第十三章 最後の灯り
取材は、一度きりで終わる企画ではなかった。
明石と双海、二つの町を行き来しながら、一年の光と時間を追う。最初にそう決めたのは美緒だった。
だから、小春は季節が変わるたびに海を見て、記事の中に置く言葉を少しずつ探していった。
来年の春が、来た。
三月の下旬、小春は有給を取った。金曜日から日曜日まで、今回は仕事を何も持たずに帰省することにした。取材のノートも、パソコンも、ICレコーダーも持たない。ただ荷物だけを持って、帰る。
明石を出るとき、朝の海を少し見た。
三月の海は、まだ冬の名残がある。光は明るくなってきているのに、風が冷たい。それでも、確かに春の気配がある。光の角度が、冬より少しだけ高くなっている。
電車に乗って、海を渡った。
いつもと同じルートで、いつもと同じくらいの時間がかかった。でも今回は、移動の時間が苦ではなかった。むしろ、この移動の時間が必要だった。明石と愛媛のあいだに、半日かけて、少しずつ気持ちを移していく時間が。
実家に着いたのは、夕方だった。
最終営業日は翌日の土曜日だった。
両親はすでに準備を進めていた。厨房の棚から食器が出されて、新聞紙に包まれていた。常連の人たちへ渡す分だ。備品の一部は、近所の飲食店に引き取ってもらう話もついていた。
「手伝います」
「今日はいいよ。明日が終わってから、また手伝って」
「じゃあ夕飯を作る」
「作れるの?」
「簡単なものなら」
母は少し嬉しそうな顔をして、「じゃあ、お願いしようかな」と言った。父は厨房の奥で何かの確認をしていて、振り返らなかった。
小春は厨房に立った。
実家の厨房を使うのは、子どもの頃以来だった。食材の場所が変わっていない部分と、変わっている部分があった。変わっていない場所の方が多かった。体が先に覚えていて、引き出しを開ける前に何があるかが分かった。
簡単なものを作った。豚汁と、焼き魚と、ほうれん草のおひたし。父が毎日作るようなものではなく、小春が作れるものを作った。
父が厨房から出てきて、小春が料理しているのを見た。
何も言わなかった。でも邪魔もしなかった。ただ見ていた。それが父なりの、受け取り方だった。
夕食の時間、父が豚汁を一口飲んだ。
「うまいな」と言った。
「お父さんのには敵わないけど」
「敵うとか敵わんとかの話やない。娘が作ったものがうまい、それだけや」
母が小春を見て、口の端で笑った。父がそういうことを言うのは珍しい、という顔だった。小春も笑い返した。
翌朝、最終営業日の朝が来た。
父はいつもと同じ時間に起きた。いつもと同じように仕込みを始めた。いつもと同じ包丁の音がした。
小春はその音で目が覚めた。
布団の中で、天井を見ながら、今日が最後の営業日だということを確かめた。特別な朝ではなかった。いつもの朝と同じ音がしている。それが、かえって胸に重かった。
顔を洗って、厨房に行くと、父が仕込みをしていた。
「手伝う」
「ええわ」
「だし巻き、一緒に作らせて」
父は少し間を置いた。それから「見とれ」と言った。
小春は父の隣に立って、だし巻きを作る手元を見た。
卵を割って、出汁を加えて、巻いていく。一つ一つの動作が、迷いなかった。何千回も繰り返してきた動作だから、考えなくてもできる。でもだからといって、雑ではない。卵が均一に広がるように、火加減が一定になるように、細かい調整が止まることなく続いていた。
「この動き、覚えてる?」と父が聞いた。
「覚えてない。でも見てたら分かる気がする」
「分かるだけじゃ、できんけどな」
「そうだね」
父はだし巻きを巻き終えて、お皿に移した。形がきれいだった。
「三十年以上、毎朝やった」
父は独り言のように言った。
「うん」
「飽きたことはないな」
「本当に?」
「本当に。同じことを同じようにやっとるようで、毎日少しずつ違うけんな。卵の状態が違う。火の具合が違う。気温が違う。全部同じ日はない」
小春はその言葉を聞いて、颯太のことを思った。同じ場所でも、時間と天気で全然違う。フィルムカメラで毎週下灘を撮り続ける高校生が、同じことを言っていた。
開店は十一時だった。
のれんを出した。最後の日ののれんも、同じ藍色ののれんだった。特別なものに替えるわけではない。いつも通りの「潮見」ののれんが、最後の日の入口にかかった。
十一時を少し過ぎた頃、最初の客が来た。
七十代の男性で、長年の常連だった。名前は村上さんという。父と同じ年頃で、この町で育った人だ。
「今日が最後かぁ」
村上さんはカウンターに座りながら、懐かしむように言った。
「そうです」
「そうか」
それだけだった。村上さんはコーヒーを頼んで、いつも通りに飲んだ。特別な言葉を言うわけでもなく、いつも通りの時間を過ごした。でも、帰り際に立ち上がったとき、一瞬だけカウンターに手を置いた。置いただけで、何も言わなかった。それから出ていった。
その動作が、何かを語っていた。
次に来たのは、六十代の女性だった。越智さんという人で、この店で毎週水曜日にランチを食べてきた人だ。今日は水曜日ではなかったが、最後の日に来るために来た。
「小春ちゃん、大きくなったわね」
「ありがとうございます」
「小さい頃からここで遊んでたの、覚えてるわよ。カウンターの下に隠れたりして」
そんなことをしていたのか、と小春は思った。自分では覚えていない。でも覚えている人がいる。
「そうだったんですね」
「この店が、私の水曜日でしたから。毎週ここに来て、お茶を飲んで、ご主人と少し話して帰る。それが水曜日の形で。さびしくなるわ」
「ありがとうございます」
「また来てね、小春ちゃん。この町に」
「来ます」
お昼過ぎになると、人が増えてきた。
全員が常連だった。ふらりと立ち寄った観光客はいなかった。最終営業日の話が、この町の中で伝わっていたのだと思う。
小春は注文を取り、料理を運び、空いた皿を下げた。
母は厨房で父を手伝いながら、時々客席を覗いた。その目が、笑っていたり、潤んでいたりした。泣かなかった。泣くのは、また後でと思っているのか、あるいは今は泣く場所ではないと決めているのか。
父は変わらず厨房に立っていた。
いつもと同じ動きで、いつもと同じように料理を作った。今日が最後だから特別に、という感じがなかった。それが父らしかった。最終日だから特別な料理を出すのではなく、いつも通りのものをいつも通りの質で出す。それが父の、この日への答えだった。
午後三時頃、蒼が来た。
仕事の合間を縫って来たらしく、ジャケット姿だった。小春を見つけて、会釈した。
「来てくれたんだね」
「来ないわけにいかないやろ。私もここで何回ご飯食べたか分からんし」
「そうだったんだ」
「小春の家やけど、うちの場所でもあったよ。子どもの頃から」
蒼はカウンターに座って、コーヒーを頼んだ。父がコーヒーを作った。蒼が受け取って、一口飲んだ。
「おいしい」
蒼は父に向かって、はっきりと言った。
「ありがとう」。
その短いやりとりを、小春は少し離れたところから見ていた。
三時半頃に、颯太が来た。入り口から少し遠慮がちに入ってきて、小春を見つけた。
「来てくれたんだ」
「来ていいって言ってもらったので。フィルムで撮っていいですか。記録として」
「お父さんに聞いてみる」
父に聞くと、「ええわ」と言った。颯太はカメラを取り出して、店の中を撮り始めた。強引に何かを狙うのではなく、自分のリズムで、見えたものを撮っていった。
常連の人たちは、カメラを向けられることを嫌がらなかった。むしろ、高校生がフィルムカメラで撮っていることを、少し面白そうに見ていた。
颯太はカウンターの端の置き時計を撮った。
それから厨房の父を撮った。父はカメラを意識しなかった。いつも通り、手を動かし続けていた。
シャッター音がした。
その音が、今日の店の音の一つになった。
四時を過ぎた頃から、客が少しずつ減ってきた。
常連の人たちは、帰り際に父に一言ずつ声をかけた。「お疲れ様でした」という人もいたし、「また飲もうな」という人もいた。「どこかで元気でいてください」という人もいた。
父は一人ひとりに、「ありがとう」と言った。
その「ありがとう」の言い方が、全部同じだったが、全部違った。誰に言うかによって、同じ言葉が少しずつ違う音を持っていた。
五時に、父が「閉める」と言った。
最後の客が帰った後、父はのれんをしまった。
のれんをしまう動作を、小春はそばで見ていた。いつもと同じ動作だった。のれんを外して、たたんで、棚に置く。特別な動かし方をするわけではない。でも今日最後に、その動作を見た。
店の中が静かになった。
外はまだ明るかった。夕方の光が、店の窓から入ってきていた。
両親と小春、それから蒼と颯太が、店の中に残っていた。
誰も何も言わなかった。
蒼が、空になったカウンターの椅子を見ていた。颯太は静かにしていた。カメラを持ったまま、でも今は構えていなかった。
母が立ち上がって、厨房へ向かった。しばらくして、お茶と、だし巻きが出てきた。
「残り物だけど、みんなで食べよう」
母は言う。
テーブルに五人分の椅子を出した。両親と小春と蒼と颯太が、同じテーブルに座った。
こういう形で座ったことは、これまでなかった。常連の人ではなく、外の人間でもなく、この場所に関わってきた人間が、最後に同じテーブルに座っている。
だし巻きを食べた。
父が今日の朝に作ったものの残りだった。冷めていたが、出汁の味はそのままだった。
「おいしい」
蒼が言うと、颯太が頷いた。
母が、やっと少しだけ目を潤ませた。
父は、だし巻きを食べながら、空の席を見た。客がいた席が、今は空になっている。その空き席を、父は少しの間見ていた。
何を思っていたのか、小春には分からなかった。
でも父は何も言わなかった。ただ見て、また手元のだし巻きに視線を戻した。
お茶を飲んで、だし巻きを食べて、誰も泣かなかった。笑ってもいなかった。ただ、そこにいた。
店の灯りがついていた。
この灯りが、今夜消えたら、次の朝は点かない。
それが今日という日の意味だった。
派手ではなかった。大きな出来事もなかった。ただ、人が集まって、いつも通りのものを食べて、静かにいた。
でもその静けさの中に、三十年分のものが全部あった気がした。
帰り際、颯太が小春に話しかけた。
「写真、現像したら送ります」
「ありがとう」
「今日のが、うまく撮れてる気がします」
「どんな写真が撮れてると思う?」
颯太は少し考えて、「お父さんの手」と言った。
「厨房で動いてるとこを撮ったんですけど、あの写真が一番いいと思って」
父の手。
田中が言っていた言葉を思い出した。帰るたびに、父の手を見て、変わっていないと思う。変わっていないものが、基準になる。
「見せてもらえると嬉しい」
小春は言った。
蒼と颯太が帰って、両親と三人になった。
片づけを少しした。父が厨房を拭いた。母が客席のテーブルを拭いた。小春は床を掃いた。
片づけが終わると、父が厨房の電気を消した。
店の中が、少し暗くなった。客席の灯りだけが残っていた。
父がその灯りのスイッチの前に立った。
少し間があった。
それから、スイッチを落とした。
店が暗くなった。
外の夕方の光だけが、窓から入ってきた。その光の中で、三人が立っていた。
誰も何も言わなかった。
母が、隣の父の腕にそっと触れた。触れただけで、何も言わなかった。
父は動かなかった。
小春も動かなかった。
しばらく、そのままでいた。
三十年の時間が、暗くなった店の中にあった。言葉にならないまま、そこにあった。
やがて父が動いて、「帰ろうか」と言った。
店を出て、鍵をかけた。
三人で、家の方へ歩いた。
夜の始まりの空に、星が出ていた。
小春は空を見上げながら、歩いた。明石でも、同じ空の下に今夜がある。下灘でも、颯太が今夜の星を見るかもしれない。田中が、プラネタリウムの星とは違う本物の星を見るかもしれない。
同じ空を見ている。
その言葉が、今夜の星空の下でもう一度、小春の中に来た。
父が前を歩いていた。
その背中を見ながら、小春は歩いた。包丁を持ってきた手。だし巻きを巻いてきた手。今夜、スイッチを落とした手。その手が、三十年を作ってきた。
記録されないことが、なくなる。
でも持ち続けることはできる。
小春はポケットに手を入れた。
鞄の中に、置き時計がある。明石へ持って帰る時計が。
その重さを確かめながら、小春は父の背中の後を歩いた。




