第十二章 残るもの、なくなるもの
本取材は、五月の末に行った。
三日間だった。
初日は明石で田中への追加取材と天文科学館の撮影、二日目と三日目を愛媛に充てた。カメラマンの田島さんは四十代の男性で、寡黙だが仕事が速かった。現場に入ると何も言わずに場所を読んで、光の角度を確かめて、自分で判断して動いた。美緒は初めての現場取材だったが、物おじしなかった。メモを取りながら、質問するタイミングを自分で見つけて動いていた。
下灘の撮影は、朝と夕方の二回行った。
朝は颯太が来て、列車に乗る前の時間を撮らせてもらった。颯太は最初だけ緊張した顔をしていたが、田島さんが「普通にしてて」と言うと、すぐにいつもの動きに戻った。カメラを向けられながら、自分のフィルムカメラで海を撮った。その横顔を、田島さんが撮った。
後で田島さんが「いい顔してる子だった」と言った。
夕方は蒼に案内してもらいながら、観光客が来る時間帯の駅を撮った。美緒は蒼に質問をいくつかして、蒼は丁寧に答えていた。
観光と生活のあいだ、という話を美緒がすると、蒼は少し考えてから「そうやな、まさにそのあいだにうちらはおる」と言った。美緒はそれをそのままノートに書いた。
三日目の朝、小春は実家に一人で向かった。
美緒と田島さんとは下灘で別れた。二人は松山から飛行機で帰る。小春だけ、実家に一泊してから明石へ戻る。
実家に着いたのは、昼前だった。
平日だったが、店には客が何人かいた。母が厨房を手伝っていて、父がカウンターに立っていた。小春が入ると、父は顔を上げて、「おう」と言った。それだけだった。
小春はカウンターの隅に荷物を置いて、エプロンを借りた。
「手伝う」
「ええわ」と父は言ったが、母が「お茶、お願いできる?」と言ったので、小春はお茶を運んだ。
昼の時間、客が入れ替わりで来た。常連の顔が何人かあって、小春を見て「帰ってきたんか」と言った人が二人いた。いつも同じ言い方をされる。帰ってきた、という言葉の重さが、今回は少し違って聞こえた。来た、ではなく、帰ってきた。この場所が自分の帰る場所として、その人たちにも認識されているということだ。
午後二時に客が途切れた。
父が厨房の椅子に座って、水を飲んだ。それが父の休憩の形だった。椅子に座って、水を飲んで、それだけで休憩が終わる。
「少し話していいですか」
小春が話しかけると、父は「ああ」と言った。
母もエプロンを外して、テーブルに座った。
「店を閉める話、もう少し聞かせてほしくて」
父は少し間を置いた。
「決まっとる。来年の春や」
「春の何月頃?」
「三月か、四月。桜の咲く頃がいいかと思って」
「誰かに相談した?」
「誰にも」
「一人で決めたの?」
「お母さんには言うた」
母が頷いた。
「先に言ってくれたんよ。去年の秋に」
「去年の秋から、もう決めてたんだ」
「決めたのはもっと前や。ただ、言うタイミングを計っとった」
「なんで?」
「おまえに言うと、心配するやろと思って」
小春は少し驚いた。心配させまいと思っていたのか。
「心配してもよかったのに」
「仕事があるやろ。帰ってこれるわけやないし」
「帰ってこれないから言わなかった、ということ?」
「そういうことや」
父はそれ以上の説明をしない。でも小春には分かった。自分が帰れない事情を知っているから、心配をかけないようにしていた。それが父の、不器用な配慮だった。
「来年の春まで、できれば、もう少し来ます」
父は何も言わなかった。
母が「嬉しい」と言った。父の代わりに。
夕方、店じまいをして、三人で夕食を食べた。
父が作った。鯛の煮付けと、野菜の炊き合わせと、味噌汁。どれも、小春が子どもの頃から変わらない味だった。
食事の途中に、父が言った。
「店のもん、どうするか考えとる」
「備品のこと?」
「そうや。食器は、一部は常連に持って行ってもらおうと思って。長く来てくれた人には、形として残してもいいかと思って」
「それはいい考えだと思う」
「この湯飲みとか」
父はテーブルの湯飲みを持ち上げた。
「三十年近く使いよる。捨てるのももったいないけんな」
母が「あの置き時計も、どうするの」と聞いた。カウンターの端にある、文字盤が黄ばんだ時計のことだ。
「分からん。捨てたくはないけど」
「小春が持っていけば?」
母が言った。
小春は少し驚いた。
「私が?」
「置き時計、明石の部屋に置いたらいいんじゃないかと思って。あれ、お父さんが若い頃に買ったやつで、この店と一緒に来たんよ」
父は何も言わなかった。否定もしなかった。
「持って帰っていい?」
小春が尋ねると、「ええわ」と父は言った。
夜、母と二人でテーブルに残った。
父は早めに寝た。父はいつも早い。店の仕事で体が疲れているし、朝も早い。それが三十年以上の習慣だった。
母はお茶を入れて、小春の向かいに座った。
「取材、どうやった?」
「よかった。いい素材が集まった気がする」
「蒼ちゃんにも会えた?」
「会えた。仕事の話も、個人的な話もした」
「蒼ちゃん、頑張っとるよね。あの子、この町のことを本当に好きで。でも好きやからこそ、しんどいこともあるみたいで」
「そう思う。残ることを選んだ人の大変さが、少し分かってきた気がして」
「小春も、出ていったことを後悔してないけど、残った人の話もちゃんと聞けるようになったんやね」
「昔は聞けなかったかもしれない」
「そうやった。帰ってきても、どこかよそよそしかったけんね。ここを早く出たくて来たわけやないのに、どこか急いどった」
「急いどった?」
「帰省するたびに、何かをちゃんとしなきゃ、みたいな顔しとった。ゆっくりしたらいいのに、用事を済ませようとしてる感じが」
小春は少し笑った。確かにそうだったかもしれない。滞在中に何かをしなければ、という感覚があった。何かをしないと、帰った意味がない、という焦りのようなものが。
「今回は違う?」
「少し違う気がする。急いでない」
「よかった」
母はお茶を飲んだ。それから少し黙って、また口を開いた。
「店を閉めることについて、小春はどう思っとる?」
「寂しい。でも、お父さんが決めたことだから」
「それだけ?」
「自分が継げないことへの申し訳なさもある。でもそれを言ったら、お父さんは違うって言うと思う」
「言うと思う」
母は頷いた。
「お父さんは、小春に継いでほしいとは一度も思わんかったと思う。自分の店やけんね。自分で始めて、自分で閉める。それが筋やと思っとる人やけん」
「分かってる」
「でも」
母は少しだけ声を落とした。
「寂しいのは私も同じで。お父さんが毎朝厨房に立たんようになる日のことを考えると、まだうまく想像できんのよ」
「来年の春にも、ちゃんと来ます。最後の日に」
「来てくれると嬉しい」
「絶対来る」
母は頷いた。
「お父さんには言わんでいいよ。言うたら照れるけん。でも、来てくれたら喜ぶと思う」
絶対に喜ぶ、とは言わなかった。喜ぶと思う、という言い方が、母らしかった。父の気持ちを断言しない。推測として伝える。その距離感が、この家の言葉の形だった。
翌朝、明石へ戻る前に、小春は一人で店に座っていた。
開店前の時間だった。父はすでに仕込みを始めていて、厨房から包丁の音がしていた。母はまだ寝ていた。
小春はカウンターの椅子に座って、カウンターの端の置き時計を見た。
七時十二分だった。
この時計が、来年の春までこの場所にある。それから、明石の自分の部屋に移る。部屋に置いたら、この時計は何を刻むのだろう。明石の時間を刻む。でも、この店で刻んできた時間の記憶を持ったまま。
物は時間を記憶しない。
でも人は、物を見ながら時間を思い出す。
置き時計を明石に持って帰ることで、この店のことをどこかで持ち続けられる。それが母の意図だったのかもしれないし、そうでないかもしれない。でも小春は今、そう受け取ることにした。
厨房から父の声がした。
「小春」
「うん?」
「朝飯、作ったで」
小春は立ち上がった。厨房のカウンターに、だし巻きとご飯と味噌汁が置いてあった。開店前の、父の朝食と一緒に作ったらしかった。
「ありがとう」
父は何も言わずに、自分の朝食を食べ始めた。
小春も隣に立って食べた。
椅子に座るのではなく、父と並んでカウンターに立って食べた。そうなったのは自然な流れだった。並んで、同じ方向を向いて、同じものを食べた。
外から朝の光が入ってきた。
店の中が明るくなって、置き時計の文字盤が光を受けた。黄ばんだ文字盤に、朝の光が当たると、少し金色に見えた。
父がだし巻きを一口食べた。
「うまいか?」と父が尋ねた。
「うまい」と小春は答えた。
それだけのことが、今の小春には十分だった。
明石へ戻る電車の中で、小春はノートを開いた。
取材のメモではなく、思ったことを書くためにノートを開いた。
残るもの、なくなるもの。
なくなるものがある。来年の春、父の店がなくなる。のれんがしまわれて、厨房の火が消えて、置き時計だけが別の場所へ移る。常連の人たちは、別の場所を探すか、あるいはそういう場所を持たなくなるかもしれない。
残るものがある。父がそこで積み上げてきた三十年が、形として残るわけではない。でも、来ていた人たちの記憶の中には残る。小春の記憶にも残る。包丁の音と、出汁の匂いと、置き時計の文字盤の黄ばみが。
蒼が言っていた。残すことだけが町の守り方じゃない、と。
形を残すことと、記憶を持つことは、別のことだ。形は残せなくても、持ち続けることはできる。
小春はそれを書いた。形は残せなくても、持ち続けることはできる。
電車が海沿いに出た。
瀬戸内の海が、窓の外に広がった。
行きと帰りで、同じ海が違って見える。それは光の角度と、自分の状態の違いだ。田中が言っていた通りだと思った。見る側の状態が違えば、見えるものが変わる。
今の自分の状態は、来る前と確かに変わっている。
父の朝食を並んで食べた。置き時計を持って帰る。来年の春に最後の日に来ると約束した。それだけのことが、帰省のたびに少しずつ積み上がっていく。
帰り方が分かってきた、と思った。
切符を取ることの話ではなく、帰るときの自分の持ち方の話だ。急がず、用事を作らず、ただそこにいること。変わっていないものを確かめて、変わっていくものを見届けること。
それが今の自分の帰り方だ。
電車が速度を上げた。
愛媛が遠くなっていく。でも遠くなることが、今は切り離されることではなかった。持ちながら遠くなる。鞄の中の置き時計と一緒に、帰る。
小春はノートに最後の一行を書いた。
「来年の春にも、ちゃんと来る」
約束は母に言った。でも本当は自分へも言っていた。
忘れないために、書いた。




