化だった。
オフィスに着くと、美緒がいた。
「おかえりなさい。お父さんの最終日、どうでしたか」
「静かだった。でも、静かなことが全部だった気がする」
美緒は少し考えてから、言った。
「それが一番いいのかもしれないですね。大げさじゃない終わりが」
「そう思う」
「記事の方、進めましょう。小春さん、書ける気がしますよ、今なら」
「書けると思う」
美緒が少し笑った。
「その言い方、変わりましたね」
「どう変わった?」
「前は『書けるかどうか分からない』って言ってたから」
小春は思い当たった。確かに、そう言っていた。取材の最初の頃、書けるかどうか分からない、と何度も言っていた。今は、書けると思う、と言えた。それだけのことだが、小さな差ではなかった。
「書きたいことが、はっきりしてきた」
「聞かせてもらえますか」
小春はメモ帳を取り出した。下灘駅のホームで書いた一文を、美緒に見せた。
同じ時刻に、あなたの光がある。
美緒はそれを読んで、少しの間、黙っていた。
「これ、タイトルになりますか」
「本文の核にしたい。タイトルは別で考えてて」
「何を考えてるんですか」
「仮タイトルのままでいいかもしれない、と思ってて」
「夕日の町と、標準時の街、ですか」
「うん。長いけど、それがいちばん正直な気がして」
「正直な、という感覚が大事ですよね。伝わる言葉より、正直な言葉の方が、最終的には伝わると思うようになってきた」
「私もそう思う」
「この企画、いい記事になる」
美緒ははっきりと言った。予測や期待ではなく、確信として。
午後、小春は天文科学館に電話した。
企画展の広報協力について、正式に話を進める段取りをするためだった。受付に繋いでもらって、田中に代わってもらった。
「戻られましたか」
「昨夜戻りました」
「お父さんの最終日、どうでしたか」
「あなたにも話していたんでしたっけ」
「少し」
「静かな日でした。特別なことは何もなかったんですけど、特別な日だった」
「それは、いい最終日だと思います」
「そう思います」
「記事は、進みそうですか」
「進みます。今週から書き始めます」
「そうですか」
田中は少し間を置いた。
「楽しみにしています」
「あなたに読んでもらえると、少し緊張しますね」
「なぜですか」
「標準時の話について書くから。間違ったことを書いたら、すぐに分かるから」
「間違ったことを書いたとしても、事実の間違いと、感じ方の間違いは別です。事実の間違いは直せますが、感じ方に間違いはないので」
「感じ方に間違いはない」
「あなたが感じたことを書けば、それは正確な記事です。事実確認は私が手伝えます」
小春は少し笑った。
「ありがとうございます」
「企画展の件、詳しい話は別途改めて」
「はい。それと、一つお願いがあって」
「何でしょう」
「記事ができたら、最初に読んでもらえますか。出版される前に」
少し間があった。
「喜んで」
その週から、小春は書き始めた。
夜、帰ってから書く時間を作った。パソコンを開いて、一年がかりの取材ノートを広げて、書いた。最初はうまくいかなかった。言葉が散らばって、順番が決まらなかった。でも書くことをやめなかった。
書くことと、考えることは同時に進む。
書いている間に、自分が何を伝えたいのかが分かってくる。伝えたいことが分かってから書くのではなく、書きながら分かっていく。そういう順番だと、小春は書くたびに思う。
月曜日の夜は、明石の章を書いた。
標準時の街の話。田中との対話。子午線の展示の前に立ったこと。同じ空を見ている、という言葉。明石の朝の光のこと。
火曜日の夜は、双海の章を書いた。
颯太が朝のホームから乗る列車のこと。夕日が来ない日の駅のこと。七年間同じ場所で写真を撮り続ける人のこと。蒼が言った、ここでしかできないことをしとる、という言葉。
水曜日の夜は、父の店のことを書いた。
常連の好みを全部覚えている父のこと。三十年、毎朝だし巻きを巻いてきたこと。続けてきたことが全部その人の中にある、という颯太の言葉。最後の日、灯りが消えたこと。
書いていると、泣きたくなる場面があった。
泣かなかったが、泣きたくなった。それでいいと思った。書いている自分が揺れないと、読んでいる人にも届かない。書くことは、自分がそこに行くことでもある。
木曜日の夜、書いていると電話が来た。
母からだった。
「記事、書いてる?」
「書いてる。今日も書いてた」
「そっか。お父さん、今日どうしてたと思う?」
「どうしてたの?」
「朝起きて、いつもの時間に起きて、厨房に向かいかけて」
母は少し笑った。
「向かいかけて、あ、もう店ないんやと気づいて、戻ってきて。また寝たんよ」
小春も少し笑った。
「それは」
「可笑しいやろ。お父さんも自分で笑っとったけど」
「体が覚えてたんだね、仕込みの時間を」
「そうやろね。三十年の習慣やけん、体の方が先に動いたんやろ」
小春はそれを聞いて、記事のことを思った。書き留めるべきことだと思った。
「それ、書いてもいい?」
「記事に?」
「うん。お父さんには確認するけど」
「書いていいと思う。お父さんも、別に隠したいわけじゃないやろから」
「お父さんに聞いてみる」
「そうして」
母は少し間を置いた。
「記事、楽しみにしとる」
「楽しみにしてくれてると、書けるよ」
「そう? ならもっと言わないと」
母の声が、電話の向こうで笑っていた。
金曜日の夜、小春は書いた原稿を通して読んだ。
まだ完成ではなかった。欠けている場面があって、つながりが弱い部分があって、言葉を変えたい箇所があった。でも、骨格はできていた。
明石から始まって、双海へ行って、また明石へ戻る構造。
時間の街と、夕日の町が、海でつながっている話。
そこで暮らしてきた人の、記録されない時間のこと。
読み終えて、小春は窓の外を見た。
明石の夜の海が、遠くに光っていた。窓際の置き時計が、十一時四分を指していた。
この時計が、今この部屋にある。父の店が閉まって、置き時計だけがここにある。でも時計は今も動いている。止まっていない。
時間は進む。
でも戻って確かめることもできる。
田中が言っていた。進むだけじゃなく、戻って確かめるためにも時間はある、と。記事を書くことは、そういうことだと今の小春は思った。取材した時間に戻って、感じたことを確かめて、今の言葉にする。
小春はパソコンを閉じた。
明日、田中に連絡して、事実確認を頼む。来週、美緒に草稿を見せる。それから、もう一度書き直す。
何度か往復して、記事になる。
それでいいと思った。
急がない。でも止まらない。
窓の外の海を、もう一度見た。
明石の夜の海は、きれいだった。きれいすぎてよそよそしい、とかつては思っていた海が、今夜は違って見えた。
よそよそしくなかった。
この街の海だった。今の自分が暮らしている街の、夜の海だった。
八年間、ここにいた。その八年間が、今夜の海の見え方に入っている。愛媛からの時間も、入っている。どちらも、今の自分を作っている。
小春は立ち上がって、台所へ行った。
お茶を入れた。濃くはないが、温かいお茶を入れた。
お茶を持って、窓際に戻った。置き時計の横に座って、海を見ながらお茶を飲んだ。
母が入れるお茶は濃い。自分が入れるお茶は薄い。それがいつか、少し濃くなるかもしれないし、ならないかもしれない。
でも今夜のお茶は、今夜の自分が入れた温かさで、それでよかった。
明日も、書く。




