第十四章 夕日の駅で
翌朝、小春は一人で下灘へ行った。
明石へ戻る前に、もう一度だけ行っておきたかった。理由を言葉にしようとすると、うまくいかない。ただ、行かなければならない気がした。昨夜の店の灯りが消えた後の、あの静けさを持ったまま、もう一度あの場所に立ちたかった。
朝七時に駐車場に着いた。
平日の朝で、観光客はほとんどいなかった。駐車場には車が二台あるだけで、ホームに上がると誰もいなかった。風が来た。三月の海沿いの風は、まだ冷たかった。
海が静かだった。
波が小さく、光が水面を薄く照らしていた。朝の海の色は、夕方と全然違う。青でも灰色でもなく、光を含んだ白に近い色だった。颯太が好きだと言っていた時間が、これだと思った。
小春はホームの端に立って、海を見た。
昨日のことを考えていた。
父の背中、のれん、村上さんの手がカウンターに触れた瞬間、越智さんの「私の水曜日でしたから」という言葉、蒼の横顔、颯太のシャッター音、母が父の腕に触れたこと、灯りが消えたこと。
全部が昨日の中にあった。
どれも大きな出来事ではなかった。誰も派手に泣かなかったし、長い演説もなかった。ただ、静かに終わった。そういう終わり方が、あの店らしかったと思った。
足音がした。
ホームの階段を誰かが上がってくる音だった。
颯太だった。
制服を着ていた。通学途中だということは、列車の時間が近いということだ。
「来てたんですね」
颯太は驚いていなかった。
「来てしまった」
「昨日、来ると思ってました」
「なんで?」
颯太は少し考えてから、「こういう日の翌朝に、ここに来る感じがしたので」と言った。
その感じ、というのを、颯太はうまく説明できないが、でも確信を持って言っている。この場所を何百回も見てきた子が持つ、感覚のことだと思った。
二人でしばらく、海を見た。
「昨日の写真、現像したらすぐ送ります」
「楽しみにしてる」
「お父さん、すごい人ですね」
「そう思う?」
「ああいう人、初めて見た気がして。最後の日なのに、最後の日の顔をしていなかった」
小春は颯太を見た。
「最後の日の顔をしていなかった」
「普通、最後の日って、特別な顔になると思うんですよ。感慨深い顔とか、寂しい顔とか。でもおじさんは、いつもと同じ顔で仕事してて。それが、何かすごく、本物っていう感じがして」
本物。
高校生が選んだ言葉が、小春には正確に聞こえた。
「本物って、どういうことだと思う?」
颯太は少しの間、海を見ていた。
「続けてきたことが、全部その人の中にある感じですかね。特別にしなくても、すでに十分な人。そういう人が、本物だと思って」
続けてきたことが、全部その人の中にある。
小春は手帳を持っていなかった。でも忘れないと思った。
「颯太くん」
「はい」
「進路、決まった?」
颯太は少し間を置いた。
「まだ、完全には。でも、少し方向が見えてきた気がして」
「どんな方向?」
「写真を、ちゃんと勉強したくて。大学か専門かは分からないですけど。写真のことを、もっと知りたいと思っています」
「それのために、ここを出る?」
「出ることになると思います。でも前は、出ることがここを捨てることみたいに感じてたんですけど、今は少し違う気がして」
「どう違う?」
「出ていっても、ここを撮り続ければいい、と思って。場所を離れても、ここを見る目を持ち続ければいい。そういうことができる気がしてきた」
小春は颯太の言葉を聞いて、自分のことを思った。
出ていっても、持ち続ければいい。
自分が長年かけてようやく分かったことを、この子はすでに見つけようとしている。
「それでいいと思う」
「でも、ここを出た人に、ここをちゃんと撮れるかどうかは、分からないですけど」
「どういうこと?」
「離れることで、見えなくなるものもあると思って。毎日ここにいるから撮れるものが、遠くなったら撮れなくなるかもしれない」
「それは本当のことかもしれない。でも逆もある」
「逆?」
「離れることで、見えてくるものもある。私は出ていって、十年以上経って、初めてここの写真を一枚撮ったよ。それまで一度も撮ろうと思わなかった場所を、出ていって初めて撮れた」
颯太はそれを聞いて、少し考えた。
「どっちが正しいわけじゃないということですか」
「どっちも本当のことだと思う」
颯太は頷いた。納得した顔だったが、まだ考えていることがある顔でもあった。
遠くから列車の音がした。
颯太が時計を見ながら、「そろそろ来ます」と言った。
「行きな」
颯太はカメラを取り出した。フィルムカメラではなく、今日はスマートフォンだった。
「一枚、撮っていいですか」
「私を?」
「ここで撮っとこうと思って。渡部さんがここに立ってる写真を」
小春は少し照れた。でも断らなかった。
颯太がシャッターを切った。
「ありがとうございます」
「現像はしないの?」
「これはデータで持っておきます。フィルムじゃなくていい写真もあると思って」
「どう違うの?」
颯太は少し考えた。
「フィルムは、時間をかけて分かる写真。データは、すぐに持っていられる写真。今日のこれは、すぐに持っていたかったので」
すぐに持っていたかった写真。
その言い方が、颯太らしかった。
列車が入ってきた。
颯太が乗り込んだ。扉が閉まる前に、振り返った。
「渡部さん」
「うん?」
「また来てください。ここに」
扉が閉まった。
列車が出ていった。
ホームが静かになった。
小春は列車が遠くなっていく方向を、しばらく見ていた。
颯太がいなくなってから、小春はホームにひとりで残った。
企画の核になる一文を、昨夜から探していた。
記事には、軸になる言葉が必要だ。読者が最初に受け取って、最後に残る言葉。それが何かを、小春はずっと考えていた。
夕日の町と標準時の街。
二つの場所を、どういう言葉でつなぐか。対比ではなく、つながるものとして。
海を見ていた。
朝の海の色が、少しずつ変わってきていた。光が高くなって、白から青に近づいていた。時間が動いている。
時間が動いている、と思ったときに、言葉が来た。
日本中が同じ時刻を共有している。東の人も、西の人も、今この瞬間に同じ時刻の中にいる。でも、同じ時刻に見ている光は違う。明石では朝の光、下灘では同じ時刻に少し違う角度の光。そして夕方には、下灘の方が少しだけ長く夕日を見ていられる。
同じ時刻に、それぞれの光の中にいる。
それが、瀬戸内の時間の話だと思った。
標準時は一つの線で時刻を揃えた。でも光は揃えられなかった。光は、その場所その場所にある。明石の朝の光は明石にしかなく、下灘の夕日は下灘にしかない。
そのことを書きたかった。
時刻は同じでも、光は違う。それぞれの場所に、それぞれの時間がある。揃えられないものが、ちゃんとある。
小春はポケットからメモ帳を取り出した。取材ノートではなく、いつも持ち歩いている小さなメモ帳だ。
一文を書いた。
「同じ時刻に、あなたの光がある」
書いてから、しばらく見た。
完成した言葉ではないかもしれない。でも、今の自分が見つけた言葉だった。記事の核として使えるかどうかは、書きながら確かめればいい。でも今この場所で、この言葉が来た。
メモ帳を閉じた。
ホームから出て、駐車場へ向かった。
車に乗って、エンジンをかけた。
明石へ帰る。
今度は、置き時計を持って帰る。父の店で三十年刻んできた時計を、明石へ連れていく。その時計が明石の部屋で動き始めたとき、二つの時間がつながる。
海沿いの道を走り始めた。
山と海が交互に見える道。この道を、何度走ったか分からない。出ていく方向も、戻ってくる方向も、この道を通った。これからも、通ることになる。
道の途中で、視界が開ける場所があった。
山と山のあいだから、海が見える場所だ。来るたびに速度を落としたくなる場所だった。
今日も、少しだけ速度を落とした。
海が広かった。光が水面に散っていた。空が青かった。
この景色を、ここを出ていった人間として、戻ってくる人間として、今日も見た。
その両方を持っていることが、もう、申し訳なくなかった。
速度を戻して、走り続けた。
伊予上灘の駅を過ぎた。実家の方向を、目の端に見ながら、通り過ぎた。今日はそのまま松山へ向かう。両親には昨夜、帰ると言ってきた。「また来ます」と言ったら、母が「待っとる」と言った。父は何も言わなかったが、厨房の方を向いたまま少しだけ頷いた。
それで十分だった。
松山への道を走りながら、小春はメモ帳の一文を頭の中で繰り返した。
同じ時刻に、あなたの光がある。
明石にいる人も、双海にいる人も、どこかで今日を生きている人も、それぞれの光の中にいる。揃えられた時刻の中に、揃えられない光が、ちゃんとある。
それが書きたいことの、核だった。




